その10 旅
農地を抜け、牧場を抜け、ロンガは走った。
フアニや村の子供たちと遊んだ森を通り過ぎ、ギィに出会った場所も通り過ぎ、森の奥へ奥へと、あてもなく逃げ込んだ。
そして走り疲れ、泣き疲れ、朽ち葉の山にもぐり込んで眠ってしまった。
どれくらい眠っていたのか、夢うつつにフアニの匂いが自分を包んでいるのを感じた。
起き上がって辺りを見回したが、フアニはどこにもいない。
匂いは、ロンガ自身の体から発せられていたのであった。
ロンガはフアニの体の大半を飲み込んだ。
その時、同時にフアニの魂をも丸ごと飲み込んだのだ。
フアニのすべてはロンガの血となり肉となり、戦いで負った傷を癒した。
そして、匂いを持たないロンガの体臭となったのである。
その匂いは、生涯ロンガを離れることはなかった。
「ぼくのフアニ!」
ロンガの目から新たな涙が流れ落ちた。
すすり泣いていると、背後で木の葉の擦れる音がした。
周囲に嫌な臭いが漂い、茂みの奥から一頭の野獣が這い出した。いつまで待っても戻らぬ仲間を探しにやって来た野獣は、思わぬ場所で幼児の匂いを嗅ぎ取り、これ幸いと忍び寄ったのだが、子供の姿など見当たらない。
騙されたと知った野獣は怒り狂い、ロンガを噛み殺そうと襲いかかった。
ロンガは全力で立ち向かい、これを倒した。
そしてさらなる敵を待ったが、森は鎮まりを取り戻し、闇の中に沈んでいった。
やがて朝の光が差した時、内なる声が「旅に出よ」と告げたので、ロンガはこの地を立ち去った。
その日を境に、ロンガは成獣となった。
ロンガは歩き続けた。
森から森へ、荒れ地から荒れ地へ、陽の差さぬ獣道を、深い谷間を、ただひたすらに歩き続けた。
秋には木の実を集め、吹雪の夜を岩屋の割れ目で丸くなってやり過ごし、春は木イチゴや若い葉を食べた。
険しい山をひとつ越えると、似たような森があり、似たような村が見えた。
きっとあの村にも、ギィの村と似たような人々がいて、似たような暮らしをしていることだろう。ロンガは思った。
自分だけが変わってしまったのだ。
ロンガはもう、人間の暮らしに近づくつもりはなかった。
しかし、この地の野獣にはこの地の野獣のシーズンがあり、子供を奪いに山を下りて来る。
ロンガは彼らが村に達する前に立ちふさがり、必ずこれを倒す次第となった。
何しろ連中は、ロンガを見れば判子でも押してあるかのように決まって怒りをあらわにするので、片を付ける以外に方法がないのだった。
果たしてロンガは、野獣どもに対してそれ程激しい遺恨を抱いていてだろうか?
それはロンガにも答えようがない。
ただ、ギィとユェンに決して返せない借りがあり、このような生き方しか自分には残されていないのだ。
ロンガは旅を続けた。
時には、日没後の山道を越えようとする無謀な旅人を救う場合もあった。
彼らは殺し合いを演ずる野獣の姿に恐れおののき、すぐさまもと来た道を逃げ帰るので、何か大きくて白っぽい生き物を見た、という程度の記憶しか残らない。
ロンガは目立たぬよう素早く行動した。
しかしある晩、とうとう人前に姿をさらしてしまった。
その旅人は、都の商人とその部下が数名の一行であった。彼らは最寄りの村で宿をとれずに、夜の峠道を行くこととなった。
本来ならば、宿を営む者はそのような旅人を引き留め、何とか部屋を都合するはずである。ところが数年前、この商人たちは同じ村に宿をとった。面倒な注文をつけては飲み食いに興じ、ついでに宿の娘にちょっかいを出した挙句、翌朝の会計になると、やれ田舎料理が口に合わなかった、部屋が汚い、サービスが悪すぎるなどと難癖を言い、財布の中にたっぷり金を持っているくせに、とうとう宿代を踏み倒して出て行ったのである。
宿の主人は、再び彼らがやって来ると知ると、急いで門を閉め、満室の看板を出した。そして裏口から使いをやり、村の同業全戸に注意を喚起した。
どの宿屋も、相部屋どころか道具部屋から廊下に至るまで塞がっております、の一点張り。
「それなら構わん。夜通し歩けば、それだけ次の商談が早くまとまる」
何を売るのか知れたものではないが、そう息巻いて商人たちは村を後にした。
そしてたちまち野獣に取り囲まれた。
明るい夜であった。ロンガはこの山の頂にいた。
より間近に月を眺めようと高い木に登っていたところだったのを、悲鳴が耳に届き飛び降りた。
ロンガは野獣どもを苦もなく倒し、男たちに早く戻れと村の方向を指し示した。
ところが、なぜか男たちはロンガに武器を向けている。
「あの毛皮を見ろ!」
商人は叫んだ。
「見事な珍品だ!都で売ればひと儲け出来るぞ!殺せ!殺して皮を剥ぐんだ!」
なまくらの矢尻はロンガの堅い筋肉にぶつかって、ぽとりと落ちた。
ロンガは少なからず驚いた。
こんなしろものに刺された動物は、すぐには死ねない。無駄な傷を負って、無駄に苦しむだけである。このような愚かしい道具を使う人間がいるとは知らなかった。
一体どんな了見の人たちなのか、ロンガは怪訝に思い、恐怖に凍り付いている商人に顔を近づけた。
それはロンガにとって、実に不快な経験だった。
商人の体から、粋に着こなした立派な衣装と、田舎者を感心させようと振りかけた香水の奥底から、野獣と同じ悪臭が滲み出ていたのである。
ロンガは反射的に顔を歪め、「フーッ!」と唸った。
商人たちは悲鳴を上げて逃げ去った。
それはロンガが示した道とは逆の方角であったが、ロンガはもう、気に掛けなかった。
あんな旅をしていれば、いつかは野獣の餌になる。
だが、野獣にも食糧は必要だ。
ロンガは、余計なお節介を焼くのは止めようと思った。
もはや月を眺めながら眠ろう、などという気分はどこかへ消えてしまった。
ロンガは星の届かない森の奥へ歩き去った。




