第七章
夢は、潜在意識の表象であると言ったのは、精神分析学の創始者、ジークムント・フロイトだが、どうやら、本当らしい。混沌とした夢の世界の中で、僕は、鉄格子に遮られ、目の前で抱き合うスグルとレミの姿を眺め続けた。泣き叫び、追いすがろうとしても、二人との距離は決して縮まらない。そして、その光景が、未来永劫に繰り返される・・・。
目覚めた僕は、金縛りにかかったように、動くことができず、長い間、うつぶせのまま横たわっていた。あまりにも象徴的な夢だった。先程までの惨めに泣き叫ぶ僕の姿は、幸いなことに、現実ではない。しかし、レミの心が遠くへ行ってしまったこと、いや、最初から近づいてなどいなかったという事実は、夢の世界と何一つ違いはなかった。
起き上がる力はまるで無かったが、時計を見ると、もう八時を回っている。停学が解けてから、僕は、先生達から完全にマークされていたため、学校をサボることができなかった。ラブホテルから出てきた上に、酒まで飲んでいたのに、一週間の停学程度で済んだのは、初犯だったからだ。更に、今後は、生活態度を改め、授業には必ず出席すると、誓約書を書かされていた。頻繁に欠席すれば、退学にされる恐れもあった。
しかし、本心では、僕は、それでもいいやと、投げやりな気持ちになっていた。つい最近まで、あんなに仲の良かったスグルと、顔を合わせたくなかった。結果として、僕とスグルは、互いに愛する女性を奪い合ったことになる。たぶん彼は、そのことには気づいていないだろう。
僕は学校を休もうかと、頭の中で、ズル休みにならない口実を何度も考えたが、結局、決断することができなかった。そして、親ともろくに口をきかないまま、重い足をひきずるようにして自転車に跨り、学校という辛い現実へと向かった。
スグルと顔を合わせることへの不安は、幸か不幸か、現実とはならなかった。その日、スグルが学校を休んだからだ。担任の話では、親から学校へと電話があり、昨夜から、家に帰っていないらしい。
昨日の朝、家を出たまま、学校から帰らずに、何の連絡もないまま、行方不明になっていた。誰か、スグルの行方を知らないかと、先生も、心配そうにクラスメイト全員の前で尋ねた。特に、普段から仲の良い、僕とシンヤは(僕と一緒にホテルから出てきたマリコがスグルのカノジョだったことなど、先生は知るよしもない)、昨夜は一緒じゃなかったのかと、個別に尋ねられた。
僕は、その時、嘘を着いた。確かに、昨夜はスグルと一緒ではなかった。しかし、僕は、昨夜、神社の裏手の林の中で、スグルの姿を見かけていた。だが、そのことを、誰かに話す気にはならなかった。昨夜のことなど、思い出したくもなかった。寧ろ、他人に悟られぬように、平静を保ったままでいられる、自分に驚いていた。担任のシブサワには、言葉少なに、ただ、「知りません」とだけ答えておいた。
おそらく、スグルは、昨夜からずっと、レミと一緒にいるに違いなかった。そんな、自分自身の想像に対して、新たな衝撃が生まれ、口に出すことはもちろん、考えることすら嫌になっていた。休み時間になると、シンヤは、笑いながら僕に、
「どうせまた、新しい女でもつくって、一緒にいるんだろ。」
と話しかけてきたが、僕は、まともに返答する気にはなれずに、「ああ」とだけ答えた。
その日は、スグルのことは、誰もが、その程度にしか認識していなかった。先生達も、以前にもあったことだからと片付け、たいした問題にはならなかった。
しかし、翌日、更にその翌日になっても、スグルは、学校に姿を現さなかった。担任の話では、学校どころか、家にも何の連絡もないらしい。スグルは僕と同様、夜遊びもすれば外泊もする、親不孝者であることは確かだ。しかし、両親からは、心配のないように、自由の代償に、帰りが夜遅くなる場合や、外泊する時は、必ず家に電話をするようにと、厳しく諭されており、それだけは、忠実に守っていた。
四日もの間、家にも何の連絡がないとなると、どう考えても、尋常な事態ではない。スグルが姿を消してから、四日目に入ると、さすがに、高校の先生達やクラスメイトの間でも、動揺が走り始めた。そして、スグルの両親は、遂に、警察へと捜索願を出した。両親も、先生も、そして、クラスメイト達の誰もが、この二ヶ月の間、僕らの暮らす街を賑わしている事件を、想像したに違いない。
二ヶ月前に発生した、最初の行方不明事件以来、この街では、平均して二週間に一人の割合で、十代後半~二十代の七人もの若い男性が、行方がわからずに、捜索願が出されていた。警察は、行方不明者全員について、何らかの関わりがある、同一の事件と断定して、捜査を行っていた。
行方不明事件については、新聞やテレビのニュースで、しつこいくらいに繰り返し報道されていた。マスコミは、今回の事件に類似した、若い男性の行方不明事件が、ここ二年の間に、九つの地方都市で発生し、実に三十人近い男性の行方がわからなくなっていると報じていた。更に、東京・名古屋・大阪の大都市圏でも、この二年間に、若い男性の行方不明事件が急増しているらしい。それも、全員が、十代後半から二十代(三十代前半の男性も、二人含まれてはいる)。警察もマスコミも、最近二年間の全国的な行方不明事件が、全て、同一犯の可能性があると考え始めていた。
しかし、僕は、いや、クラスメイトを始め、先生やその両親など、周囲の誰もが、今日まで、この街で実際に起こっている行方不明事件について、自分とは無関係だと思い込み、一度たりとも真剣に考えたことがなかった。スグルの失踪も、三日目ぐらいまでは、誰一人、テレビの事件と結び付けて考えることはなかったのだ。
日本の交通事故の年間死傷者数は、約一万人と言われている。つまり、日本の人口が、一億人と考えた場合、一万人に一人が、交通事故で亡くなっている。しかし、誰もが、自分自身が、明日、交通事故で死ぬかもしれない、とは考えていない。ニュースで流れる映像は、遥か遠い世界の、別の時代の出来事だと思い込んでいる。
特に、行方不明事件については、七人全員が、十代から二十代の男性のため、どうせ、親とケンカして、家出でもしたのだろう、という程度にしか、認識していなかった。若い男性であれば、大抵一度は、家出したいと考えたことがあるだろう。我が身を振り返ってみれば、行方事件など、大げさな表現に過ぎないと思っていた。
しかし、いざ、自分の友達が消え失せて、八人目の行方不明者になってみると、他の七人の失踪についても、昨日までとは、ガラリと認識が変わり始めた。学校では、スグルを始め、八人の行方不明者は、北朝鮮に拉致された、という噂まで流れていた。
最初は、軽口を叩いていたシンヤも、さすがに、今回の事態を深刻に捉えるようになった。僕も、最早、スグルが、単純にレミと一緒にいるだけとは思えなかった。
確かに、この世のモノとは思えぬ、形容し難い美しさをもつ、レミと過ごす時間は、世界中の冨を掻き集めてでも手に入れたい、何モノにも変え難い時間だ。スグルが、レミと離れ難くなる気持ちは、実際に味わった僕には、痛い程に理解できた。もしかすると、スグルは、あの夜の女神に連れられて、既に、この街を出てしまったのかもしれない。
スグルの失踪から五日目。一台のパトカーが、サイレンの音もなく、静かに学校に入ってきた。授業中だったため、気付いたのは、体育の授業で運動場にいたクラスと、窓際の席の数名の生徒だけだった。スーツにネクタイの二人の刑事と、制服を着た警官の計三人は、学校に入ると、職員室に向かった。先生達は、スグルの日頃の学校での様子と、交友関係を尋ねられたらしい。
三時間目の英語の授業中、担任のシブサワが、僕達のクラスにやって来て、僕とシンヤは、校長室に連れて行かれた。僕らが、いつも、スグルと三人でツルんでいたことは、学校中が知っていた。たぶん、スグルの交友関係を尋ねられた先生達が、僕とシンヤの名を出したのだろう。
僕とシンヤは、二人の刑事に、スグルの行き先の心当たりと、最近のスグルに、何か変わった様子はなかったかと尋ねられた。特に僕は、スグルの失踪の直前、停学になっていた理由を尋ねられた。
僕は、この段階になっても、スグルが行方不明になった前日の夕方、彼の姿を見かけたことを、もしかしたら、僕が、スグルの最後の目撃者であったかもしれないことを、シンヤにも、そして誰にも話していなかった。
そのことを話せば、レミのことを話さなければならなくなるからだ。当然、警察は、レミの下へも事情聴衆に行くだろう。僕は、スグルにレミを奪われたとか、自分が愛した女性に迷惑をかけたくないとか、そんな個人的な感情だけではなく、何故か、あの深い哀しみを漂わせた紫の瞳を人前に晒すのは、あってはならない禁忌であるような気がして、彼女の話を誰にもする気にはならなかった。
しかし、僕とシンヤは、二人の刑事に正直に、僕がスグルとケンカして、絶縁状態だったことを話した。僕が、スグルのカノジョ、マリコとホテルから出てきたことは、クラスメイトの誰もが知っていた。さすがに、そのことを警察に黙っていれば、僕は、不必要な疑いをかけられることになる。
二人の刑事は、僕とスグルが絶縁状態だったことに、大変興味を持ったようだった。しかし、さすがに、一介の高校生に過ぎない僕が、スグルの失踪に関わっているとは思わなかったようだ。警察は、八人の若い男性の連続失踪事件を、同一犯の仕業と考えていたため、他の七人との接点が皆無の僕が、事件の犯人と疑われることはなかった。
僕達がマリコの名を出すと、先生達は、マリコが元々、スグルのカノジョであったことに始めて気付いたようだった。僕とシンヤは、型通りの質疑応答を終えた後、ようやく、校長室から解放された。後から聞いた話では、僕とシンヤの後に、マリコが校長室に呼び出され、同様の質問を受けたようだった。そして、その後は、マリコの元カレで、歴史研究部の部室でスグルに殴りかかった、熊男も校長室に呼び出されていた。
しかし、いかにスグルと揉めていようとも、さすがに高校生が、連続失踪事件の犯人とは考えていないようだった。結局、警察が学校に来たのは、その日の一日だけだった。僕は、最後まで、レミのことは誰にも話さなかった。
警察の必死の捜索にも関わらず、スグルは行方不明のまま、空しく、日々は過ぎていった。スグルの失踪から、既に十日が過ぎた。テレビのニュースでは、連日、行方不明者の情報が繰り返し流されていた。警察は、過去二年間に、全国で発生した行方不明事件を全て調べ、広域捜査を行っているらしい。しかし、極狭い範囲で、同時期に八人もの男性が行方不明になったのは、僕らの住んでいる、この街だけのようだった。
マスコミの報道では、警察は、未だ、何の手がかりも得られていないようだった。何しろ、行方不明になった八人は、十代~二十代の男性であること以外、何も接点がなかったからだ。社会人・フリーター・大学生・高校生など、社会的身分もバラバラであった。高校生は、スグルだけだった(他の地方都市の行方不明を含めれば、高校生は計四人)。警察は、行方不明者の顔写真の公開に踏み切ったが、その全員が、スグルと同様にイケメンであったために、マスコミの報道を更に過熱させることになった。
週刊誌の記事では、北朝鮮による拉致説が最有力であったが、中には、宇宙人による誘拐説まで浮上していた。僕にとって、身近な人間が、マスコミの報道に晒されることは、生まれて初めての経験であった。スグルの家へも、連日、マスコミが押し寄せ、スグルの家族は、家から一歩も出られなくなってしまった。
マスコミは、僕達の学校の周囲を徘徊し、スグルのスキャンダルを漁り続けた。そして、スグルがかなりのプレイボーイであったこと、何人もの女性を泣かせてきたことを、面白がって誹謗中傷した。僕とシンヤは、スグルの友人として、少年ABとして週刊誌に登場していた(さすがに、未成年だったため、実名が公開されることはなかった)。
自分の友人が、マスコミに好き勝手に書かれることは、正直、非常に不愉快だった。政治家や芸能人などが、いつもこんな思いをしているのかと想像すると、心の底から同情できた。おそらく、学校の生徒の誰かが、マスコミに喋ったのだろう。二ヶ月前に部室でスグルに殴りかかった熊男は、少年Cとして事情聴衆を受けたことまで記事になっていた。さすがに、熊男のことを、少しだけ不憫に感じた。
スグルの失踪後、スグルとレミが抱き合っているシーンが、僕の頭から消え失せることはなかった。明らかに、スグルは、あの日、あの時を境に、行方不明になっていた。そして、この十日間の間、僕は自分がすべきことがわかっていながらも、決断できず、毎日、先送りの日々を過ごしていた。
そう、レミに電話して、スグルと会っていた、あの夜のことを聞き出すのだ。スグルの居場所を知っているとすれば、おそらく、スグルに最後に会った人物、レミ以外にはいない。そして、彼女が既に街にいなければ、スグルも一緒に街を出た可能性が高い。
しかし・・・スグルが姿を消した原因が、レミにあったとしても、他の七人の行方不明者と、どういう関係があるのだろう。スグルと他の七人の行方不明者とは、まったく関係がないのだろうか?
スグルの失踪から十五日目。警察の必死の捜索を嘲笑うかのように、再び、この街の若い男性が行方不明になったことが、ニュースで流れた。今度は、二十一歳の大学生だった。既に、三日間、帰宅していないらしい。警察は、他に、一人暮らしの男性で、行方不明になっている者がいないか、ニュースで確認を呼び掛けていた。この街の誰もが、九人目の行方不明者の登場に、騒然となった。
しかし・・・と、僕は考えた。スグルの失踪が、レミと関わりがあるのであれば、どうして、九人目の行方不明者が登場したのだろう?スグルが、レミとこの街を出ていったのであれば、新たな行方不明者は、レミとは関係のないことになる。スグルの失踪は、ただの偶然で、他の八人の行方不明事件とは、関係がないのだろうか?
僕は、最も考えたくない、おぞましい推測が、頭の中に浮かぶのを、止めることができなかった。スグルだけでなく、全ての行方不明事件に、レミが関わっているのだろうか?
マリコとの事件以来、僕は、レミと一度も連絡をとっていなかった。そして、スグルと抱き合っているのを目撃してしまった後は、形容し難い屈辱感が癒えず、彼女に電話することに、大きなためらいを感じていた。それに、どんな結論であれ、真実を知ってしまうことに対する恐れを抱いていた。
しかし、一度、頭の中に浮かんだ疑惑を消すことはできなかった。警察の公式発表では、九人の行方不明事件について、何の手がかりもないようだった。もしかすると、今、僕が、誰よりも、最も真実に近い位置にいるのかもしれない。
人間は、何故、真実を知りたがるのだろう。世の中には、知らない方が良いことなど、いくらでもある。恋人の浮気、友人の不正、事件の真相・・・。知らなければ、苦しむことなどないというのに。聖書の失楽園の比喩は、見事だ。アダムとイヴは、知恵の実を食べてしまったがために、自分が裸だと知ってしまった。そして、楽園から追放された。裸だと知らなければ、知恵などなければ、人間は本能のままに、今よりも幸福に生きることができるのかもしれない。
真実を知る方法は、たった一つだった。レミに電話をすることだ。彼女が、既にこの街を去っているのであれば、スグルは、レミと一緒に失踪した可能性が高い。そして、彼女は、少なくとも、他の八人の行方不明事件とは、関係がないことになる。そうすれば、レミに対するおぞましい疑惑は晴れるだろう。だが、そうなれば、僕は、スグルとレミが駆け落ちしたという事実を突きつけられることになり、傷だらけになった自分の心に、とどめを刺すようなものだった。
僕は、更に二日間、決心が着かないまま、狂いそうなほどに鬱屈とした時間を過ごした。そして、スグルが行方不明になってから、十七日目。僕は、意を決すると受話器を取り、久しぶりの、しかし、かけ慣れた番号をプッシュした。二ヶ月前、レミと初めて出会った頃のような、ためらいの気持ちが、受話器を持つ手を震えさせる。
しかし、あの頃と異なるのは、幸福感で満ち溢れた躊躇ではなく、憂鬱に心を支配された、ためらいの気持ちだったことだ。僕は、誰も電話に出ないで欲しい、既に、この街から消えていて欲しいとさえ、心の中で祈っていた。
「はい。」
何度目かのコールの後、僕の祈りは天には届かず、受話器の向こうから、恋い焦がれた美しい声が聞こえてきた。懐かしいその柔らかな響きに、僕の心は打ち震えた。
そして、彼女がこの街を出ていないことだけは明確になり、安心したような、更なる疑念と不安に囚われたような、複雑な心境に陥った。
「あ、あの、リュウイチですけど・・・。」
数秒の沈黙の後、僕は、思い切ったように声を出した。
「お久しぶりね・・・。」
レミの返答も、どことなく歯切れが悪い。
「お久しぶりです・・・。」
あからさまに気まずい雰囲気が流れ、僕は、どう話を切り出したらいいかわからず、しばらくの間、黙り込んでしまった。
「元気?どうしていたの・・・?」
年の功か、さすがに彼女の方が、こんな感じの状況には慣れているようで、なんとか会話をつなげようとする。
「あの、学校で、ちょっと色々とあったので・・・。停学になったり、クラスメイトと揉めたり。それで、あの、ちょっと聞きたいことがあるんですけど、できるだけ、近い内に、もう一度会えませんか?」
さすがに、あのスグルとのことを、電話で聞き出すことに抵抗があった。そして、彼女を裏切り、裏切られ、あれほどの苦痛と屈辱に悶えながらも、今でも彼女を愛している、という自分の気持ちをハッキリと再認識し、僕は、あの哀しい色を湛えた紫の瞳と、もう一度、向かい合うことを決意した。
「ええ、私も話したいことがあるし・・・。」
彼女も、少し躊躇した様子を見せながらも、含みのある言い方で同意した。
僕は、何故か、彼女がきっと、スグルのことだと勘づいたに違いないと思った。同時に、彼女は、僕とスグルの関係を知っているのだろうか、という疑問が湧き起こった。彼女とスグルが抱き合っているのを目撃したあの時、あの瞬間、彼女の紫の視線が、僕を捕らえた様な気がしたのは、たぶん、錯覚ではなかったのだろう。
僕は改めて、スグルとレミの関係を認識させられ、再び二人が抱き合う光景が脳裏に蘇り、激しい嫉妬心が、体中を駆け抜けた。
「じゃあ、今夜九時、僕達が初めて出会った場所で・・・。」
僕は、その時、レミと会うのは、これが最後になるであろうことを、既に予感していた。そして、最後の決着だけは、どうしても、二人の始まりの場所でつけたかった。
僕は、搾り出すようにそれだけ言うと、電話を切った。
あの美しい夜の女神と再会できるという思いと、会って真実を突きつけられることを恐れる気持ちが、溶け合い混ざり合って、僕の精神と肉体を弄ぶ。
レミは、今でも、この街にいた。そして、それが、何を意味しているるのか、最早、僕には、まるでわからなくなっていた。レミがこの街にいるということは、彼女は、スグルの失踪とは関係が無いのだろうか?それでは、何故、スグルは、消えてしまったのだろう?何故、スグルが消えたあの日、二人は一緒にいたのだろう?スグルの失踪は、他の八人の失踪と関係があるのだろうか?それとも、スグルを含めた九人の失踪事件すべてに、レミが関わっているのだろうか?
なぜ・・・なぜ・・・なぜ・・・。
僕の思考は、どこまでいっても堂々巡りになった。そして、真実を知ることに恐怖した。僕は、レミと出会ってから今まで、封印してきた疑問に至らざるを得なかった。そもそも、レミとは、何者なのだろう?なぜ、世界中を旅しているのだろう?しかも、見た目の年齢からは想像できないほどに、数多くの国々に精通しているのだろうか?
僕は、美しくも哀しい色を湛えた、彼女の紫の瞳を想った。彼女は、なぜあんなに哀しい瞳をしているのだろうか。この世の苦しみの全てを見てきたような、深い、深海のようにどこまでも深い、孤独な瞳を。レミの紫の瞳に囚われた僕の心は、ふと、あの夜に、彼女が語った言葉を思い出した。
『人間は、他の動物や植物を食べ、つまり、生命を奪うことで生きている。人間の生存に必要な、水・塩・食料の内、食料の源は、すべて生命なのよ。聖職者や菜食主義者が、どれほど生命の尊さを語っても、植物も生命であることに変わりはない。
生きるためには仕方がない、弱肉強食、食物連鎖が世の定めだって正当化することで、罪の意識から逃れようとしているわ。
でも、人間は、人間を食べて生きる生命の存在は許さない。例えば、熊や虎などの肉食動物が、人を襲って食べようとすれば、凶暴というレッテルを貼り、悪と叫び、敵として、逆に殺してしまう。他の生命を殺すことで永らえている、自分自身の生命を守るために。
何故、食物連鎖の頂点は人間なの?何故、人間を食べて生きる、生命の存在は認められないの?人間は自分より優れた存在、自分たちの上位に立つ存在を認めない。唯一、神という、極めて抽象的な存在を、幻想の中で作りだし、その神から、人間は神から動物たちを支配する権利を与えられた、なんて勝手なことを言っているわ。
自然の摂理だとか、弱肉強食だとか、色々な表現を使いながらも、結局、人間は、自分を中心にしか、世界を捉えることができないのよ・・・。』
あの時の彼女の言葉は、明らかに人間に対する憎悪が含まれていた。まるで、数十年も続いているような、長い長い旅路の中、彼女は、色々なものを見てきたのだろう。そして、ずっと、孤独だったのだろう。あの紫の瞳が僕に訴えているのは、その孤独さ故の哀しみなのだろうか?
僕はベッドにうつ伏せになると、そのまま、身動き一つしなかった。ただ、天井を見つめていた。そして、約束の時間が訪れた。
何度繰り返されたことだろう。煌めくばかりの光の渦が眼下に広がる、神聖なる丘の上に、再び女神は降臨した。最後に会ったのは、マリコの事件の前だったから、既に、一ヶ月以上の月日が流れたただろうか。しかし、今、僕は、輝きを失うことの無いその美しさに、やはり、会うべきではなかったという敗北感と同時に、失った宝物を再び手に入れたような、言い知れぬ喜びすら感じていた。
「久しぶりね。」
緊迫した雰囲気に呑まれ、口を開けなくなっている僕に代わり、彼女は、少しでも場を和ませようと、できるだけ、明るさを取り繕って、話しかけてくる。
「そうですね・・・。」
僕はそれだけ答えると、スグルの話を、十五日前のあの夜の話を、どう切り出したら良いものか、まだ悩んでいた。沈黙が流れ、二人共、ぼんやりと夜景を眺め続ける。彼女の方も、どう話を進めるべきか考えているのだろう。僕は、いくら考えたところで無駄ということを悟ると、覚悟を決め、単刀直入に切り出した。
「レミさんは、ゴトウスグルって奴のことを、知っていますか?」
数秒の沈黙の後、少し躊躇しながら、
「ゴトウって苗字かどうかはわからないけど、スグルという名前の男の人なら、なんとなく、覚えがあるわ。」
「僕の親友なんです。中学時代からの・・・。」
僕のこのセリフを聞いた瞬間、彼女の顔には、決して誤魔化しようのない、本物の驚愕の表情が浮かんだ。ということは、彼女は、僕とスグルが親友だったことは、本当に知らなかったに違いない。では、彼女の話したかったこととは、いったい何なのだろう?
「そのお友達が、どうかしたの?」
驚愕の表情を浮かべたまま、恐る恐るといった感じで、彼女の方から尋ねてきた。彼女が、こんなに動揺した顔を見るのは初めてだった。僕は内心、驚いていた。
「十五日前から行方不明なんですけど、何か、心当たりはありませんか?」
彼女は、何も答えずに、沈黙したままだった。彼女の表情からは、まだ、動揺は消えていない。やはり、彼女は、スグルが行方不明になった事件について、何か知っているに違いなかった。僕は、彼女の動揺ぶりにためらいを感じ、そして、自分自身、そのことを思い出し、口にすることに嫌悪感を抱きながらも、どうしても確認せずにはいられずに、最後のセリフを口にした。
「僕は、スグルが行方不明になった前日の夜、神社の裏手の林の中で、あなたとスグルが、一緒にいるのを見ました・・・。」
自分自身のプライドの故か、動揺する彼女を慮ったのか、さすがに、抱き合っているところを見たとは口にすることはできず、ただ、二人の関係を知っていることだけを、彼女に暗示した。
「そう、やっぱり見ていたのね・・・。」
彼女は、決して僕の方に目を向けようとはしないまま、それだけつぶやくと、再び口を閉ざしてしまった。
長い沈黙が続いた。その沈黙によって、彼女が、僕にスグルとの関係を、余程知られたくなかったのであろうことが察せられた。同時に、あの時、視線が合ったような気がしたことが、決して、僕の思い過ごしではなかったことが確認された。
「スグルとは、どういう関係なんですか?」
重苦しい沈黙を破るために、そして自分の心の中にわだかまる、疑惑の全てを取り除くために、僕は、恐る恐る質問した。
「たぶん、あなたの想像しているような関係ではないわ・・・。彼は、あの日、初めて会った人だもの・・・。」
その言葉を聞いた瞬間に、僕の中で、二人の関係に対する嫉妬心が氷解し、同時に、新たな疑念と憤怒の思いが生じた。
なぜ、出会ったばかりのスグルと抱き合っていたのか?
さすがに、その質問を口に出すことはできずに、更に重苦しい沈黙が流れた。
二人とも沈黙したまま、時間は過ぎ去り、ただ、夜景を眺め続けた。しかし、心の中では、様々な言葉が浮かんでは消え、今度ばかりは、眼下に広がる光さえも、僕の目には映らなかった。それは、彼女も同様であったに違いない。
彼女は、何度何度も、何かを言いかけようと僕の方へ紫の瞳を向けげ、その度に、言い出すことができず、うつむいてしまうのがよくわかった。
「あなたは、私があそこで、彼と何をしていたと思う?」
長い沈黙の果てに、遂に、彼女は何かを決意したように、口を開いた。
「いや、何をって言われても・・・。」
「愛撫しあっていたんじゃないか!」
心の中で叫びながらも、口に出すことはできずに、僕は何も言い返さなかった。
「リュウイチ君、私のこと、どれくらい愛している?」
今度は、その紫の瞳で、僕の視線をしっかりと捕らえると、再び、質問を投げかけてきた。あまりにも唐突な、場違いな質問に呆然とし、僕は、しばらくの間、何も答えることができなかった。
以前、彼女の部屋で同様の質問を受け、僕は、誰よりも彼女を愛していると言った。しかし、そのわずか数日後に、僕は友達のカノジョと寝た。それは、レミへの思いこそ、真実の愛だと確信した自分自身に対する、卑劣な裏切り行為だった。
もう一度、僕に、あのセリフを言う資格があるのだろうか?
そんな僕の心の逡巡と葛藤を見透かしているかのように、彼女は、決して視線を逸らすことなく、僕の瞳を真っ直ぐに見つめ続けた。彼女の紫の瞳に、苦悩する僕の姿が映し出されている。既に、答えは出ていた。僕の犯した裏切りが、決して許されないものであっても、僕がレミを愛しているという想いに、偽りはないのだ。
「誰よりも、何よりも愛しています。」
迷いの全てを断ち切るように、僕は、心の、いや、魂の奥底から、搾り出すように声を出し、最後まで言い切った。そして、彼女の手を取って抱き寄せると、彼女の唇に僕の唇を重ねた。
彼女が、静かに目を閉じる。数秒、数分、数時間とも感じられる口づけの後に、彼女は、ゆっくりと唇を離すと、僕の体から自分の体を引き離し、そして見つめた。
「あなたを信じて、すべてを話すわ。私のすべてを・・・。」
そして、彼女は語り始めた。僕が想像すらできなかった、いや、誰もが考えつくことすら及ばない、驚愕すべき真実を。
運命の歯車は回り始めていた。僕はもう、光を失う道から、逃れることはできなかった。




