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夜想曲  作者: Harry
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第六章

中学三年生の時、僕は、ある女性教師に恋をした。彼女は、大学を出たばかりの新任の数学教師で、小柄でかわいらしい、まだ、二十二才の女性だった。僕は、基本的に数学は苦手だったのだが、先生に気に入られるために、一生懸命勉強した。

先生も、成績が著しく伸びる僕に対して、熱心に指導してくれ、時には、進路指導室で、マンツーマンで教えてくれることもあった。秋も半ば近くなり、受験が足音を立てて近づいてきた頃、僕の彼女に対する気持ちと行動は、日増しにエスカレートしていった。

校門で待ち伏せして一緒に帰ろうとしたり、突然家を訪ねたり、今の言葉を使えば、ストーカーに近かっただろう。先生の方も、僕の常軌を逸した行動に段々嫌気がさしてきたようで、露骨に僕を避けるようになった。

そんな彼女に対し、僕は、なおもあきらめきれずに、留守番電話に自分の思いをトウトウと語ったりしていた。

 僕の彼女に対する思いは、少しずつ他の生徒にも知れ渡るようになった。僕は、迂闊にも仲の良かった友人の一人に、先生に対する真剣な想いと行動を話してしまっていた。

その友人は、僕を裏切り、他のクラスメイトに、その話を言いふらした。僕は、なんとなく、周囲から冷やかしと侮蔑の入り混じった視線を感じるようになり、クラスメイトとの接触を避けるようになった。

だが、それだけでは終わらなかった。なんと、先生は、僕の同級生の一人と肉体関係にあったのだ。そして、僕の彼女に対する行動はおろか、僕が、自分の気持ちを語った留守番電話のテープはダビングされ、何人ものクラスメイト達に聞かれることとなった。

僕は、そのことを、テープを聞いた一人であり、小学校時代からの友人に告げられた。その瞬間の、怒りと哀しみと屈辱に襲われた、形容し難い感覚は、忘れたくても忘れることができない。まさに『神を呪う』という表現が相応しかった。

 その日以来、僕は、周囲の人間全てが、自分のことを嘲笑っているような気がした。最早、誰も信じることができず、他人と話しをすることに、恐怖すら覚えた。だんだん、口数が少なくなり、完全な孤独に陥った。

 僕は、幼い頃から完全な夜型で、夜は寝付くのが遅く、朝起きるのは、非常に苦手だった。その上、僕は、この事件の後、夜型どころか、全く眠れなくなってしまった。そして、学校にも行かなくなった。いや、不眠が続き、体調がボロボロになっていた僕は、外出さえもできなくなってしまったのだ。

心配した両親は、僕を、街で一番大きな病院に連れていった。しかし、僕は、不眠の原因を、絶対に誰にも話さなかった。自分の口から、話したくなかった。というより、誰にも知られたくなかったのだ。内科の先生は、不眠症の治療のために、心療内科を紹介してくれた。心療内科での診断は「抑鬱状態」だった。「抑鬱状態」と「鬱病」の違いは、正直、よくわからなかったが、「鬱病」の一歩手前というところだろう。僕は、中学三年生にして、精神疾患を病むことになった。

 心療内科では、精神安定剤と睡眠薬を処方された。さすがに、睡眠薬を飲めば、深い眠りに落ちることができた。しかし、朝、起きることが、今まで以上に苦痛になった。そして、眠れるようになっただけでは、僕の心が安らぐことはなかった。

 『神を呪う』人間にとって、『生』は地獄だ。生きている、ただ、そのことが辛かった。目覚めている、ただ、それだけで苦痛だったのだ。眠りたかった。ひらすら、眠りたかった。眠り続けたかった。二度と目覚めたくなかった。

 僕は、一週間も経たない内に、医者の処方よりも、遥かに多量の睡眠薬を、ハルシオンを飲むようになった。ハルシオンは、ドラマなどで、自殺薬として頻繁に登場する、最もポピュラーな睡眠薬だ。しかし、実際は、睡眠薬としてのレベルは極めて低く、決して強い薬ではない。

 そして、ある日、僕は自殺した。無論、今、こうして生きているのだから、正確には、自殺未遂だ。その日、僕は、親に内緒で、密かに押入れに隠していたブランデーを飲みながら、大量の睡眠薬を飲んだ。愛読書と化していた『完全自殺マニュアル』には、睡眠薬は、アルコールと併用することで、効き目が数倍になると書かれていた。

ずっと、生きることに苦痛を感じていた僕が、特別、その日だけが、辛かったわけではないと思う。たぶん、最初から、自殺しようと思って、ブランデーと睡眠薬を飲み始めたわけではないと思う。たぶん・・・思う、というのは、その時の心理を、僕自身が、まったく覚えていないからだ。

 翌朝、起床時間になって、目覚ましが鳴っても起きない僕を、母親が起こしに来た時、僕は、一度は、立ち上がることは立ち上がったらしい。しかし、そのまま、まっすぐに歩けずに、二~三歩も歩かないうちにフラついて、タンスに思い切り頭をぶつけたそうだ。

額から血を流し、生まれたての小馬の様に、何度も立ち上がろうとしては、立ち上がれない僕の姿に、母親は、心の底から恐怖を感じて、慌てて救急車を呼んだ。そして、病院に運ばれた僕は、胃の中を洗浄された、とのことだった。

 僕自身は、この一部始終を、まったく覚えていない。いや、正確には、フラッシュバックの様な、断片的な記憶ならある。病院の寝台に寝かされた時のライトの光、ベッドの上で、見舞いに来た先生に挨拶したこと、などなど。

 しかし、意識がハッキリと回復した時、僕は、病院のベッドから、追い立てられるところだった。睡眠薬の大量服薬患者は、病院から見れば、重病人ではなく、ベッドを空けるために、早く退院して欲しいらしい。そして、その日から、僕は、前後一週間程度の記憶が、完全に欠落していた。自殺する前の数日間、どんな生活を送っていたのか、退院した時、どうやって家まで帰ったのか、その後の数日間、何をしていたのか、一つとして覚えていなかった。断片的な映像のみが、頭に残っていた。生涯で初めて、救急車で運ばれるという貴重な体験をしたのに、全く覚えていないのは、非常に残念なことだ。

 それでも、数日が経つと、『神を呪う』気持ちが、再び、甦ってきた。僕は、もう一度、眠りたいと思った。そして、今度こそは、二度と目を覚ましたくないと思った。学校で、クラスメイトの嘲笑に晒されるのは、絶対に耐えられなかった。

 しかし、退院の際、医者から両親に、残念なお知らせが告げられていた。今の睡眠薬は、いかに大量に飲んでも、死ぬことはないそうだ。可能性があるとすれば、大量服薬によって、心筋梗塞が発生した場合のみとのことだった。

 しばらくの間、死を願う気持ちは、まったく変わらなかった。しかし、僕の望みは、死ぬことではなく、永遠に眠り続けることだった。だから、首を吊るとか、電車に飛び込むとか、ビルの屋上から飛び降りるとか、他の方法で自殺する気にはなれなかった。

 僕は、中学三年の三学期は、学校には一度も行かなかった。卒業式にも出なかった。学校に行かないまま、地域で一番の高校を受験し、見事に合格した。受験をしたのは、何か強い決意があったからではない。ただの惰性だった。

後から振り返れば、よく、受験する気になったものだと思う。そして、睡眠薬によって、あれだけ脳を痛めつけながらも、よくぞ合格したものだと、我ながら感心する。春になって、同じ高校に進学した同じ中学の生徒達は、中学三年の秋頃には、既に受験勉強ばかりで、学校の話題には、ほとんど興味がなかったらしい。だから、高校では、僕と例の先生の話題には、触れないでくれた。

高校一年生の時、同じクラスになった、スグルとシンヤも、僕を気遣い、中学時代の話題になっても、その先生の話は。意図的に避けてくれた。そして、僕が、三学期に一度も出席しなかったことについても、何も聞かないでくれた。スグルとシンヤは、中学時代よりも、高校に入学してからの方が仲良くなった。僕も、ガラリと環境が変化したことを機会に、なるべくクラスメイトの輪に溶け込もうと努力した。

だが、一度芽生えた人間不信の根は、そう簡単には消えなかった。僕は、努めて、クラスメイトと仲が良さそうに振る舞いながらも、心の壁を高く築き、その内側を誰にも見せることはなかった。自分の将来の夢も、恋愛の話も、人の話を聞くことはあっても、自分の話をしたことはなかった。特に、恋愛の話には、絶対に加わらなかった。自分の心の内側を、他人に知られることは、絶対に嫌だった。クラスメイトに再び裏切られ、嘲笑の渦に呑み込まれることを、極度に恐れた。

 そんな、凍てついていた僕の心を、少しずつ癒してくれたのが、クラスメイトのミキの存在だった。最初のきっかけは、ささいな偶然だった。放課後、学校の近くの書店で、僕が、いつものようにニューズウィークを買って帰ろうとした時、同じクラスのミキにバッタリと会った。それまで、彼女とは、ほとんど口をきいたことがなかった。

彼女は、僕の手にニューズウィークがあるのを見て関心を持ったらしく、親しげに話しかけてきた。前々から、カワイイなと思っていたので、僕もうれしかったのだろう。珍しく、国際問題に興味があることを語り、途中まで一緒に帰った。

その後、学校でも、彼女の方から積極的に話しかけてくるようになり、僕にとって、スグルとシンヤ同様、心を許せるクラスメイトとなった。クラス一の優等生で、男子の人気も高い彼女が、僕に話しかけてくることに、最初は、警戒心を抱かないでもなかった。また、友達に、それも女子に嘲笑されるのではと、僕の心にはトラウマが残っていた。

しかし、彼女が、国際問題に興味があることがわかると、僕の警戒心も薄れていった。彼女は、誰かと政治とか文学とか、受験勉強とは直接関係ないが、インテリ系の話題を話したかったのだ。そういう意味では、僕以上に相応しい相手はいなかったのだろう。他のクラスメイト達は、受験の話題か、テレビ番組の話題しかできなかったからだ。

その内、親しくなると、互いにテストの点数も告白し合うようになった。世界史だけは学年トップだが、英語と数学が、常に赤点ギリギリの僕に、彼女はあきれて、勉強を教えてくれるようになった。

だが、心に深い傷を負っていた僕は、恋愛に対しては、決して前向きな姿勢にはなれなかった。そんな状態で一年以上が過ぎたのだが、その間、ミキは、辛抱強く、僕の心が開くのを待っていてくれたのだ・・・。

 翌日、僕とマリコは、一週間の停学を通告された。ラブホテルから出てきた上に、酒まで飲んでいたことを考えれば、軽過ぎる処置だった。停学中の一週間、僕は、家から一歩も出ずに、誰とも連絡をとらなかった。レミにも、電話をしなかった。彼女とは、キスをした翌日に、電話で話しをしたままだった。彼女にも、もう、何日も会っていなかった。僕は、部屋に閉じこもったまま、両親とも口を聞かなかった。

僕とマリコの噂は、既に、学校中に広まっているに違いない。きっと、スグルやミキの耳にも入っているだろう。二人に会った時、どんな顔をすれば良いのか、僕にはわからなかった。スグルは、たぶん、怒っているだろう。当たり前だ。会った瞬間に、殴られるかもしれない。笑って迎えてくれるなんてことは、あり得ない。

ミキは、たぶん、悲しい気持ちに沈んでいるだろう。僕は、ミキの気持ちを十分過ぎるほどに知りながらも、彼女を裏切り、そして傷つけた。レミを愛し、接吻を交わした日には、こんな気持ちにはならなかった。たぶん、レミの存在と、彼女に対する気持ちをミキに知られても、これほどまでに苦痛を感じることはなかっただろう。

僕は、自分の性欲を満たすためだけに、衝動に駆られ、マリコを抱いたことそのものを、激しく後悔していた。もう、今までの様に、ミキに気軽に話しかけることも、一緒に、街をブラつくこともできないかもしれない。

マリコのことは、不思議なほどに、頭をよぎることはなかった。念願の初体験も、僕にとっては、甘美な思い出とはならなかった。何故、あの時、ラブホテルの前で、彼女を置いて帰ることができなかったのか、何故、衝動に駆られ抱いてしまったのか、今更ながら、自分の愚かさが身に染みていた。

誘惑に負けた自分の弱さに、やり切れない気持ちを感じながら、僕は、一週間が過ぎ去ることを、ひたすらに恐れた。スグルやミキと顔を合わせる瞬間を、できるだけ、一日でも先延ばしにしたかった。

一週間、眠れない日々を過ごしても、どんな顔をして二人と会えばいいのか、まったく思いつかなかった。停学中に、もう一度事件を起こして、わざと停学になろうかとも考えた。もしくは、このまま、退学してしまおうかとさえ思った。

そして、レミにも合わせる顔がなかった。幸いにも、レミが、この事実を知ることはないだろう。彼女は、僕の日常生活とは、完全に切り離された存在だった。自分から言い出さない限り、彼女が僕の噂を耳にすることはあり得ない。

しかし、あれほど真実の愛だと確信した相手を、そして、自分の気持ちを簡単に裏切ってしまった己を、僕は許すことができなかった。ファーストキスを交わした直後だっただけに、尚更、そう感じられた。レミとキスした夜は、一晩中一緒にいたのに、僕は何もしなかったのだ。

大切な人ほど何もできない、という話は、おそらく、本当だと思った。だが、そんなことは、言い訳にもならない。そして、誰に対する言い訳でもない。停学が解ける日をひたすら恐れながら、不安と後悔にまみれた、僕の一週間は終わりを告げた。

停学が解けた翌日、結局、僕は、何の覚悟もできないままに、登校せざるを得なかった。停学した上に、授業をサボることなど、到底不可能だったからだ。教室へ入ると、僕の姿を見つけたクラスメイト達は、一斉に小声で話し始めた。間違いなく、僕とマリコの噂を知っているようだ。

クラス中の好機の視線をたまらなく感じながら、僕の脳裏には、中学三年生の時の記憶が、まざまざと甦っていた。みんなが、僕を嘲笑し、軽蔑している。まるで、あの頃のリプレイだった。二度も同じ過ちを犯すとは、僕は、なんと愚かなんだろう。大声でわけのわからないことを叫んで、そのまま、教室から逃げ出してしまいたかった。しかし、結局は、うつむいたまま、黙って座っているしかなかった。

だが、いくら周囲を見ないようにしても、顔に鋭く突き刺さる、二つの視線だけは、否応もなく、ハッキリと感じられた。憎悪に満ちたスグルの視線と、困惑と哀しみの色を浮かべた、ミキの視線だ。

その日から、僕は孤独になった。ほとんど誰も、僕に話しかけてこなかった。クラスメイト達は、僕を遠巻きにして、噂話をするだけだった。約二年前の再現だった。

スグルは、何も言ってこなかった。僕は、何度も謝罪するシーンをイメージしたが、目が合う度に、あからさまに憎悪の色を浮かべた目で睨みつけられ、何も言えなくなって、ただ、目を伏せるだけだった。殴られる方がよっぽどましだった。青春ドラマのように、一発ブン殴って、スカッとして仲直り、なんてことは、現実にはあり得ないことを、改めて思い知らされた気分だった。

唯一の例外は、シンヤだった。今まで通り、部室で、二人切りになると、

「おまえも、どうしようもねえなあ。」

と言いながら、学校でどんな噂になっているか、スグルが、どのくらい僕のことを怒っているかを教えてくれた。僕は、いまや、唯一になってしまった、親友のありがたみを心から感じていた。

ただ、シンヤの話では、マリコの予想通り、あの晩、スグルは、キョウコと別のホテルに泊まったらしい。スグルには、僕のことを恨む権利はあっても、マリコを責める権利はなかった。しかし、スグルは、既にマリコとも、話すらしていないようだった。

シンヤは、僕のことを、ラブホテルに入ったことが先生にバレた、単なる運の悪い男としか思っていなかった。スグルにとって、マリコは、すぐに殿堂入りするだけの、過去のカノジョになるに違いない。時間が経てば、スグルは僕のことを許し、また、元通り三人でツルんで遊ぶことができると、本気で思っているようだった。

シンヤ自身は、合コンで出会ったアキとうまくいっているようで、付き合うことになったと、幸せイッパイの表情で、僕にノロケ話を聞かせた。それだけが、僕にとって、唯一の明るい話題だった。

スグルだけでなく、ミキも全く話しかけてこなかった。ただ、時折、困惑した表情を浮かべ、僕の方をジッと見ていた。建前の上では、僕はミキには謝る必要はなかった。というより、僕とミキは付き合っているわけではなかったので、謝る理由がなかった。どれほど心の中が申し訳ない気持ちで一杯であろうと、謝る言葉が見つからなかったのだ。

だが、僕の言葉を信じ、僕の気持ちが完全に固まるのを待っていた、彼女を裏切ったことは確かだ。僕は、彼女に、何と誤れば良かったのだろう。どんな言葉をかければよかったのだろう。「浮気して申し訳ない」か?それとも、「あれは、遊びだったんだよ。本当に好きなのは、ミキだけだ」とでも言えば良かったのだろうか?

困惑した表情を向けられるよりも、スグルと同じく、面前で罵倒された方が、余程、肩の荷が降りるに違いなかった。

シンヤの情報によれば、クラスメイト達の間では、ミキは、僕に捨てられた、悲劇のヒロインに祭り上げられているようだった。そのことが、ミキを、更に悲しませるだろうことは、僕には痛いほどわかった。

以前、ミキにフラレたイワサキは、チャンスとばかりに、彼女に、積極的にアプローチしていた。シンヤの話では、ミキは、とうとう僕に見切りをつけ、イワサキと付き合うようになったと、噂されているようだった。僕は、それを鵜呑みにすることはなかったが、そんなミキに対し、何も言える立場ではないことは自覚していた。

 マリコとは、一度、学校の廊下ですれ違ったが、お互いに目を伏せたまま、黙って通り過ぎた。彼女とは、もう、二度と、話をすることはないだろう。

そんな状態で、一週間が過ぎたある日の放課後、僕は、学校の図書館で勉強をしていたため、すっかりと帰りが遅くなってしまった。明後日から期末テストが始まる。今までは、毎回、ミキにノートを借りて教えてもらっていたのだが、ミキとの関係が壊れてしまった今となっては、自力で何とかするしかない。

十二月の半ばともなると、夜の七時頃でも、既に、天空から太陽は消え、辺りは暗闇に包まれていた。学校から家まで帰宅する最短ルートは、基本的に人通りの少ない、女子が一人で歩くには危険なほどの寂しい裏道だ。

帰宅途上の道のりには、古い、大きな神社がある。その神社の裏手には、木々が鬱蒼と生い茂った、大きな林があった。その林の中には、舗装されていないが、自転車が通れる程度の小道がある。作られた道、というよりは、頻繁に林の中を突っ切る人々が踏み固めた、獣道に限りなく近い。

林を迂回して、舗装された道路を通ると、十五分以上の時間のロスになるため、僕は、少し怖いなとためらいながらも、林の中へと自転車を進めた。街灯も無い、真っ暗闇の林の中を、自転車のライトだけが、ぼんやりと目の前を照らし出している。遠くから、車のエンジン音がかすかに聞こえるが、林の中は、まったくの静寂に包まれていた。

僕は、「幽霊でも出そうだな」と、周囲の木々をキョロキョロと見回しながら、心持ち、急ぐようにペダルを漕いだ。と、自転車のライトの灯りと闇の境界線に、何か動く物体が存在するのを、一瞬、僕の視覚が捉えた。僕は心臓は、急激に凍り着いた。心なしか、自転車を漕ぐ速度を緩めた。

「なんだろう?」

僕の頭の中の注意力の全てが、闇の中で微かに動く物体へと集中する。かといって、自転車のライトをその物体に向ける勇気もなかった。自転車の速度を緩めながら、僕は、すれ違い様にその方向へ視線を向けた。

鬱蒼とした木々の中にいるのは二人の人間、それも、男と女のようだった。二人と僕の距離とは、百メートルと離れていない。そして、一瞬ライトの紡ぎ出す光の境界性が、男女を照らし、二人の顔が、僕の目の中に飛び込んできた。一瞬、僕の思考は停止した。

そして、わずか二秒の後、その男女の顔が識別できた時、僕は驚愕のあまり、ゼンマイの切れた玩具のように、自転車を停めてしまった。

男性の方は、もう何年もの間、見慣れた顔に、見慣れた体格、学生服姿のスグルだった。そして、もう一人の女性の方は・・・。見間違えるはずもない、そして、闇の中でしか姿を見たことのない、全身を黒のワンピースで覆った、レミであった。

僕の全身は、まるで、全神経が剥き出しになったかのように麻痺し、血液が逆流して、瞬間的に沸点に達した。心臓が激しく鼓動し、体中が騒ぎ出した。しかし、僕の脳内の百兆のシナプスは、身体とは逆に、視覚が捉えた光景をまるで理解することができずに、ただ、呆然と自問自答を繰り返していた。

「なぜ、スグルとレミが、なぜ、スグルとレミが、なぜ・・・・。」

なぜ、の二文字だけが、僕の脳内の神経回路を延々と駆け巡って。確かに、僕はスグルを裏切り、そのカノジョ、マリコと寝た。親友の恋人を寝取るという、どんな仕返しを受けてもしかたのないほどの屈辱を、彼自身に味合わせた。だから、僕が心から愛する人を、スグルが逆に奪ってしまうことも、復讐としては、充分に理解できる。

だが、僕はスグルに対して、いや、誰一人として、レミの話をしたことがなかった。僕のレミに対する気持ちはおろか、レミの存在すら教えたことがない。だから、今、目の前で起こっている出来事は、マリコの件に関する、スグルの復讐であるはずがなかった。

ではなぜ・・・。

レミについても同様だった。僕は今まで、レミに対して、恋人の存在の有無を聞いたことがなかった。一つは、真実を知ることが恐ろしかったからだった。しかし、彼女は、この街に異邦人として現れたが故に、恋人などいるはずがないと、自分自身に思い込ませようとしただけなのかもしれない。

この数ヶ月の間、あの夜の女神と、心の全てが一つになったような陶酔感は、そして、口づけを交わしたことで、彼女も僕に好意を持っているかもしれないという淡い期待は、僕の一人よがりにすぎなかったのだと思うと、屈辱と自己嫌悪が入り混じった、形容し難い、やりきれない苦痛が、僕の体の隅々まで覆い尽くした。自分自身が、先に、スグルとレミを、裏切っているだけに、その思いは、尚更だった。

視線の先、暗闇の中で蠢く男と女は、僕の存在になど、まるで気づかずに、目の前で抱き合い始めた。レミの細い白い二本の腕が、ゆっくりと、スグルの首筋にからみつく。薄暗闇の中で、ハッキリとは見えないが、スグルも恍惚とした動きで、レミの腰に手を回すと、ゆっくりと抱き寄せた。スグルの動きが、どこか、ぎこちないように感じられた。

と、スグルの肩越しから、レミの唇が覗き見えた。そして、レミが、ほんのわずかに、口を開いたのが見えた。その時、何かがキラリと光ったような気がした。その仕草は、まるで、首筋を噛んでいるかのようであった。軽く噛むように、スグルを愛撫しているのかもしれない。

その瞬間、レミのあの紫の瞳が、僕の視線を真っ直ぐに捉えたような気がした。同時に、レミの動きが、一瞬だけ静止したように感じられた。

目が合った。僕は、それ以上耐えられなくなって、視線を逸らすと、自転車のペダルを力いっぱい漕ぎ、その場から走り去った。逃げ出した、という表現の方が、相応しいのかもしれない。僕は、何か恐ろしいモノに追われているかのように、必死で逃げた。二人の愛撫を、それ以上、見るのが辛かったからなのか、それとも、紫色の視線から逃れようとしたのかはわからない。

生まれてから十七年の間、一度として味わったことのない、混沌とした感覚が、心の奥底から沸き上がって、涙が大量に溢れ出す。僕は、何も考えることができずに、ただ、ひたすらに足を回転させ、林の中から抜け出した。

何処を、どう通って帰ったのか思い出せないほどに、僕は感情を高ぶらせたまま、走り続けた。真っ直ぐ家に帰りたくなかった。誰にも会いたくなかった。今の自分の姿を、そして心を、親に見られると思うとゾッとした。

僕は、そのまま、三時間以上、ひたすら自転車のペダルを漕ぎつづけた。自分が何処にいるのか、気にもならなかった。それでも、最終的には、なんとなく、家の前に辿り着いていた。僕は、両親に気付かれないように家に入ると、夕食も食べずに、そのまま、ベッドへと倒れ込んだ。

母が、僕の名を呼びながら、部屋に入ってきたのがわかった。しかし、僕は、返事をせずに、寝たふりをしていた。

悔しいのか、悲しいのか、スグルが憎いのか、レミが憎いのか、それとも、自分自身が憎いのか、自分の感情が把握できずに、ただただ、涙だけが流れ続けた。

これが裏切りの報いだった。そして、僕は泣き疲れると、いつのまにか、本当に眠りに落ちていた。

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