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夜想曲  作者: Harry
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第三章

 『絶望』という言葉の意味を、本当に理解している人間は、この世界にどのくらいいるというのだろう?十九世紀の哲学者、セーレン・キェルケゴールは、絶望は『死に至る病』であると言ったが、僕には、絶望が、死、そのものであることが実感できる。

 僕の家庭は、金持ちではないが、特別、貧乏でもない。体は細く、頑強な肉体とは言い難いが、特に病気を患っているわけではない。父も母も姉もいる。友人もいる。地域で一番の進学校に入り、頭が悪いとか、運動神経がないとか、劣等感に悩む要素も無い。

 客観的には、僕には、不幸と呼べる要素は、何一つ存在しないのだ。それでも、僕には『希望』が無かった。何を希望と呼べばよいのか、わからなかった。

『不幸』ではないこと=『幸福』ではない、ということを、僕は実感して生きてきた。

『憎しみ』は、希望の一つの表情である。『怒り』もそうだ。ドラマや、時代劇の様に、『復讐』という目的を持っていれば、なおのこと、生きる力が湧いてくるのであろう。明確な対象はなくとも、自己の不幸を誰かのせいにし、社会に対して、怒りや憎しみを抱いて生きる人間は幸いである、とさえ、思うことがある。

 通り魔事件の犯人達は、「誰でもよかった」と供述することが多い。人生に絶望し、自暴自棄になって、死刑になることを望んでいるそうだ。しかし、僕には、彼等の気持ちは、全く理解できない。彼等は、本当の『絶望』を理解していないのだ。自分の人生が思い通りにならないことを、他人のせいにして、目を逸らしているにすぎない。まして、なぜ、無関係の人間を殺したいと思うのか?死にたければ、勝手に一人で死ねばいい。

 本当に『絶望』している人間は、誰のせいにもしない。というより、思い通りにしたいと望む、人生そのものが存在しない。欲望が無いのだから、焦りも、怒りも、憎しみも無い。まして、誰かを殺したいとは思わない。ただ単に、犯罪者になりたくない、という理由ではない。合法も非合法も関係なく、ただ、何も望まないだけなのだ。

 何一つ望みの無い人間とは、ゴータマ・シッダールダの説いた、悟りを開いた人間、即ち、ブッダではないだろうか?ブッダは、本当は、絶望していたのかもしれない。悟りを開き、解脱することとは、人生に絶望することなのかもしれない。

 僕は、幼い頃から、自分が何のために生きているのか、ずっと考え続けてきた。人は何故生きるのか、何のためにこの世に生まれてきたのか、何ゆえに存在するのか、僕にはわからなかった。いや、わかっている人間など、この世にいるはずもない。

 人類は、『理性』という観念に囚われて以来、数千年に渡って、その答えを見つけ出そうとしてきた。それが哲学であり、宗教であり、文化である。文明とは、存在の究極に迫ろうとした、人類の宿業の総体にすぎない。僕も、賢人たちの叡智に預かろうと、様々な哲学や文学の本を読み漁った。

 『生きる』こと。その答えをただひたすら求め続けた。しかしどこにも、僕を満足させる答えを見つけることができなかった。解答は何処にあるのだろう?僕は、答えを見つけられない限り、生きることのできない、絶望の牢獄に囚われた人間だった。

 まだ、生きる目的が見つけられなかった幼い頃、僕はよく、「死のうかな」とつぶやいては、親を困らせていたらしい。別に悪気があったわけではない。ただ、生きる意味がわからないから、死んだっていいや、と思っていただけだろう。

 それでも、どうせ死ぬのなら、何かの役に立って死にたいと思っていた。もし、今、特攻隊が必要とされる時代であれば、僕は、喜んで志願するだろう。罪の無い一般人を殺戮する、自爆テロはごめんだが。

「例えば誰か一人の命と、引き換えに世界が救えるとして、僕は誰かが名乗り出るのを、待っているだけの男だ。」

 ミスチルの曲、「HERO」の一節だ。僕は、ミスチルの桜井の、正直な優しさに満ちた歌詞が大好きだ。しかし、僕は、この歌詞のような状況になったら、おそらく、名乗り出ることができるだろう。自分一人の命と引き換えに世界が救えるのなら、僕は、喜んでこの命を差し出すかもしれない。

 でも、それは、僕が、勇気があるからでも、人類愛に満ちているからでもない。僕が、生きる理由を見つけられないから、生きることに『絶望』しているから。どうせ死ぬのであれば、誰かの役に立って死にたいと、願うからに過ぎない。自分の命と引き換えに世界を救えるなんて、『絶望』に満ちた人間にとって、甘いロマンチズムの香る、最高のシチュエーション以外の何物でもない。

 人はなぜ、生きるのか?僕には、答えが必要だった。そして、僕が見つけ、自分に言い聞かせるようになった解答は、『夢』を追うことだった。夢と言えば聞こえはいいが、たぶん、本当は、『欲望』という言葉の方が相応しいのだろう。人間の『希望』とは、すべからく、欲望に過ぎないのかもしれない。

金持ちになりたい、いい暮らしがしたい、最初はそんなちっぽけな欲望から始まった。しかし歳月を経て、知識が増えるに従って、僕の夢=欲望は肥大化していった。今、自分が抱く目的が達成された時のことを、常にその先を考えてしまうからだ。

 金持ちになってどうする?偉くなってどうする?権力を握ってどうする?

追求すればするほど、欲望は、雪だるまのように膨張を続け、留まることを知らない。そして、辿り着いた果てが、世界の頂点に立って、人類の意識そのものを変革するという、途方もない妄想であった。

 自分でも、自分の夢が、いかに荒唐無稽かは、嫌になるほどわかりきっていた。自分がこんな妄想を抱いていることを知ったら、他人がどう思うかさえも。それ故に、僕は今まで、本当の意味で、誰にも心を開いたことがなかった。夢の話はもちろん、人生の意味とは何か、存在の意味とは何か、誰とも話をしたことがなかった。周囲に、そんなことを考えている人間が、一人でもいるとは思えなかったからだ。

僕は、孤独だった。その孤独さを紛らわすために、僕は、夢中になって友達を作り続けた。「人には優しく、怒らず、寛容に」いつも愛想よくふるまい、人の悪口を言うことは、ほとんどなかった。敵を作りたくないから、誰の味方にもならなかった。誰にも憎まれない代わりに、誰にも愛されなかった。

 いつのまにか、僕の周囲には、浮かんでは消えてゆく、顔の無い友人たちが、たくさん通り過ぎるようになっていた。誰と一緒にいても、誰と遊んでいても、所詮は同じ。僕の本当の心を知る者など、一人もいない。

 たくさんのトモダチ、という集団の中に所属しながらも、僕は孤独だった。だが、どんなに孤独を感じていても、常に一人でいるよりは、マシなのかもしれない・・・。


 翌日、僕は、珍しく一時間目の英語の授業に出席した。昨夜、レミから世界各地を巡る旅の話を聞いて、自分もすっかり、旅行気分になっていたせいだろう。我ながらなんと単純なのだとは思うが・・・。

だが、ヒサビサに出席してみると、授業の内容は、すっかり、チンプンカンプンで、全く意味不明であった。そこで、授業が終わり、休み時間に入ったところで、ミキに教えてもらおうと立ち上がった。彼女も僕に話しかけようとしていたのか、一瞬、目が合った。が、どうやら先客がいたようだ。立ち上がった彼女に対し、クラスメイトの一人が声をかけ、見つめ合う僕とミキの視線に割って入った。

 イワサキテツヤ。ミキと同じく、このクラスの学級委員長だ。成績は、常に学年で十番以内、バスケットボール部のレギュラーで、ルックスもかなりイケている。昨年のバレンタインデーには、チョコレートを二十個以上回収したという話だ。

 成績は落ちこぼれ、スポーツも全くしない僕にとって、本来であれば、全く無縁な存在だ。実際、ほとんど話をしたことはない。特に関わりたいとも思わない。だが迷惑なことに、僕とイワサキは、周囲から比較される宿命にあった。

 イワサキが、ミキのことが好きだという噂があるからだ。誰なのかは定かではないが、ある女の子が彼に告白したとき「好きな人がいるから」というお決まりのパターンで断られた。その好きな人というのが、ミキらしいのだ。

 そんなわけで、僕とイワサキの二人は、周囲からすっかり恋敵扱いされていた。ミキの本命がどちらなのか、賭けをしている連中までいるらしい(スグルとシンヤは僕に賭けていると言っていた)。そしてクラスメイトたちのほとんどが、岩崎の方がミキにはお似合いだと思っていた。僕もそう思う。

 つい最近まで、僕にとっては、ミキの気持ちなど、どうでも良いことだった。だが、今は違う。ミキの本命が、僕自身であることを確信すればするほど、ミキがイワサキと話しているのを見ると、嫉妬すら感じるようになってしまった。しかも、厄介なことに、イワサキとミキは、共に学級委員長なので、二人だけで話をする機会が多い。

「じゃあ、今日の放課後に打ち合わせしよう。」

盗み聞きするつもりはなかったのだが、イワサキの声が、僕の席まで聞こえてきた。イワサキが立ち去ると、ミキはすぐに僕の方を振り返り、微笑みながら近づいてくる。

「リュウイチ、珍しいね。英語の授業にちゃんと出ているなんて。」

「そうそう、わからないとこだらけだったから、ちょっと教えてよ。」

こうやって、ミキの方から話しかけてくるたびに、ミキは、僕のことを好きだということを再確認して、僕は、自尊心を取り戻す。すると、イワサキに対する妙な嫉妬は、あっという間にどこかへと吹き飛んでいく。

「なに、このノート!何にも書いてないじゃない!」

僕の視界の片隅で、ミキの声に反応したイワサキが、チラリと、こちらを振り向いたのがわかった。

「だからさ、今日の授業、まったく意味不明だったんだよね。

僕は、イワサキが見ていることに気付きながら、わざと、ミキの側に体を寄せた。落ちこぼれの僕が、クラス一の秀才に対して、唯一、優越感を感じる瞬間だ。後で振り返ると、我ながら、器の小さな人間だとは思うのだが。

 休み時間の間中、僕は、ミキの愛情を全身で感じ続けた。しかし、二時間目の授業が始まり、再び頭がカラッポになると(世界史の授業以外は、常に頭がカラッポになる病気になってしまった。習慣とは恐ろしい)、僕の心の中に、別の女性が姿を現した。

「ミキが好きなのは、オレ。オレはミキのことが好きだ。じゃあ、レミのことは?」

僕の頭の中に、ミキとレミが交互に現れ、グルグル周り続けている。

「ミキ、レミ、ミキ、レミ・・・・・・」

午前中は、そんな思いに囚われ続け、ぼんやりと窓の外を眺めているだけで、授業などまるで頭に入らなかった。


事件は、その日の昼休みに起こった。僕とスグルとシンヤが、いつものように、歴史研究部の部室にたむろしていると、突然、ガラガラッ、と激しくドアが開かれ、いかつい体格をした、見るからに体育会系の男が三人、ドカドカと入り込んでいた。赤い校章をつけているところを見ると、どうやら、三年生らしい(ちなみに、二年生が青い校章、一年生が緑の校章である)。

その先頭を切って入ってきた、最もバカデカイ図体の持ち主が、スグルの胸倉を掴むと、

「ゴトウってのは、おまえか!」

と、いきなり怒鳴り声を上げた。こういう時、上級生と何の交流もなく、年齢や学年が上だということに、権威のかけらも感じない、落ちこぼれは圧倒的に強い。

「そうですけど、何か?」

スグルは、少しも恐れる風も悪びれる様子もなく、胸倉を掴まれたまま、轟然と相手を睨み返した。僕とシンヤも訳がわからないまま、事態の異様さに圧倒され、立ち上がって、三年の体育会軍団を睨みつけた。

緊迫した雰囲気が部屋の中に充満し、空気が放電を始める。

「てめえ、昨日、マリコと何してやがった!」

相手のその一言で、スグルは事情を察したらしい。「ああ」と納得したような顔をすると、

「そんなこと、あんたに関係ないだろ。」

と、薄ら笑いすら浮かべた。

「殺すぞ!」

熊のような体格のその男は、全身に殺気をみなぎらせて、胸倉をつかんだ手に、いっそう力を込める。さすがに僕は、

「いいかげんにしろよ!」

と、熊男の腕をつかむと、同時にスグルも熊男の腕をつかみ、思いっ切り振り払った。

後ろに控えていた、熊男の子分AとB(映画やドラマを見ていて、いつも思うのだが、何故、ガキ大将の腰巾着は、常に二人なのだろうか?水戸黄門のスケさん、カクさんの影響か?)が、ズィッと僕らの間に割って入ろうとする。部屋中をそれぞれの緊張が走り抜け、空気が放電しまくっていた。

僕は、三人を睨めつけながらも、

「やれやれ、またやっかいなことに巻き込まれてしまった」

と、心の中で、深い溜息をついた。最近、スグルは、三年生で気に入った女子がいると言っていた。この熊男は、たぶん、その女子のカレシか何かだろう。

とすると、スグルはその女子を口説き落とすことには、成功したわけだ。

「マリコに手え出すんじゃねえ!」

熊男は、十年ぐらい前の青春漫画に出てきそうな、知性の欠片も無いセリフを叫ぶと、いきなりスグルの顔面を殴りつけた。

「何やってんだよ!」

間髪入れずに、シンヤが、熊男の顔面に、右ストレートをぶちかます。こうして、歴史研究部二年生トリオVS体育会系(応援団らしい)熊男及び子分A・Bとのバトルの火蓋が、切って落とされた。

 狭い部室長屋で、時間は昼休み。部室の前の狭い廊下には、あっという間に、たくさんの観客が群り集まった。基本的に、進学校では、殴り合いのケンカなど、めったに起こらない。少なくとも、僕が入学してからは、一度も見たことがなかった。そのせいか、周囲の観客は、誰一人止めようとせず、と言って、煽ることもない。ただ、面白そうに、遠巻きに眺めているだけだ。無責任なギャラリーに徹する彼等は、道端で人が倒れていても、救急車も呼ばずに見ているだけの人種かもしれない。

 三分と経たないうちに、ギャラリーの群れを掻き分けて、先生が二人、狭い部室の中に飛び込んできた。僕の担任のシブサワと、一年の体育担当のネヅだ。

「やめんか!」

二人はバトル中の六人の間に割って入ると、殴る蹴るを続ける、僕達を引き離そうとした。せいぜい、定員が六人程度の部室に、八人の男が入り込むはめになり、余りの狭さに、身動きが取れない。ケンカをしていた六人の内、五人は、先生の登場と同時にファイトをやめたが、熊男だけは、まだ、腹の虫がおさまらないのか、それでもスグルに殴りかかろうとし、ネヅに羽交い絞めにされていた。

 熊男の体格も相当なものだが、ネヅはさらに体格がいい。さすがは、体育教師だ。暴れて振りほどこうとする熊男を、見事に押さえ込んだのには、ちょっと感心してしまった。この先生には、あまり逆らわない方が良さそうだ。

 その間に、先生達が続々と登場して、僕らは人混みの合間を縫って、職員室へと連れていかれた。生徒達は、退屈な学校生活に沸き起こった、ちょっとした刺激を楽しんでいるのか、ニタニタ笑いながら、僕らを見ている。シンヤなどは、調子に乗って、ギャラリーに向かって、手まで振ったぐらいだ。

だが、僕の目に映ったのは、騒然としたその群集の中で、たった一人、泣きそう顔をして僕を見つめる、小さな女の子、ミキの姿だった。


 結局、僕らの処分は、反省文を書かされるだけにとどまり、当事者である、スグルと熊男の二人だけが、一週間の停学処分となった。いきなり襲撃したのは、応援団の方だろうと主張したが、先生達は、まったく耳を貸さなかった。

 放課後、僕らは保健室に集まって、傷の手当てをしてもらっていた。熊男とその仲間が、五時限目の間に保健室で手当てを受けていたので、カチ合わないように先生たちが配慮して、午後の授業の間中、ずっと傷の痛みを耐えていたのだ。

「ゴメンネ、スグル。私のせいで・・・」

「ああ、だいじょうぶ。気にしないで」

保健室で、僕とシンヤは、スグルの新しい彼女、ミツイマリコに初めて会った。初めて見るマリコは、確かにかわいかった。身長は160センチ程度で、良く整った、エキゾチックな顔立ちをしている。

 だが、最大のインパクトは、全身から立ち上る色気だった。たった、一才しか違わないのに、既に男の性欲を掻き立てる、何とも言えぬ艶っぽさを、体中から漂わせていた。推定Eカップはあろうかと思われる胸も、彼女の色気をさらに引き立てている。

 既に手当ての終わったスグルは、マリコと一緒にベッドに座り、互いに手を握って見詰め合っていた。まるで、そのまま、ベッドに入って、二人でイチャイチャしそうな雰囲気を漂わせている。

保健室には、ミキも来ていた(ちなみに、シンヤには、心配して来てくれる女の子は一人もいなかった)。彼女はムスッと怒ったまま、それでも、僕の右手の平の傷に、一生懸命包帯を巻いてくれた。数日前に、自転車で転んだ時の傷が、人を殴った衝撃で、再び開いてしまったのだ。

「まったく。関係のないアンタ達まで、一緒になって、殴りあいすることなんかないでしょうに。」

ショウコ先生は、スグルとシンヤの手当てをしながら、ずっと小言を言い続けていた。若さ故か、後先を考えないので、お互いの顔面にガンガン、パンチを入れている。僕もまだ、腫れてこそいないものの、アゴがジンジン痛んでしょうがなかった。それに、相手を殴り過ぎていたせいで、自分の手の甲も腫れ上がっている。

「人を殴ると、自分の心も傷つく」と言うが、実際には、人を殴って傷ついたのは、心なんかではなく、自分の拳だった。

「ったく、何でカノジョがいないオレが、他人のオンナのことで、殴られなきゃなんねえんだよ。」

痛む頬を押さえながら、僕とスグルに嫉妬でもしたのか(間違いない)、シンヤがぼやく。

「なあ、スグル、オレにも一人ぐらい、オンナ分けてくれよ。」

「わかった、わかった。お詫びに今度、マリコに友達を誘ってもらって、合コンでもしてるよ。」

「ちょっと、あなたは、一週間の停学でしょ。家からも出ちゃいけないのよ。」

完全に反省の色がないスグルとシンヤを、さすがのショウコ先生も、真顔で叱りつける。それでも、スグルはケロッとどころか、得意満面な顔をしたままだった。

 ケンカをしようが停学になろうが、既に、マリコをゲットしているのである。その証拠に、マリコは、熊男とその手下達が保健室にいる間は、教室で授業を受けて、放課後の二年生の時間帯に、スグルと一緒に保険室に来ている。

 今回の出来事で評判を落としたのは、嫉妬に狂って大暴れした熊男の方であり、スグルにとっての問題は、寧ろ、これだけの騒ぎになった以上、今まで付き合っていた他の女の子との関係を、きれいに清算せざるを得ないことだった。

包帯を巻き終えると、ミキは、黙ったまま窓の外を見つめ、突っ立っていた。ショウコ先生は、シンヤの消毒を終えると、

「あなたも自分のカノジョを大切になさい。」

と、僕の方に顔を向けた。

その時、僕は、「ハア」と曖昧な返事をしただけで、他人に対して、初めて二人の関係を否定しなかった。ミキは、黙って外を眺め続けていたが、表情から察するに、照れているのは、あからさまにわかった。僕は立ちあがると、ミキに「行こう」と促して、先生に礼を述べた。

シンヤとスグル、マリコは、

「じゃあな」

と言って、当然のように保健室に居座る。三人に、

「じゃあな」

と返して部屋を出て行くと、ミキは、黙ったまま小走りに、僕と一緒に保健室を出た。僕らは無言のまま教室に戻り、カバンを持って帰ろうとした。教室を出ようとミキがドアに手をかけたとき、学級委員長のイワサキが、

「あ、ホンダさん、打合せしよう。」

と、声をかけてきた。それまで無言だったミキは、イワサキの方へ振り返ると、

「あ、ごめん。今日は、リュウイチと帰る。」

と、無愛想に言っただけで、そのまま、ドアを開けて教室を出ていった。いつも、誰に対しても愛想の良いミキにしては珍しい態度で、イワサキは、少し呆気にとられていたようだった。僕は心の中で、「イワサキの奴、フラレたな」と思い、ちょっぴりと誇らしい気持ちになった。僕のミキに対する態度が、ハッキリし始めたことに呼応して、彼女も、態度をハッキリさせたのだろう。

 僕らは、校門を出ると、とりあえず、何か口に入れようとして、マックへと入った。ハンバーガーを頬張るアゴが、ジンジンと痛んで頭に響き、どうしても、いつもの倍以上の時間がかかってしまう。僕は、やっとの思いで全部を平らげたところで、ほとんど口を聞いてくれないミキに対し、恐る恐る口を開いてみた。

「いやあ、久しぶりに、人をぶん殴ったおかげで、スカッとしたよ!」

僕は、とりあえず、軽い口調で話しかけてみた。

「ふざけないでよ。歴史研究部の部室で、誰かがケンカしているって聞いた時、すごく心配したんだから!」

ミキは、ほとんど半泣き状態で、激しい口調で怒鳴り返してきた。

どうやら、本気で怒っているらしい。

「でもさ、目の前でスグルが殴られているのに、ほっとけるわけないじゃん。しかも、オレ達の部室でさ。」

僕は、今度はマジメな口調になって、彼女を宥めにかかった。

「私、スグル君って、あんまり好きじゃない。」

急に静かに、ミキがボソリとつぶやく。

「スグル君って、女の子をとっかえひっかえしてるって、結構、有名だよ。それにシンヤ君も、なんか、いつも合コン、合コンばっかり言っていて、バカっぽいし、女の子の間では、あんまり評判良くないよ・・・。

リュウイチも、あの二人と仲良くしているから、同類なんじゃないかって思われているみたいだし。もちろん、私は、リュウイチは違うって信じているけど・・・。」

「確かに・・・な・・・。」

核心をついた、ミキのセリフに、僕は思わず頷き、何も言い返せなかった。彼女の言う通り、スグルは、高校に入って既に4人の女の子と付き合っており、マリコで五人目だ。しかし、実際はそれだけではない。二股三股経験アリ、ワンナイトラブ経験多数、僕が、知っているだけでも、計八人の女性経験がある。

 本人は、三十才までに千人斬りを目指すと公言しており、脳味噌の中はセックス一色に染められている。サッカー部を辞めたのも、部活で時間を拘束されてしまう上に、私生活まで、顧問の先生に口出しされるのが嫌だったからだ。不特定多数の女の子達から黄色い声援を受けるより、ルックスと口先で勝負した方が、より多くの女の子たちと遊べるとの賢明な(?)判断だ。

 その一方で、シンヤは、いまだ、女性経験が全くなく、恋愛に憧れるタイプだ。女性の体に触れた経験も、キスの経験もなく、Hをしてみたいのはもちろんのこと、カノジョができてデートをしたり、イチャイチャしたくて仕方がないようだ。

 彼等とは、中学一年生の時、同じクラスになってから、既に、五年近い付き合いになるが、僕には、いまだに二人の気持ちが理解できなかった。

 僕にとって恋愛とは、本気で好きになった女性を、心から愛し続けることだと思っている。たとえ、その相手が、僕の愛情を全く受け入れてくれなかったとしても、だ。その意味では、僕は、根本的にロマンチストなのだろう。

 だが、スグルは、このオンナとHをしたいと思ったら、それが、恋愛だと思っているし、シンヤは、とりあえず、カノジョさえできてしまえば、気持ちは後からついてくるものだと思っている(スグルの影響は大きいだろう)。

 僕の恋愛感から見れば、どちらも、本当の意味での恋愛とは違うのではないかと思う。しかし、実際には、スグルやシンヤのようなな考え方をしている男子は、たくさんいる。いや、僕の恋愛に対する、ゲーテ・シェイクスピア系の古典的な考え方のほうが、今どきの若者の中では少数派なのかもしれない。

しかし、人の考え方はそれぞれ、三者三様の恋愛感があってもいいではないか、友情とは関係ない、と僕は思う。

「人の頭の数だけ考え方があるように、心の数だけ、愛情の形があってもいいんじゃないかしら。」

トルストイの『アンナ・カレーニナ』に出てくる、僕の大好きなセリフだ。

そう、僕にとって、二人は友達だった。今日改めて、そのことを確認することができた。たとえ、恋愛感が違っていても、たとえ、夢や理想を語り合えなくても、二人は僕にとって友達だった。一緒につるんで、バカやって大笑いして、じゃれあうようにケンカする。

 孤独を感じることがあったとしても、一人きりでいるよりは、ずっと心地良かった。僕が、どれほど人と違っていても、僕が、どんな妄想を抱いていても、常にたった一人ではいられないのだ。浮かんでは消えてゆく、顔の無い友人達の中で、彼等二人だけが、僕の心に刻まれつつあったのだ。

「ねえ、ミキは、カレシ欲しい?」

僕は、唐突に、しかし、当たり前のことを聞くかのように穏やかに、ミキに尋ねた。

「どうして?えっ?なんで?」

「いや、なんとなくさ・・・」

ミキは、明らかに狼狽して、頬を微かに赤く染めながら、返答に窮している。

「今の世の中ってさ、オレらぐらいの年だと、カレシ・カノジョがいることが、当たり前って感じじゃん。スグルみたいに、数をこなすことがカッコイイって思われてるし、プレイボーイって、大抵の男子にとっては、誉め言葉なんだよ。それに、恋人がいない連中は、単にモテないから恋人ができないだけと決め付けられて、コンプレックスを感じさせられている。

でもさ、オレは、そんなことで、コンプレックスなんか感じたくないんだよ。確かに、恋人は欲しいと思うし、クラスの連中は、オレ達が付き合っていると思ってるだろう。でも、正直、オレは、まだ、自分の本当の気持ちがよくわからないんだ。

ミキのことは確かに好きだけど、これが、本当の意味での愛なのか、オレにはわからない。そもそも、世間で言われている、『付き合う』なる言葉が、どういうことなのか、どんな意味があるのかが、よくわからないんだよ。

だから、しばらくはこのままでいたい。今のままがいい。『101回目のプロポーズ』に出てくる、『五十年後の君を、今と変わらず愛している』ってセリフを、確信を持って言えるようになったら、その時、オレと付き合ってくれないか。」

 僕は、唐突に、しかし、極めて冷静に、今まで抱き続けた気持ちの全てを、真っ直ぐにミキにぶつけた。彼女はうつむいたまま、ジッと何かを考え込んでいるようだった。そして、一分ぐらいそのままだったろうか。

「私は、リュウイチのこと好きよ。」

ミキは、意を決したように顔を上げると、まっすぐに僕の目を見つめ、そう言い放った。

「私は、カレシが欲しいから、リュウイチのことが好きなんじゃない。リュウイチが好きだから、カレシになって欲しいと思う。リュウイチがカレシになってくれなくても、私はリュウイチのことが好き。だから、リュウイチが、本当に私のことを好きだって、心の底から思ってくれるようになるまで、私はずっとそばにいたい。」

そう言った彼女の態度は、実に毅然として、輝いて見えた。そして、少し間を置くと、照れたように笑いを浮かべて、付け加えた。

「それに、リュウイチの、そういう何事も真剣に考えるところが好きなの。」

この瞬間、僕の中で、「僕はミキを愛している」という気持ちが、今までになく、強く感じられた。僕は、彼女を狂おしいほど愛しく感じ、彼女の手を握りしめた。ミキは、今度は目を逸らすことなく、もう片方の手で、僕の手を優しく包み込む。

 今はただ、幸せだった。それだけでよかった。でも、何故だろう。これほどまでにミキに愛情を感じながらも、これこそが、本当の愛だという確信を、僕は、どうしても抱くことができなかった。

その原因を、僕は、自分自身でわかっていた。そう、僕の心の中に、今でも現実に存在するのか信じることさえできない、しかし、決して心から離れることのない存在、レミがいるからだった。

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