第二章
その日は、地球の自転が遅くなったかのように、不思議なほど、ゆっくりと時間が流れた。学校でミキと顔を合わせたとき、二人は、どこと無くぎこちなかった。お互いの心の中に、昨日の二人の心の距離間に対する、照れくささと、疑心があったのだろう。
しかし、僕は、周囲のクラスメイトに気づかれぬよう、努めて平静を装っていた。同様にミキも平静を装う努力をしているのが、僕の心に響いてきた。
もしかすると、互いに相手を意識をし過ぎて、寧ろ、普段よりも、親密に過ぎたのかもしれない。ミキとのどことなく甘い雰囲気に、少しだけ陶酔を感じながらも、その日の僕の心を支配していたのは、本当は、ミキではなく、今宵の約束への憧れだった。
一昨夜にめぐりあい、言葉を交わした、あの名前も知らない、美しき夜の女神との再会。彼女が、あの約束を覚えているのか、本当に来てくれるかどうかもわからない。いや、もしかすると、あれは夢だったのかもしれないと、今でも思う。
しかし、あの夜の出来事が、夢ではなく現実であったことは、今、僕の上着のポケットに収まっている、ハンカチが証明してくれている。僕の手の平の血で、真っ赤に染まったハンカチは、今では、再び、純白のシルクに生まれ変わっていた。昨日、家に帰るとすぐに、母親にも頼まず、僕自身の手で、家にあった、ありとあらゆる洗剤を使って、洗い上げた成果だ。
ミキに対して、淡い恋心を抱いた直後だっただけに、ミキのことを愛しく思いながらも、他の女性に対して、激しく魅かれている自分の気持ちを、僕は自分自身、疑わずにはいられなかった。僕は、ミキのことが好きなんじゃないのか・・・。なぜ、ミキのことを想いながらも、こんなにも強く、あの名も知らぬ、夜の女神に魅かれてしまうのか。
僕は、今宵のイベントに胸躍らせながら、一日中、妄想の世界に浸っていた。あの人が来たら、なんて声をかけよう。どんな風に会話を切り出せば、彼女について、もっと深く知ることができるだろうか。僕という存在を、相手の心に刻み付けることができるのだろうか。いや、そもそも、あの人は、本当に約束の場所に来てくれるのだろうか。
当然、授業などは、全く耳に入らなかった。アフロディーテもかくやと思うほどの、美しき女神との、映画のようなロマンスを妄想する自分、そして、ミキに話しかけられる度に、どことなく甘い気持ちを感じ、このまま、ミキと付き合ってしまおうかと考える自分。二人の自分が、一日中、僕の心の中に並存して、僕は、自分で自分自身の心を理解できなくなっていた。誰かを愛するということは、たった一人を愛するということではないのだろうか。僕もスグルと同じなのだろうか・・・。モテることを、ただ、性欲を満たすことを望んでいるだけなのだろうか・・・。
どれほど緩やかであろうとも、時間は、刻一刻と確実に流れていく。五十数億年先、あの太陽が、宇宙から消えて亡くなる日まで、朝日は昇り、夕陽は沈む。そして、今日も世界は変わることなく、ひたすら待ち焦がれた、太陽亡き世界が、遂に訪れた。
PM8:30。僕は、目前に迫った女神との邂逅に、明らかに浮き足立っていた。既に母親には、ちょっとシンヤの家に行って勉強してくると断っており(明らかにウソをついた)、外出するための準備は万全に整っていた。
出かける直前、誰も見ていない、つけっぱなしのままのテレビには、NHKのニュースが流れ、流暢に話す男性アナウンサーが、行方不明者の話をしていた。
普段なら、気にも留めずに聞き流す内容であるが、アナウンサーが読み上げる原稿の中に、僕の暮らす街の名が入っていたため、意識の中に突然、飛び込んできたのだ(心理学では、これを、カクテル・パーティー現象と呼ぶらしい)。
どうやら、僕らの暮らす、この街の二十代の男性が、一昨日の夜に会社を出たまま、家にも会社にも戻らずに、行方不明になっているらしい。こんな小さな地方都市の行方不明事件が、全国区のニュースに取り上げられることなど、記憶する限り、皆無に等しい。
ニュースによれば、二年程前から、若い男性の行方不明者が、全国的に急増し、地方都市を含む、合計で九つの都市で、二~三名ずつの男性が行方不明になっていた。といっても、地方都市だからこそ、行方不明者が判明するわけで、東京・名古屋・大阪などの大都市圏では、事件になっていない行方不明者が存在する可能性はある。
警察は、二年前から、同一犯の可能性も視野に入れて捜索を続けているが、彼等の死体すら発見できない状態であった。一部、行方不明者の衣服が発見されたそうだが、血痕もついておらず、捜査は完全に迷宮入りしているらしい。僕らの暮らす街でも、老人が行方不明になることは多いが、今回は、若い男性であったため、何かの事件に巻き込まれた可能性があると、アナウンサーが推理していた。
日本の行方不明者は、警察への届出が正式に受理された数だけで、年間十万人にのぼると言われる。警察に届出が出されていない、もしくは受理されなかった数を含めれば、軽く年間二十万人を超えるのではないだろうか。そして、その内の九割が無事に発見されているが、逆に言えば、年間一万人以上が、行方不明のまま見つからないのである。
その多くは、おそらく、殺害された後、死体は、誰にも見つからないまま、埋められているのであろう。人を殺しても、誰にも気付かれずに山の中に埋めてしまえば、余程の偶然が重ならない限り、発見されることは稀である。
また、人を殺しても、死体が見つからなければ、殺人を立証することはできない。今回の行方不明者も、きっと、殺害されて山の中にでも埋められている可能性が高い。サスペンスドラマなどで、山中から白骨化した死体が発見されることなど、行方不明者全体の数から考えれば、ごく一部である。
この辺りの山中と言えば、今から僕が向かう、女神との邂逅の場の近くであった。もしかすると、あの場所の近くに、死体が埋められているのだろうか?ふと、頭の中を、そんな思いが横切った。しかし、行方不明者は、同じ市内の住所ではあったが、名前を聞いたこともない人だったので、それ以上は、関心を持つことはなかった。
僕の母親は、元来、心配性過ぎてうるさいぐらいだが、さすがに、テレビのニュースに流れている行方不明事件に、自分の息子が直接関わりを持つことになることなど、夢にも思わなかっただろう。それは、僕も同じだった。家を出る頃には、行方不明事件のことなど、僕の頭から完全に消え去っていた。
「あんたも気をつけなさいよ。」
という、母親のセリフを軽く背中に受け流し、期待と不安に胸を膨らませて玄関を出ると、約束の場所へ向かって、軽快に自転車を漕いだ。
PM9:00。僕は、あの光と闇の狭間の世界で、たった一人、女神の降臨を待ち焦がれていた。あの日、家に帰り着いたのは、九時半過ぎだったから、このくらいの時間から待っていれば、きっと間に合うだろう。僕は、昨日から、絶対に彼女より先に到着していようと心に決めていた。
もし、彼女が先に来て、この場に誰もいなかったら、きっと、彼女はすぐに帰ってしまうだろうと心配したからだ。だが、彼女が本当に来てくれるかどうかはわからない。この時間にこの場所で、という、極めて曖昧な約束をしただけだ。
僕は、彼女が来るまで、何時間でも待ち続けるつもりだった。そして、タバコに火をつけて、冷たい空気を肺に深く吸い込むと、眼下に広がる宝石の海をぼんやりと眺め、再会の瞬間を夢見て、妄想に浸った。
三十分ぐらいが過ぎただろうか。突然、
「ゴメンね。ホントにいたのね。」
という声が、僕の耳元で響いた。驚いて振り向く僕の眼前に、既に、アフロディーテは、泡の中より誕生していた。あの最初の夜の出会いと同じように、足音も立てず、何の気配も感じさせずに。彼女こそ、月から降りてきた本物の女神かもしれないと、驚いたままで、しばらく声も出せずにいると、
「どのくらいここで待ってたの?」
と、彼女の方から声をかけてきた。
「あ、いや、たいしたことないです。」
僕は、しどろもどろになりながら、お決まりのセリフを言うと、何を話そうかと、真剣に頭の中のデータをアウトプットしようとした。
が、いろんなセリフが頭の中をグルグルと駆け巡るが、脳と口の間に障壁がで出来たかのように、言葉が口から流れ出ない。
「そう言えば、自己紹介もまだったわね。あなたの名前は?」
緊張して言葉が出ない僕に代わって、彼女が会話をリードし始めた。僕は、「あ、それそれ!」と心の中で思いながら、ちょっぴり自分が情けなくなってしまった。
「あ、マツシタリュウイチって言います。」
「私は、レミよ。」
彼女が名乗りながら、いかにも「よろしく」と言った感じで微笑むと、僕はその美しさにクラクラと酔わされ、ますます何も考えられなくなってしまった。
「トシはいくつなの?」
「あ、十七歳です。」
「そう、こんな時間に出かけて、家の方は大丈夫なの?」
「ええ、友達の家に勉強しに行くって言って出てきましたから・・・。」
まるで、小学校の先生のような、あやすような彼女の質問で、会話が続いてゆく。彼女にリードされていることに、多少の心地よさを感じながらも、
「やばい、男らしく何とかしないと」
と、僕は焦って、何とかイニシアチブを取ろうと、会話の合間を縫って、質問を切り返した。
「レミさんは、おいくつぐらいなんですか?」
他に話題が思い浮かばなかったことと、見た目からは、全く予想ができない彼女の年齢への好奇心から、女性に年齢を尋ねることが失礼だとわかっていながらも、おそるおそる質問を発してみた。
「そうね、いくつぐらいに見える?」
せっかく会話の主導権を握ったと思ったのに、再び奪い返されるかのように、逆に質問を切り返されてしまった。
「いや、二十代前半ぐらいかな、ぐらいしかわからないです。」
「フフフ、嬉しいこと言ってくれるわね。私は、あなたが想像できないくらい、もっともっとオバサンなのよ。」
彼女は、笑って曖昧な返事をしたまま、それ以上、年齢について口にしようとしなかった。僕は、これ以上追及して相手の気分を害するのを恐れて、
「家はこの辺なんですか?」
と、自分から話題を切り替えた。
「私ね、今、観光でこの辺に来ているの。」
彼女は答えながら、崖下に広がる、まばゆいばかりの光の波を、遠い目で眺めた。
「ここの夜景って、本当に綺麗ね。」
「ええ、僕も大好きで、よく、ぼーっとしにくるんですよ。」
返事をしながら僕も、街の灯が織り成す真珠の絵画紋様に、再び心を奪われそうになった。僕はここの夜景と、そして、頭上に広がる星々の光がとても好きだった。憂鬱な気分になった時、僕は、必ずここに立って、闇夜にキラめく光の海を眺める。
その時、僕の心からは学校も友達も現実も夢も、そして、自分自身でさえも消え失せる。眼前に広がる光景を見つめ、ただ、ひたすらに、美しいと感じるだけだ。この眺めこそ、まばゆいばかりに輝く、この宝石の大海こそ、神がこの世に生み出した、最高の芸術作品だと、僕はずっと信じていた。
しかし・・・と、チラッと横目で、彼女を見ながら思う。今、僕の隣に立っているこの女性こそ、神がこの世で最も愛し、最も入念に彫り上げた、美の極点に違いないと。彼女を、そして、その深い深い紫の瞳をジッと見つめていると、今まで心から美しいと思っていたこの場所の景色さえ、まるで目に映らなくなってしまう。
その神秘的な色を湛える紫の瞳には、本当に光の海が映っているのか、それとも、他人には見えない、遥か彼方の世界が映っているのか、僕にはわからなかった。
僕は、ぼんやりと夜景を眺め続ける彼女の姿を、同じようにぼんやりと、何も考えずに眺め続けた。その瞬間、僕は、今、彼女を見つめながら死ぬことができたならば、きっと、最高に幸せなのかもしれない、とさえ思った。美しいもの、愛するものを眺めながら死んでゆく。それは、人間にとって、最も理想的な死に方なのかもしれない。
どのくらい、そうして彼女を見つめていたのだろうか。
「どうしたの?」
という彼女の声で、我に帰ると、
「あ、いえ、綺麗だな、と思って。」
という言葉が、思わず口をついて出てきてしまった。
「そうね、ここの夜景って、ほんと好きよ。」
「ちがう!オレが綺麗と言ったのは、あなたのことだ!」
心の中で叫びながらも、僕には、そのセリフを口に出す勇気がなかった。だが、僕のお気に入りのこの場所の眺めを、彼女も同じように好きだと言ってくれたことは、とても嬉しく感じられた。
「レミさんは、生まれはどちらなんですか?」
僕は、何の会話をしていたのかを思い出して、話を引き戻した。その瞬間、彼女が少し躊躇したように感じられた。そして、間を置いて、
「ヨーロッパよ。」
と答えると、僕は思わず、
「えっ!」
と驚きの声を上げてしまった。
確かに、日本人離れした顔立ちをしているとは思っていたが、まさか本当に外人サンだとは、予想していなかったからだ。言われてみれば、紫色の瞳をした日本人など、いるはずもないのだが。
大和撫子に相応しい、と言っても過言ではない、長い黒髪に、何の違和感も感じさせない、流暢な日本語。その紫の瞳と、氷のように白い、透き通る肌を除けば、日本人であってもおかしくない。否、寧ろ、世界中のどの国の人と言われても、思わず、納得してしまうような気がした。
「日本語、すごく上手なんですね。完全に、日本人だと思ってました。」
「ありがとう。日本には、何度も来ているからかしらね。」
「日本が好きなんですか?」
「そうね。好きよ。いい国だわ。食べ物はおいしいし。富士山は綺麗だし。でも、日本だけじゃなく、世界中を旅してまわっているの。」
僕は、世界を股に駆けて旅する美女が、日本と富士山を褒めてくれたことを、なんとなく誇らしく感じて、やっぱり、自分は日本人なんだな、と改めて認識した。平凡な日常生活の中では、オリンピックで日本の選手を応援する時ぐらいしか、日本人であることを意識することなどは、ほとんどない。
そして、先程、彼女が躊躇したことに気づきながらも、僕は、好奇心を抑えきれずに、
「ヨーロッパのどの辺なんですか?」
と尋ねた。彼女は、静かに目を伏せて、わずかに間を置いたあと、
「ルーマニアよ。」
と、一言だけ答えた。
答える時に彼女が顔を曇らせたのが見てとれたので、僕は悪いことを聞いたかな、と少し心配になって、
「ユーゴスラヴィアの隣ですね。」
とだけ言って、話を打ち切ろうとした。しかし、今度は、彼女の方から話を続けてきた。
「でも、あの国を離れてから、もうずいぶんとたつわ。」
「ユーゴスラヴィアの内戦が始まった頃には、まだいたんですか?」
僕は、昨日、本屋で読んだばかりのニューズウィークの記事を思い出し、悲劇の隣人であった彼女に、美しさとは別の何かを感じた。
「いえ、ルーマニアに革命が起こる前に、既にあの国を出ていたわ。」
「じゃあ、チャウシェスクの共産主義政権が倒された後の、民主化されたルーマニアには、まだ、帰っていないんですね。」
インテリであることを、彼女に知って欲しかったのだろうか。それとも、本当の僕を理解してくれるかもしれないと、直感的に感じたのだろうか。僕は、なんとなく話がかみ合わないことがわかっていながらも、強引に、政治の知識をひけらかそうとした。それは、僕自身が、最も得意に思う瞬間であり、最も自己嫌悪する瞬間でもある。
「そうね、もう十年以上、ヨーロッパには戻ってないわ。」
「東ヨーロッパは、あちこちで内戦が起こって、危険ですもんね。」
「リュウイチ君、結構、東ヨーロッパのことに詳しいのね。」
「ええ、国際政治に興味があるんで。」
「まだ、高校生なのに、珍しいわね。」
強引な展開ながら、僕は、彼女が自分の得意な話題に乗ってくれたことに喜びを感じると同時に、彼女に対して、違った意味でも、ますます関心を覚えた。
彼女は、東欧の話をしつこく聞きだそうとする僕の熱意に、少し驚いたようだった。彼女は自分が生まれた東欧のことを、そして今まで旅し、見てきた様々な国々のことを語ってくれた。実際、彼女は驚くほど色々な国を旅行しているらしい。
ヨーロッパ、ロシア、アメリカ、そして、中国にまで話は及んだ。今回、日本に来たのは一年ほど前で、その間に日本の各地を旅して、日本人である僕以上に、日本について詳しく知っているようだった。
頭の中で、激しく計算を重ねながら、僕は、彼女に対して、新たな疑問を抱いた。目の前にいる女性は、どう見ても二十代に見える。先程、年齢を尋ねた時には、自分のことをオバサンだと言っていたが・・・。いったい、彼女は何歳なのだろう?
「でも、どうして、国際情勢にそんなに興味をもつようになったの?」
僕が、歴史や国際政治の本を読むのが好きだと聞いた時、誰もが口にする、ごくありふれた質問だった。そして、僕はいつも決まって、「いやあ、なんとなく面白いなと思って」と答えるだけだ。僕の夢や理想を語ったところで、荒唐無稽な幻想を抱いている、妄想家と思われるのがオチだったからだ。
しかし、その夜は、何かが違った。彼女の深みを湛えた紫の瞳に見据えられ、問われた時、僕の心の中で、何かが弾け飛んだような気がした。今まで、両親にも友達にも、あらゆる他人に対して築いていた壁が、音を立てて崩れたのかもしれない。
そして、僕は語り始めた。自分の夢を、理想を、世界と人間の現状に対する、言い知れぬ憤りを。外交官になって、世界中に同志のネットワークを築き、同志と共に、主要国の政権を支配して、いずれは、世界国家を実現することを。人類の未来から、永遠に戦争の歴史を根絶することを。
もし、近くで、誰かが僕の話をきいていたなら、きっと、僕のことを誇大妄想狂人だと、大笑いしたに違いない。しかし、彼女は何も言わなかった。何も言わず、柔らかな眼差しを僕に向けながら、ただ、静かに、僕の話を聞いていただけだった。
僕は、夢中で話した。今まで、誰かに話したくても話せなかった思いのすべてを、彼女にぶつけるかのように、憑かれたように話しを続けた。
不思議な気分だった。今まで、両親や先生はもちろん、友人のシンヤやスグル、そして、僕の最大の理解者であるミキにさえも、自分の夢を、語ったことなどなかった。
他人に、将来の夢を聞かれた時には、ただ、「外交官になって、世界を舞台に活躍したい」と話しているだけだ。誰にも自分の夢を話せなかったことが、常に、僕の心に、孤独感を与え続けていた。
その夢を、僕は今日、遂に、他人に話したのだ。それも、まだ出会ったばかりの、ほとんど何者かさえわからない、外国人の女性に。寧ろ、僕の生きている狭い世界に存在しない、異邦人であったからこそ、何もかも話せたのかもしれない。
すべてを語り終えて、余韻に浸る僕に、彼女は、
「素敵な夢ね。」
と微笑んでくれただけだった。僕は、それだけで満足だった。
互いに、別れの時間が来たのを感じ始めていたのかもしれない。時計を見ると、既に、23時を回っている。
「そろそろ帰らないとね。」
と、彼女が言った瞬間、僕は、今、彼女と別れるということは、もう二度と会えないのだという事実に気がついた。そんなのは絶対にイヤだ。
この幻想的なまでに甘い雰囲気を、陶酔を、永遠に手放してしまうことなど、とても我慢できない。僕はあらん限りの勇気を振り絞って、
「また、今度、会ってもらえませんか?」
というセリフを口にすることができた。
「いや、レミさんと話していると、すごく気分が落ち着くんで・・・。」
「そう、ありがと。そうね。」
彼女はちょっと考え込むと、ハンドバックからメモとペンを取り出して、サラサラッと十桁の数字を羅列した。
「これ、私が、宿泊している、ホテルの電話番号。203号室に直通になっているから。しばらくの間は、ここに泊まっているわ。」
そう言って、僕にメモを手渡してくれた。
「じゃあ、また連絡してね。」
彼女は、ニッコリと微笑んで小さく手をふると、僕に背を向けて歩き出した。最初の別れの時と同じように、漆黒の闇の中へ、音も立てず、一度も振り返ることもなく。
やったぁ!僕は叫びたいほどに有頂天になって、思わず飛び上がった。ついに、僕はパスポートを手に入れたのだ。彼女に会いたい時に、いつでも連絡を取ることができる、電話番号という名のパスポートを。
僕は、あまりの嬉しさに、ニタニタと笑いながら家に帰ると、すぐに布団へと滑り込んで、体を温めた。そして、その時、僕はようやっと気が着いた。今日の肝心な用件であった、ハンカチを返すのを忘れていたことに。




