序章
序章
運命とは不思議なものだ。たった一本の木が、地球を救うことになるかもしれないし、小さな蝶の羽ばたきが、人類を滅ぼすことになるかもしれない。
そして、僕の運命を、光の溢れる太陽の世界から切り離し、永遠の闇の世界へと導いたのは、たった一つの石ころだった・・・。
それは、十月も半ばを過ぎた、ある秋の夜のことだった。僕は、人の気配の無い、アスファルトの道路を、軽快に自転車を走らせて、ひたすら帰路を急いでいた。
街灯がわずかしかない、薄暗い、緩やかに蛇行する下り坂が続く。自転車で走る僕の右手には、鬱蒼とした木々の生い茂った林が聳え立ち、視界の全てを遮る漆黒のカーテンが、不気味な、恐ろしいほどの沈黙を、周囲の空間に強制している。
対照的に、左手の崖下には、山の麓を照らし、海へと続く街の灯が、夜空に無造作にバラまかれた、宝石の様な輝きを放っていた。林を包む漆黒の闇と、眼下に広がる人口の光が、絶妙なコントラストを形成する。その光と闇の狭間の道を通るたびに、僕は、この世の表と裏を同時に眺めるような、不思議な感覚に陥った。
静寂の続く暗闇の中、秋に特有の澄んだ、冷たい空気が、学生服を通して体へと伝わる。ついさっきまで、スグルの家でビールを飲んでいたせいだろうか。少し赤く火照った頬を、柔らかく撫でる夜風が、とても心地良く感じられた。
ほろ酔いで、ちょっぴりといい気分に浸りながら、真っ黒なキャンバスに描かれた光の絵画を見つめ、僕は、思わず自分の世界に入り込んでいた。
突然、ガクン、という衝撃と共に体が宙に浮かび上がり、右の手の平に激痛が走った。一瞬、僕の思考は停止して、何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
カラカラカラカラ、と自転車の車輪が空しく廻る音だけが、僕の耳に届いてくる。その音で我に返ると、僕は、自分が、地面にうつ伏せになっていることに気がついた。すぐ近くには、僕の愛車が、地面に投げ出されたように、無残に横たわっている。
何のことはない、転んだのだ。
自分に対してか、僕を転ばせた神に対してか、やり場のないムカつきを感じながらも、立ち上がろうとした時、僕は、右の手の平から、血が溢れているのに気づいた。転んだ時に、咄嗟に手をついてしまったのだろう。
不思議なことに、その傷を見た途端、痛みは更に激しくなって、ジンジン、と頭の中にまで響いてくるようだった。
その時だった。突然、
「だいじょうぶ?」
という声が、天空の国から、僕の脳裏に直接降り注いだ。少なくとも、僕には、そう感じられるほどに美しい声だった。あまりの驚きに、僕の心臓は、数秒の間、完全に凍りついてしまった。今、この瞬間まで、周囲に人の気配は、全く無かったのだ。
いかに転倒して、頭が混乱していたとはいえ、見晴らしの良い直線の坂道で、誰かがすぐそばに来るまで、気がつかないはずはない。僕は、おそるおそる、やっとの思いで顔を上げると、声の主を見上げた。
同時に、凍りついていた僕の心臓は、一瞬にして溶解し、今度は、そのまま液体になってしまうのではないかと思われるほど、体温が急激に上昇した。
僕の目の前に立っていたのは、美の女神だった。陳腐な表現だが、それ以外に、形容することができない。氷のように、透き通りそうなほどに白い白い肌の上に、血で染め上げられたような、鮮やかな紅の唇が浮かんでいる。長い黒髪は腰まで届き、その折れてしまいそうなほど細い体には、黒のロングスカートのワンピースを纏っていた。肩には、同様に黒のショールを巻いている。僕が、ミロのヴィーナスの製作者だったら、間違いなく、今、目の前にいる女性をモデルにしていただろう。
しかし、僕が、何よりも魅せられたのは、彼女のその紫の瞳だった。淡く、そして、せつないほどの深みを湛えた、深海の奥底を見つ続けるような、珠玉の紫色の瞳。この世の富の全てをかき集めたとしても、これほどの美しさをもつ宝石を手に入れることは、決してできまい。その紫の瞳の輝きが、色そのものがもつ力なのか、それとも彼女の心を映し出す光なのか、僕には、区別ができなかった。
ただ、不思議なことに、その瞳の奥に潜む、彼女の孤独と深い悲しみの重さだけは、痛いほどに伝わってきた。めぐりあった、その瞬間にも関わらず。
魂を奪われたように、呆然と彼女を見つめる僕に対し、彼女は再び、
「だいじょうぶ?」
と、再び問いかけてきた。その声で、僕は、ハッと我に返り、
「だ、だいじょうぶです。」
と答えながらも、僕の頭に真っ先に浮かんだのは、彼女を見つめている間、自分が、間抜けな顔をしていなかったか、ということだった。
あまりの恥ずかしさに、自分自身で、顔が真っ赤になるのを感じながら、僕は、思わず視線を逸らして、右手の傷を眺めるふりをした。しかし、既に真っ白になっていた視界には、手の傷など映りはしない。
僕の心の中では、彼女をもう一度だけ見つめたいという願望と、初対面の人に見とれてはいけないという羞恥心とが、ハルマゲドンの様な激しい戦いを繰り広げている。最早、傷の痛みなど、どこかへ吹っ飛んでしまった。
そんな僕の視線の先に気づいたのか、
「血が出ているじゃない。」
と、彼女は、僕の右手を軽く手にとった。彼女の白く、冷たい肌の感触が、僕の心臓を突き破って、魂を震撼させる。彼女は、ワンピースのポケットからハンカチを取り出すと、優しく傷口に巻いてくれた。
真っ白いハンカチが、僕の血によって、あっという間に真紅に染まってゆく。
「すいません、すいません、だいじょうぶです。」
僕は意味もなく、何度もあやまりながら、ひたすら彼女に頭を下げ続けた。他に、まるで言葉が思いつかなかった。今まで、何十本もの恋愛映画やドラマを観て、自分に運命の出会いが訪れたら、こういうリアクションをとろうと、何度も妄想したことはある。
しかし、いざ、その瞬間にめぐりあわせてみると、妄想の世界で語られる愛のセリフなどは、完全に頭から消え失せてしまうものだ。
「どうも本当にすみません。」
何度目かの首の上下運動の後、再び紫の瞳と向き合うと、彼女はニコッと微笑んで、そのまま歩き出した。
「あ、あの。」
咄嗟に放った僕の声に、彼女は、足を止めて振り向いてくれた。漆黒の女神に対して、次に放ったセリフは、間違いなく、僕の大脳の命令によるものではなかった。
『モウイチド、アエマセンカ。』
セリフが口からこぼれた瞬間、僕は、自分自身で、自分の言葉に驚いた。こんな勇気が、自分にあるとは思ってもみなかった。人生最高のセリフを口にした自分自身に、感謝と恥じらいを感じながら、僕は、慌てて言い訳を口にした。
「あ、あの、このハンカチ、返さないといけないから。」
まあまあの出来だな、とちょっぴり自分を褒めながら、紫の瞳に視線を合わせると、彼女はニコリと微笑んで、
「じゃあ、明後日のこの時間、この場所で。」
とだけ言い残して、再び僕に背を向けた。僕はその場に突っ立ったまま、立ち去る彼女の後ろ姿を呆然と見つめ続けていた。もう一度、あの微笑みを見たいと願ったが、彼女はもう、振り返らなかった。
やがて、女神の姿が、薄暗闇の中に霞んでくると、僕は、帰らなくちゃ、と自分自身に言い聞かせて、自転車を起そうとした。と、その時、自転車の車輪の下に、こぶしぐらいの大きさの石が、転がっているのに気づいた。
おそらく、この石に前輪が乗り上げて、自転車のバランスが崩れたのだろう。
僕は、その石ころを拾い上げると、心の中で、思い切り叫んだ。
『やったぜ、おまえのおかげだ!』




