第八章
宇宙は、『無』から誕生した。しかし、人間は、『絶対無』を認識できない。我々の生きる世界は、空間・時間・物質で成立している。物質が『無』い、という状態を想像することは容易であろう。何も無い空間、つまり、『真空』を想像すれば良い。『真空』とは、物理学的には、原子が一つも存在しない空間のことである。
では、時間が存在しない状態は想像可能だろうか?時間とは、物質が存在し、変化することで初めて、その存在が認識される、相対的な尺度である。しかし、我々自身が、物質であり、刻一刻と変化する存在であるため、己自身が存在する以上、確実に時間は存在する。ただし、物質の無い、そして、変化の無い空間を想像すれば、それは、時間が存在しない状態を認識したと言えるかもしれない。
しかし、空間は違う。空間が存在しない状態を、想像可能な人はいるだろうか?通常、我々が思い描く『無』の状態は、何も無い空間である。その空間さえも『無』い状態、即ち、絶対無とはいかなる状態なのか、我々は、想像さえもできないのである。
我々の認識によれば、この宇宙は、確実に存在している。つまり、『有』であって『無』ではない。しかし、『有』である以上、必ず、始まりがあったはずである。では、その始まりよりも前、即ち、宇宙誕生以前は、『無』であったのであろうか?
我々が認識できる『無』とは、何も無い空間が限界である。空間さえ存在しない無、絶対無は、理論上は有り得るのかもしれない。しかし、少なくとも、人間には認識できないのである。故に、絶対無を想像することは、無意味と断じる他はない。
では、何も無い空間、原子が一つも存在しない『真空』には、本当に何も『無』いのであろうか?実は、量子力学によれば、真空には、『真空期待値』と呼ばれる不確実性、即ち、『揺らぎ』が満ちている。その揺らぎに満ちた真空では、物質(素粒子)と反物質(反素粒子)が対生成し、生成した物質と反物質は、衝突し合って消滅する。即ち、真空の揺らぎの中では、対生成と対消滅が繰り返されているのである。
『真空』とは、原子が一つも存在しない空間のことである。しかし、量子力学的意味における真空は、『空っぽ』の空間ではない。確率的には、常に、物質誕生の可能性に満ちた空間なのである。
我々の生きる宇宙が、膨張を続けていることは、ビッグバン理論が遍く信じられている現在では、誰もが知っているであろう。宇宙が膨張しているということは、時間を逆行すれば、宇宙は収縮してゆくことになる。収縮の先、宇宙誕生の瞬間は、人間の認識能力を遥かに超える、極微の存在に辿り着くことになる。
その極微の存在は、あらゆる物理法則が無効化される(故に物理学者が嫌う)になる、密度・重力無限大の特異点なのかもしれない。そして、それこそが、真空の『揺らぎ』の中で、対生成と対消滅を繰り返した果てに、消滅せずに生き残った、宇宙の『SEED』とも呼ぶべき存在なのである。
ギリシア神話の創世記を描いた、ヘシオドスの『神統記』では、世界の始まりに存在したのは、カオス(混沌)であったと言われている。量子力学など知る由も無い、紀元前七世紀の人物、ヘシオドスが、『真空』のエネルギー=カオス(混沌)から、世界の全てが生まれたと想像したことは、恐るべき慧眼と言わねばなるまい。
現在から時空を遡ること、約137億年前、無の『揺らぎ』の中から、宇宙は誕生した。『無からの宇宙創生』を提唱する、ウクライナ出身のアレキサンダー・ビレンケンによれば、宇宙は、『無』の揺らぎの中から、唐突に誕生した。
現在の物理学では、宇宙の始まりを、真の意味で知ることはできない。観測による実証は不可能なため、数学上の理論的仮説の検証と、最後は、哲学の問題にならざるを得ない。
宇宙の誕生の瞬間は、おそらく、『存在』と『非存在』の狭間、真空の揺らぎの中で、超高密度の「真空のエネルギー」が生まれたと推測される。その大きさは、推定10×-34cm程度で、陽子・中性子などより、遥かに小さい。そして、その全エネルギー量は、誕生後137億年を経た現在の宇宙の全物質のエネルギー量と比較すると、無に等しい。
超高密度の真空のエネルギーは、誕生直後の10×-36乗秒~10×-34乗秒の間に、指数関数的膨張を遂げた。その膨張率は、10×43乗という、凡そ、想像し難い数字である。例えば、仮に、宇宙のSEEDが1ナノメートル(1mの10億分の1)だったとしても、現在の100億光年以上の宇宙より膨張することになる。これが、アラン・グースと佐藤勝彦が(別々に)提唱した『インフレーション理論』である。
真空のエネルギーは、宇宙の体積が膨張しても、宇宙全体のエネルギー密度は薄まらないという特徴を持つ。宇宙全体の真空のエネルギー=体積×真空のエネルギー密度である。宇宙の体積が急膨張することで、真空のエネルギーは、何十桁も増えることになる。
通常の物質を箱の中に入れ、箱の大きさを2倍・3倍にすれば、物質の密度は、1/2、1/3に減少する。しかし、真空のエネルギーによって急激に膨張した宇宙には、元に戻ろうとする収縮のエネルギーが生じる。
例えば、ゴムを引き伸ばすと、元に戻ろうとする収縮のエネルギーが生じるのと同様の現象である。宇宙が急激に膨張すると、宇宙内の真空のエネルギーは収縮しようとするために増加する。故に、宇宙の膨張は、真空のエネルギーを増加させるのである。
真空のエネルギーが、宇宙を指数関数的に膨張させたことで、宇宙の温度は急激に低下することになる。この温度の低下は、『真空の相転移』と呼ばれる現象を引き起こす。
相転移とは、物質の性質が、温度によって変化することである。例えば、水分子(H2O)は、0度~100度の間は液体の水、0度以下では固体の氷、100度以上では、気体の水蒸気の状態になる。この液体の水が、温度が下がって0度以下になった時に、固体の氷に変化することを、相転移と呼ぶのである。(液体の水から気体の水蒸気になる時も同様)。
相転移に必要な熱エネルギーの総量は、『潜熱』と呼ばれる。温度が高い位置から低い位置への相転移が起こる時(液体の水から固体の氷に変化する時)、熱エネルギーが放出(発熱)される。逆に、温度が低い位置から高い位置への相転移が起こる時(液体の水から気体の水蒸気に変化)は、熱エネルギーが失われる(吸熱)。
同様の現象が、真空の相転移でも発生する。超高密度の真空エネルギーは、温度が高い位置に存在するため、宇宙の急膨張によって温度が低下すると、「熱エネルギー」に相転移する。この時、熱エネルギーは、宇宙空間に放出されるため、宇宙全体は、火の玉になって燃え上がる。それが、『ビッグバン』である。
宇宙誕生直後の10×-44乗秒後に発生した、第一次の真空の相転移によって、『重力』が枝分かれした。次に、10×-36乗秒後(インフレーションの発生直後と推測される)の第二次の真空の相転移によって、『強い力』が枝分かれする。
最後に、10×-11乗秒後の第三次の真空の相転移によって、『弱い力』と『電磁力』が枝分かれした(なお、10×-4乗秒後に第四次の真空の相転移で、『クォークの閉じ込め』が発生している)。
第二次の相転移によって枝分かれした『強い力』は、クォークとクォークの間に作用して、陽子・中性子を構成する。同時に、『強い力』は、陽子・中性子間にも作用して、原子核を構成した。そして、第三次の相転移によって枝分かれした「電磁力」が、電子を捕らえることで、宇宙を構成する基本単位である『原子』が誕生する。
悠久の時の流れの中、原子は集積を続け、現在の、大規模構造の宇宙を形成した。天の河銀河に属する、太陽系第三番惑星地球が生まれたのは、約46億年前、宇宙誕生の瞬間から、約90億年を経た頃であった。
地球は、宇宙を漂うガスや塵の引力による衝突と、度重なる隕石の衝突を経ることで形成され、現在の球体の惑星が誕生した。月は、隕石の衝突の衝撃によって地球から分離させられた、謂わば、地球の兄弟であった。
そして、約40億年前、地球上の『生命のスープ』から、最初の生命が誕生する。生命のスープとは何か、生命は何故、誕生したのか、誕生直後の宇宙と同じく、統一的な見解は存在しない。最初に誕生した生命は、単細胞の真正細菌、原核生物である。
この原核生物の持つアミノ酸配列が、DNA(もしくは、RNA)として、後の真核生物を含む、全ての生命の起源となった。菌類・プランクトン・植物・昆虫・魚類・両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類などのあらゆる生命は、全て、生命のスープから誕生した、最初の遺伝子のコピーなのである。そして、約240万年前、最初の原人である、ホモ・ハビリスが生まれ、約25万年前、現生人類、ホモ・サピエンスが誕生した。
以上、長々と脱線してしまったが、この宇宙誕生の瞬間から、人類の誕生へと至る、壮大な歴史を振り返ってみれば、明確に悟ることがある。
それは、人間が生きることに、意味などないということだ。
フランスの哲学者、ジャン・ポール・サルトルは『人間は自由の奴隷だ』と言ったが、サルトルの親友にして、終生のライバルであった、メルロ=ポンティは『人間は意味の奴隷だ』と語った。
僕も、自我が誕生して以来、意味の奴隷であり続けた。人は何故、生きるのか?人生の意味とは何か?存在には、何の意味があるのか?答えの無い問いに苦悩し、あらゆる哲学や宗教の本を読み漁った。しかし、答えなどどこにもなかった。
そう。人生に、意味などないのだ。宇宙の創生にも、地球の形成にも、生命の誕生にも意味などない。そこにあるのは、『運命』ではなく、『偶然』の連鎖だ。宇宙は、人間が登場するために作られたのではなく、まして、僕が誕生するために設計されたのでもない。僕、という存在がこの世界に出現したことに、意味など何一つない。
あるのは、あるがままの現在と、そして、現在という結果を生みだした過去。即ち、原因だけだ。そこには、意味など入り込む余地はない。
人生には、与えられた意味はない。人生の意味は、呪われた果実を口にしたことで生まれた、意識という己の自我が見出すしかないのだ。そして、僕の人生の意味は、他の誰でもない、僕自身が、その想いによって見つけるしかない・・・。
漆黒の闇に浮かぶ、三日月の黄金色の光が、ゆっくりと雲間に隠れてゆく。十二月の中旬ともなると、分厚いコートを羽織っていても、寒さが骨にまで染み込んだ。僕は、タバコに火を点つけると、これから待ち受ける運命に備えるかのように、深く息を吸い込み、大きく煙を吐き出した。
彼女は、何から話すべきか、慎重に言葉を選んでいるようだった。ゆっくりと流れる雲の間から、再び顔を出した月の光に照らされた紫の瞳は、いつも以上に哀しみの深さが増しているように感じられた。やがて、彼女は僕を見つめると、静かに語りかけた。
「リュウイチ君は、人類が、何処で生まれたか、知っている?」
「アフリカ・・・ですよね・・・?」
彼女の唐突な質問に、僕は疑問を感じながらも、肝心な話に至るための伏線だろうと理解し、耳を傾けた。それにしても、かなり遠いところから始めるようだ。
「そうよ。現在人類、ホモ・サピエンスは、約十万年前、アフリカで誕生したと言われているわ。そして、約五万年前、わずか、150人余りの人類の集団が、アフリカの角と呼ばれるソマリアから、アラビア半島に渡って、世界中に拡散したの・・・。」
さすがの僕も、話をはぐらかされている気がした。確かに彼女は、相当な博学で、会う度に、僕の知らないことを教えてくれた。その分野は、政治や歴史などの社会科学のみならず、物理学、生物学など、あらゆるジャンルの学問に精通していた。僕は、もしかすると、彼女は、世界一博学なのではないかと考えたこともある。
しかし、今、僕が知りたいのは、十万年前の人類の起源ではなく、二週間程前、スグルとあの日、抱き合っていた理由、そして、そのまま、スグルが行方不明になった理由だった。だが、途中で遮れば、彼女が、肝心な真相を話してくれなくなることを恐れ、僕は、黙って、ただ、レミの話に耳を傾けた。
「アラビア半島に渡った人類の祖先は、更に北上してペルシア湾を渡り、現在のイラン東部の辺りに上陸したの。そこから、西に向かってヨーロッパ人の祖先となった集団、東に向かって、インド・東南アジアの海岸沿いを進み、アジア人の祖先となった集団、更に南に下って、オーストラリアのアボリジニの祖先になった集団、北方に進んで、遊牧民の祖先になった集団に分かれたの。
遺伝子の多様化って、すごいわよね。五万年前には、たぶん、人間は全員、ネグロイドだったはずなのに、五万年の間に、黒い肌のネグロイド、白い肌のコーカソイド、黄色い肌のモンゴロイドに分かれたのよ。たった、百五十人程度の祖先から、肌の色も目の色も髪の色も違う、これほどにも外見が異なる、たくさんの種類の人間が誕生したなんてこと、信じられる?」
僕は、何も答えなかった。こんな状況でなければ、彼女の話に興味を惹きつけられ、たくさんの質問を浴びせていただろう。しかし、僕には、彼女の話が、どうやって、スグルの行方不明事件に結び付くのか、まったく想像できなかった。
彼女は、特に感情的になることもなく、穏やかに、そして、極めて冷静に話を続けた。
「その後、地球は、最終氷期と呼ばれる、氷河期に入った。世界中が寒冷化し、北極と南極の近海は氷河に覆われ、海面は現在より著しく低下した。そのため、現在のマレーシアからインドネシアは陸続きとなって、スンダランドと呼ばれ、また、現在のオーストラリア周辺の島々も陸続きとなって、サフルランドと呼ばれる巨大な大陸を形成していたの。
日本列島とその周辺の海面も低下して、北海道と樺太は大陸と繋がり、対馬海峡も大陸と陸続きになって、最初の日本人が移住してきた。世界は、現在よりも、遥かに陸続きの場所が多くなっていたのよ。そして、現在のアジアと北米大陸、つまり、シベリアとアラスカの間には、べリンギアと呼ばれる陸橋があった。今から約一万二千年前、人類は、べリンギアを通って、遂に、北米大陸に到達したの・・・」
彼女は、そこで、話を止めると、遠い目で夜景を眺めていた。その沈黙によって、僕は、彼女が、本題に入ろうとしていることを感じた。
「北米大陸に渡ったモンゴロイドの多くは、そのまま南下して、アメリカ大陸に拡散した。そして、大陸を縦断して、南米大陸の南端まで辿り着いた集団もいた。でも、一部のモンゴロイドは、そのままアラスカに留まった。アラスカの氷原で、マンモスを駆って食糧を確保し、洞窟の中に住居を作って定住した。
アラスカには、デナリ、別名をマッキンリーと呼ばれる、北米大陸最高峰の山があるの。デナリの中腹には、広大な洞窟があって、ほんの小さな入口の中には、まるで、迷宮のような地下世界が広がっていた。アラスカに残った人々の多くは、厳しい寒さを凌ぐために、デナリの洞窟の中に住んでいた。その数は、一万人以上と言われているわ。アラスカの地下に、都市と呼んでもいいくらいの人口が住んでいたなんて、信じられる?
しかし、ある日、大規模な雪崩によって、土砂崩れが起こり、たった一つしかない、外界への出口が塞がってしまった。そして、一万人以上の人々が、外界と遮断され、デナリの地下迷宮に閉じ込められてしまった・・・」
僕は、アフリカで誕生した人類が、ユーラシア大陸に渡り、氷河時代にアメリカ大陸まで到達していたことは知っていた。アメリカの先住民、インディアンが、モンゴロイドであるのは、シベリアから氷の海を渡って、アラスカに辿り着いたためだ。
しかし、デナリの話は知らなかった。まして、洞窟に閉じ込められたことなど、知る由もなかった。彼女は、何故、そんなことを知っているのだろう。アラスカに、そのような伝承が伝わっているのだろうか?
彼女の紫の瞳は、今まで以上に、深い哀しみを湛えていた。彼女が、今から話そうとする内容は、きっと、哀しい話に違いなかった。
「太陽の光の届かない、全く射し込まない、地下の迷宮。暗く、とても深い漆黒の闇の中、閉じ込められた一万余りの人々は、何一つ見えない状態でも、最初は、地下水をすすり、洞窟に住む、ネズミや蝙蝠を食べて飢えを凌いだ。
しかし、やがて、ネズミや蝙蝠も少なくなり、食糧が無くなって、飢え死にする人も現れた。でも、人間の、いや、生物の生存本能って、凄まじいわね。最後には、何でもする。食べ物がなくなった人達は、どうしたと思う?」
「いや・・・。まさか・・・。」
光の届かない暗黒の闇の中、飢餓地獄に陥った人間は、何をするのだろうか?
その時、僕の脳裡には、おぞましい、一つの光景が浮かんだ。僕は、想像することさえ恐ろしい光景を頭から振り払おうとしたが、一度、頭の中で描かれたその世界を、拭い去ることができなかった。僕の体中を、今まで感じたことのない、戦慄が走り抜けた。
「そう。今、貴方が考えた通りよ・・・」
彼女は、まるで、僕の頭の中の光景が見えているかのように、頷いた。
「草木の生えない、動物もいない、光の射さない地下迷宮の中、飢餓地獄に入り込んだ人間達は、死んだ人間の肉を食べ、血を啜ったのよ・・・」
彼女のその言葉に、僕は、以前、国語の授業で、大岡昇平の『野火』を読んだことを思い出した。太平洋戦争末期、フィリピンで戦っていた日本人兵士は、米軍に追い詰められ、現地のフィリピン人達からも敵と見做され、熱帯の山野をさまよい続ける。餓えと渇きに苦しめられた日本人兵士たちは、昨日まで共に戦っていた戦友の肉を喰らい、同胞を狩って、餓えを凌ごうとした。やがて、主人公の兵士は、「この世は神の怒りの跡にすぎない」と断じて、狂人と化していく。
国語の教師は、生徒に『野火』についての感想を書かせた。その時、僕は、飢餓状態における人肉食を、是と書いた。人間は、牛・豚・馬・鹿などと同じ、動物の一つに過ぎない。極限の飢餓状態に置かれた時、その肉を喰らって、何が悪いのかと。『肉』という意味において、人間の肉が、家畜などの他の動物の肉と、何が違うのかと。
しかし、人肉食を、是と書いた生徒は、僕一人だったようだ。国語の教師は、クラスメイトの前で、僕の考えを非難した。
「人間には、尊厳がある。だから、人間の肉を食べることは、他の動物の肉を食べることとは違う」と。
しかし、僕には、その答えは、欺瞞にしか聞こえなかった。
「先生は、主人公の兵士と同じ境遇に、極限の飢餓状態に陥った時、本当に人肉を食さず、餓えて死にますか?」
先生は、「私は、人間の尊厳を守って、餓えて死ぬ道を選ぶと思います」と答えた。
僕には、先生の答えを信じることはできなかった。その答えは、飽食の時代に生まれ、その時代にしか生きたことのない日本人の、自己欺瞞ではないだろうか?
そもそも、『人間の尊厳』とは何なのだろう?何故、家畜の肉は食べても問題なく、人間の肉は食べてはいけないのだろう?人間も牛も豚も馬も鹿も、動物であることに変わりはない。いや、植物でさえ、同じ生命であることに、何ら違いはない。
動物は、生命を食べることによってしか、生きることができない。『人間の尊厳』とは、単に、人間の奢りに過ぎないのではないだろうか?戦争という、無意味な殺戮を『正義』とみなし、生き永らえるための人肉食を『悪』と見做すことは、納得できない。
以前、彼女が話してくれたことがあった。
『人間は、人間を食べて生きる生命の存在は許さない。例えば、熊や虎などの肉食動物が、人を襲って食べようとすれば、凶暴というレッテルを貼り、悪と叫び、敵として、逆に殺してしまう。他の生命を殺すことで永らえている、自分自身の生命を守るために。』
アラスカの地下迷宮に閉じ込められ、極限の飢餓地獄に陥った人々は、どんな想いで、人間の肉を喰らい、血を啜ったのだろうか?動物に備わった生存本能故に、人肉を食したのだろうか?彼等は、神を呪いながら、それとも、涙を流しながら、かっての仲間の屍を喰らったのだろうか?そして、それは、決して遠い過去の出来事だけではない。わずか、数十年前の太平洋戦争の時代に、我々の祖父の世代が、フィリピンの飢餓地獄の中で体験した出来事なのだ。
長い沈黙の後、まるで、僕の頭の中が整理されるのを待っていたかのように、彼女は、再び話を続けた。
「デナリの人々は、植物もなく、動物のいない地下迷宮の中で、互いの肉を喰らい、血を啜り、生き延びようとした。そして、男と女は、そんな地獄の中でさえ、互いの性欲を満たし、子供を産み、育て、そして、また互いに殺し合って、互いの肉を食べ続けた。
漆黒の闇の中、気の遠くなるほどの長い長い年月の間、互いを喰らい合い、何十世代もの月日を重ねた結果、デナリの人々の遺伝子は、劇的に変化した。生命の遺伝子の適応能力って、すごいのよ。本来、太陽の下で生きるはずの人間が、光の届かない、漆黒の闇の中で生きることを強いられたため、その状況に適応できる遺伝子に進化したのよ。そう、敢えて名付けるのであれば、闇の遺伝子の誕生ね。
太陽の光の届かない地下迷宮の中では、紫外線の影響を全く受けないため、細胞が劣化しなかった。それに、人間の血肉こそは、まさに、人間の生命に必要な栄養素をすべて備えているのよ。だから、テロメアが異常に長くなって、寿命が極端に長期化した。そして、細胞の再生能力も飛躍的に向上したの。その上、漆黒の暗闇で生きることを強いられた目には、光の無い世界が、周囲が見えるようになったの。
細胞の寿命と再生能力が向上したために、寿命は極端に長くなった。そう。デナリの人間達は、漆黒の闇の中で生きることで、不老の肉体を手に入れたのよ・・・」
彼女の話は、衝撃的だった。しかし、科学的な話と非科学的な話がない交ぜになっているために、どこまでが真実なのか、僕にはわからなかった。
「デナリの人々の地下迷宮での生活は、約九千年間続いた。無論、太陽の光の届かない世界に生きる人々は、何日・何ヶ月・何年・何十年・何百年、そして、何千年の歳月が経過したのかなど、知る由もなかった。既に何百世代を経た、光など感じたこともない人々にとって、暗黒の地下迷宮こそが、世界のすべてだったの・・・。
現在から、凡そ八百年前、北米大陸で大規模な地殻変動が起こって、地下迷宮の岩盤が崩れ落ちると、デナリの人々は、外界への脱出が可能になったことに気付いた。無論、既に、九千年という時を地下迷宮で過ごした人々は、暗黒こそが世界の全て。地下迷宮の外に、地上という世界があることなど、知る由もなかった。
しかし、地下迷宮に閉じ込められる前の、遠い祖先の遺伝子の故か、本来、生命が生息できない、酸素の少ない息苦しい空間から解放されると悟った時、デナリの人々の中には、外界に出ようと決心した者がいたの。
しかし、九千年という、永遠とも呼べる時間を、暗黒の迷宮で暮らしていた人々は、細胞の進化によって寿命が長期化し、細胞再生能力が飛躍的に向上して、不老の肉体を手に入れた代わりに、まさに、その細胞自身が、紫外線を浴びると瞬く間に消滅してしまうことに気が着いた。つまり、最初に外界に出た人々は、日中に、太陽の光を浴びたために、あっという間に灰になってしまったのよ。
数十人もの仲間が、灰と化して死する光景を目の当たりにした人々は、当然、外界に出ることに躊躇したわ。しかし、一部の人々は、それでも外界に出ることを望み、そのうち、太陽が沈んだ夜の世界であれば、外界で生活することが可能であることに気付いた。
やがて、人々は、少しずつ、夜間に外界に出るようになった。そのうちに、昼間は洞窟に潜んで眠って、再び夜が訪れると、デナリから遠方の地を目指し、旅立っていった。そして、次第に、北米大陸を南下すると、百年以上もの時間をかけて、現在のメキシコの辺りまで到達した。
当時の北米には、ネイティブ・アメリカンの祖先、つまり、インディアン達が暮らしていた。九千年間、お互いの血肉のみを食糧としていたデナリの人々は、当然のように、インディアン達を襲い、その血を啜った。
広大な北米大陸のインディアン達は、部族ごとに集落を作り、互いに離れて暮らしていたから、人の生き血を啜る生物の存在が、他部族に伝播するまでには、相当な時間を要したの。その間に、デナリの人々は、メキシコに到達して、その地で初めて、数万単位の人々が生きる、巨大な帝国に出会ったの。」
「アステカ帝国ですね。」
「そうよ。さすがね。」
僕は、彼女の語る長い物語の中で、ようやく自分の知識が及ぶ領域に辿り着いたことに、何故か、安堵の気持ちを覚えた。
「やがて、デナリの人々は、アステカ帝国の首都、ティノチティトランに侵入すると、闇夜に暗躍して、アステカ人達を殺害し、その生き血を啜るようになった。デナリの人々は、闇の遺伝子によって、紫外線に弱かった。それに、不老の肉体を持ちながらも、その外見は、人間のままだったから、侵入に気付かれることもなかった。唯一の違いは、当時のアステカ人達が、黄色い肌のモンゴロイドだったのに比べ、九千年間を漆黒の闇の世界で生き抜いた、デナリの人々の肌は、透き通る程に白かったことぐらいね。
夜陰に紛れて繰り返される殺人、その翌朝、路上に放置され、灰と化した惨殺死体の急増。デナリの人々による人肉食は、ティノチティトランの人々を、恐怖のどん底に陥れた。そして、彼等は、アステカの人々との接触の中で、その言語を覚え、社会構造を理解していった。暗闇の迷宮の中で社会を形成し、人肉を喰らい続けたデナリの人々の知能は、外の人間を凌駕するほどに進化していたのよ。アステカの皇帝は、人肉を喰らい、血を啜る人々の存在を知ると、その絶滅を図ろうとした。そして、彼等は、デナリの人々を、吸血人種と呼ぶようになったの・・・」
「吸血人種・・・?」
彼女の話は、ますます、現実から遠ざかっているように感じた。しかし、彼女は、僕の不信な表情を無視するかのように、話を続けた。
「そして、アステカ帝国と吸血人種の、壮絶な戦いが始まった。しかし、闇夜に暗躍する吸血人種は、剣で傷付けても瞬く間に細胞が再生するため、通常の武器だけでは、絶滅させることは不可能だった。それでも、アステカ帝国の人間の数は数万。ティノチティトランに辿り着いた吸血人種は、約百人。多勢に無勢。吸血人種は、壮絶な戦いの末に、約半数が死滅し、吸血人種は、五十人足らずになってしまった。
しかし、人間の犠牲者数は、桁違に増え、何千・何万の人々が、吸血人種に殺害されて、ティノチティトランの人口は、約三分の一にまで激減した。北方からやって来た異邦人、吸血人種を絶滅させることが、事実上、不可能であることを悟ったアステカ皇帝は、吸血人種と和睦するために、ある契約を交わした。
それまでの間、吸血人種は無作為に人間を襲い、その血肉を喰らっていたため、いつ、自分が命を奪われるのか、帝国中を、恐怖と不安が覆い尽くしていた。そこで、アステカ皇帝は、帝国の民の中から、週に一度、五十人の生贄を選び、吸血人種に犠牲として捧げることによって、無作為な殺人を止めようとしたの。
吸血人種にとって、殺人自体は目的ではなく、あくまで、食糧を確保するために、人間を殺害する必要性に迫られていただけ。だから、吸血人種達は、アステカ皇帝の契約を受入れ、週に一度、五十人の生贄の提供を受けることで、無作為な殺人は行うことを辞めた。人間との共存の道を選んだのよ。
アステカ帝国で行われていた、人身御供の儀式は、神への生贄などではなく、吸血人種への生贄だったのよ。帝国では、一週間に一度、ピラミッド型の祭壇で、生きたまま人間の心臓を取り出し、神への捧げ物と称して、真実は、吸血人種に捧げていた・・・。」「アステカ帝国と吸血人種の共存は、約二百年続いたわ。しかし、1492年、コロンブスが西インド諸島を発見し、ヨーロッパが大航海時代に入ると、当時のアステカ帝国とは比較にならない武装を備えた、スペイン人が、続々とカリブ海に進出した。
そして、1519年、スペインのキューバ総督ベラスケスの配下、エルナン・コルテスが、五百人の部下を率いて、ユカタン半島に上陸し、トラスカラ王国を征服。更に内陸部進軍すると、帝国領内に侵入した。その時、アステカ帝国の人々は、コルテスの侵略に対抗するどころか、即座にコルテスに降伏した。歴史上、アステカ帝国がコルテスに降伏したのは、伝説の神、ケツァコアトルが帰還したと信じたためと言われているわ。
しかし、コルテスが、たった五百人の兵力で、強大なアステカ帝国を征服できたのは、実際には、アステカ帝国の人々が、吸血人種に生贄を捧げることを拒んだ結果だったの・・・。やがて、帝国を征服したコルテスは、吸血人種の存在を知ると、人間とは違う、異質な種族を、ヴァンパイアと名付けた。」
「ヴァンパイア・・・?」
僕は、彼女の話に、困惑を覚えずにはいられなかった。確かに僕は、神話や伝説、ファンタジー小説が好きで、ヴァンパイアが登場する作品は、数多く読んでいた。
完全に夜型で、朝が苦手な僕にとっては、夜に活動するヴァンパイアは、羨ましい存在ですらあった。しかし、それでも僕は、歴史上、ヴァンパイアが実在したなどと考えたことは一度もない。彼女の話を疑いもなく信じることは不可能だった。
「そして、生贄を提供させられてきたアステカ帝国の人間達と、スペイン人によって、ヴァンパイア狩りが始まった。特に、ローマのカトリック教会は、闇の遺伝子を持つヴァンパイア達を、悪魔の使徒とみなして、狂信的な能力を有する、ヴァンパイア・ハンターを組織した。暗闇の中、人の生き血を啜るヴァンパイアは、人間にとって、格好の悪魔となった。文明の誕生以来、長い年月を捕食者無き世界で生きてきた人間には、人間を食糧とする生命の存在を、絶対に許せなかったのよ。
ヴァンパイア達は、ハンター達から逃れるために、逆に、スペイン人の船に密航して、続々と旧世界、ヨーロッパに渡った。16世紀以降、ヨーロッパにおいて、急激にヴァンパイアの伝説が広まるのは、アメリカ大陸という隔離された世界から、ヴァンパイア達が、ヨーロッパ世界に拡散した結果だったのよ。
ヴァンパイアの不老の肉体と発達した細胞再生能力、そして、その頭脳は、人間を遥かに凌駕していた。ヨーロッパに渡ったヴァンパイアの一人は、その人間ならざる超人的な能力を駆使して、当時、オスマン・トルコ帝国の支配下にあった、トランシルヴァニア公家の側近になった。そして、トランシルヴァニア公家の一人娘、フィアラと結婚して、ウラド・ツェペシを名乗った。」
「ヴラド・ツェペシ・・・?」
僕には、その名前に聞き覚えがあった。世界史上最も有名なヴァンパイアで、ブラーム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』のモデルとなった人物だ。
「本物のヴラド・ツェペシは、当時より二百年以上前の十五世紀のトランシルヴァニアの王で、オスマン帝国の軍勢を撃退した英雄だった。捕虜となったイスラム教徒の死体を串刺しにして、晒したことから、『ドラキュラ』のモデルとなった人物だったの。
ヴァンパイアのヴラド・ツェペシは、その伝説を利用して、自身をツェペシの再来と人々に思わせ、公国の民を、次々と殺害してその血肉を貪った。トランシルヴァニア公国の人々は、次々と発生する行方不明事件に恐怖し、公国全体を暗い沈黙が覆った。
ウラド・ツェペシとフィアラの間には、一人の娘がいた。ヴァンパイアと人間の混血のその娘は、闇の遺伝子を継承し、不老の肉体を有し、光を嫌った。混血とは言え、彼女の肉体は、ヴァンパイアそのものだったの。
やがて、宮廷に入ったものは、二度と帰って来ないという噂が国中に広まり、人々は、連続する行方不明事件に、公爵家が関与していることを知った。そして、民衆の間には、ウラド・ツェペシがヴァンパイアであるとの噂が流布し、公爵家に対して牙を剥いた。大暴動が発生し、群衆が宮廷に押し掛けた。フィアラは捕らえられ、魔女として火あぶりにされた。まるで、二十世紀のルーマニアの独裁者、チャウシェスクのように。
ツェペシは、トランシルヴァニアから遁走すると、ドラキュラと名を変え、ヨーロッパ各地の都市部に潜入し、闇の世界に暗躍した。そして、18世紀には、霧の都ロンドンで殺戮を繰り返した。無論、無益な快楽殺人ではなく、人の血を啜り、その肉を貪り喰らうために。そして、ツェペシは、教会の放ったヴァンパイア・ハンターに殺された。・・・。」
そこまで言うと、彼女はしばしの間沈黙した。僕は何も言うことができなかった。彼女の話す物語を、すぐに信じろというのは無理な話だ。特に、ヴァンパイアが実在することなど、普通の人間には、信じられるはずもない。
しかし、この物語が、彼女自身にとっていかに辛い話なのか、その痛みだけは伝わってきた。そして、その紫の瞳に宿る哀しみの色が、彼女が偽りなき真実を語っていることを、何よりも物語っていた。
「ここまで話せば、察しの良い貴方なら、私が何を言いたいのか、わかるわよね?」
突然、彼女は、真剣な眼差しで、その紫の瞳を僕に向けた。僕は、返答に窮した。無論、彼女が何を言いたいのか、既に理解はしていた。しかし、そんなことが、現実に有り得るのだろうか?彼女の正体は・・・。
困惑を浮かべる僕の表情を見つめながら、彼女は、意を決したように、大きく息を吸い込むと、最後のセリフを口にした。
「私の本名は、レミーラ・アルフォンソ・ツェペシ。トランシルヴァニアの公女、フィアラとツェペシの間に生まれた、闇の遺伝子の継承者。そして、貴方の親友、スグル君は、私が“コロシタ”の。」
僕の体中を、形容し難い戦慄が走り抜けた。僕はもう、光を失う運命から、逃れることはできなかった。




