エルフの森の抜刀者2
それからしばらくの間、彼女と私の不思議な生活は続いた。
いつもニコニコと微笑みながら彼女は二言三言話すと、例によって謎の頭痛に襲われては休息をとり、眠りにつく。
再び目が覚めて、腹の虫が鳴き始める頃に偶然なのか彼女は毎回タイミングよく食事を持ってくる。
丸盆の上に木製の少し深い器を乗せ、ほかほかと湯気が上がったスープを運んでくると、ベッドの傍に座る。
木のスプーンでスープを掬い、火傷しないように息でふーふーと息を吹き掛けてそれを冷ましてくれる。
そして、そっとスプーンをこちらに差し出すと、ジェスチャーでアーンと彼女は軽く口を開く。
流石に食べ物である事は理解できているし、その動作を見ていればわかる事なのだが、彼女は毎回そうしてご飯を促していた。
---優しい人...。というより少しお茶目な人なのだろうか?
だが子供扱いされているような不快感はまるでしない。自然と微笑むと私は口を開けてスープを運んだ。
目覚めた時は殆ど喉を通らずに残していたスープも、今ではペロリと完食してしまう。
思えば咀嚼するのも困難だったこの体も、ここ数日の間で嘘のように回復していた。
最初に目覚めた時は首しか動かせなかったにも関わらず、今ではある程度動きに余裕も出来て、起き上がることもそれほど苦では無くなった。
シーツをめくり改めて自分の状態を確認するも、不思議なことに外傷はまるで見受けられなかった。
腕や足に相当なダメージが来ていたので、何か深い傷跡の一つでもあるかと不安に思っていたのだが...。安心したのと同時に少し拍子抜けしてしまった。
---そうなると、私が動けなかった理由ってのは...。
回復速度から考えて重い全身筋肉痛、或いは肉離れということになる。
だが、仮にそうだったとしても情けない話だが、依然として腰から下は上手く力が入らない為、彼女のサポートは必須であった。
踏ん張りが足りず、一人でまだ立ち上がるほどには回復はしていない。その為、支えなしでは歩けない。
つまり、これがどういうことを意味するのかと言えば...。
トイレに行きたい時は彼女が体を支えて介助してくれなければ目的地に着かないことを意味していた。
これは本当に恥ずかしく申し訳なかった。
そして、体の回復以外にも大きな変化が一つ。
「すまないな...。いつも」
「いえ、お気に%さらずに」
彼女の発する言葉からノイズが減少して何を発しているのか理解できるようになっていた。
「でも、よか%た。もう傷の痛みもなくなってきてるみたいだし、何よりこうしてお話が出来るようになって」
「ああ、それについてなんだが...」
これは、話せるようになったという感覚というよりも、また別の感じがする。
簡単に言えば言語というよりも意思そのものが言葉を介して相手に伝わっている。そんな違和感があった。
彼女は膝においていた丸盆を近くのテーブルに置くと、こちらに向き直りそっと顔に手を伸ばす。
フワッと香りたつ甘い匂いと、その柔らかく暖かな手にドクンと鼓動が鳴った。
「な、なにを?」
スッと優しく耳を撫でるように彼女が触ると、その指先が何かに触れた。
「これは、【精霊の囁き(フェアリーウィスパー)】といわれる耳飾り。私たち【エルフ】の持つ至宝【神々の遺産】の一つで他種族との会話を可能にする。まさに奇跡のアイテム」
にっこりと微笑む彼女の言葉はノイズ無く全て聞き取ることができた。
ゆっくりな話し口調に、透き通るような気着心地の良い声色。
だが、正直合間合間に入ってきた単語の意味が理解ができなかった。
「えっと...。エルフってことは君は人間ではないのか?」
ちらりと視線を一番特徴的でもあろう耳をに視線を向けると、確かに人間のそれとは違い、横髪に殆ど隠されていたが、後ろ向きにピンっと長い耳先がちらりと覗いていた。
「ふふ、ごめんなさい。自己紹介がまだでしたね。私は″エニス・B・エイル″と言います。このエルフの森を守護するエルフ族の一人。そして【抜刀者】です」
新たに聞き慣れない単語に更に思考が迷子になってしまう。
「ああー、とりあえずエニスさん...で良いのかな?今さらだが改めて感謝を。私は、その...。すまない。どういう状況なのかわからなくてな。ここで目覚めてから以前の事を何も覚えていないんだ」
「それは、記憶がないということでしょうか?」
少し驚いた表情でエニスはこちらを見つめる。
「ああ、何も。自分の名前がなんなのか、どういった経緯でこんなことになってるのかも忘れてしまっている。だから、君に伝えるべき名前が今は無いんだ」
これが一時的なものなのかはたまた半永久的に戻ることが無いのかはわからない。けれど、それはこの数日の間。つまり日常生活を送っている間に回復する兆しがまるで無い事を考えると″戻る″というのは、かなりの低い事柄のように思える。
そっと手に暖かな温もりを感じたと思うと、エニスは私の左手を包むように両手で握って胸の前に持ち上げていた。
「では、まずはお名前から考えないとですね!」
まるで子供が閃いたように微笑むとそう提案してきた。
「え、ああ...。そうだな...」
「何がいいでしょうか...。仮のお名前とはいえ、ちゃんとした名前でないといけませんよね。でも、何か呼んでほしいお名前があったりするのでしょうか?」
「いや、特には思い浮かばないかな。しかし、なんだか楽しそうだな。エニスさん」
「そ、そんなことはないですよ!でも、名前がないと不便ですし、決して楽しんでなんか...無いですよ?」
その言葉にはっとしたのか握っていた手を離すと、エニスは一度視線を逸らし、もじもじと膝の上で自身の指先を絡ませていた。
何処か言い訳っぽくも聞こえたが、悲観的に接されるより気持ちは楽である。
「確かに。それもそうだな...。じゃあ、その名前エニスさんが決めてもらえると自分としては助かるよ」
「いいんですか?ご自分のお名前を仮とはいえ私が付けてしまって」
「ああ、記憶が無い自分には名前の判断基準がつかない。であれば、エニスさんに決めてもらった方が何かと都合がいい気がするからね」
「なるほど...。わかりました。お任せください。格好いいお名前を考えますね!」
「はい。期待しています」
そういって、しばらくエニスは自分の前で顎に手を当てて考えるポーズを取って見せる。
小さく「うーん」っと言葉を漏らしたかと思うと、スッとその緑の瞳がこちらを見つめる。
ずっと見ていると吸い込まれるようなエメラルドグリーンの瞳。
エニスは元々目が細い。いつも優しく微笑んでいる様に見えるし、実際これまで見てきた彼女はいつも楽しげにしていた。
自分がここにやってきて彼女の生活はガラリと変わってしまった筈なのにだ。
忘却された記憶。だが知識は僅かばかりだが残っている。
その正確さは定かでないが、エルフは人との交流を好まない印象が強かった。
だが、目の前にいる彼女からは、それが全く感じられない。
大人っぽくしっかりしているようで、どこか陽気で明るくお茶目な一面がある。そんなお姉さんみたいな存在に思えた。
すっと瞳が隠れると彼女の口がゆっくりと開いた。
「お名前は【オリジン】と言うのは如何でしょうか?」
「オリジン...か。」
忘れた記憶に対してつけるには中々洒落が利いている。