今でも謎である。
みなさんは、不思議な体験をしたことがあるだろうか。
金縛りや心霊体験。未確認飛行物体や宇宙人との遭遇。生死の狭間で見る花畑。
世間でも、いろいろ語られているが、とりあえず、私の経験した不思議体験を振り返ってみる。
私の体験は大学生の時だった。
当時、私は東京の大学に通っており、一人暮らしだった。
ある日、帰宅すると見知らぬ男が部屋にいた。
ローテーブルに頬杖をついて、帰宅した私を見上げると「はじめまして」と笑った。
反射的に身を硬くした私に、男はハッとしたように姿勢をただす。
「あ、大丈夫です。僕は怪しい者ではありませんから」
私は無言のまま、逃げるタイミングを考えていた。
いきなり背を向けて、相手を刺激するのはよくない。
「すぐに出て行きますから」
爆音のように駆け巡る鼓動を感じながら、何とか声を絞り出す。
「どうやって・・・」
「はい?」
思わず声がかすれた。男はじっと私を見上げている。
「どうやって、入ったのかと・・・」
扉も窓も鍵をかけていた。何のセキュリティもない古いアパートだから、戸締りだけはちゃんとしていた。
私は相手の様子をうかがいながら、逃げ出す隙を狙っていた。相手に話を合わせて、何とかこの場だけでもやりすごすべきなのだろうか。
「どこからと言われると、そちらの押入れからということになるでしょうか」
ひやりとした何かが身を貫く。私は男の顔を見た。男は私の高まった緊張に気づかない様子で、笑顔を振りまく。
場違いな笑顔だった。この上もなく恐ろしく感じられる。
どうやら、この男と話を合わせることはできそうにない。私は逃げるタイミングに集中する。
「まぁまぁ、そう固くならず」
男の声は優しい。しかし、恐ろしいだけだった。
男はいきなり立ち上がった。
「っ・・・」
私はとっさに息をのんだ。男の挙動によっては、全力で逃げるか、迎え撃つか。
緊張が最高潮に達したとき、男は何のためらいもなく、ザラリと押入れをあけた。
「今、このような状態になっておりまして」
全力で動き出そうとしていた私の手足は、途端に力を失う。
意味がわからなかった。
これは、夢の中なのだろうか。目の前に広がる予想外の光景。
私は呆気にとられてしまう。
「その、今、こちらの押入れと僕の世界がつながっておりまして」
押入れの中には、私の思い描いていた光景がなかった。
草原と青空が広がっている。地平線がわかるのどかな光景。彼方には集落のようなものが見える。
それは、決して押入れの中ではない。
私は夢を見ているのだ。懸命にそう考える。夢でなければ、この状況は説明できない。
あるいは私の頭がおかしくなったのかもしれない。
なるほど。
考えてみれば辻褄が合う。この部屋に帰ってきた時点で、私の頭はおかしくなっていたのだろう。だからこんな幻覚を見ているのだ。目の前で笑う男も幻覚に過ぎない。
きっとそうだ。
「ああ、混乱なさっていますね。やっぱり、そうなってしまいますよね」
困ったような男の声。絶句する私を気遣うように肩を小さくする。
「申し訳ありません。これは、ちょっと僕が近道をするために仕方がなくて・・・」
私はふらふらと押入れに近づく。
「あっ、いけませんよ。今は」
さっと男が立ちはだかる。私を押しとどめる男の肩越しに押入れの中を覗き込んだ。
「この中にあったものは?」
「え?」
「だから、押入れの中にあったものはどこにいったんだ?」
夢の中でも、あるいは頭がおかしくなっていても、押入れの中にあったものを気にしてしまう自分が、ひどく小さい人間のように思えた。
「大丈夫ですから」
私を羽交い絞めにして、男は声を高くする。
「大丈夫ですから!」
「はなせよ!」
私はもがいた。
目の前に広がる草原に駆け出して行きたい衝動がこみあげる。
幼いころに読んだ本に描かれていた、別世界の王国。
「とにかく大丈夫ですから」
男の力は強かった。私はただ目の前の光景を見つめる。
風になびく緑。
まぶしい陽光。
異国の集落。
なんて美しい世界だろう。
「申し訳ありません。押入れに何か大切なものをしまっていたのですね。でも、大丈夫です。失うことはありませんから」
男はザラリと押入れを閉めた。まぶしい世界が失われる。途端に現実が戻ってきた。
「驚かして申し訳ありません」
殊勝に頭を下げる男。私はその場に膝をついた。
「本当に申し訳ありませんでした。私はもう行きますから」
再び男がザラリと押入れを開ける。光景は一変していた。
海辺の町と小さな港。青い地平線。
美しい世界。さっき見た世界と続いていることが分かる。
「では」
「待ってくれ」
踏み出そうとした男が振り返る。
「私を一緒に連れて行ってくれないか」
男はやさしい目をしてほほ笑む。
「それはできません」
「どうして?」
「どうしてもです」
男はきっぱりと言い放った。
「お元気で」
ざらりと、押入れが閉ざされる。私を捕らえることもなく、男は行ってしまった。
そうなのだ。私は物語の少年のように、決して英雄になどなれない。
得体の知れない男の訪問。
何が起きたのか分からない。
私が頑なにこだわった押入れの中は、暴かれなかった。
気がつくと私は泣いていた。
嗚咽しながら、震える手で押入れを開ける。
ざらり。
途端に鼻をつく腐臭。
変わらず横たわるのは、死体。
数日前に殺した、恋人の死体。
私は狭い房室でふっと嘆息を漏らす。
全てが夢だったのか。幻覚だったのか。
あのあと私は自首した。今はその罪を償っている。
彼は何者なのか。あの美しい世界はどこにあるのか。
それは、今でも謎である。