7、セシルの記憶(3)
「い、いやぁっ……!」
力いっぱい突き飛ばすと、油断していたのかクリスティアンは後ろへひっくり返るように倒れた。
「あ、あの……ごめんなさっ……」
なんとか体を起こして、セシルを見つめたクリスティアンの瞳は、幼い彼女が今まで見たことのないものだった。
情欲を宿した男性の瞳。
訳が分からず、とにかく怖くて、ここにいるのはセシルの知っている優しい幼なじみのお兄さまじゃないと思った。
深い悲しみの淵に立つクリスティアンの寂しさをすべて受け止めるには、セシルは子ども過ぎた。
「……セシル、僕は……」
「いやっ……」
すがるように伸ばされた手を、セシルは振り払った。瞬間、クリスティアンが傷ついた顔をして胸がきしんだ。
「……怖がらせて、ごめんね。もう、出ていってくれる?」
すごく寂しそうな顔で───本当はまだここに居て欲しいとでも言いたげな顔で、クリスティアンはセシルに部屋から出るように促した。
「これ以上、君を傷つけたくないから……早く……」
そう言いながらも傷ついているのはクリスティアンなのに、セシルは混乱して、ごめんなさいと一言残して走って部屋を出たのだ。
それから、クリスティアンはセシルを避けるようになった。いや、クリスティアンが避けていたのかは分からないが、ちょうどクリスティアンの外遊と重なり、セシルは気まずいのもあってなかなかあの夜のことを謝れなかった。
それから一年間、クリスティアンは外遊で不在だった。その間、クリスティアンが行く先々で浮き名を流しているということを、セシルは風の噂に聞いていた。
翌年のセシルの誕生日のころに、クリスティアンは帰国したので、ブラッドフィールド邸で開かれる誕生日会には、例年の通りにジョシュアとクリスティアンも呼んだ。
始めに挨拶をしたとき、もうすでにクリスティアンの様子が違うと気づいていた。
「クリスお兄さま?少し二人きりでしたいお話があるの。今、いいかしら?」
勇気を出して言った。十五歳は成人の年。一年前の、逃げてしまったセシルはもういないのだと──大人になったということをクリスティアンに見せたかった。
「……そうだね、僕も話がある。」
クリスティアンは微笑んだまま、頷いてくれた。
「そう!じゃあこちらへ……」
テラスに誘った。
「あのね、クリスお兄さま。わたくし、ずっと言いたいことがあって……」
「うん、なんだい?」
「あの、笑わないでね?……わたくしクリスお兄さまが好きです!」
そう言った瞬間セシルは見てしまった。クリスティアンの目が憎々しげにこちらを見たのを。
「へぇ…………僕は嫌い。」
「えっ……?」
セシルは体を強張らせた。
「だから、僕も話があるって言ったでしょ?僕は君が嫌いです。……それだけ?ならもう行くね。」
「えっ、待って……クリスお兄さま!?」
それ以来、セシルは公式の場以外ではクリスティアンと口を聞かなくなったのだ。
──────
思い出したくもない記憶を思い出してしまった。雨の音は相変わらず煩いし、湿気で髪が乱れていらいらする。
「ヴィアンカ!ヴィアンカはいる?」
控えの間にいるはずのヴィアンカに声をかけると、はいと返事が聞こえてヴィアンカは姿を見せた。
「お呼びですか。」
「チョコレートを頂戴。ミルクたっぷりの甘いやつ!」
不機嫌の主を見て何を思ったのか、ヴィアンカはちょっと首を傾げて合点がいったと頷く。
「お仕事に飽きてしまわれたのですね。」
哀れな子、という目で見られてセシルは頬を染めた。
「…しっ、仕事は終わったわ!」
ばしばしと書類を叩いて見せると、おや珍しいとでも言いたげヴィアンカは目を丸くする。
「あら……ではご褒美、ということにしましょう。すぐお持ちいたしますね。」
「お願いね。」
すぐ、と言ったとおり、部屋を出たと思ったらもうチョコレートの準備ができていた。きっといつ呼ばれてもいいように前もって用意してあったのだろう。
美しい形をしたミルクチョコレートたち。それから中がとろりととろけるトリュフチョコ。おまけにチョコレートケーキまであった。
「……珍しいわね。こんなにたくさん、いいの?」
もしや何か見返りでも要求されるのでは、と勘ぐるがヴィアンカは笑って首を振った。
「ええ。……気分が落ち込むときは好きなものを食べるのが一番ですよ。」
「ヴィアンカ……」
見抜かれていたようだ。流石は、幼い頃から一緒にいるヴィアンカ、ということだろうか。
「ありがとう。」
ぽそっと呟く。
「どういたしまして──」
「そ、空耳よ!チョコ!食べまくってやるから!!」
恥ずかしくなってやけ気味でチョコを口に放り込んだ。
「どこで覚えてきたんですか、その言葉……」
「城下よ。」
「……はぁ、まったく。」
扉をノックする音が聞こえ、執事のウォットが王宮よりお手紙ですと仰々しい書状を持ってくる。
「失礼致します。セシル様、こちらを。」
「なにかしらね、急に。」
ペーパーナイフでさっと切って中身を取り出すと、差出人は国王ジョシュアだった。
「……なんですって。」
セシルは自分の手がわなわなと震えだすのがわかった。沸き上がる怒りで手紙を握りつぶす。
「えーと?どのようなご用件でしたか?」
ヴィアンカが恐る恐る聞いてきた。
「よく聞いてくれたわ、ヴィアンカ。」
ばんっと、セシルが机に叩きつけた手紙をヴィアンカはそっと覗いて、頬をひきつらせる。
「また性懲りもかく勝手なことしてくれるわね!!」
───フレラインの伯爵がセシルに興味があるっているから呼んでみた。急いで王宮においで。
王都のブラッドフィールド邸から馬車を急がせて、十分もせずにセシルは王宮に着いた。
憎たらしくなるほど長い廊下を優雅に、しかし早足で歩き、王宮の応接室の前まで行くと綺麗な笑みを張り付ける。
「セシル・ブラッドフィールドが参上致しました。」
「待ってたよ。入って。」
ジョシュアの侍従によって扉は内側から開き、セシルは深呼吸をしてから部屋に入った。
深紅のソファと焦げ茶色の猫足テーブルが、一際存在感を放っている。そのソファに腰かけている人が二人。一人はたった今セシルを呼び出した張本人のイザリエ国王ジョシュアだが、もう一人はセシルの見覚えのない男性だった。
「ごきげんよう、国王陛下。さっそくですが、わたくしにご用件とは?」
なぜ呼び出されたのか手紙にもあったし分かってはいたが、客人を紹介を早くしてもらうために、無礼ながらセシルから声をかけさせてもらう。
ジョシュアは仕方がないなといった様子で肩をすくめた。
「はいはい、せっかちなお嬢さん。こっちに座って?」
ジョシュアの促しに従って、セシルもソファに腰を下ろす。
改めて客人の男性を見た。
年の頃は二十代半ば、なかなかに顔立ちの整った人の良さそうな青年だった。良く見ると深いグリーンに蔦模様が入っている上着のセンスがいい。
「ゼルキス卿、こちらがファドリック侯爵セシル・ブラッドフィールド卿だ。……セシル、こちらはフレライン王国のゼルキス伯爵ジャスパー・アルマン卿だよ。今日は君に会うためにいらっしゃったんだ。」
「まぁ…わたくしに?」
淑女の仮面を張り付けて、少し照れたように微笑み、セシルはジャスパーを見た。
「初めまして、ですわよね?わたくし、セシル・ブラッドフィールドと申します。僭越ながら侯爵の位を賜っておりますの。」
伯爵ごときがどうして国王つかって侯爵を呼び出していますの?っという本音がごくりと飲み込む。
にっこりと笑うと、ジャスパーもにっこりと笑い返した。
「初めまして、ファドリック卿。ゼルキス伯爵ジャスパー・アルマンと申します。今日はファドリック卿にお話があって参りました。」
「ゼルキス卿は二人で話がしたいそうだ。扉は少し開けておくが……大丈夫かな?」
ジョシュアが少し心配そうにそう言った。
二人で話、というのは礼儀にかなっていない。未婚の男女が───名前を聞いて思い出したが、ゼルキス伯爵は未婚───二人きりというのは何もなかったとしても誤解を招く、良くないことだ。
しかし、この異国の伯爵がなにをたくらんでいるのか、それを聞き出すのが恐らくはジョシュアがセシルに託した仕事なのだろう。
「えぇ、大丈夫ですわ。わたくしも、そう、二人でお話をしたいと思っていたところですから。」