6、セシルの記憶(2)
セシルとクリスティアンは幼なじみだった。
第一王子ジョシュア、第二王子クリスティアン、ファドリック侯爵令嬢セシル、あとはディファクター公爵令息ヴィンセント。
幼い頃は、みんなで悪ふざけをして、王宮で働く人たちに怒られもした。今思えば、ずいぶんと放任主義な教育だったようだ。
同い年のジョシュアとヴィンセントは、10歳になるとそれぞれ跡取りとなるための勉強が本格的に始まった。それからは二人だったが、寂しくはなかった。
この頃、セシルにはすでに母がいなかった。彼女はセシルを産んだときに亡くなったので、王宮に赴いたときに会う優しいクリスティアンの母──王妃さまを母のように慕っていた。
だから、彼女が亡くなったとき、まるで実の母がいなくなったように感じて涙が堪えられなかった。
セシルでそうなのに、本当に血の繋がったクリスティアンはもっと辛いはずだ。それなのに葬儀では一度も涙を見せずに気丈に挨拶をしていて、それが逆に痛々しかったのだ。
「クリスお兄さま?具合でも悪いの?」
葬儀が終わって早々に部屋に戻ったクリスティアンを心配して、セシルは彼を訪ねた。
クリスティアンとは、いつからか小さな頃ほど仲良くはしなくなっていた。それはお互いの教育が本格的になっていったのもあったし、何より年頃の男女であることが、二人の間に大きな溝をつくっていたのだ。
だから、彼を訪ねるのは本当に勇気が必要だった。
「クリスお兄さま……?」
ノックをしても返事はない。
「入りますわよ。」
倒れでもしていたら大変だと不安になって扉を開けると、部屋には灯りが一つもついておらず真っ暗だった。目を凝らしてそっと部屋を進むと、バルコニーへの窓が開いていてカーテンが風にはためいている。不審に思って外を見ると、シャツ一枚の姿のクリスティアンが雨に打たれなからバルコニーにうずくまっていた。
「クリスお兄さま!?」
慌てて走り寄ると、セシルのからだにも大粒の雨が打ちつける。
「何をしていらっしゃるの!?風邪を引きますわっ、早く部屋にお入りになって!」
腕を引っ張って立ち上がらせようとするが、十四歳の少女に十八歳の成人男性を動かせる力はない。
雨に濡れる、黒い喪服のドレスが重くなっていく。
「きゃあっ…」
裾が絡まって足を滑らせた。転ぶ、と思って身構えたが、衝突の痛みがこない。セシルが落ちたのはクリスティアンの腕のなかだった。
「あっ、ありがとう。」
「セシル…ごめんね、心配した?」
びしょ濡れのまま、クリスティアンが優しく微笑む。明らかに作り笑いのそれに、セシルの胸はぎゅっと握りしめられたように苦しくなった。
「はっ、早く、部屋に戻りましょう?」
「うん……」
風の吹き付ける窓を閉めて、カーテンで外を隠す。荒れ狂う空は、きっとクリスティアンの心と同じだから。
「とりあえずからだを拭いて…ドレス脱ぐ?」
クリスティアンが差し出したタオルを受けとった。ドレスがからだに張り付いて気持ち悪い。だが、年頃の娘が、男性と二人きりになってそんなに無防備でいいのか。
「ありがとう。やめておくわ。」
そういうとクリスティアンはくすりと笑う。ほんの少し寂しげに。
「……セシルもそういうこと気にするようになったんだ。」
「……?」
「拭いてあげるよ。」
まるで小さい子どもにするように、クリスティアンがセシルのからだを優しく拭う。
「ふふっ、くすぐったいわ。クリスお兄さま。」
柔らかいタオルで髪や頬を優しく拭われて、セシルは首をすくめる。
「……セシル」
「なぁに?」
「……抱き締めてもいい?」
「えっ…?お、お兄さま!?」
ずぶ濡れの体が触れ合う。冷たい。ぎゅっと抱き締められれば温もりを感じられるはずなのに、冷えきったクリスティアンの体は、セシルに悲しみを移すだけだった。
「クリス、お兄さま……?」
ためらいながら彼の背に腕を回して、そっと抱きしめ返す。
小さい頃はセシルと変わらないほどの背丈だったのに、クリスティアンはずいぶんと背も伸びて体つきもがっしりしている。セシルだけが子供のまま、あの頃に置いてきぼりにされたように、ときおり感じてしまうのだ。とくに今は、クリスティアンが知らない人のように思えてならなかった。
「お兄さま……大丈夫ですわ。わたくしの前では、格好つけなくてよいのですよ。」
クリスティアンの耳もとで優しく語りかける。彼の肩がピクリと揺れた。
「……やだ。」
「え……?」
「それ。お兄さまって、いやだ……」
ひゅっと喉が鳴る。押さえつけられたように、身じろぎすら出来ない。
「なんで…急にどうしたんですの。わたくしのこと嫌いになってしまったの?わたくし、昔からずっとジョシュア殿下とクリスティアン殿下を兄のように思って───」
「だからっ……っ、僕は君の兄じゃない!」
肩を強く捕まれて、それからは何も考えられなくなった。
唇が触れている。クリスティアンと──生まれてからずっと兄のように慕ってきた人と、口づけをしている。それだけでもう、セシルは何がなんだかわからなくなった。
「っん……ぁ、はっ、なに?なんで!?」
「うるさい。」
噛みつくような口づけに、セシルはなすすべもなく翻弄された。溺れた人が懸命に息をするような、もて余した感情をひたすらぶつけるかのような……そんな口づけに、セシルの心はぐずぐずに溶けてしまいそうだった。