5、セシルの記憶(1)
「何なの……」
朝、セシルが目を覚ますと、部屋いっぱいにむせ返りそうなほどの薔薇の花が敷き詰められていた。───ちなみに言うと、昨日は百合だった。さらに言うと、その前の日は嫌がらせかと思うほどの大量のチョコレートが部屋に届いた。もちろん、ただ贈り物があるだけでなく……
「やぁ、お目覚めかな?僕のお姫さま。今日の薔薇たちはお気に召した?」
送り主も、迷惑なことにモーニングコールをしにやってくるのだ。本当に、うちの執事や侍女たちは何をやっているのだろう。ヴィアンカまで裏切るとひは。
「クリスティアン殿下…いい加減にしてくださらない?」
「えっ、これも気に入らない?他の子は喜んでくれるんだけどなぁ。」
(他の子って……)
そこで他の遊び相手を出してくる辺り、この男は本当にどうしようもないと思う。しかし、セシルは彼の遊び相手になるわけにはいかない。
「……薔薇は綺麗ですわ。けれど、恋人でもない男性に薔薇の花を貰うことはできません。」
「そんな言い方ないだろう。一応婚約者だぞ?」
拗ねたように唇を尖らせるクリスティアンは、一般的な意見でなら可愛い。年上の貴婦人にも人気というのも頷ける。しかしながら、セシルの好みではない。
「わたくしは認めていませんわ。あなたと婚約だなんて……」
絶対ごめんだ。苦労するのが目に見えているのだから。
「へぇ…あんなキスしたのに?」
「あっ、あれはあなたが無理矢理!」
「そう?」
セシルは声を詰まらせた。
確かに抗えない雰囲気はあった。けれど、クリスティアンは力ずくで押さえつけた訳でもなければ──まして無理矢理ではなかった。くすくすと笑い声が聞こえて顔をあげると、クリスティアンが優しい表情でセシルを見ていた。ドキリと胸が一つ大きく鳴る。
「可愛いかったなぁ、あの時のセシル。」
もう一回見たいなぁ、クリスティアンが顔を近づけてきて、反射的に顔を背けた。
「ち、ちょっと、何するの!?」
「ふふっ、照れ屋さんだね。まぁ、いいや。早く着替えたほうがいいよ。僕に襲われたくなかったら。」
「なっ、おそっ……早く出てって!」
今更ながら、自分が薄いネグリジェのままだったことに気付いてセシルは慌ててクリスティアンを追い出した。扉の向こうからクリスティアンの笑い声が聞こえる気がして、セシルはむっと頬を膨らませた。
セシルが着替えを済ませて部屋を出ると、クリスティアンの姿はもうなかった。執事のウォットが言うには、王宮に至急の呼び出しを受けたのだと言う。こんなときばかりはジョシュアによくやったと言いたくなった。
イザリエ王国にしては珍しい大粒の雨が、屋敷の窓を打ちつけていた。
まだ昼過ぎだというのに、夜のように暗い。
落ち込んでいた気分がさらに下がるようだと、セシルはため息を落とした。
書類整理も早々に終わらせてやることがなくなってしまうと、考えることは決まってあの日のクリスティアンの姿だった。最近はいつもそうだ。
甘い、恋人に向けるような目でセシルを見て、優しく唇を重ねて、さらには深く吐息を奪われたあの日のこと。
「……どうして、今更。もうずっと、忘れようとして、わたくしはずっと……」
こぼれてしまった一筋の涙を拭う。
雨がまた強くなったようだ。
そういえば、あの日も激しい雨の日だった。