1、セシルの受難(1)
フィリップ一世退位ののち、即位したヘンリー六世は未婚のまま早世した。跡継ぎとなる子はいない。
フィリップ一世は慌てた。
ヘンリー六世にもしものことがあったときに頼れる第二王子リチャードが、諸事情により隣国フレライン王国の王位に即いていたためだ。
このときフィリップ一世が跡継ぎとして指名したのは、クレイヴィンス伯爵家に嫁いでいた第一王女コーネリアの一人息子レオナルドである。
かくして即位したレオナルド四世には、二人の息子がいた。ジョシュア第一王子とクリスティアン第二王子である。
馬車での事故により崩御したレオナルド四世のあとを継いで、ジョシュアが即位した。王妃としたのは、フレライン王国の王女プリムローズだった。政略結婚ではあったが、二人の仲は睦まじかったという。
また、第二王子クリスティアンが結婚したのは、自国内の貴族である、セシル・ブラッドフィールド女侯爵だった。「黒薔薇姫」と呼ばれた彼女を、クリスティアンは溺愛していたそうだ。
(イザリエ王国史5巻より)
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漆黒の髪は、何本かの房に分けて編んだあと高く結い上げる。
髪飾りは繊細な金細工の台にルビーで作られた薔薇がセットされた、最高級品。両耳の前にたらした髪は、透き通るような肌に触れて揺れる。
元から赤い唇にはうっすらと紅の刷いて、髪飾りと一通りのパリュールを身につけた。
今日のドレスは落ち着いた赤で、ところどころダークグレーのレースが付いている。
セシルは鏡の中の赤い瞳と目が合うと、大きく頷いて拳を握った。
「……毎度毎度のことだけれど、自分の悪役面には嫌気がさすわね。ええ、美しいでしょうとも。さすがはわたくし、お母さまに似てよかったわ。でもね、ここまで赤が似合うってどうかと思うのよ。わたくしっ、本当は社交なんて得意じゃなくて、古狸たちとやり合うのもめんどくさいしっ!屋敷でまったりしたいのに!」
鏡の中の自分に喧嘩をふっかける主をしらっとした目で見ながら、ヴィアンカは大きくため息をついた。
「……黙っていれば、最高の淑女なのに。」
家で口を開けば、職務怠慢の残念系お嬢様。
外で口を開けば、緊張から高飛車お嬢様。
社交界で「黒薔薇姫」とあだ名される彼女、セシル・ブラッドフィールドは、ここイザリエ王国でも指折りの名家ファドリック侯爵家の現当主である。
黒髪にルビーの瞳、白磁の肌をもつそれはそれは麗しい淑女。
「とりあえずお嬢様、ご自分で美しいなどと自画自賛してはいけませんよ。」
「わかっているわよ。ヴィアンカ。」
はっきりとした声を返したセシルは、気合を入れたのか、先ほどをぐだっとした様子は一切ない。すっと背筋を伸ばして前を向く姿は、なるほど確かに「黒薔薇姫」にふさわしい美しさである。
ある……のだが……
「セシル様、お手に隠されたチョコレートはおいていってくださいね。」
ヴィアンカの言葉にピシッと固まったセシルは、そそくさとテーブルの上にチョコレートをおいて上目遣いにヴィアンカを伺った。
姉のようにして育ってきたヴィアンカは、セシルを見てうっと声を詰まらせる。これはセシルの怒らないでね、の意思表示であった。
「…遅れますよ、セシル様。」
「えぇ、行って参ります。」
にこやかに馬車に乗り込んだセシルは、もう完全にファドリック女侯爵仕様にはいっている。
そうしてファドリック侯爵家の馬車は、イザリエ王国の王宮レヴィンエーゼル城へと進んで行くのだった。
執事はばたばたと足音を荒げて、玄関ホールへと急いだ。しかし、そこに彼の主であるセシル・ブラッドフィールドの姿はない。
「ヴィアンカ!ヴィアンカ!」
「まぁ、ウォットさま、如何致しました?」
ただごとでない執事ウォットの様子に、ヴィアンカは駆け寄った。
「大変なのだ!私としたことが、セシル様に書状を渡すのを忘れていて!」
「……それは貴方が悪いのでは?」
「それはもうどうでもよいのだ!問題は、問題は…」
ウォットがもつ手紙をのぞき込むと、
「プリムローズ王妃…?」
差出人はこの国の王妃だった。
「今夜の舞踏会で、陛下が無理やりセシル様の婚約者を決めるそうだ。だから、だから嫌がるようなら連れてこなくてよいと…」
ヴィアンカは額に手を当てて、そらをあおいだ。
「今夜は荒れますわね…」
彼らの主セシル・ブラッドフィールドは、
根っからの男嫌いである。