救出と仲間
陰湿な監獄のような場所に、一人の男がやって来た。
「やあ、久し振りだね。名前何てったっけ?」
無愛想な来客に気軽に声をかけるクロ。とても監禁されているとは思えない、ゆったりとした表情で、鉄格子越しに顔を覗き見る程度の相手に愛想を振りまく。
「……久しくお会いしなかったうちに……また若返りましたかな? サース殿」
白い顎鬚に深く刻まれた皺。そして貫禄のある響きをもった声。クロをサースと呼ぶ人物はかなり少ない。その中の一人だ。
「僕が若返ったんじゃなくて、君が年を取っただけだよ、ギーナス博士。僕よりも君の方がまともな『人間』としての役割を果たしていると思うけどね」
皮肉を込めて、クロが言う。
「貴方のような天才が、老いて醜くなっていくのを見なくてほっとしているのですがね、この気持ちは分かっていただけないのですかな?」
「ははっ……皮肉にしか聞こえないね。僕は僕で苦労してるんだよ、これでも」
「単刀直入に聞きましょう。『賢者の水』……いや、素になる『賢者の石』。あれは今でも貴方の元に?」
言葉から察するに、ギーナスは、『賢者の水』を造るために必要な『賢者の石』そのものを手に入れようとしているのか。
そもそも『賢者の水』は、幻や伝説の類とされてきた『賢者の石』から、数十の過程を経て精製される。今この国の工房に出回っているのは、すでに精製をされた純粋な『賢者の水』だけ。原材料となる『賢者の石』は、今はその在り処さえも極秘情報になっている。知っているのはクロと、この国の国王のみ。それをギーナスはすでに知っているのか。
「そんな質問に簡単に答えるとでも思ってるの?」
「いいえ、聞いてみたかったのですよ。一番の興味はそこでしてね。私がいくら研究に没頭しようとも、その素材もなければ情報もほとんどない。これでは王国の研究が捗らない。と、先日国王にも上申したところですよ」
あくまでも冷静に、穏やかな口調で語りかけるギーナスだが、表情はやはり無愛想だった。内心では、クロがなかなか本音を言わないことや、自分が真相に辿り着けないことに対する苛立ちが大部分を占めているのだろう。穏やかな口調とは裏腹に、醸し出す殺気が語っている。
「で? 国王は何て?」
「それが……」
俯き、首を横に振ってみせる。
「だろうね。そんな簡単に教えられるわけないもんね、……特に王宮内にいる裏切り者には」
「何?」
「君でしょ? 僕をしつこく勧誘してきて、挙句の果てには工房の天井に穴まで空けて僕を誘拐するように部下を差し向けてきたの。狙いはすぐに分かったから、きっと君の仕業だと思ったんだよね」
敵の黒幕を相手に、あくまで余裕の態度を崩さないクロ。逆にギーナスにはかなりのプレッシャーになっているのだろう。
「当たりでしょ? 隠したってもう意味ないよ。バレたって顔してるもんね」
「やはり天才……少々侮っていたようだな」
ギーナスの口調が変わる。
「そういう意味でも天才なんだ? 少し考えれば、僕の工房のスタッフだって気が付くことだと思うよ?」
クロの余裕はこれか。自分が誘拐されたことに対し、必ずスタッフたちが動き出すことを信じている。クロが最も信頼をおく仲間が、必ず救い出しにきてくれると信じ、一切の疑いを持っていない。
「職人どもが動き出したところで、我らが王宮には入ることすらできまい。研究所にもすでに手を回して、勝手な手続きは取らぬよう指示してあるしな。諦めて我々の研究に貢献することですよ、サース殿」
陰では裏切り者と噂されている彼の命令に、下っ端の警備員がどこまで対応できるのかは疑問が残るが、ギーナスは余裕だった。
「こんな所で研究させるの? 助手は?」
長い耳の後ろを掻きながら、あくまでのんびりとクロが聞く。
確かに、ここはクロの研究には似つかわしくない場所だ。普段なら、賑やかな工房の声を聞きながら、柔らかな日差しの中、ゆったりと自分のペースで研究するのが日課の彼にとっては、この陰湿な空間はさぞ居心地が悪いだろう。
「助手は研究室の者を向かわせよう」
「あと、研究するなら僕の資料が必要なんだけどな……」
「心配せずとも、それも手配済みですよ。いずれ届きましょう」
「ふーん……。ま、いいけどね」
言うとクロは、ギーナスに背を向け、室内に設置してある研究設備を一通りチェックし始めた。研究場所が変わっても、彼の探究心が途絶えることはないらしい。ギーナスが来るまでは寝そべってぼんやりしていたのだが、彼の場合、頭を使う何かをしていないと落ち着かないのだ。
研究用に用意していただけあって、クロが普段使っているような設備がほぼ完備してある。彼は薬剤や機械を確認し、早速ペンを片手に何やら作業を始めた。
その様子を見て、満足そうに去っていくギーナス。硬質な足音が遠ざかっていく。足音が完全に聞こえなくなるのを待って、クロはペンを置き、室内の調査を始めた。
重厚な石造りの床と壁、そして同じく石造りの低い天井。小さな、クロの頭がようやく入るかという程度の灯りとりの窓が天井付近の壁にあるだけ。その小さな窓からは弱々しく光が入っている。窓の位置から察するに、ここは半地下になっているのだろうか。床はひんやりとしていて、部屋の隅には湿気がこもり、少々カビ臭い。
壁の反対側は、その壁と同じくらい巨大な鉄格子で閉ざされ、廊下からやって来た人物からはここが丸見えだ。唯一プライバシーが保てるのは、カーテンで仕切られただけのバスルーム。そこには申し訳程度の換気口があるだけで、他に出られそうな場所はない。
(助けてもらう前に自分で出ようと思ったんだけど……これじゃ無理だなあ……)
一通り部屋を歩いてみたが、やはり出られそうな場所はない。先程ギーナスが助手を連れてくると言っていた。その助手が入ってくるときに、隙を突いて鉄格子から抜けられないだろうか。平然を装っていたけれど、クロも心細いのだ。ウサギの臆病さが身についているせいかもしれない。
ただ、今脱出計画を考えてみても埒が明かないことだけははっきりした。クロは諦めて、設備されている中でできる範囲の研究に取り掛かることにした。
今現在行なっている彼の研究。それは『賢者の水』に関わることではあるのだが、不老不死を求めているわけではない。むしろその逆だった。彼の止まってしまった時間を取り戻すための研究だ。
『賢者の水』は、すでに精製されたものが各工房に出回っているが、ギーナスの目的はそれではなく、『賢者の石』の方だ。『賢者の水』の精製段階で何らかの工程を踏めば、クロが昔飲んだものと同じ、不老不死の水ができるのではないかと考えているのだろう。
無論クロにはそんなものを教えるつもりはカケラもない。彼もまた、他の人間と同じように、いつ終わるとも分からない自分の生に、ある意味恐怖心を抱いているのかもしれない。実験と称した自分の若き日の過ちに、少なからず後悔の念を抱いているのだろう。
王宮の周囲をぐるりと取り囲む、背の高い塀。正面に見える門扉の前には、直立不動の門番が二人。彼ら工房の職人たちと王女は、それを見据えて一つ大きく息をつく。王宮への入り口は目の前だが、研究室はそこから少し離れた場所に、渡り廊下で繋がっている。研究室は、渡り廊下の先の出入り口の他、一般の工房長や職長たちのための出入り口がある。有限動力工房の三人の職人たちは、そこからの潜入を試みるようだ。
レインとホクシー、ラムは開け放たれた門扉をくぐり、案内板に従い、研究室のある中庭の方へと歩を進めた。一方、アルとシルビアは堂々と正門から、整備された前庭を通り、王宮に入る。
「待て。王宮に入るには許可証が必要だ。見せてもらおうか」
偉そうな門番に止められたが、アルもシルビアも落ち着いたものである。
「門番には私の顔は知られていないようですね。それとも、新しく入られた方かしら?」
威厳を込めた口調で、門番に問いかける。
「は?」
間抜けな声で、門番。
「私はシルビア。シルビア・ヴァン・ラスティンヴァース。この国の王女です。戻りました。門を開けなさい」
「は、ははっ! こここれは大変なご無礼をお許し下さい! どうぞ中へ!」
恐縮して、物凄い勢いで道を譲る門番。
「ととところで王女様、そちらの方は……?」
しどろもどろの口調のまま、勢いで通り過ぎようとしていたアルに目を留め、ようやく問い質した。
「こちらはアルヴィンス・ヘラルド様。私を下町で助けていただいたのです。この方にもご無礼のないように」
「は、ははっ!」
開け放たれた荘厳な扉から、王宮内へと進んでいく二人。そこら中にいた衛兵たちから、驚きと喜びの声を受け、優雅に答えるシルビア。やがて何人かのメイドが彼女たちの前に現れた。
「王女様、心配していたのですよ……本当に、ご無事で何よりです」
「心配かけてごめんなさい。すぐに着替えます。こちらの方もお部屋にご案内して」
「かしこまりました。さ、アルヴィンス様、こちらへどうぞ」
「ああ」
言うと、シルビアは着替えのために王女の間へ、アルヴィンスは来客用の部屋に通された。そこでようやく、アルは背に負った大剣を下ろした。よくこんなものを背負ったままで中に通されたものだ。
「ただ今お茶をお持ちいたします。どうぞおくつろぎ下さいませ」
「ああ、ありがとう」
こちらも物怖じすることなく、王宮の内装に馴染んでいる。普段着のままで来ているのだから、浮いているのは態度ではなく、服装だけなのかもしれない。やはり元々高貴な生まれのせいなのか。それとも単にふてぶてしい性格なのか。
しばらくして、香りの良いお茶が運ばれてきた。優雅にお茶を楽しむことしばし。やがて、シルビアがお供のメイドと共にアルのいる客室にやって来た。
「ほう……やっぱりお姫様だな」
アルの感嘆の台詞に、ムッとした表情を見せたメイドだったが、シルビアが何ら気にかける様子もなかったので、彼女からは何も言えなかったようだ。何も言わないが、不審者を見るような目つきがキツくなっている。
シルビアは、レースをふんだんに使った、裾の広いドレス。いかにも王女という出で立ちで、優雅にアルの前にあるソファに腰をかける。一旦メイドに席を外させ、ゆっくりと話ができる状況をつくる。
「この服も……着慣れてはいるのですが、やはり町娘風の格好の方が楽ですね」
言って苦笑するシルビア。
「いやいや、人って着る物によって大分雰囲気変わるんだな。よく似合ってるよ。さすがは王女様だな」
しばらくの間は部屋の外を気にしながら他愛のない話をしていたが、ドアの外の人の気配がなくなったところで、いよいよ本題だ。
「王家直属の研究室は、この王宮から渡り廊下を経た中庭に設置されています。そこまではご案内できるのですが、その奥、研究室には私でも許可がないと入れない決まりになっているんですよね……急な理由というのも不自然ですし……」
ここまできて研究室には簡単には入れないという。
「いや、研究室の方はレインたちが上手くやってくれてると思うから、俺たちは他に職長が監禁されていそうな場所を特定することが先だな」
「というと?」
「研究室って、まさか電波が届かないようになってるわけじゃないだろ?」
「電波というと、外との通信ですよね? それはできるはずですけど」
「なら職長はそこにはいないな。俺たちのこのバッジ、電波の届く範囲ならいつでも通信できるはずなんだけど、職長からの連絡もないし、俺たちからも連絡が取れないんだよ。だから、もし監禁されてるとしたら、電波が遮断されてるような……例えば地下室あたりが怪しいと思うんだ」
「なるほど……」
シルビアは必死に思考回路を働かせる。
この王宮、普段使われている場所はほんの一部で、それ以外にも多くの部屋や設備があるのだ。廊下や部屋、扉が複雑に入り組んでいる造りになっている。建設された当時の名残なのだという。
シルビアのこれまでの生活圏は王宮内ではあったが、王女という立場上、必要のない部屋には入ったことがないのだ。無論、地下室に監獄のような部屋が存在することなど、知らなかったに違いない。
「王宮の中ってさ、いろんな避難経路があるんだろ? 最近使われていないような場所とかって心当たりは?」
「そうですね……、いくつかは以前に教えていただきましたけれど……知らない場所は他にもあるはずなんです。私が持っている鍵でも、使わずにいるものがありますから」
「それだ! いくつかあるんだったら、順に調べていくしかないだろうけど、それを最優先で実行してみる価値はありそうだ」
「分かりました。私の権限で開けることが出来る場所には、人を監禁できるような設備はありませんでしたから、恐らくそれ以外の場所でしょうね」
言ってシルビアは、いくつもの鍵の束を取り出し、選り分けていった。
「この五つですね。私には必要のない場所らしいので、一度も行ったことはありませんが」
「物は試しだ、一つ一つ当たっていこうぜ?」
「ええ」
一方その頃、研究室に向かった三人。
「この許可証の写し、まだ有効なんでしょ? 何で入れないわけ?」
レインが爬虫類の目とトカゲの尻尾を持つ衛兵に突っかかっていた。
「だから今、この研究室の許可証は受け付けていないのだよ。新たに手続きを取れば別だと思うのだが……」
「新たにって、結構時間かかるんだろ?」
憮然とした表情のレイン。
「落ち着けレイン。ここで問答しているよりも、新たに許可を貰った方が早いんじゃないか?」
ホクシーがなだめる。彼がクロの研究室から持ち出したのは、研究室への出入り許可証の写しだった。普段ならば、許可証の写しと工房長の証明など、必要書類をそろえれば長でなくとも入室できるはずなのだが、今回はそうはいかないらしい。新たな手続きを取ることができれば、研究室への出入りは可能だと言う。ギーナスの言葉は、下っ端警備兵には浸透していないようだ。
「そうですねー、新たに手続きをお願いしますー…」
ラムが衛兵を促す。レインは相変わらず憮然とした表情。
「ならばこちらへ」
衛兵にラムが従う。それに続いてホクシー、しぶしぶレインがついていく。
「ラム、匂いはどうだ?」
衛兵に聞こえない程度の声で、ホクシーが問う。犬の耳を持っているので、かなり小声でもラムには通じる。
「まだ分かりません。研究室の匂いが強いせいで……」
「そうか、焦るなよ」
「はい」
まもなく案内されたのは、研究室のすぐ隣にある簡素な建物。どうやら衛兵たちの詰め所らしい。王宮内に案内されなかったのは幸運だったと言うべきか。
「こちらで手続きをして下さい。写しがあるなら簡単なもので済みますから」
と、木製のカウンターまで案内された三人は、手続きをすることになった。これまで使用していた許可証をほとんどそのまま写すだけの様式のようだ。
「妙だな」
ぼそりと呟いたのはホクシーだ。
「何がです?」
ラムとレインはそろって同じような表情。互いに、衛兵には聞こえない程度の小声で、書類からは目を離さずに。
「新たに手続きを取るにしては簡単すぎやしないか? 今はもっと厳重にしていてもおかしくないはずだが……」
「言われてみるとそうっスね」
「研究室にはそれほど秘密にしておくものはないということか……それとも他に何か罠があるのか……」
ぼそぼそと話しながらも、全ての項目を記入する。少し離れて見ていた、先程の衛兵が戻ってくる。
「書き終わったかな?」
「ええ…、これでいいのかしらー?」
ラムが用紙を手渡す。一通りチェックし、衛兵は手続きのために奥に向かう。またしばらく待ち時間がありそうだ。
「職長がいるのは研究室ではないようだな」
「そうっスね。もしいるなら、同じ工房の俺たちを簡単に通すわけないっスもんね」
研究室の警備が強化されているわけではないようだ。最も、中に入らないことには状況は分からないのだが。
「でも……そうだとしたらー…、今私たちは……何をすればいいのでしょうー…?」
「とりあえず、僕たちは研究を続ける職人ということで研究室に入るのだからな。あまり向こうを警戒すると逆に怪しまれる」
「そうですねー…、分かりました……」
しばらくすると、書類を持った衛兵が戻ってきた。
「これで研究室に入る手続きは終了です。どうぞお入り下さい」
「ありがとう」
新たな許可証を受け取ると、三人は詰め所を後にし、すぐ隣にある研究室へと向かった。やけにすんなりと発行されたことに、少々の不審感を抱いたが、今は怪しまれないように振る舞うしかない。
二重になっているドアをくぐると、中には多くの機材や大きな本棚が並んでいる。それらに囲まれ、何人かの職人と思しき者たちが黙々と研究を続けていた。三人も、来客用に用意されている白衣を着込み、その中に混じる。
「このドアの他に出入りできそうな場所を探そう」
表情や態度を崩さないまま、ホクシーが促す。二人は無言で頷きながら、手近な書類や機械に目をやる。
機材や本棚の中から必要なものを探し出す素振りを見せながら、怪しまれないように王宮への出入り口を探す。彼らが入ってきたこの部屋からは、当然ながらクロの匂いや気配はしない。研究室は、このメインの大部屋の他に、ドアで仕切られた部屋がいくつもある。やはり三人のスタッフバッジにも、クロからの通信はない。となると、彼らの予想も地下か、あるいは電波が遮断されたような空間。そういった場所への手がかりを探す。
「さすがは王室直属の研究室ねー……設備がすごーい……」
手がかりを探しながらも、この研究室の設備に感動しているのは、科学者のラムだ。確かに、自分達の工房よりも遥かに広いし、最先端の機材も整っている。ただ、何かが物足りない。
「だが、『賢者の水』や『賢者の石』に関する資料が明らかに少ないな。一般に出回っている程度のものしかない……故意に削除してあるようだ」
辺りの研究材料をざっと目にしただけで、ホクシーがそれに気付く。
「やっぱり、ここじゃないどこかに専門の研究施設があるってことっスよね?」
「そうなるな」
いくつかに区切られたブースに三人集まり、資料を見る振りをしながら、周囲に感づかれないように相談する。幸い、このブースは透明なガラスに囲まれており、中での話し声はほぼ完全に遮断される。外から中は丸見えなので、行動には気をつけなければならないが。
外からの出入り口と、渡り廊下を除いて、ドアは三つ。全てに『王家研究員専用』と書かれ、施錠されているようだ。渡り廊下へのドアには衛兵が張り付いており、素通りすることはできそうもなかった。
「さて、どうするか、だ」
設置されている椅子に座り、ホクシーが切り出す。見る限り、怪しげな場所はなさそうだった。
「あらー…? 何かおかしな匂いがしませんかー…?」
犬とほぼ同等の嗅覚を持ったラムが、不意に辺りを見回して言う。無論、人間と同じ程度の嗅覚しか持たないレインとホクシーには分からない。だがラムの様子を見る限り、冗談などではないようだ。
「どんな匂いだ?」
「ちょっと……薬臭い感じの……嫌な匂いです」
研究室内は様々な薬品が置かれ、どれも独特の匂いを発しているため、この説明でははっきりしない。
「あれ? あれ見て下さいよ、あの天井の穴」
素早く辺りを見回したレインが、天井を向いたままで二人に呼びかける。見上げた天井には換気口と思われる穴がいくつかあるのだが、そこから白っぽい煙のようなものが噴き出してきていた。
「まずいな……ここは密閉空間だぞ? あれがもし毒ガスででもあったら、僕たちの命もやばいぞ」
言うなりホクシーは、二人を促してブースから飛び出す。
「室内にも煙が!」
ガチャンっ!
「入り口ドアがっ!」
「閉じ込める気だな?」
開放してあった研究室のドアが施錠される音が響き渡った。
いつの間にか、研究室には衛兵の姿がなくなっている。密閉された空間に降り注ぐ白い気体。ブースから突然飛び出してきた三人の尋常ではない様子に、他にいた研究員たちにもどよめきが起こる。異常に気付くが、すでに遅い。
「う……」
研究員たちが次々と呻き声を上げて床に倒れこむ。人一倍嗅覚の良いラムも、たまらず床にうずくまる。
「大丈夫か? ラム」
「え、……ええ……。どうやら、毒ガスではないようだけどー……神経ガスに……似てるわね……意識が……」
朦朧とした意識の中、必死に自我を保とうとするラム。続いてレイン、そしてホクシーまでもが、防ぐ術もなく机にしがみつくように倒れこむ。三人の意識が遠のく……。
「どうしようかなぁ……」
わざとらしく、大きめの声で独り呟く。返事をする者はいない。右手にはペン、左手には分厚い辞書のような本を抱え、挟めてあるメモ用紙にはずらりと並べられた計算式。狭い空間を留まることなく歩き回りながら、クロが考えを巡らせていた。ギーナスが去ってから小一時間ほど経過しているが、未だ助手という存在は送られてきていなかった。
一人静かな空間で時間が過ぎるのを待つだけのクロには、いつもの研究の続きを行うこと以外にやることがない。ただ、いつもの空間とは全く異質のこの室内で、落ち着いて研究が出来るわけでもなく、加えて自分の資料がないことも、クロから『落ち着き』という言葉を奪う結果になっている。
「早く来ないかな、誰か」
言葉を口にしてみても、誰も答えるものはいないのだが、声に出すことで落ち着こうとしているのかもしれない。
やがて遠くから、ドアが開閉する音が聞こえてきた。数人の足音。良すぎるクロの耳には、その人物がここに来るまでの距離も分かるのだが、待ちきれないクロは鉄格子の錠前付近でその人物を待った。
一定の歩調で近付いてくる数人の足音は、クロの待つ鉄格子の前で止まった。
「あれ、ギーナス博士。後ろにいるのはウチの工房の職人たちじゃないの?」
知った顔が現れたことで、正直ほっとしたクロだったが、ギーナスの手前、平然を装って応対する。
そう、現れたのは工房の科学者と技術者、研究室に乗り込んだ三人だった。それぞれに、工房から持ち出したと思われるクロの資料を山のように抱えたまま、ギーナスに従っていた。
「ウチの職人たちに何をしたの? 様子がおかしいんだけどさ」
ラムもレインもホクシーも、いつもの目の輝きがない。ただ無言のまま、ギーナスに従っている。操られているようだ。
「いやいや、大したことはしておりませんよ。ただ実にタイミング良く我が研究室にやって来たものでね。助手としては最高ではないですかな?」
「確かに。ウチの職人たちなら信頼は置けるけどね。今の状態じゃなければ……ね」
ギーナスと、工房の三人の他には衛兵が三人。どう頑張っても隙を見て逃げ出すことはできそうもなかった。それに、三人の様子がおかしい。このまま三人を連れてここを出ることは不可能だろう。今はギーナスに言われたとおり、この場所で状況を見ていくしかなさそうだった。
「ラム、レイン、ホクシー、僕が分かるかい?」
輝きのない、蝋人形のような三人に声をかけるが、返答はない。普通ならよろけてしまいそうな量の資料を平然と持って、三人は鉄格子を抜け、それを順に机に置くと、そのままそこに直立不動。……かなり不気味だった。
「助手があれこれ口出しをしては邪魔になりますからな。これで研究に集中できるというもの。我が目的を知ってしまったのなら、貴方が今すべきことはお分かりでしょう」
にやりと笑いながら、ギーナスが言う。彼が今クロにさせたいこと。監禁された理由もそこにあった。今なら、工房の職人たちが持ってきたクロの資料をもって『賢者の水』と『賢者の石』の研究をすることができる。
『賢者の水』は、『賢者の石』から幾つもの段階を経て精製される。開発に携わっていたクロならば、それを逆に辿ることで『賢者の石』を新たに作ることができるのではないか。ギーナスはそう考えている。
「ふう……簡単に言うけどね。開発段階での偶然の産物っていうこともあるし、どんな人間でも全てに同じ効果が現れるとも限らないんだよ? それでもやろうってワケ?」
「そう。私が欲しているのは『賢者の石』なのだよ、サース殿。たとえ『石』の在り処が分かったところで、貴方が飲んだような『賢者の水』を造り出す技術がないものでね。王室直属の研究員が全員で取り組んでも埒が明かなかったもので、貴方にお願いしているのですよ」
とても『お願い』しているふうには見えないが、ギーナスはしゃあしゃあと言ってのける。救出のためにやってきた三人の工職人たちは、逆に人質ということになってしまったわけだ。
「では、期待しておりますよ、サース殿」
言って踵を返す。残ったのはギーナスが連れてきた衛兵が三人。鉄格子の向こう側で、先ほどからいた衛兵とともに、こちらに背を向けて微動だにすることなく任務についている。
「……困ったなぁ……ねえ、君たち」
クロの言葉は、蝋人形のようになってしまった三人に向けられていたが、返答はやはりなかった。
「まずは三人を元に戻してあげないとね」
言うなり、設置してある本棚や自分の資料の中からごそごそと色々な物を引っ張り出し、研究ではなく、調査を始めた。陰気な室内にあっても、調査を進めるクロの動きに淀みはない。
三人の身体から、かすかに薬品の匂いがする。衣服の他にも目や耳、尻尾の先まで丹念に診察する。そして匂いの強い部分から、サンプルとして毛や衣服の糸、皮膚の表面を綿棒にこすりつけるようにして、その成分を採取する。
顕微鏡を覗き込み、彼らが嗅がされた薬品であろう物質の特定に取り掛かる。いくつもの辞書や自分の資料から、効果・効能として当てはまる薬剤を探していく。気の遠くなるような地道な作業だが、クロにとっては至極単純、苦になるものではない。ただ、整理が苦手なクロにとっては、あたり一面に資料が散乱するのは時間の問題。
「うー……ん……このサンプルだと難しいかなぁ……」
ぼやきながらも、懸命に薬物の特定を急ぐ。時間を経るごとに、クロが使っている机の上どころか、その下の床にまで資料が散乱していく。やはりその散乱した資料から、またいくつか引っ張り出し、広げて机の上に置いては、また机のものが一つ落ちる。
そんな調査も一時間ほどで完成に近付いてきていた。
「ちょっとしみるかもしれないから、目、閉じててね」
言うと、それまで微動だにしなかった三人は、揃って目を閉じ、やはりそのまま動かなかった。
しゅううううっ!
クロは片手で口と鼻を押さえ、簡易スプレーの容器で精製された液体タイプの薬を、三人の全身に降りかけた。
『はあっくしょんっ!』
同時に、これまで自分の意志では動かなかった三人が、盛大なくしゃみをした。
「……畜生」
くしゃみのあとに鼻をすすり、『畜生』を言うのはレインだ。
「や、皆。調子はどう?」
レインの『畜生』は、先ほどの薬が成功したことを意味する。まだボーっとしている他の二人にも、瞳には以前の輝きが戻ってきていた。
「大丈夫かい?」
もう一度、クロが問う。
「え、ええー……って、あああーっ! 職長—っ!」
「職長っ!」
「職長! 無事だったんスね!」
どうやら解毒剤は成功したようだ。すっかり意志と元気を取り戻した三人は、口々にクロの無事を喜ぶ。中でも一番喜んでいるのは、他でもないクロだろう。いつもどおりのスタッフがここにいる。脱出は困難としても、これほど心強いものはない。
「ところで、君たちどうしてこんな所に?」
しばらくの間、お互いの無事を喜んでいたのだが、落ち着きを取り戻したところで、クロが三人にこれまでの経緯を問う。クロの質問にはホクシーが淡々とした口調で答えるが、やはりガスを吸ってしまったところでは、言いにくそうに言葉のペースが落ちる。
「私の鼻でー…気付いたは気付いたんですけどー……そのときにはもう遅かったようですー……」
「他の連中はまだ研究室で寝てるか、もしかすると別の研究を手伝わされてるのかもしれないっスね」
「タチが悪いなぁ」
呆れたようにクロが言う。
己の欲求を満たすためならば、誰かれ構わず利用するのが、あのギーナスのやり方なのだろう。
「ねえ、衛兵さん」
「ん?」
先ほどからずっと微動だにせず、鉄格子に背中を向けていた衛兵に声をかける。
「皆元に戻ったんだけど、それって博士に伝えに行かなくてもいいわけ?」
三人が元に戻ってからというもの、いつものあの工房での賑やかさが少し取り戻されているのだが、報告に行く気配もなく、四人の衛兵はやはり微動だにせずそこにいた。当然、これまでの会話も耳に入っているだろう。
「我々の任務は、あなた方をここから出さないようにするだけだからな。与えられた任務外のことをしては、上からどやされるもんでね」
しれっとして衛兵の一人が言う。やはりこちらを見ようともしなかった。他の三人も同じ心境らしい。
「じゃあ別にここでどんな話をしてても、博士には伝えないんだね?」
クロが念を押す。
「ああ。あなた方がどんな話をしようとも、我々にはちんぷんかんぷんだしな。好きなようにしていてくれ」
衛兵は本当にただの見張り役に徹している。最も、この狭い空間では、衛兵が立っている場所以外に出入りする場所はないのだから、そこさえ守っていれば職務は全うできるのだろう。
「さて、それじゃあ本題に入るかな」
クロが仕切り直す。硬いベッドに腰掛けて、それぞれの報告をもう一度まとめてみる。
ラム、レイン、ホクシーが、新たな手続きをとって研究室に入った。そこには、『賢者の石』どころか『賢者の水』の資料がほとんどなかったこと。ガラスで仕切られたブースで三人が集まったところに、不意に毒ガスのようなものが研究室内に入ってきて、他の研究者もろとも意識が遠のいたことを改めて説明する。
「新しい許可書って?」
「ええ、職長の部屋から失敬してきたものですけど、普段ならこれと僕たちのスタッフバッジで研究室には入れるはずなんです。ですが、新たに手続きを取ることになっているようですね」
「僕の部屋には写ししか置いていなかったけど、それでは入れなかったということだね?」
「ええ」
「じゃあ、新たな手続きを取る時に、自分達の工房と名前を書く欄があったでしょ? それは正直に書いたのかい?」
「そうです。全員目立つところにバッジをつけていましたから……偽名だとすぐに怪しまれると思って」
そのバッジを見て、ギーナスは三人を助手としてここに監禁しようとしたわけだ。だがクロがあっさりとその催眠を解くことは想定外だったに違いない。
「で? アルとシルビアは?」
「二人は堂々と王宮の正門から入り込むことにしたんスけど、騒ぎが起きてないところをみると、成功したみたいっスね」
「アルが来てくれれば百人力だからね。それまではゆっくり研究でもしようかな」
すっかり落ち着きを取り戻したクロは、いつもの自分の資料を手に、いつもの研究を進め始めた。その様子に合わせるように、三人はクロの手伝いに回る。
陰気臭かった部屋の空気も、少しだけ明るく、彼らを迎え入れているようだった。