客人と騒動
彼女がこの工房に馴染むまで、王族の者が庶民の暮らしに馴染むまでは、しばらく時間がかかりそうだった。
彼女の居室は、客間用に残っていた一つを簡単に整理しただけの簡素なもの。それでも、王宮育ちの王女様は、どうやらお気に召したようだ。スタッフとはほとんど顔を会わせなかったが、彼らの仕事も興味津々で覗いていた。
その日の夜。スタッフたちがそれぞれに仕事を終え、自宅へと戻った後。工房には職長であるクロと、その助手であるアル、そして今日から食客として迎え入れたシルビアが残った。
「きゃあああっ!」
がしゃあぁんっ!
悲鳴と同時に皿の割れる音が、工房内に響き渡った。
工房の奥は彼ら二人の生活スペースとなっており、キッチンは一番奥だ。普段はここで、アルが日々の食事を作っているのだが……。
「どうしたっ?」
あまりの大きさの悲鳴に、アルが自室から飛び出してきた。今日はシルビアが料理を作りたいと申し出てきたので、アルは自室で時間を潰していたのだった。
「ご、ごめんなさい……お皿を……」
「ああ、それでか。いいよ、気にすんな。料理作ってもらってありがたいし……さ……」
アルの最後の台詞は歯切れが悪い。それもそうだろう。いつもならアルが管理しているキッチンが、見るも無惨な姿に変貌を遂げていたのだから。
「お前……シルビア」
「は、はい」
「料理……したことあるのか?」
最も基本的な疑問を投げかける。
「あ……いいえ」
今更ながら、『そう言えば……』という表情のシルビア。
「……………………いいよ、俺がやるよ」
それもそうだろう。今までは王宮で、上げ膳据え膳の生活をしてきた王女が、いきなり庶民のキッチンに立って庶民風の食事をまともに作れるワケがない。もちろん、お茶を淹れるとか、簡単なお菓子を作るくらいなら、躾として身についているのだろうが、さすがに夕食を作るなどという芸当ができるわけがない。
アルは、見事に無惨な姿に変貌したキッチンを見回し、まだ使える材料を集め、壊れたキッチンツールを片付け、実に手際よく夕食の支度を始めた。邪魔にならないように隅に避けて、アルの手際を感心したように、珍しそうに眺めるシルビア。
「あの……ごめんなさい」
かなり恐縮した様子で、シルビア。
「ははっ、いいっていいって。いきなりこんな仕事頼んだ俺も悪いしさ。今日は俺が作るよ。お口に合うかどうかは分かりませんが?」
少々ふざけた口調で、気楽に答えるアル。
「あの……今度、教えてくださいね」
「オッケ、覚えてくれたら俺たちもありがたいしね」
「ふふっ、ありがとう。今日はお邪魔にならないように、見ているだけでもいいかしら?」
「もちろん」
言うと、鼻歌混じりに慣れた手つきで夕食の支度を進める。
やがて、香ばしい、良い香りが漂ってきた頃、研究室からクロが出てきた。
「今日のメニューは?」
開口一番にこの台詞。この職長、一番の年長権限なのか、家事一切には全く手をつけないのだ。もしかすると、研究以外のことに関してはほとんど無頓着なのかもしれない。
「ええ、職長のお気に入りですよ。温野菜のパスタと、白身魚のムニエル」
「んん……美味しそうな匂いだね。ところで……その隅っこにいろんな残骸があるような気がするんだけど……?」
クロが目ざとく見つけたのは、キッチンの隅、ゴミ箱の付近にある、いつもなら置いていないはずのゴミと化した元お皿やグラス、焦げたパンや煤で汚れたランチョンマットなどなど。
「あ、アレは私が……その、ごめんなさい」
再び恐縮した様子で、シルビアが謝る。何をどうしたのかは分からないが、色々なものがゴミと化してしまったらしい。
「ああ、今度俺がシルビアに料理教えますよ。それよりお腹減ったでしょ? ちょうど出来上がったんで、食べましょ」
その場を取り繕うでもなく、いたって自然に、アル。クロもそれ以上追求することなく、いつものキッチンで、いつもと違うメンバーでの夕食が始まった。
「まあ、美味しい」
「お褒めに預かりまして光栄ですね」
茶化した調子のアルが答える。いつもなら口にしないであろう庶民の料理だ。初めて食べた感想がこれでは、作ったほうも嬉しいというもの。自然と笑顔になるアルとシルビア。クロはいつもの調子で黙々と料理を口に運ぶ。彼が褒めることはほとんどないが、文句を言わないところを見ると、美味しいということだろう。彼の場合、まずいと感じた時はそれを口に出すか、あるいは食べない。
「ねえ職長」
「ん?」
「今何の研究してるんですか?」
フォークを止めて、アルが問う。
「いつものやつだよ、『賢者の水』」
フォークは止めないままで、クロが答える。
『賢者の水』。それは生命を預かる工房では欠かせない、人間と機械、それから生体材料とをつなぎ合わせる、いわば中和剤のようなもの。
ここだけの話、実はクロの成長が止まってしまったのには、この『賢者の水』が大いに関係していたりする。
「今よりもずっと患者に負担をかけないように、改良しようと思ってるんだけどね、なかなか進まなくて困ってるんだよ」
ここではじめてフォークを置き、少し考えるような素振りを見せる。
「『賢者の水』ですか?」
「知ってるのか? シルビア」
口を挟んだシルビアに、アルが問いかける。クロも視線を彼女に送る。
「ええ、王宮にいたころに聞いたことがありますわ」
「『賢者の水』を知ってるってことは……『賢者の石』も知ってるの?」
今度はクロが探るような口調で問いかける。
「ええ、もともと『賢者の水』は『賢者の石』から作られるとか……」
「シルビア、君本当に自分の身体にメスを入れるのが怖くて逃げ出してきたの?」
「え……?」
クロが問うと、シルビアはフォークを止め、一瞬ではあったが怯えたような表情を見せた。
「ま、今聞くことじゃないね。食事を続けようか」
さらりと聞き流し、クロが再びフォークを動かす。しばらくは無言のまま、食事を進める音だけが聞こえてくる。三人が三人とも、声に出さずに何かを、深いところで考えている。シルビアは気まずそうに食事のペースを落としたが、アルが優しく微笑むだけで、その場を和ませてしまった。
『賢者の石』と『賢者の水』。色々なところで聞く名前ではあるが、ここでは『生命』そのものを永らえさせると言われている代物で、とても一般に出回るような素材ではない。『生命』そのものを扱う工房では、当然のように出回っているが、その存在は一般人が知るべきことではないともされているものだ。シルビアがいる前でその話を出したのは、彼女が何らかの、別の理由で王宮を抜け出したことを察したからだろう。彼女の反応を見る限り、見当違いではなさそうだ。
彼女が王宮から逃げ出してきたのには、やはりそれなりの理由があるようだ。
やがて静かな夕食が終わり、片付けをはじめたのだが、ここでも彼女はやらかした。当然、これまではしたことのない作業だから当然のことなのだろうが、ここまでで彼女が破壊したキッチンの道具は、すでに数え切れない域に達していた。
彼女の仕事を家事ということに定着させるまで、もしくはただの食客として迎え入れるまでは、当然アルが面倒を見ることになる。アルはあまり気にはしていないようだったが、面相を見なくてはならない人物が一人増えてしまった。
「おはようございます、職長、アル。職長、今日は早いんですね」
爽やかな笑顔で工房に一番乗りしたのは、事務のシャル。シャム猫のような頭部に人間の身体、手足は人間のものだが、衣服に隠れているため、見た目はほとんど猫。当然尻尾も優雅になびいている。
「おはよう、シャル」
珍しく早起きのクロが出迎える。
「おはよう、シルビア」
奥にいたシルビアに目を留めて、優しく挨拶を交わす。シャルは、アルを見慣れているせいか、どこにも動物のパーツがない、いたって純粋な人間であるシルビアに驚く様子もなく、いつものように事務仕事を始めた。昨日客として出迎えた時から会っているのだから、当然といえば当然か。他人の素性に関して深く問い詰めないのは、事務係としての責任だろうか。
「おう……おはよう、シャル」
寝ぼけた様子で遅れた返事をするのはアル。普段は、スタッフが来る頃にはスッキリと身支度を整えているのだが、今朝はそうではないようだ。遅くまでキッチンの片づけをしていたのだから、寝不足でもあるらしい。
「おはよう諸君!」
いきなり大声で入って来たのはレイン。お調子者の彼はいつもの調子で、やはりシルビアにも同じような態度で挨拶を交わし、いつものようにコーラを片手に、真っ直ぐに自分の研究室へと入っていった。
「おはようございます、職長、アル。シャルもレインも……いつも早いな」
穏やかに入ってきたのはホクシーだ。生真面目に眼鏡の位置を直しながら、コーヒーを片手に研究室へ。シルビアには軽く会釈をしただけだったが、決して冷たい表情ではない。
「あの……」
おずおずと奥から出て来ていたシルビアが、アルに向かって問いかける。
「ん?」
「なぜ私がここにいるのか、とか……あまり皆さん気になさらないようですけど……」
町では『良い値で売れる』と言われて襲われたのがトラウマになりかけているのか、自分が純粋な『人間』であることに対して少なからず恐怖心を抱いてしまったのだろう。ここのスタッフがあまりに自然なので、逆に驚いているようだ。
「ああ、入院患者か何かだと思ってるんだろ? ま、純粋な人間っていうなら俺も同じだし。ねえ職長」
「そうだね。この工房にはアルがいるから、『人間』であることには誇りを持っていいよ」
「そういうものなのですか……?」
「ま、あんまり深く考えないこった。あとの二人がそろったら、改めて紹介するよ」
あえて軽い口調でアル。『あとの二人』というのは、ラムとロンのことだ。
ばんっ!
古くなっているドアが壊れそうな勢いで駆け込んできたのは、まさにその二人だった。
「遅れてごめんなさーいっ!」
「悪いね、途中でラムが迷子になっちまってね」
「だって……嗅いだことのない薬品の匂いが……」
ぜえぜえと息を切らしながら最後に入ってきたのは、ラムとロンの犬コンビ。来るなりあたふたと説明しているが、いつもの通勤路で迷子になるものなのだろうか……。仮にも犬の嗅覚と耳を持つラムが。
これで工房の職人たちがそろったわけだ。
「さて皆に話がある」
クロが全員を呼んだ。全員がくつろぐことが出来る職長の執務室前にあるリビングで、シルビアを隣に従えて、クロがスタッフたちにことのいきさつを話した。当然、秘密厳守であること、そして『賢者の石』に関わっていそうなことは、まだ伏せてある。
「昨日からここの客人として迎え入れたシルビアだよ。しばらくはアルについてここの家事一般を担ってもらうけど、慣れるまでは皆も協力してあげるように」
「シルビアです。宜しくお願いします」
言ってぺこりと頭を下げる。
「でも珍しいですねー…シルビアさん……アルと一緒で、どこにも移植はしていないのねー…」
と、質問をしたのはラムだ。嗅覚で分かるらしい。
「はい。あの……皆さんにお願いがあるのですが……」
「何?」
「私はどこにも不自由はないのですけど、内臓の一部に移植しているということにしてもらえないでしょうか?」
やはり昨日の一件が尾を引いているようだ。そうでも言わなければ、町に出た時にまたチンピラに絡まれてしまう。内蔵を移植しても外見は変わらない。そうと気付く者は、ラムのように鼻の利く科学者くらいだ。……しばらくはアルが一緒に行動をすることになるので、そういう心配はまずないといってもいいのだが、ここは本人が望むようにと、スタッフ一同が納得した。
「さ、話は以上だよ。皆今日も一日よろしくね」
クロが話を至極簡単にまとめたところで、今日も工房の忙しい一日が始まった。
町にはこの工房以外にもいくつかの工房があり、ほとんどが同じ区域に集まっている。ここはその中でも小さい工房だが、歴史がかなり古い。それでも来客が絶えないのは、歴史があるということ以外に、やはり技術がずば抜けているからであろう。
町の工房の中には、『人攫い』チームと結託し、あくどいことを平気でやっている工房もある。シルビアを町で襲い、攫おうとした連中がそういう場所に出入りしている。やはり信用が置けるところを選ぶのが常識というものだ。
工房が立ち並ぶ区域を抜けた場所にある商店街で、アルとシルビアは買い出しの真っ最中だった。
「今日は買う物が多いからな」
「ええ、いろんなお店があって面白いわ」
……というのも、昨夜シルビアが破壊したキッチンツールが主である。そのシルビアは、女性の嗜みがきっちり身に付いており、アルの半歩後ろをしっかりとついて来ていた。本来ならば、こういう町中を歩く時には肩を並べて歩きたいものだが、アルがいくら言ってもそうしようとしないのだ。お陰で、アルはしょっちゅう後ろを気にしながら歩くことになってしまっている。
「ところでシルビア」
大きな荷物を抱え、いつものように大剣を背に負ったアルが、半歩後ろを歩くシルビアに声をかける。彼女は物珍しそうに、立ち並ぶ商店をしきりに眺めながら歩いていた。
「はい?」
「お前王宮から逃げ出してきたんだろ?」
「え、ええ……」
歯切れ悪く、シルビア。……仮にも王女に向かって『お前』など、アル以外には出来ない芸当だ。
「それなら、王宮の連中が探し回ってるかも知れないからな、周りに注意しててくれな? それに……」
と、ここで一旦声を潜め、シルビアに近付く。
「『賢者の石』について何か知ってるみたいだからな、『人攫い』とか他の工房の連中にも注意してくれ」
『賢者の石』に関しての情報は、巷には噂程度しか流れていない。それを知りたいと思う者、そしてそれを利用して良からぬ事を考える者は数知れない。そのことを知っているというだけで、危険な代物なのだ。
「わ、分かりました」
不安がよぎったのだろう、アルの背中をしっかりと掴む。そして、表情を少し引き締め、今度はしっかりとした返事を返してきた。
「よし」
まるで妹の面倒を見る兄のように、シルビアの頭にポン、と手を置く。
「それじゃ、あとは食料の買い出しだな。それが終わったら一旦工房に戻って、俺はパトロールにでも行くかな」
「はい。それでは私は工房の掃除でも」
「…………………………いや、それは俺も一緒にやるよ。」
昨夜のことを思い出し、アルはスケジュールを変更することにした。さらっと言い出したが、王宮育ちの彼女は掃除などというものはしたことがないだろう。それでなくても、工房には職人たちの研究材料がそろっているのだ。キッチンツールなどとは違い、それらを破壊されてはアルもどうしようもない。
彼らはその後、食料を買い込んで工房への帰路へとついた。その途中。
「おう、アルヴィンス。その後ろにいるのは昨日のお嬢ちゃんじゃねえか。知り合いだったのか?」
と、ガラ悪く声をかけてきたのは、昨日シルビアを脅していた、狼の顔をした人攫いチームの数人。アルは相手を確認するや否や、シルビアを背中に庇う。どうやら若手ばかりのようで、アルの評判をあまり知らないのだろう。もしくはただの命知らずか。
「今日こそはそのお嬢ちゃんを俺たちに譲ってもらおうか?」
「残念だったな。この子は渡さないぜ? それに、この子は内臓に移植してあるから、商品価値はあんまりないぞ」
この『人攫いチーム』。普段の彼らの生業は、五体満足の純粋な『人間』を攫い、あくどい工房に売りつけること。工房の中には、動物のそれではなく、人間の一部を使用する技術者・科学者も多くいるのが現状。そういう工房に連れて行かれるということは、イコール死を意味する。もしくは、全てのパーツを動物のモノと入れ替え、例えが困難な合成動物にされてしまう。そして、心臓や脳を摘出されてしまえば、珍しい『生き物』として見世物小屋へ直行だ。
まさかこの国の王女様にそんな運命を辿らせるわけには無論いかない。
アルは抱えていた荷物を一旦下に置くと、白昼堂々、人目を気にせず自慢の大剣をすらりと引き抜き、臨戦態勢に入る。人攫いチームの面々も、手に手に凶器を携えて、今にも襲い掛かってきそうな状況だ。
「今日こそは……目に物見せてやるぜ」
粋がって出てきたのは中でも一番の若手なのだろう。血気盛んとはこういうことをいうのかもしれない。集まってきていた野次馬が、かなり遠巻きになってその様子を興味津々と見ている。
「お前ら……俺の評判を聞いてないのかよ?」
半ば呆れ気味に、アル。じりじりと動いて、シルビアを工房へと続く路地へと誘導する。合わせるように、人攫いたちも動く。
「うるせえっ!」
言うなり一人突っ込んでくる若手人攫い。
「シルビア下がれ! このまま路地を抜ければ工房だ、走れ!」
「はいっ!」
アルの大声に驚いたのか、それとも人攫いが怖いのか、あるいはその両方からか、シルビアはアルの背に隠れるようにしながら全力で路地を駆け抜ける! アルの大剣と人攫いのナイフが交錯する。金属音。
シルビアが全力で走る。目的の工房まではあとわずか。……と、その時。
「きゃああああっ!」
「っ? シルビアっ?」
いきなりの彼女の悲鳴に、思わず彼女が走っていった方を振り返るアル。その間にも勘だけで相手のナイフをかいくぐり、大剣の柄で相手の鳩尾に一撃を喰らわす。その勢いでシルビアの後を全力で追いかける。
「へへへっ……つまらねえ手に引っかかりやがって」
勝ち誇った顔で言うのは、この人攫いチームのリーダーだろう。半ば以上禿げ上がった大男。彼だけは狼の顔をしていなかった。だが、体幹移植でもしたのだろうか、人間の頭にはおよそ不釣合いながっちりとした体格をしている。筋力も相当強そうだ。
「…………そうかな?」
恐らくトラやゴリラなどの強靭な肉体を持っているのであろう。その男にシルビアをがっちりと捕らえられ、アルの後ろからはまだ数人の若手の人攫い。とてもではないが、華奢なシルビアにその男の手を振り払うなどという芸当はできそうもない。だがこの状況で、アルは不敵に笑ってみせた。ここは工房の目と鼻の先。
「何?」
シルビアを放さぬままで、嘲るような響きをもって人攫いのリーダーが問う。
「おい、レイン!」
奥の工房に向かって、アルが大声で叫ぶ。
「はいよ」
「何っ?」
答える声は彼らの頭上から聞こえてきた。……さすがは猿。身軽さを活かして屋根の上からの応援だ。表の騒ぎを聞いていたのだろう。
「シルビアのこと、頼むよ」
「まかせなさいって」
軽い口調で答えるレインは、持ち前の身軽さで人攫いのリーダーの真後ろに、軽い音をたてて華麗に着地。意表を突かれたその男は、思わずシルビアを放し、真後ろのレインに向き直った。その隙にシルビアを助けに入ったのは、同じく工房の技術者、ホクシーだ。レインの派手な立ち回りに周囲が気を取られている間に、静かに近づいていたのだ。彼はシルビアを抱えるようにひょいっと持ち上げると、工房へと一目散に逃げていった。蛇の力強さかどうかは分からないが、逃げ足の速さは賞賛に値する。
「さて、人質は返してもらったし……昨日の礼もあるからな……今日はとことんやらせてもらうぜ?」
不敵にそう言うと、真正面から人攫いのリーダーに向き直るアル。後ろから迫ってきた連中には目もくれない。気配だけで、彼らがじりっと後退りしたのが分かったのだろう。
「畜生……ここまで来て退けるか! かかれっ!」
リーダーが一括。後退りしていた子分たちに命令を下す。我に返ったのかヤケクソか、一斉に攻撃を仕掛けてくる若手人攫いたち。
路地を抜けたここは、工房の目の前の通り。この騒ぎで人通りは減っているが、決して広い場所とはいえない。そんな中でアルの大剣は、実のところ非常に不利だった。
「悪ぃけど、借りるな」
言うと、先頭切って突っ込んできた一人のナイフをすり抜けざまにたたき落として奪い取り、そのまま柄を使ってその男を沈める。
たとえ大剣をナイフに変えたところで、凶器であることに変わりない。アルは身軽に攻撃をかわしながら、次々に相手をノックダウンさせていった。……強い。さすがにこの町の用心棒を自称するだけのことはある。いくつものケモノの強靭な肉体を持っているであろう人攫いたちを、あっという間に地に叩き伏せてしまった。といっても、殺すわけではない。その後の処理はこの町の警護班の仕事だ。その内騒ぎを聞きつけてやって来るだろう。
「さあって……残るはあんただな、禿オヤジ」
「おぅのぉれぇえ……ワシの可愛い弟子どもをよくも……」
怒りで相当頭に血が上っているようだ。額に青筋を立てているが、その頬から流れ出る冷たいものがいくつか。
「さって、どうする? ここであんたを縛り上げて、あとは警護班に引き渡して任せるのが常識なんだけどさ……」
ナイフを両手で弄ぶようにしながら、殺気のこもった目でアルが続ける。
「な、なんだ? どうしようって言うんだ?」
「取り引き、しない?」
いきなり軽い口調で提案するアル。
「取り引き?」
唐突なアルの提案に、オウム返しで問うてくる禿オヤジ……もとい、人攫いのリーダー。
「まあ、取り引きって言っても、あんたにはあんまり利益はないんだけどな。なぜあんなにまでしてシルビアを欲しがっているのか。他にも見た目キレーな人間なら探せばいくらでもいそうなもんなのに、だ。それに、あんたらの情報の流通経路を俺たちはまだ知らないからな、その辺りを教えてくれさえすれば、今回のことは忘れてやるよ」
確かに、ごく少数であるとはいえ、純粋な『人間』の肉体を持つ者は存在する。普段ならば避けて通るはずのアルの目の前で、なぜシルビアに手を出したのか。『人攫い』としての仕事とするならば、脆弱な若い『人間』の方がしやすいのではないか……アルはそう考えた。
ならば……。
「そんなこと……簡単に口に出して言ってみろ。俺たちが殺される」
「ほう……ってことは俺に殺されるワケじゃねーな。誰に殺されるって?」
「だから言えるかあっ!」
「じゃあ今死ぬか?」
言って今度は自前の大剣を構え、切っ先を突きつける。冷ややかな声で。
「どうする? 俺は秘密は守るほうだし、口も堅い(と思う)。今ここで死んどくのと、命拾いしてどこか田舎にでも引っ越して隠居するか……二つに一つだが?」
切っ先はそのまま、冷ややかな声もそのままで、さらに脅しをかける。
相手は考えているのか、しばし沈黙のまま時が流れる。
「…………分かった……。俺も命は惜しい。ここで貴様に殺られるよりは、少しでも俺の身が安全な方を選ぼうじゃねえか……」
諦めたような口調でぼそりと口にする。
「ほう、賢い選択だな。で? 誰だ?」
「……王家の人間だ」
「…………………………」
相手の短い返答に、沈黙で答えるアル。この回答は想定の範囲内だったわけだ。
シルビアはただ己の身体にメスを入れることを拒否し、王宮から逃げ出しただけ。確かにそう言ったはずだ。だが、一国の王女のお迎えにしては、この連中はとてもではないが似つかわしくない。たとえそれが王家の命令だったとしてもだ。
となると、シルビアを王宮に連れ戻す理由は他にあると考えられなくもない。純粋な、しかも王族の直系の身体を欲しがる理由が、他にあるはず。
アルはこう考えていた。
「他には?」
短く問う。
「さあな……俺たちは王家のある人物から命令を受けただけだ。そいつがどんなヤツだろうが、どんな役職についていようが、そんなものに興味はない……貰えるモノさえ貰えりゃな……」
戦意を喪失しきった男が、力なく白状する。
「そうか。じゃあいいや。こいつら連れてとっとと町から……いや、命が惜しけりゃ国を出な」
抜き身の剣を鞘に収めながら、アルが促す。
「はっ……言われなくとも」
最後に憎々しげにそう言うと、人攫いのリーダーは倒れている仲間を何人も、いとも軽々と持ち上げると、アルに背中を向けて去っていった。アルもまた、それを見届けると工房への道を辿る。