日常と始まり
空は雲ひとつなく晴れ渡り、小さく浮かんでいるのは大空を舞う鳥の影。小高い丘の裾野に広がる城下町には、色とりどりの屋根が並び、軒を連ねた商店街には賑やかな呼び声が響き渡る。
城の近くには高貴な身分の住人たち。そして次第に庶民の層が増えていき、今回のこの話の舞台へと続いていく。商店街と住宅街に挟まれた、比較的賑やかな場所だ。
その賑やかな場所に、『有限動力工房』と名づけられた小さな工房が、その大きさに反比例するように、威風堂々、建っていた。
几帳面に敷き詰められた石畳の模様の上を、遊ぶように歩く小さな靴と、のんびりとした音をたててゆったりと歩く大きめの靴。この靴たちの主は、一見してバランスの悪い二人組みで、じっくり観察してもやっぱりバランスは良くない方だ。
「いい天気っすね、職長」
背の高い、短い金髪の青年が、少し前を歩く小さな黒い帽子の少年に声をかける。
「ね。外に出て良かったでしょ?」
振り返るその声はいかにも可愛らしい子供のようだ。なぜか敬意を払っているような話し方をしているのは青年の方で、いくつかの店で買い物をしてきたのであろう種類の違う紙袋を一人で抱えていた。
「ま、外に出るのは構わないんすけどね……職長いっつも迷子になるんだもん。あとから探す方の身にもなって下さいよ?」
「仕方ないでしょ……僕の頭の中には工房の地図と研究のことしか収容できるスペースがないんだからさ」
無意味に胸を張って応える黒い帽子の少年。
彼の名はクロ。クロムウェル・サース。身長は青年の胸元に届くかどうか。白に近い銀色の髪の毛が、黒い帽子から覗いている。彼の着ている服は、帽子と同じ色で統一されていて、可愛らしいスーツのようなデザインだ。
注目すべきは彼の耳なのだが、この世界、特にこの町の人間から見ればごくごくありふれている。クロの耳は真っ白い毛皮で覆われた、長い耳。そう、ウサギのそれだ。瞳も、ウサギのそれと同じく赤い。小さな尻尾もあるようだが、衣服に隠れてほとんど見ることができない。
この世界の人間たちは、身体そのものやその機能が不完全な者が、完全な者の割合に比べて非常に高い。生まれついて手や足を持っていなかったり、内臓に致命的な疾患があったり、年齢を重ねるごとにその機能を完全に失ってしまったりと、身体のパーツが不完全なのだ。それを補うための技術が発達しているこの世界で、その技術の発祥の地であり最先端にあるのが、このヴァースタウンである。小高い丘の上にあるのが、この国を治めるラスティンヴァースの居城だ。
「そうっすね、他にもいろんな知識がみっちりですもんね」
一方、荷物を抱えた金髪の青年。
彼の名はアルヴィンス・ヘラルド。いつもはアルと呼ばれている。彼はクロと比べるとカラフルな色を纏っており、その背中には刀身に厚みのある大振りの剣を担いでいる。こちらの方が目立つのだが、アルにはもう一つ目立つ要因があった。……彼にはどこにも不完全なパーツはない。内臓という場合も考えられるのだが、彼の場合にはそれもいたって健康である。
不完全な者の割合と前述したが、正確には一部を除いた大半の者が、と言うべきだろう。一部というのは王族のことだ。一般市民で完全な『人間』の形を保っていられる者は、若くして死に至る場合が多い上に、こちらも天文学的に数字が低いのが事実だ。が、アルの場合は若くして死んでしまうほどに病弱ではないし、むしろその逆。はじめのうちこそ気味悪がられていたが、今ではすっかりその人柄に、周囲の者も皆馴染んでいる。
この世界では、不自由になった身体のパーツを、動物のそれと交換することで生き長らえるということが、日常的に行われている。
その中心ともいえる工房を預かるのが、先程のウサギ耳の(見た目)少年、クロなのだ。中心の工房といっても、下町にある、ごくごく小さな工房だ。
二人は買い出しを終え、本拠地たる工房に戻って来ていた。さっそく荷物を整理し始めたのは、『自称』助手兼用心棒・アルヴィンス。クロの方はというと、そそくさと自分の研究室に篭ってしまった。
『自称』助手兼用心棒のアルは、片付けを終えると自室に戻り、いつも肌身離さず持っている大剣の手入れなどを始めた。
彼の素性を知っている者は、クロ以外にはこの工房のメンバーだけ。あとは限られた一部の人間だ。今ではこの工房の助手兼用心棒と名乗っているのだが、実際彼には『技術』というものはほとんど教えられていない。
彼ら工房の職人の仕事は、人間の『使えなくなった』、あるいは『足りない』パーツを、すでに自らの生命を生き抜き、静かに眠っている動物たちから摘出し、新たな身体の一部として稼動させること。大きな処置や手術などは主にクロが担当することになっているが、当然一人では無理な部分があり、そこを補っていくのは、工房にいる科学者や技術者になる。逆に、クロが手を出さずともできる処置も多くある。アルの助手としての役割は、クロや他のスタッフたちの身の回りの世話だけ、といっても過言ではないだろう。
そしてもう一つ、アルには役割があった。ある経緯で知り合ったクロに命を救われ、彼の助手となったのだが、商売柄、というか、クロの秘密を知りたがって工房に訪れる者も多い。その挙句、クロを狙ってくる悪党があとを絶たないという事実がある。そういう輩から、自前の剣で彼を守ること。そして、ついでに街の治安を守るべく、買出しを兼ねたパトロールを日課としている。
今では、その長身と金髪、そして背に負った大剣を見ただけで逃げていくチンピラも少なくない。性格はいたって温厚なのだが、悪人に対して容赦はしない。
ここで、この工房のメンバーを紹介しておこう。
まずは言わずと知れた職長のクロムウェル・サース。見た目は少年だが、この工房の誰よりも知識は高く、そして誰よりも年を取っている。
彼の説によると、実験と称して酒のような薬を造り、それを自分が試飲したところ、身体の成長が完全に止まってしまったというのだ。見た目こそまだ可愛らしい少年の姿を保っているが、スタッフたちの誰よりも年は取っている。どうやら、性格は幼さと貫禄を併せ持っているようだ。
アルについては後々分かってくることが多いので、その他の人物を紹介しておこう。
科学者であるラム・フェルド。
人間と動物とのシンクロ率を計算し、ピッタリのパートナーを探すことを仕事としている。もちろん、処置や手術に関しても彼女は関わっている。ストレートの長い黒髪で、いつもくたびれたような白衣を身につけ、色気というものをほとんど捨ててしまっている真面目な女性。彼女の身体は人間だが、耳、鼻は犬のものだ。そして身体のバランスを保つために、同じく犬の尻尾が生えている。
そして技術担当のレイン・ウィルマン。
彼は機械や生体材料(多くはクリスタルケースの中に眠っている)のパーツを組み込んで、それぞれを活かす研究と実践をしている。お調子者で、天然パーマの赤い髪。それを気にしているのか、いつも帽子で隠しているのだが、後ろ毛が少々はみ出ているので、あまり意味はない。もしかしたら、お洒落の一環なのかもしれない。猿のような器用な手と、同じく細長い尻尾。とても身軽で、木登りや高いところからの偵察なんかが得意だったりする。黒と赤を基調とした、少年のような出で立ちだ。その上から、いつも白衣を重ね着している。
同じく技術者なのが、ホクシー・リュウ。
レインとは正反対で、几帳面で、少しインテリくさいイメージがある。耳の辺りまである綺麗な黒髪で、雰囲気は清潔そのもの。白衣もいつもピシッと着こなしている。彼は皮膚が弱いらしく、部分的に蛇の皮膚を移植している。瞳も爬虫類のそれだ。口数も少なく、眼鏡が似合う。
ロナルドは通称ロン。
毛足の長い老犬で、主に事務処理を担当している。犬のパーツを移植してあるラムとは仲がいいらしい。かなり年は取っているはずだが、気分はまだ若いつもりでいるらしい。時々ジジイ言葉が出てくることもあるのだが、普段は紳士を気取っている。彼は内臓を患い、人間から移植を受けた特殊な例の一匹だ。同じく口の骨格にも少し手を加えてあり、人間の言葉を流暢に話すことが出来るのだ。
最後の一人はシャル。
こちらは身体のほとんどが人間のかたちをしていて、ロンとともにこの工房の事務を担当している。顔や身体は薄ピンク色の淡い毛で覆われており、ただ見ていると着ぐるみが歩いているように見える。彼女は生まれつき全身の皮膚・耳・眼球など、あらゆる部分が不足したまま生まれてきてしまったのだ。そのため、彼女と相性のいい猫の皮膚や耳などを移植し、見た目が猫の着ぐるみなのだ。逆に、内臓の方は健全である。猫の用心深さと俊敏さをも兼ね備えているらしいが、あまり役に立ったことはない。因みに、犬と猫、仲が悪そうに見えるが、実際にはそうではない。
この七人が、今の工房のスタッフたちだ。科学•技術者は一般に『職人』と呼ぶことにする。
今日もまた、新たな『パーツ』を求めて、工房は繁盛している。
「やあ、いらっしゃい」
受付にいたロンが愛想良く客を出迎える。
「やあ、ロン。ここんとこ足の具合が良くなくてね、こないだ整備してもらったんだけど……やっぱりサルだと二足歩行が難しいのかね?」
今回の客は、両足を不慮の事故で無くしてしまったという初老の男性。この工房で最初の治療を受けて以来、ずっと通っている。彼はサルとの相性が一番いいらしく、そういう選択肢になってしまったようだが……。
「そうさな……二足歩行ができる動物と言ったら、猿くらいが適当なんだがね……。もう一度検査して、技術に頼んで少し歩きやすいように改良してもらうか?」
男性のカルテを開きながら、ロンが提案する。
「そうだな。普段の生活に支障がなければいいんだが……そうか、改良することもできるのか」
ただ移植するだけでは終わらない。この工房では、アフターケアもかなり充実している。
「ああ、科学者と技術者の腕にもよるけどな。ラム? 手空いてるか?」
言いながら振り返り、奥の間にあるラムの研究室に届くように声をかける。
「大丈夫よー? 急患ならー……職長もいるけどー…」
奥の間からすぐに返事が帰ってきた。妙に間延びしているが、これがラムだ。受付に来ている患者にまで聞こえる声で、部屋から出ずに答える。
「いやいや、ラムさんにやってもらえるなら助かるよ。今すぐ出来るのかい?」
少しの間をおいて、ラムが受付までやって来た。ラムの姿を認め、男性患者が問いかける。
いつものように少しくたびれた白衣にズレかけた眼鏡。いかにも研究員という出で立ちで、ラムは男性から改めて事情を聞く。その後で、彼のカルテを手に、早速自分の研究室にその男性を招き入れた。
「サルだと骨格がどうしても前傾姿勢になっちゃうからねー…。膝も前に出てるし…ベースが人間だからー…手術で腰の負担を減らせば、大分楽になると思うわー。猿のお手本のレインにも手伝ってもらうねー。ベッドに横になって待っててー」
言うとラムは、レインの研究室へと向かった。
研究室は、ここの職人たちに均等に割り振りされている。研究室といっても、書物だけが並べられているわけではない。機械類もそれなりにあり、緊急手術に対応できる設備は完備してある。他にも大きな手術で使う部屋が一つ。
『ごく小さな工房』と前述したが、それは他の数ある工房と比べると、という意味だ。サイズは小さくとも、設備は決して他に恥じるものではない。
やがてレインも合流し、男性のカルテを調べながら、早速打ち合わせに入る。患者の希望を取り入れ、手順が決まったところで手術開始となる。その間、男性患者をベッドで待たせているわけだが、時間はかからない。実に手際よく、突然の患者に対応している。
清潔な研究室にいて初老の男性は、不安を抱くこともなく、そのまますんなりと手術を受け入れた。
「どう? 前と比べて」
部分的な麻酔をかけただけで、あっという間に手術が終了した。
「ん……まだちょっと麻酔が効いていて分からないけど……、見た目的にも随分人間に近くなった気がするよ」
手術の終わった自分の両足をしげしげと眺め、男性が感想を述べる。
「そうー? 麻酔が切れたらあとは帰ってもいいけどー…今日一日は安静にしててねー。何か異常があったら、すぐに連絡入れてー」
「わかったよ、ラムさん。レインさんも、ありがとう」
「おうよ、またなんかあったら来てくれな」
手術後の部屋を片付けるのを手伝いながら、レインも気軽な口調で彼に言う。その後、彼は麻酔が切れるのを待って、自分の足で工房を後にした。
こんなことが日常的に行われているこの工房では、職長が自分の研究で部屋に引きこもっている間、スタッフたちがほとんど全てに対応し、それに見合った報酬を受け取り、日々の糧にしているのだ。
天気のいい、過ごしやすい日が続くこの季節、アルとクロはまた一緒に下町を散歩していた。アルは自分の買い物(工房の買い出しが主だが)もついでに。
「やあアル、今日もパトロールかい? 職長さんも一緒に?」
比較的人通りの多い通りで、猫の耳をした町の人が、尻尾をピンと張ったまま、気軽に声をかけてくる。
「ああ、今日は天気がいいからって、職長の散歩に付き合ってんすよ。ついでに買い出しも兼ねて。ね、職長?」
荷物を抱えたままで、アルが答える。
「僕には『お守』としか聞こえないんだけど……」
ぼそりと呟いた言葉は、アルの耳には届かなかったようだ。
荷物を抱えたまま、アルが道行く住人たちと軽い挨拶を交わしながら歩く。その少し前を、やや憮然とした表情でトコトコ歩く職長・クロ。
「ねえアル」
少し後ろを振り返る。半眼になっているようだが……。
「何すか?」
「何でいつも僕のすぐ後ろにくっついて来るわけ?」
「そりゃあ、俺は職長の用心棒っすからね。職長が行く所にはどこまでもついて行きますよ?」
さも当然、とばかりにアルが答える。しかし、クロにとってはお目付け役がいるようで、どうやら釈然としないらしい。……臆病なウサギの性分が少しだけあるはずなのに、彼は誰もいない方が落ち着くのだと言う。長年住み慣れているこの町で、いつも迷子になるくせに、散歩は一人で歩きたいらしい。探しに来るのは当然いつもアルの役割なのだが。
さて、工房へと続く路地に差し掛かった頃。
「あれ……なんだろう? ねえアル?」
前を行くクロが目にしたのは、人だかり。ぴょんぴょん飛び跳ねて様子を見ようとするクロだったが、小さなクロには人だかりしか見えない。だが、身長のあるアルの目からは、ただの人だかりではないように見えた。
「ねえアル、見えないよ」
「はいはい」
荷物を抱えたまま、ひょいっとクロを肩に乗せ、自分の目線より高い位置まで担ぎ上げる。
ごつい男の罵声が響き渡っているその周辺は人だかりで見えないが、どうやらその中心には女性がいるのだろう、甲高い、怯えた悲鳴が聞こえてきている。周囲の人たちはただ見ているだけのようで、誰も助け舟を出そうとはしない。単に関わりたくないだけなのかもしれない。
「また追い剥ぎかなんかでしょうかね、ちょっと行って来るんで、職長ここで待ってて下さいね」
白昼堂々、人目を気にせず追い剥ぎなどというものがあるのだろうか。言うとアルは、クロをそっと降ろし、抱えていた荷物もその場に置いて、人だかりの中に入って行った。もちろん、背に負った大剣はそのままで。
「ちょ、ちょっと……嫌です! 離して下さい!」
「いいじゃねえか、あんたここらじゃ見かけねえ顔だしな、俺たちのところに来てくれりゃいい値で売れると思うぜ?」
野次馬の人だかりを潜り抜けてみると、いかにも悪党面をした男が数人、一人の女を囲んで脅しているその風景。どう見ても、痴話喧嘩などには見えない。
男の方はほとんどが狼のそれを移植しているのだろう、迫力を増すためなのか、首から上、それと尻尾が狼だ。凶悪な牙と目がぎらついている。動物的な筋力も兼ね備えているようで、薄い衣服の上からでもその隆々とした筋肉が見える。油断はできない。
「ちょっとお宅ら」
周囲にどよめきが起きた。すたすたと平気な顔で、アルは人混みを制しつつ、彼らに近づき声をかける。細心の注意を払っていることに気付かれないように、気楽に。
「ああん?」
数人がこちらを向く。中には彼を知る者もいたのか、アルの顔を見るなり顔色が変わる。……顔が狼なのでいまいち顔色の判別はしにくいが。
「こんな真っ昼間からあんまり見たくねえ光景だけど……どう見たって嫌がってんじゃねえか、その子」
アルの言葉に、女性を掴んでいた手を思わず離したのは、アルの顔と評判を知っている者だろうか。
ずかずかと近づいて、恐怖で震える女性のもとへと歩み寄りその場に座り込むように女性を庇う。
「あんたら……評判の悪さはいくつか耳に入ってるが……どこの人攫い狼チームだ?」
「何だとこの野郎!」
中でも一番若いと思われる男が、大振りのナイフを取り出し、人目を気にせずいきなりアルに襲い掛かる。周囲の人だかりは一斉にその輪を広げる。だが逃げ出す者はいない。……恐るべし野次馬根性。
「おっと」
アルは、襲い掛かってきたナイフを軽く受け流し、自前の大剣で相手の武器をいとも簡単に破壊する。
「おい! お前じゃ敵わねえ! ここは一旦引くぞ!」
リーダー格なのであろう男が一括。それに従って男たちはバラバラになって、その場を見ていた野次馬を蹴散らすように、一目散に逃げて行った。足の筋力もやはり強化されているようで、その逃げ足はかなりのものだった。
取り残されたのは、腰が抜けたのかその場に座り込んで涙目になっている若い女性。長い黒髪のかなりの美人で、どことなく品がある。着ているものこそ庶民風だが、そんなものでは隠し切れない高貴な雰囲気が残る。
「もう大丈夫だからな」
「は……はい……ありがとうございます」
か細く綺麗な声で、彼女が答える。座り込んでいた女性を助け起こしながら、アルが優しい口調で問いかける。
「この辺りにはウチの工房も近くにあるしな、少し休んでいくか? 事情も聞きたいし。ね、職長いいでしょう?」
クロは、アルが抱えていた荷物を一生懸命抱え直しながら、『仕方ない』という表情を見せた。
人攫いチーム。ここには幾つものこういったチームが存在する。見た目的に綺麗な、主に女性を攫い、モグリの工房に引き渡すのだ。その後の被害者たちの運命は推して知るべし。身体の『パーツ』を高価な額で取引する闇のルートに流すのだ。人攫いに遭い、実際に攫われてしまったなら、その後の運命は決まっているも同然だった。
彼女が落ち着くのを待って、三人は共に歩き出した。路地を曲がった先にあるのが、彼らの本拠地である工房だ。
この女性、身なりこそはどこにでもいそうな町娘風だが、立ち居振る舞いが庶民とは明らかに違っていた。豊かな黒髪。気品のある顔立ち。そして何より、ちらりと見えたペンダントには王家の紋章が刻まれている。
「まあ、あんまり綺麗とは言えないけどね、少しは休めるでしょ」
気楽な口調でアルが受付近くのテーブルと椅子を勧める。来客と知って、一番に熱いココアを入れてきたのは、事務係のシャルだ。
「で? 王女様が何だってこんな下町なんかに? お供も付けないで?」
いきなり核心を突く質問をしたのはクロだ。
熱いココアを飲んで、しばらく黙っていた女性は、人心地がついたのか、ぽつりぽつりとことのいきさつを話し始めた。
「はい……おっしゃるとおり、私はこの国の王女、シルビアと申します。今年十六になります。遅くとも来年のうちには王家のしきたりに従わなければならないのですが……」
「それが嫌で逃げ出してきたのか?」
と、話の途中で割り込んできたこれはアル。とても王家の人間に対する言葉遣いではないのだが、この場合はこちらの方がいいのだろう。身分を隠してまで下町にやってくるほどの事情があるのなら、こちらの対応の方が正しいのかもしれない。この工房で匿うとすれば尚更だ。
このとき、アルの表情がわずかに変化したことに気付いたのはクロだけだった。だがクロはそれに触れず、シルビアの話を聞いている。
「はい。王家の人間は……特に王位継承権を持つ人間ともなれば、この身体にメスを入れて、鳥の……特別な白い鷲の翼を持つことを許されてはいるのですが……どうしても……抵抗があって。家督は、今は修道院にいる妹に譲ると手紙を置いてきたのですが、城の者が来るのは時間の問題。お願いします! どうかここに匿って下さいませんか?」
突然の切羽詰った彼女の言葉に、アルもクロも、ココアを持ってきたままその場にいたシャルも黙ってしまった。
彼ら工房の職人たちの仕事は、人間の不自由な部分を機械と生体材料を組み合わせて補い、生涯をサポートすること。動物のパーツを組み入れることを拒否するような人間を匿うかどうか、複雑なところである。
「……まあ、ここまで必死に訴えられちゃ、俺たちも断るわけには……ねえ職長?」
「そうだね……しばらくはここで匿ってあげることも出来なくはないけど、運命からは逃げられないよ?」
「それでもいいのです! 妹が家督を相続してくれれば、私はそのままの身体でいられるのですから」
実際に彼女が生きている以上、そう簡単に王位継承権を捨てることはできないのだろうが、彼女には他に選択肢が見つからないように見えた。
「そんなにメスを入れるのが怖いのか?」
アルはやはり浮かない表情。
「今は何不自由なく暮らせるのですから……この身体にメスを入れるのは……怖いんです。自分が自分じゃなくなるような気がして……」
言うと彼女は、うなだれ、また泣き出してしまった。
王家の人間以外に、身体的に何の異常もない場合でも、無理矢理にでも移植をしようと試みるのがこの国の常識だ。アルのような特別な者もいるが。完全な身体を持って生まれてきても、多くは若くしてこの世を去ることになる。それが完全なる人間としての身体を持って生まれてきた者の宿命なのだ。その運命を何とか逃れようと、身体にメスを入れる者が大部分を占める。
王族というのは、この国を治めている者たち。王族、特に直系の者は、ある程度の年齢になると、鷲の巨大な翼を持つことを許されている。
王家の紋章が、太陽と月を背に負った鷲。白い翼が王族たる証なのだが、どうやら彼女、何ひとつ不自由のないその体にメスを入れ、自分以外の生物が自分の身体に宿ることにひどい恐怖感を抱いているようだ。
どの道王家を継ぐ者としては必要なことなのだが、嫌なものは嫌、いかにも思春期の女の子という印象がある。
「で? その妹さんは?」
問うたのはアルだ。
「彼女はまだ年齢が達していないので、翼の移植はしておりませんが……王位は私が継ぐものだと思っています。……勉強もまだまだですし……」
そんな妹に重責を押し付けてきたのだろうか。それとも、他に逃げ出すほどの理由があったのだろうか。だが今は、それを知る時期ではないのかもしれない。
「まあ、仕方ないっすね。……職長」
「そうだね。この工房、仕事が終わると僕とアルしかいない男所帯だけど、それでもよければ、しばらくいるといいよ」
最初は渋々話を聞いていたクロだったが、彼自身、何か思うところがあったのだろう。彼女がここにいることを快く承諾してくれた。
「あ、ありがとうございます!」
こうして、工房に一人の食客が居座ることになった。
「ところで……」
「ん?」
「一つお聞きしてもよろしいですか……?」
落ち着いたところで、以前からの疑問だったのだろう言葉を彼女が発した。
「あの、職長……って?」
クロのことである。どう見ても最年少の彼が、年上に見えるアルから『職長』なんぞという肩書きでもって呼ばれていることに疑問を抱くのは当然のことだ。
「ああ、この人ね。実は俺たちよりもずっと年上なんだよ。昔何だかの研究っつって酒飲んでさ、身体が成長しないらしいぜ?」
あっさりと答えたのは、言わずと知れたアルだ。いつもの優しげな表情に戻っている。
「そ、そうなんですか……」
その答えに、疑問を残しつつも何となく納得するシルビア。