第一章 ナジェーム宙航大学(4)
最初はオリエンテーションばかりだった大学のコマ割りも、入学からひと月も過ぎればあっと言う間に専門分野の講義、演習、訓練で埋められる。
しかも進度が速い。ついてこられない者は最初の一年で振り落とされるのだ。
「さて、宇宙空間にも地上とはまた違うが様々な自然災害が起こり得る。代表的なものは何かな、ブラッスール?」
宇宙物理学が専門の初老の教官が、退屈な口調で尋ねた。
「どちらのブラッスールですかぁ、教官?」
ジゼルが手を挙げた。この講義は宙航科と機関科の合同だから、双子はピンクも紫も揃っている。
「あー、ピンクの方。えー、ロアナ・ブラッスール、答えなさい」
はぁいと緊張感のない返事と共に機関科のロアナが立ち上がる。
「太陽風をはじめとする宇宙線、それからデブリ。あと宇宙人の攻撃でぇすっ」
教官は最後の答えを黙殺した。
「宇宙線についてもう少し詳しく」
「えっと。宇宙線は高エネルギー放射線でぇ、恒星からは常時放射されてまーす。惑星上では大気と磁場で守られていますが、宇宙空間ではそれらの遮蔽がないから被爆しちゃうので、地上とは比べられないほどの対策が必要でぇすっ。あと、太陽フレアがあったりー、ましてや超新星爆発なんかのガンマ線バースト浴びちゃうと、生物はもちろん金属なんかの無機物も損傷を受けちゃいまっす」
講義でのこの口調はどうなのだろうとサッタールは苦笑いしたが、教官はなんとも思わないのか重々しくうなずいて話を先に進める。
「……電磁波でも機器の損傷はおきます。二年前の彗星の災厄は記憶に新しいところですが、その後、より一層宇宙線防護の研究が進められているところです」
教官の講義を聞きながらメモを取るサッタールに、隣に陣取っていたケイが囁いた。
「超常能力は電磁波の影響を受けなかったって本当か? それならますます宇宙空間での利用が期待できるな」
利用という言葉に、サッタールはわからないほど微かに眉を寄せた。
まるで機械の一種であるかのように論じられることに違和感を覚えたのだ。
「せめて緊急事態専用だと思っていてくれ」
「そりゃそうだね。君たちは生身の人間だ。消耗したからってあっさりと取り替えようなんて考えてないよ。ただ心強いなって」
ケイはサッタールの違和感に気づいたように、唇をへの字に曲げてうなずいた。
能力を恐れ疎む者もいれば、利用を考える者もいる。どちらが優しい対応なのか、サッタールにはよくわからなかった。
次の亜空間航法の講義は、基礎のエンジン構造をすっ飛ばしていきなり航路の計算方法についてで、一年生は度肝を抜かれた。
「以上の要素をこれらの計算式に入れた上で、ジャンプにかかるエンジンの負荷を考慮しなければならない。実際の計算はANIA(宙航船用人工知能)が行う」
エステルハージ教官が手元のキーボードを操作して、学生たちに系内星図を示す。
「これらの光点は我々の惑星が属しているフィオーレ星系のへリオポーズの外に当たる空間だ。通常、外宇宙への航行は、いったんトゥレーディア基地からフィオーレの重力圏をほぼ完全に脱するここまで亜空間を行き、改めて他星系へと航路を定める。トゥレーディアから直接飛べば無駄がないように思うだろうが、長距離の亜空間航法は恒星の重力圏では到着地点に誤差が大きく出やすいのだ」
ここで小柄な赤毛の教官はにやりと笑って学生たちを眺め渡す。
「そこで諸君らには、まずトゥレーディアからへリオポーズ外までのジャンプに必要な計算を、手でしてもらいたい」
何を要求されたかわからない学生たちが、しんと静まり返り、次の瞬間口々に不満の声をあげた。
「手……って! 計算式のプログラムを自作すればいいんですよね?」
一人が手を挙げて確認を求めた。
「それは手計算とは言わんぞ。つまり、伝統的な紙と鉛筆でやれと言ったのだ。いいか、宇宙空間ではどんな不測の事態がおこるかわからん。ANIAどころか携帯コンピュータすら使えんこともありうる。自分の頭だけが頼りという事態がな」
そんなことになったら亜空間機関だって使えねーじゃんと誰かが呟いたが、教官に聞き流される。
「期限は明日の朝。へリオポーズの外と言っても場所は様々だが、どの座標を選ぶかは君たちに任せる。もし、コンピューターに頼って解答した者がいたら、後の講義は一切受けさせないからそのつもりで」
学生のざわめきを心地よさそうに背に受けて、エステルハージ教官は教室から出ていった。
その日は何かの厄日だったのだろう。次の宇宙航行に関する法規の講義では、星系内における二つの利害関係機関が争った架空の事例が示され、判決文を書いて提出するようにとの宿題が出た。むろん期限は翌日だ。
双子にランチを誘われたサッタールは、アンタレス棟のにぎやかな食堂でPPC(携帯端末)を開いた。当初はサッタールがその場にいるだけで緊張した空気も、この頃は大分緩んでいる。一人ではなく、双子やケイが側にいるからだろう。
「食事しながらそんなことしてもぉ、頭に入らないんじゃなぁい?」
フィシュ・アンド・チップスを前にPPCに没頭する能力者にロアナがのんびりとした声で諫めた。
「ていうかぁ、なんでエアカーの規則見てんのぉ? 宿題は宇宙航路だよ?」
双子は揃ってサッタールの手元をのぞき込んでくる。彼女たちは既にパスタランチを食べ終えて、何味か見当がつかないパステルカラーのソフトクリームを手にしていた。
「交通規則というものを初手からわかっていないからな。どうせなら地上、海上、大気圏内、宇宙空間と順序よく頭に叩き込んだ方がいいだろう」
サッタールは目をPPCから離さないまま、テーピングした手で揚げた芋を取り、口に放り込んでは指先をナプキンで拭う。
「ええ? だってエアカーよぉ? まさかあなたエアカー運転したことないの? それなのにいきなり宇宙船?」
ジゼルが引いた目で見つめてきた。
「ああ。運転はできる。だが法規は必要がなかったからな。セントラルでは乗せてもらうばかりだったし」
「でもでも。宿題は明日だよぉ? 例の計算もあるしー。せめてシャトルの運行規則から始めようよぉ」
ふざけてPPCを操る右手にすがりついたジゼルの手が、後ろから伸びてきた大きな手に遮られ、三人は同時に振り返った。
ユーリ・レワショフがメガネの青年アルヴィン・ケルナーを伴って食べ終わったトレーを片手に立っていた。
「ベタベタくっつくな。そいつはまだ怪我人だ」
「ユーリ! あ、そうね。ご、ごめん。サッタール君」
二メートル近い長身から睨みつけられてジゼルがぺろっと舌を出す。ユーリ・レワショフは眉をひそめてサッタールのPPCに視線を移し、ふんと鼻を鳴らした。
「それに見てみろ。こいつはもう外宇宙船の項目を見てるだろ」
ユーリの言葉に双子は目を丸くした。
「やっぱりそこからにしたのぉ?」
「いや。シャトルまでは大まかに頭に入ったから」
「ええっ!?」
しかし確かにサッタールのPPC画面はめまぐるしくスクロールされて、外宇宙船の貨物船、客船、軍用船のそれぞれに定められた規則のページが流れていく。
「そ、それで、記憶できるの?」
アルヴィンのどもりがちな問いに、サッタールは曖昧に笑ってみせる。
「画面を記憶、という意味なら。内容を本当にきちんと理解しているかなら、それはまだ浅いものだな。系統立てて、個々の事象に当てはめ結論を出すまでには至らない」
「サヴァンとはまた違うみたいだね」
アルヴィンは微笑んでうなずいたが、レワショフは明らかに苛立つように吐き捨てた。
「どこまでも変わり種だな」
その思念に強烈な差別意識を感じ取って、サッタールは表情を消した。ケイ・ストウのように有用性を認めて利用しようというのもあまり嬉しくはないが、こうあからさまな敵意を向けられると、トゥレーディアで死んだジャクソンを思いだしてしまう。もっとも同じ愚は犯すまいとこっそり走査した限り、レワショフに精神感応力はなかったが。
「それを言うならあなたも変わり者よねえ。嫌いな子にまとわりつくなんてぇ。気になって気になって仕方がないって、もしかしたらぁ、好きの裏返しなんじゃないのぉ?」
ロアナがいたずらっぽく言って、ジゼルと一緒にクスクス笑う。レワショフはさっと顔を赤くしたが、隣のアルヴィンがさりげなく腕に触れて首を横に振り止めた。
「す、すまないね、ビッラウラ。僕は君と少し……その、話をしてみたかったんだけど……」
「勝手にしろ」
レワショフはアルヴィンの持っていたトレーを乱暴に奪うと、ドカドカと足音をたてて行ってしまう。アルヴィンは苦笑を漏らしてから双子に丁寧に頭を下げた。
「悪いんだけど……」
「あらぁ、アタシたちも邪魔なのぉ? まあ、いいわ。ユーリのツンツンぶりが秘め られた恋心ってぇ、二人で考察しなくちゃだもん」
ジゼルが笑ってロアナを促して席を立つ。
空いた空間にするりと入り込むようにアルヴィンが座って、きょろきょろと辺りを見回した。サッタールは、近づいてくるもう一つの意識を察知してアルヴィンの後ろに視線を投げると、メガネの学生は気弱な笑みを浮かべた。
「一人、紹介したいんだけど、いいかな?」
サッタールはメガネの奥の鮮やかな青い目を見つめてからPPCの電源落とした。その間に歩み寄って来た女子学生が、綺麗なお辞儀をして自己紹介する。長いダークブラウンの髪がはらりと肩を滑り落ちて一瞬クリーム色の頬を隠した。
「あの……はじめまして。ミスター・ビッラウラ。タキ・ハヤシと言います。アルヴィンと一緒に新しいANIA(外宇宙船用人工知能)の作成に取り組んでいます。ここでは情報工学科の二年になりますが」
島の外では滅多に見ることのない礼に、サッタールは目をわずかに見開いた。
「……はじめまして。で、私に話とは?」
視線をメガネの青年に戻すと、アルヴィンはしばらく黙ってから、どもらないように気を使ってかゆっくりと話し出した。
「宿題、いっぱいあるけど、時間は、大丈夫かな?」
「どうせ明日になればまた新しい課題が出るんだ。三十分ぐらいなら構わない」
「ありがとう。僕とタキは、今彼女が言った通りANIAの研究をしてるんだけど、子供の頃から知っていてね。実は従姉弟なんだ。それで、彼女にぜひ君と話したいことがあるって言われてね」
サッタールが改めて視線をタキに向けると、いかにも東洋系の顔の頬がさあっと赤くなった。
「あの、ユーリ・レワショフに限らずなんだけど。あなたのこと、よく思っていない学生がここにはたくさんいるわ。もちろん……あなたは承知の上でしょうけど、その……」
「そうだな。だが予想していたことだ」
「でも……」
タキは困ったように視線を外して、空のコップを手でもてあそぶ。なかなか本題に入らない彼女に、サッタールはつい心を探ろうとして、やめた。時間はあるから構わないと言ったのはこちらだ。
島の外に出ると、こういうもどかしさが時に悪意を向けられるよりも苛立ちの元になる。
もっと鷹揚に構えられる性格ならよかったのにと、この頃は強く感じていた。中央府との交渉ならいくらかは辛抱強くなれるが、個人の人間関係となると耐性が低いらしい。
「あの、ね。私の家は西大陸でも古くからの物が残っている家で。植民都市が彗星で滅んだ後、間もなく西に渡ってコロニーを作ったみたいなの。それでその頃の記録が残っていて」
それは珍しいことだった。最初の文明が滅んでからの六百年という時は、けっして短くはない。そもそも一回目の彗星の災厄後、百年間の記録はほとんどないのだ。どうやって人類が生き延びたのか、詳細な記録はないに等しい。
その後も幾つもの戦争があり、移住があった。体系的な記録が残っているのは、せいぜい五百年分ぐらいのものだった。
「ほ、本当だよ。僕も見せてもらった。ハヤシ邸に遊びに行った時にね、二人で倉庫を探したんだ。そ、それが紙や羊皮紙じゃなくて、薄い陶板みたいな物に刻まれているんだよ。数百枚はあった。全部は見てないけど」
アルヴィンが横から補足した。
薄い陶板と聞いて、サッタールは苛立ちがすっと収まるのを感じた。それはコラム・ソルで使っている物と同じなのだろうか? あれは能力を使って堅い陶板に文字を刻むのだ。
「ずっと忘れていたんだけど、あなたたちの事がニュースに流れた時。私、もう一度見てみたの。その……好奇心で。子供の頃は、ただ古い物があるなあって思っただけでちゃんと読まなかったから。それで……」
タキはまた口ごもって、ため息をついた。よほど言いにくいことなのだろう。心を読むのは控えていたが、それでも彼女の動悸が聞こえてくるようつただ。
ここで何かリラックスできるような台詞を挟めればいいのだがと、サッタールは自分に憮然とする。大人になったつもりで、全然大人じゃないな、と。
「その中に……特異能力を持った人たちのことがあって……私たち、私の先祖は彼らを……その、ど、奴隷って……」
最後は耳を澄ましても聞き取れないほどの小さな声だった。
「奴隷?」
問い返すと、タキは身を縮めるようにしてうなずいた。
「僕が読ませてもらったのは、奴隷たちが一斉に逃亡したっていう記録だった。ハヤシ家の当主は、残った奴隷だけでこれからどうやって技術を確保するか嘆いていたんだ。つまり、当時、き、君たちのような人々を、奴隷として使役することで、失った文明の肩代わりをさせていたんだろうね。だがずっと昔の話だよ、ご、五百年以上の」
アルヴィンはサッターの反応を心配してか、どもりながらも淡々と解説する。
「考えてみれば、植民当時、人類はこの星にまだすっかりと馴染んでいた訳じゃないはずだ。地球とよく似た星だけど、生態系も違うし、未知の菌やウィルスもいただろう。食用にできる農産物の研究もされていただろうけど、実際の食用には地球から持ち込んだ種を使って耕作していた。一定の区画を人類に都合のいいようにフォーミングして、清浄化された中で暮らしていたんだ。それなのに、突然その安全な暮らしを絶たれて荒野に放り出されたんだよ。生き残る方が奇跡だったんじゃないかと、ぼ、僕は思っている。全滅しなかったのが不思議だよ」
その奇跡の幾ばくかを、能力者が補完した。奴隷という存在として。
「心配はいらない。それを聞いても私は別に気分を害したりはしていない」
サッタールは、まずタキにそう断ってから続けた。
「しかし。超常能力者たちがそう簡単に奴隷なんて境遇に甘んじるとは思えない。不満があれば、いつでも逃げ出せるだろう。柵があっても念動力で壊せるし、透視で監視の目もくぐり抜けられる。意識を乗っ取ることだって、一方的な搾取の中に置かれたらやるだろう。だから奴隷という言葉が、君たちが思うようなものとは違うのかもしれない。言葉もずいぶん変遷しているだろうから」
タキははっとしたように顔を上げた。
「そうでしょうか?」
「いや、事実はその時代に生きていないからわからないけど。少なくとも君が思い悩むことではない」
サッタールは苦労して微笑みを浮かべた。慰めの言葉だったけど、それで彼女の不安が和らぐといいと思った。
タキの話は、島に伝わるアンダーソンの小冊子と共に後でゆっくり考えればいい。
するとアルヴィンがメガネをぐいと上げながら何度も首を振る。
「よ、よかった。ユーリがいつも乱暴な態度だから、そんなことを聞かされたら君にしても不快に思うかもしれない、と、心配していたんだ。も、もちろんタキのせいじゃないけど。でも彼女が、そんな記録でも何か君たちの役に立つかも知れないって」
アルヴィンは、ぱちぱち瞬きさせて、ちらりと腕時計に目を遣った。機関科には計算の宿題はないはずだが、やはりやらねばならない課題も多いのだろう。
「い、今は文明の恩恵を、僕たちは享受している。ここに至るまで超常能力が支えてくれたのなら、感謝すべきなんだ。ANIAの開発をしていると、人間の脳の働きの全てを、模倣するのは、不可能だって気がするんだ。脳は常に深遠なる謎に包まれていて、心がどんな風に生まれるかなんて、いくら脳科学が進んでも、最後のところでわからない。ましてや、き、君たちの感覚を僕たちは想像するしかないけど。でも、うまくやっていけたら、い、い、いいなと思っているよ」
勉強の邪魔をして悪かったと、アルヴィンは小さく笑いながら手を差し出してきた。タキも、今度は礼ではなく赤い頬のまま握手を求めてくる。
サッタールは、内心の苛立ちを隠せていたことにほっとして、二人の手を握り返した。