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エピローグ

 恒星フィオーレから降り注ぐ光が、青い海にたつ細波に反射して、無数のきらめくモザイクを生み出していた。

 潮の香りと髪をなぶる風。

 こんなに静かだっただろうかと思って、すぐにサッタールは首を振った。

 島は以前と変わらない。光も香りも風も。変わったのは自分の方だった。

 人々の呟きが聞こえない。

 鼓膜を揺らす音しか認識できない。


 これまで、他人の心に煩わされないように、または無用に立ち入らないように心に障壁をたてたことはあった。島を出てからはそれが常態でもあった。障壁をたてれば静かに自分だけでいられると安堵さえした。

 でも、こんな風に静かすぎることに苦しむ日がくるなんて、想像もしていなかった。

 裸足のつま先を波が洗う。白い砂が、少しずつ流されていく感触も、今は意識に昇らない。

 水平線の近くには、三艘の島の漁り舟が出ていた。小さく人影が働いているのは見えるが、今のサッタールにはそれが誰なのかわからない。無意識に探ろうとしかけた自分に気づいて、サッタールは、手のひらに握り込んだ砂を波の間に投げつけた。

 心の中に、暗いものがこみ上げそうになるのを、深呼吸してなんとか逃がす。


(いや。たとえ怒りでいっぱいになっても、別にどうということはないんだな……)


 絶大な力を持っているのだと思っていた。人からもそう言われたし、自分もそれに見合う振る舞いをしなければと思ってきた。ずっと。

 怒りで我を忘れたら、取り返しのつかない結果を引き起こしかねない。父親を殺そうとしたときのことは忘れられない。

 だから常に自制してきたのだ。

 でも今、ここで泣こうが喚こうが、せいぜいその辺をのんびり這っているヤドカリを驚かすだけで、誰にも何の影響もないのだ。


(島のみんなには筒抜けだけどな)


 苦く思って、首をふる。

 ここで惨めに膝を抱えているのも、島の人間は知っているだろう。自分には聞こえないというだけで、彼らには聞こえるのだ。聞こえるからこそ、この浜に誰も近寄らないのだ。思う存分、八つ当たりでも何でもできる時間と場所を与えてもらっているのだ。

 サッタールは、また深呼吸を繰り返した。

 我ながら、後ろ向きで子供っぽい癇癪を起こしていると思った。でもなかなか自分をコントロールできない。以前は、どんなことが起きても平然としていられると思っていたのに。

 何時間、じっとしていただろうか。

 耳元を吹き抜けていく潮風に混ざって、砂を踏む音がして、サッタールはまた反射的に誰がと考え、吐きかけた息を飲み下した。

 誰かわからないのだから、振り向いて、目で確かめるべきなのだ。あるいは声をかけるべきなのだ。

 精神感応を持たない人々が自然にそうするように。


「やあ、サッタール」


 明るい声の主はアレックスだった。サッタールは腹に溜めていた息をふぅっと吐き出す。


「クラゲの池にいるのかと思ったんだけど、違ったね」

「アマル・フィッダに行く必要はないからな」


 なんとかいつも通りの声が出せたと思うが、自信はなかった。少なくとも表情はいつもと変わらないはずだ。


「アマル・フィッダは意識しなくても思念を閉じこめてくれるんだ。だからよく通っていたけど、今は……」


 苦い思いを押し込めて、サッタールは視線を水平線に遣ったまま訊いた。


「いつ来たんだ?」

「三時間くらい前かな。セントラルから一度ナジェーム大学に飛んで……」

「大学に? なぜ?」


 いちいち疑問を言葉に変えて舌に乗せるだけで疲れる。


「うん。大学はちょうど夏休みが始まったばかりだろう? トゥレーディアからの帰還組も他の連中もまだいるかなと思ってね」


 サッタールは療養が必要と言うことで、セントラルから直接コラム・ソルに帰ってきてしまったが、他の学生たちはみんな一度大学に戻ったのだ。


「で、それぞれ家に帰る前にちょっとバカンスに行かないかって声をかけたんだよ」

「バカンス?」

「そう。南の、白い砂浜と青い海。エキゾチックで素朴な人々の島はいかがってね、ツアーを組んだんだよ」


 ざくっと砂を踏んで、アレックスはサッタールの横に腰を下ろした。頑なに視線を合わせようとしない青年の様子に、少しも頓着することがない。気を使ってそっとしておこうとは考えないところが、いかにもだった。


「あぁ、この浜はいいね! この三年で、何度か島をぐるりと回ったけど、北側は崖が多いよね。君の家は山の中だし」

「遠浅で、珊瑚礁になっているからな。波が静かなんだ」

「普段は港と事務所のある北側ばかりいるからなぁ」


 アレックスはサッタールに倣って凪の海を見つめた。美しい浜なのにこちら側に住人が少ないのは、嵐のときに高波をもろにかぶるからだ。満月が二つ重なる時間に大きな嵐がきたら、この辺り一帯は波の下に沈んでしまう。


「彼らもここに呼んでいいかい?」


 しばらく風と波の音を楽しむ様子を見せていたアレックスが、今思いついたと言わんばかりの顔で尋ねた。


「私の許可なんかいらないだろ?」


 サッタールの表情は変わらなかったが、うっすらと日に焼けた足が波打ち際からすっと引っ込められた。

 多分、ここに学生たちがやってきたら、当たり障りなく挨拶だけして、さっさと引っ込むつもりなのだろう。






 殻にこもって出ようとしないのと、サハルから相談されたのは二日前だ。サッタールの心情が手に取るようにわかっても、何もしてやれないのだと、生まれたばかりの赤ん坊を抱いた姉は心配そうに語った。


「私たちにとっては、心を直接交わすことが当たり前すぎて、どうしたらいいのかかえってわからないの。アルフォンソは放っておけと思っているし、ショーゴも他のみんなも声はかけるのだけど、心配すればするほど平気な顔をして引きこもってしまうのよ」

「確か、これまでにも力を磨耗させる例があったと聞きましたが……」

「ええ。でも」


 サハルはモニターの向こうで、身をよじらせた。子を持って豊満さを増した柔らかそうな身体を絞るように囁く。


「もっと年を取ってからの場合が多いのだけど。たいていは人付き合いを絶ってしまうわね」

「それで?」

「島を開いていてよかったと思ったわ。以前だったら、その……」


 精神感応者ではないアレックスにも、サハルの言わんとしたことは理解できた。おそらくは、自ら命を絶つ者が多かったのだ。

 島で生きるのに、力の大きさや強さは問題にはならない。得られたものの全てが共有されるのだから、生活に大きな差もない。だが、全員が精神感応の力で緩やかに結びついている共同体の中で、一人そこから弾き出されてしまう苦痛は、アレックスには想像することしかできない。


「彼自身はなんて言っているんです? 大学に戻るつもりはあるんでしょう?」

「わからないの。あの子、読まれても構わないことしか読ませないのよ。力をなくしてもそればっかりは上手で。でも決められないんだと思うわ。何も考えたくないのよ。投げやりになって殻に閉じこもっていることしかわからない」


 アレックスは、頭の中で仕事のスケジュールを思い浮かべた。

 トゥレーディアから帰ってきたら、どういうわけかハヤシの代わりに、ロンディネ号事件の後始末に追われていたのだ。ハヤシ自身は別の案件に首を突っ込んでいるらしいが詳しくは聞かないことにしている。

 自然と公安所属となっているサッタールの身分をどうするかは、棚上げになっていた。


「近々、そちらに帰るつもりでいましたから。サッタールとよく話してみようと思います」


 アレックスは萎れた花のようなサハルに、快活に笑いかけた。周りがみな、自分のことを脳天気だと評しているのはいやと言うほど知っている。いまこそ、その脳天気さを発揮すべき時じゃないかと思った。






 気づくと、いったん水から抜いたはずのサッタールの足が、また波に洗われていた。潮が満ちて来ているのだ。


「君の力のこと。外の人間はまだ俺とハヤシ警部しか知らない」


 サッタールは、ぴくっと身じろぎをしたが、そのまま続きを待っている。


「君はどうしたい?」

「どうって……。超常能力者対策法で定められている公安所属からは外れるしかないだろう。もう、力は、ないんだから」


 口調は平板で、他人事のようだった。


「誰か、他に公安と関係を持ってもらわなくてはならないだろうが、それを決めるのも私じゃない」

「うん。だからね。聞いているのは君自身がこれからどうしたいかってことだよ」


 サッタールは口を閉じて眉を少しだけ寄せた。それでも俯こうとしないところが、出会ったばかりの頃を思い出させた。


「島の為に働けもしないのに、世話になるわけにはいかない」

「は?」


 アレックスは間抜けな声を漏らして、ぱちぱちと瞬きをする。


「だから。公安は首で、ここにいても役立ちそうもなくて。それなのに島の世話になって大学を続ける訳にはいかないだろ」

「……なるほど。それで?」

「どこかで、働くのが当たり前なんじゃないのか?」

「働くって。君が?」


 そんな話はサハルから一言も聞いていない。第一、島人の誰からも、力を失ったサッタールの為に島の予算から大学を続けさせるなんてとんでもない、などという声は上がっていないに違いない。

 アレックスの知る限り、良くも悪くも、この島の人間は大きな家族だ。今の生活の変化をもたらしたサッタールを、そんな風に切り捨てるつもりなんてないだろう。


「それ、みんなに相談したの?」

「するわけないだろ」


 サッタールはますます眉を寄せた。


「気にするなと言われるに決まってる。あくまでも私の問題なんだ」

「ふぅん。つまり、島の世話をするのはいいけど、世話になるのはイヤだってことかな?」

「まるで子供のわがままみたいな言い方だな」


 初めてサッタールは拗ねた口振りで返してきた。アレックスは口元が緩みそうになるのを意識して引き締める。


「気にするなって言われるのだとしても、ちゃんと口に出して言わなくちゃ。たとえみんなが君の気持ちを知っているのだとしてもね。それとも黙ったまま、相手から言って欲しいのかい? 子供みたいに扱われたい?」


 珍しく辛辣に突っ込んでくる年長の男に、サッタールは頬を紅潮させて初めて目を合わせた。瞑さをまとった青灰色の目が、怒りを伴って細められている。

 アレックスはかまわず手を伸ばして、肩まで伸びたサッタールの髪をかき混ぜるように撫でた。


「なっ、やめろっ!」


 払いのけようとした手をアレックスはさっと避けて、勢いよく立ち上がった。日に干されて乾いた砂が、サッタールにまともに降りかかる。


「子供扱いは嫌かい?」

「当たり前だっ!」


 サッタールも立ち上がった。

 三年間、ほとんど見ることのなかった島特有の丈の長いシャツに踝までの幅の広いズボンが風に翻る。風向きが変わってそろそろ夕方が近づいていた。


「肩布はどうしたの?」

「あれは……大学の寮だ。演習の私物には入れられなかったし、直接ここに戻って来たから」

「取りに行かないのかい? もう大学には戻らないんだろ?」


 揶揄するように言うアレックスを睨みつけて、サッタールは唇を噛んだ。

 今の態度が子供っぽいと言われれば認めざるを得ない。本当は冷静に話し合うべきなのだ。島の長であるアルフォンソや姉であるサハルに。心配しているだろうショーゴに。

 公安の後任だって決めなくてはならない。島を出て生きていく術を見つけるなら、その為の方策を外の人間であるアレックスにも相談するべきだ。

 弱みを口にしたくない、相談するのも嫌だなんて、反抗期の子供のすることだ。

 そんなことはわかってる。何もかも承知している。それでもどうにもならないのだ。

 投げやりになればなるほど、自分の価値が目減りしていくのも。こうして膝を抱えているだけでは、何も起こらないってことも。


「荷物を引き取って、退学届けを出せばいいんだろ」

「その後は? ここでのんびり暮らすかい?」

「だから働くと言った」

「何をして? 都会ならアルバイト先も見つかると思うけどね。君が街頭でサンドウィッチを売ってる姿は、ちょっと見てみたいかな。チキングリルサンドにケチャップはかけますかってね」


 サッタールは、その自分を思い浮かべてみた。大学の構内にも、キッチンカーでよく売りに来ていた。紙製のキャップをかぶって、笑顔で客に応対……。


「なんでもやればできるさ」

「そうだね」


 何でもないようにアレックスはうなずいた。アルバイトだけで衣食住の全てを賄うことの大変さなんて、島育ちのサッタールにはわからないだろうが、やればできるかもしれない。しかし。


「それで、その先は? 君は、ある筋には顔も名前も知られている。力がなくなったって言っても、お誘いは来るよ。後ろ暗い連中からね」

「そんなの。断れば……」

「断って素直に引き下がるような相手なら、警察や軍が手を焼いたりはしないよ。最悪、人質に取られるんじゃないかな。コラム・ソルに対する」

「ああ、わかったよ。つまり、あんたは……っ」


 不意にこの会話を続ける苦痛に耐えられなくなった。

 自分など帰ってこなければよかった。あのままあの穴に取り込まれてしまえばと、捨て鉢な台詞をすんでのところで飲み込む。

 言ったところで、アレックスは即座に否定すると知っている。これは甘えだ。

 それでも抑えられない感情の高ぶりに、サッタールは拳を固めてアレックスに打ちかかった。だが、いくら脳天気とはいえ、元海軍士官にとって、その攻撃を避けるのなんてなんでもない。さっと右足を引くと、伸びきったサッタールの肘を取って、左膝を蹴りあげる。

 まともには食らわなかったが、体勢を崩したサッタールは、そのまま浅い海に放り投げられた。

 もんどり打った起きあがろうとするところに、波が来て、頭からびしょぬれになる。


「続きは、俺じゃなくて君の同級生に任せるよ」


 アレックスは笑った。波打ち際で濡れ鼠に手足をついているサッタールの側でかがみ込み、腕を引き上げる。

 濡れた頬には気づかないふりで、続けた。


「ずっと前。イリーネ嬢に言われたんだろ? ちゃんと口にしてくれなきゃわからないって。確かに君は力をなくしたかもしれないけど。でもコミュニケーションできない訳じゃない」

「甘えるなって言いたいんだろ」

「いや。甘えたいならちゃんと甘えるんだ。辛いって泣いても、何で自分だけって怒って叫んでも、誰も君から離れたりはしないよ」

「泣きたいなんて、言ってないだろっ!」

「そう? 別に精神感応なんかなくても想像でき……」

「私は……っ! そんなことで泣いたりなんか」

「そんなことなの?」


 潮がどんどん満ちていく。足の甲を濡らしていた波は、今はもう踝を越えていた。それと同調して、サッタールの心の波も高くうねる。


「そんなことだろっ! こんな力なんかなくなればいいと思ったこともあった。こんなものは呪いだと。それなのに頼っていたんだ。それが自分の力だと思って。偉そうに。力のないあんたたちをいつの間にか見下して。それで、あんたたちと同じになったら、とたんに怖くなって、引きこもって。バカバカしい。今さらどの面下げて外に出ていけるんだよっ。こんなこと何でもない、自分は自分だって顔で行けばいいのか? 私は……」


 サッタールは腕を掴んだままのアレックスの手を振り払い、拳を目に当てた。八つ当たりだ。癇癪を起こしている。だが、いったんたがが外れてしまえば自制などききはしない。


「私は、高慢で、嫌な奴だ」


 居場所をなくしたのは自分のせいだと思った。島のみんなは腫れ物にさわるように労ってくれるが、そんなのはきっと最初のうちだけだ。

 外に出ても、人の気持ちがわからない。何もかも間違えそうで怖い。怖い。


「そう? 俺は君が帰ってきてくれて嬉しかったけどなあ。多分、他の人もね。もし本当に自分が嫌な奴だと思うなら、直接聞いてみたらいいよ」


 にこにこ笑って振り返るアレックスにつられて見れば、背後のアダンの林から人がバラバラと出てくる。赤ん坊を抱いたサハルや車いすのショーゴ、ユイやミア、老ゴータムをはじめとした島の人間と、アレックスが連れてきた学生たち。何故か海軍の軍服を着た者もいる。


「な……んで?」


 サッタールは、これだけ大勢の人間が、これほど近くにいながら全く察知できなかったことに改めて唇を噛んだ。


「気象衛星で見る限り、コラム・ソル周辺はあと三日は晴天なんだよ」


 アレックスの説明は、いつもながらズレていた。


「だからっ! なんで、ケイたちやアルヴィンどころか……マクガレイ少将や元帥やイリーネ嬢まで……」

「そりゃ、みんな来てみたかったからじゃないかな。俺は、学生を数人、コラム・ソルに連れてきたいんだけどって一言相談しただけだよ、ミュラー元元帥にね。そしたらマクガレイ少将が――今は南方面司令なんだけどね――軍用大型ヘリを出してくれるってことになって、ミュラー元帥もイリーネ嬢も同行することになって。いや大変だったよ。窮屈でね」

「島のみんなは……」

「君の姉さんに聞いたらこの浜にいるって言うから、それじゃあ、お客さんも多いし、浜でピクニックでもしようかなって思ったんだけどね。そしたら、ほら、ここじゃあ内緒の相談事は難しいだろ? あっという間に伝わって、それで」


 サッタールは首をぶるんと振ると、黙って海からあがった。

 これまでのアレックスとのやりとりも、情けなく投げ飛ばされたことも、何もかも。すぐ側で見られていたのだ。


「私は家へ帰る」

「今朝も大漁だったってね。ジャンが言ってたよ。ミアも果物を集めてくれてるし。あと、シムケットが海軍差し入れの肉と酒を持って海から回ってくるはずなんだけど、遅いな」

「勝手に騒げばいい。私は帰るからな」


 唸るように言い捨てたサッタールは、水着に着替えたレワショフとケイ、それにアルヴィンが真っ直ぐこちらに向かってくるのを認めて舌打ちした。


「おいおい、これからみんなで楽しもうって言うのにどこに行こうっての?」


 ケイがにやにやしながら言った。


「療養中と聞いたが、元気そうじゃないか。他人に殴りかかれるくらいには」


 レワショフは獰猛に歯をむき出して笑う。


「エステルハージ教官から伝言だ。二年次は格闘の講義も受け持つから体力つけておけとな」


 隣でアルヴィンが自信なさそうに目をぱちぱちさせた。


「め、眼鏡は外しとけって、ユーリに言われて。ぼ、僕はあんまり力になれないんじゃないかな」

「何の話だ?」


 サッタールの疑問に爽やかに答えたのはケイだった。


「つまり、あれだ。コラム・ソルと海軍のみなさんに、我がナジェーム大学精鋭の格闘技をお見せしろって指令がくだって」

「誰がそんな」


 学生たち三人の視線がアレックスに集まる。


「素潜り競争でも、木登り競争でもいいんだけど。身体動かすの嫌いじゃないだろう?」


 再びにっこり笑ったアレックスは、手を振った。


「俺はシムケットと連絡取って、うまいバーベキューの準備してるから。あとはよろしく、学生諸君」


 反論する隙も見せず、さっさと踝を返す背中を追おうとしたサッタールの前に、レワショフが立ちふさがった。


「確かに宇宙じゃ、運動不足になりがちだったからな。少しつき合えよ、サッタール。俺がアルと組むから、お前とケイで優男連合だな」


 優男じゃなくて色男の間違いだろと、ケイは呟いて、色鮮やかな敷物を広げている女性たちに手を振った。

 そのあとは、めちゃくちゃだった。

 レワショフに襟と袖を掴まれたサッタールが投げ飛ばされる。派手に水しぶきをたてた憂愁の青年は、弾かれるように起きあがると、熊のような大男に向かっていった。

 一方、長身のケイは、案外機敏に走り回るアルヴィンを捕まえられず、波打ち際を行ったり来たりしていた。


「あんなことでぇ、気が紛れるのかしらねえ」


 女子学生たちは、島の女たち、ユイやミアと一緒に柑橘類のミックスジュースを飲みながら、はしゃぎ回っているようにしか見えない四人を眺めた。


「あたしたちも、水かけごっこしてくるぅ、タキ?」


 ロアナがうらやましそうに言う。


「アルの眼鏡預かってるもの」


 従兄弟のこんな姿を初めて見たのか、目をくりくりしながらタキが答えた。


「サッタールって、いつもアルフォンソにやられっぱなしだったのに、強くなったのねえ」


 しみじみとミアが言えば、ユイは、自分も加わりたくて立ったり座ったりしている。


「いいなー。あたしも友達が欲しいっ!」


 同世代のいないユイは、手加減なしにじゃれ合える相手がうらやましくて仕方ないのだ。


「わたくし、サッタールってコラム・ソルの王子様かと思っていたのよ、初めは」


 ちゃっかりと学生たちの輪に加わっていたイリーネは、澄ました顔でサハルにもらった美しい組み紐のサンダルをいじりながら言った。


「手を取ってキスしてくれたの。でも、あれじゃあ、おじいさまの部下と変わらないわね」


 手にキス? と女たちが騒ぐのをよそに、男たちは炉の準備に余念がない。

 水際の青年たちを呆れた目で見ている車いすのショーゴに、アレックスがジュースを差し出す。


「セントラルに来てもらえると聞きましたよ、ミスター・クドー」

「ショーゴでいいよ。いちいちミスターとかつけんなよ」


 ショーゴは受け取ったジュースを一気に飲み干して、肩をぐるりと回した。


「ユイも連れて行くつもりなんだよ。あんた、ユイの入れる学校、紹介してくんないかな?」

「学校……。いや、俺はセントラルの育ちじゃないから、イリーネお嬢さんの行っていた女子学校くらいしか」


 戸惑って答えると、使えねえと返され、アレックスは苦笑した。


「もっといい相談相手がいるでしょう。チュラポーン看護師は、まだ海軍病院に勤めてますよ」

「知ってるさ。でも、だからって俺が行くんじゃねえよ。ユイをな、外に出てもうまくやっていけるようにしてやりてえ。俺は働きすぎで死にかけた。サッタールの奴はぴんぴんしてるけど能力をなくした。能力ってやつは厄介なんだよ。使わないではいられねえし、使いすぎたら死ぬ。今じゃ、島では無理して使わなくても暮らしがたつようになりつつあるけど、外じゃまた勝手が違うだろ」

「でもサッタールは、大学生活はうまくやってましたよ。だから、ほら、あんな風に遊べるんだ」


 砂地での格闘に疲れたのか、四人の学生たちの足下は既に怪しくなっていた。

 日が傾いて、海面には白波の作る影がうっすらと赤く染まって踊っている。

 ついに座り込んだ四人の元に、ジゼルとロアナの二人が、ユイとタキの手を引いて駆け寄った。たちまち、水かけ競争の第二段が始まって、ショーゴはその様子に目を細めた。


「子供のうちに出た方がいいんだよ。余計なしがらみがつく前にな。それで言えば、俺たちはサッタールにいろいろ背負わせすぎた。あいつはそれに応えてくれたけどな」

「サッタールのことは、あなたたちのせいじゃない。宇宙軍は今も解析を続けているけど、あの場に彼がいなかったら、何が起きたのか誰にもわからないよ。俺たちは、ただ感謝する事しかできない。でも、それも彼には負担だろうね」

「ああ」


 二人は、歓声を上げる年下の青年たちをしばらく黙って見つめた。

 沖に出ていた島の漁り舟がこちらに向かって戻ってくるところだった。その後ろから、もう少し大きな水陸両用の海軍のボートが近づいてくる。あれはたぶんシムケットだろうと考えて、アレックスは口元を緩めた。


「島の人は酒をあまり飲まないけど、いくらか持ってきてるはずだよ」


 ジャンの事件以来、島人はますますアルコール飲料を忌避するようになったが、今夜は何かあっても抑えてやるとアルフォンソからお墨付きをもらっていた。


「そうだな。せめて乾杯の一杯でぶっ倒れないように訓練しておくか」

「倒れたら海軍病院に行くといい」

「カンカンに怒られるぜ? どっちにしろ新しい義足の設計が済んだら、あそこでリハビリさせてもらうけどな。まあ、どうせ病院内は禁酒だ」


 ショーゴはニヤリとアレックスを横目で見上げた。


「あんたは、はらませたい女はいないのか?」

「は、はらませ……ショーゴ、その言い方じゃあ、女性に対して失礼だよ」


 アレックスは耳まで赤くして叫ぶ。


「うるせー。ケツの青いガキみてえなこと言うなよ。島育ちは、次の世代を作るってのが至上命題なんだよ。俺は、惚れた女は抱いて、そいつと子供作って育ててえけどな。サッタールだって、島にいる時は女たちが放っておかなかったぜ?」

「そりゃ、サッタールはもてたかもしれないけどっ! 俺は……っ!」


 三十近い男が手を振り回して口を開けたり閉めたりしている様に、ショーゴは吹き出した。

 島の者たちが、老若男女を問わず、イルマ所長を構いたがっているのは秘密でもなんでもない。ただ、思念がダダ漏れの状態に慣れている島の女たちは、さりげない好意を見せてもいっこうに反応しない朴念仁にじれているのもショーゴは知っていた。


(そのうち誰かが夜這いをかけてきても俺は知らんぞ)


 そのショーゴの思念に気づいて、頬を赤らめた人間が複数いることも、アレックスは気がつかない。

 やがて、幾つも設えた炉の周辺に、島中の人間が集まってきた。ようやく海からあがった学生たちも、その中に混ざる。島人が捕った海獣や海軍提供の牛の肉がじゅうじゅうと油を落としながら焼かれ、海藻にくるんだ色鮮やかな魚が香ばしく蒸し焼きにされる。島では貴重な根菜や青菜のサラダ。フルーツの盛り合わせ。搾りたてのジュースと酒。

 語り合い、歌い、手を取り合って踊る。

 静かな人たちなのだと思っていたが、そうでもないのだなと、マクガレイがアレックスに囁いた。


「私も、そう思っていました。この三年間で初めてです」


 まだ濡れている髪をかきあげて、サッタールがぶっきらぼうに言った。


「島には祝日も祭りもなかった。ただ日々をすり減らすように暮らしてきたんです。だから私もこんなことは初めてだ」

「君が変えたんだろう」


 マクガレイが灰色の目に笑みをにじませる。


「この小さな世界を変えた君が無事に戻ってきたのだから、総出で祝っても悪くはあるまい」


 ひゅっと息を飲んだサッタールはそっと周囲を見渡す。精神感応の力は戻ってはこないが、それでも今、ここを満たしているのが穏やかな希望であることは肌に伝わる。島の人間と外の人間。双方を笑顔と笑顔が結びつけている。


「おーい、サッタール。このへんてこなフルーツはどうやって食べるんだ?」


 ケイが手を振って叫んだ。サッタールが答える前に、ユイが小刀でサポテの実を切り分ける。シムケットが礼儀正しく一礼して、サハルから赤ん坊を抱かせてもらっていた。双子は若い女たちに爪の手入れの仕方を熱心に披露しているし、タキとアルヴィンは、ショーゴとジャンに最新の人工知能のニュースを喋っている。そのうちミュラー元元帥が朗々と自作のポエムを吟じ始め、島人たちが笑いながら手拍子を打った。

 サッタールにも、むろんアレックスやマクガレイにも、その場を飛び交う思念は読めないが、和やかな夜であることだけは間違いない。

 あの異質なソレと一緒に、穴の向こうへと消えてしまわないでよかった。サッタールは帰還以来初めて、心から思った。

 そうだ、自分はここに、闇と光の大地に、帰りたかったのだと。

 ここで生まれ、育ち、たとえ外に出て行っても帰ってくることを許される、歓迎してくれる。その幸せが静かに胸に満ち、苦い思いを柔らかくくるみ込む。

 何かに誘われたように、サッタールは、海に向かって歩き出した。その背を追おうとしたアレックスは、すぐに人々の輪から大柄な男が外れてサッタールに近づいていくのを認めて足を止める。アルフォンソだ。


「極秘情報では、彼は精神感応の力を失ったと」


 アレックスの耳元でマクガレイが呟く。


「島の者たちはみんな知っているのだな。学生たちは?」

「公式には発表しませんが、親しい人間には、彼が直接伝えるでしょう」


 アレックスは、影のような二人の姿をじっと見つめた。

 線の細い青年が右手をあげて空を指さす。大柄な男も仰向いて空を見つめた。トゥレーディアは西の空に沈もうとしている。いびつで小さなロビンはまだ東から上ってこない。

 空は星々の光に埋め尽くされていた。

 小さな孤島から、海を渡って大陸へ。ファルファーレの大地を離れて宇宙へ。サッタールは飛んでいくのだろうとアレックスは思った。

 そしてまた闇と光が混在するこの星に帰ってくるに違いない。


「行って、来いよ。サッタール」


 小さくエールを送って、アレックスはさざめく人の輪の中に入っていった。祭りの夜は、始まったばかりだった。




(了)


長らくお読みくださいまして、ありがとうございました。これにて惑星ファルファーレのお話は幕を下ろします。

ほぼ一年間、このお話にかかりきりで過ごしてきました。反省点は多々ありますが、一つの話をきちんと完結まで書ききった喜びで、今はいっぱいです。

また、新しいお話でお目にかかれますよう。

お読みくださいました方々に心から感謝申し上げます。

ありがとうございました!

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