第七章 暗黒の大地(3)
エネルギーが自分を満たしていく。身体という有限の枷を外したサッタールは無限に自分が膨らみ、伸ばされていくのをはっきりと感じた。
注ぎ込まれるエネルギーは、サッタールの精神に絡み合い、浸食し、同化しようとしていた。
(ダメだ。ノマレテは、ダメだ)
針の先でつついたような小さな穴から吹き出たエネルギーは、もう後ろのファルファーレ宇宙軍の艦船に興味を失ったのだろうか。サッタールをとらえて放さない。
(コイツラは……イッタイ、ナンナンダっ)
純粋な自然現象ではない。あり得ない。
サッタールは、かすかに残る自我のかけらを自分の精神の最も深い場所に沈めた。
自分が自分であるという個の意識を。それは多分、この謎のエネルギーの最も対局にあるものだったから。
それから、少しずつ少しずつ、まるで日の光を求めるアマル・フィッダのクラゲのように、吹き出す穴に向かって漂って行った。
すべてのエネルギーを受け止めて、それを糧にあの穴をふさぐ。それがサッタールの芥子粒ほどの自我が意図したことだった。
***
サッタールの身体が眠りについてから、もう二十時間以上経っていた。ジゼルもレワショフも、その間眠らずにその身体の側に陣取っていた。
「呼吸が弱まっている。血中酸素濃度も低い。このままだと彼は死ぬぞ」
カラブリア号の軍医が脅すように言った。
「せめて人工呼吸器と心臓ポンプをつけさせなさい。脳に血流が行き渡らなければ、どれほどのダメージを受けるかっ。わからないのかっ」
レワショフは無言で軍医の前に立った。エステルハージはサッタールの身体を守れと言ったのだ。それが、何を意味するのか――医学的処置を受けさせろということなのか、いじらせるなということなのか、判断がつかない。
判断がつかないまま、レワショフとジゼルはサッタールの側にあった。
「……私は、大学でサッタール・ビッラウラが人事不詳に陥った時にも側に居合わせました」
レワショフは一瞬だけ瞼を閉じて、その時のことを回想した。
公安のハヤシ警部に対して叩きつけるような精神波を放ち、意識を失ったあとのことを。
だがサッタールは、普通に言われる意味で意識を失ったのではなかった。その精神は間断なく活動を続けていて、五百年という時の間を飛翔していたのだ。
おそらくは、今、この瞬間もサッタールの精神は何らかの活動を行っている。エステルハージが聞いた、何かのエネルギーと対峙しているのだ。
「その時は、コラム・ソルから超常能力者を招き、ビッラウラの意識を取り戻させたのですが」
「期間はどのくらいだね?」
「期間?」
「昏睡していた時間だよ」
レワショフは記憶を探り、答えた。
「五日間です」
「その間、医学的には放置されていたと?」
「バイタルサインをみるもの以外は何も」
ふむ、と軍医が腕を組んだところに入室を知らせるブザーが鳴った。二人が振り返ると、そこにエステルハージが疲れた顔で立っていた。
「様子を見に来るのが遅くなってすまなかったな、レワショフ、ブラッスール」
赤毛の大学教官は、一目で何が起きているか悟ったらしく、歩を進めると軍医に丁寧に頭を下げた。
「彼らの指導教官です。軍医殿にはお世話をおかけしています」
「君も元は宇宙軍士官だろう」
エステルハージを見知っていたらしい軍医は、ぶっきらぼうに答えて、眠ったままのサッタールを顎で指した。
「この二人が、医学的処置は必要ないと通せんぼうだ。まるで眠る姫君を守る茨のようにね。これは君の指示かね?」
「そこで眠っているのは姫君なんかにはほど遠い代物ですよ。口も悪く、喧嘩っ早い。姫君ならその白熊のような学生と殴り合いなんかしないでしょう」
ほう、と軍医はレワショフに視線を流し、唇を緩めた。
「どっちが勝ったのかね?」
「引き分けでした。彼は見かけに寄らず体力はあるようで、厳しい訓練でも弱音を吐いたことはありませんでした」
「つまり、君もこのまま彼を放っておけと言いたいのか?」
エステルハージは迷って、サッタールの血の気のない白い顔を見下ろした。
「心臓も肺も動きが弱まっているんだぞ」
「それは……普通の昏睡ではないと?」
「あえて言えば、極低温睡眠下にいるのと似ている。脳を含めて身体の働きを最小限に抑えた状態だな。しかしポッドはただ眠らせているわけではない。氷漬けになった古代の死体じゃないんだからね。ちゃんと最低限の生命維持をしているんだ」
「以前は、五日間、昏睡状態でした」
エステルハージはしばらく考えてから言った。
「それでも何の後遺症もなく回復しました。身体に重篤な怪我でも負っているのならともかく、ただ眠っているように見えるだけならば放っておいても問題ないかと思います」
「君が責任を持つと? 念書でも認めてくれるのかね」
「……はい」
軍医は気に入らないという顔をしたが、腕組みを解き、手に持っていた紙の束を差し出した。
「ポッドに乗っているときから今に至るまでの心電図、呼吸数、血中酸素濃度、血液の生化学成分、脳磁図だ。そこまで言うなら君が主治医となるんだな」
エステルハージは小さくうなずいた。むろん一般的な医学知識しかないが、この場での主治医というのは医学的処置の主導権を取るという意味合いだ。
「君の言動を含め、すべての記録は取ってある。もし前言撤回したくなったらいつでも言ってきたまえ」
「ありがとうございます」
表情を変えない若い教官と、心配そうな二人の学生をもう一度睨めつけてから、軍医はゆっくりとした足取りで出ていった。ロンディネ号の生存者やまだポッドの中で眠っている学生たちの管理もあるのだ。大学側が責任を持つのなら、この場にいる必要はない。
急に静かになった狭い医務室キャビンには、サッタールに取り付けられた医療機器の電子音だけが耳につく。それと、医療ゾーン特有の消毒薬のにおい。
「悪かったな。二人とも。ここは私がみているから、交代で少し眠れ」
次々に起こる異常事態のみならず軍医の相手をさせてしまったことを詫びた教官に、ジゼルが明るい声で答えた。
「大丈夫ですよぉ。あの軍医さんが実力行使に出ようとしたら、色仕掛けでもしてみようかと思っていたんですけど、必要なかったですねぇ」
「バカ。お前の色仕掛けなんか通用するかっ。軍務妨害で逮捕されるのがオチだぞ。せめて泣き落としくらいにしておけ、紫頭め」
レワショフが吐いて捨てるように言ったが、ジゼルはベェと舌を出してみせた。
あぁ、彼らはまだ本当に若いんだなと思いつつ、エステルハージは壁面の簡易ベッドを引き出して、どすんと腰を下ろした。レワショフとジゼルに毛布を放ってやると、二人は早速くるまって床に丸くなる。
軍人のような鍛え方はされていないにしても、どちらも現状に取り乱したり、文句を言わないあたりで、評価はそれなりに高い。
「教官。ビッラウラはどこにいるんでしょうか?」
レワショフが毛布の下からくぐもった声を出した。
エステルハージは、カラブリア号の探知した空間異常のことを説明しながら、青白いサッタールの顔を見下ろした。大学で倒れた時よりも生気がないように見えた。
「この艦が帰還する前にはビッラウラの精神を引き戻さなくてはならんな」
「一発殴ったら帰ってくるんじゃないですか? 身体の危機を察知して」
「その時は頼む。私闘には該当しないと証言してやるぞ」
「了解しました。前歯を折らない程度に留めておきます」
野蛮ねぇというジゼルの呟きを最後に、また電子音だけがキャビンに満ちた。
***
自分の精神に喰らいついたモノの持つ記憶の中に、サッタールは漂っていた。
そこは、人間の理解の及ばない世界だった。
原子が形作る物質の世界ではなく、ただ干渉し合うエネルギーに満ちている。
ソレが、その世界の中でどのような存在なのか、サッタールには説明できない。質量を持たず、重力を持たない世界の中で、ただ記憶の波動だけがうねり、のたうっていた。その揺れ動くエネルギーが何によるものなのか計り知れない。
なにより、そこには光がなかった。少なくともサッタールに光として感知できるものがない。ただ、ひたすらの闇だった。
――セカイがコワレるオトがスル。
ソレの集合体である闇のエネルギーが渦を巻いた。
――セカイにアナがアイた。
――セカイにアナをアケた。
ソレは、渇望していた。存在し続けることを。世界を満たすほどに膨大なエネルギーを納める器を。
(ウツワとはナンだ……?)
クラゲのようにたゆたうサッタールの芥子粒より小さな自我が呟いた。
***
ロンディネ号が事故を起こした宙域から遠からぬポイントに、コラム・ソルの超常能力者を乗せたサンディ号が出現した。
亜空間機関のクールダウンを行う間も惜しむように、サンディ号は全速力でカラブリア号へと向かっていく。
「カラブリア号。こちらはサンディ号艦長ハンゴルです。ロンディネ号救援の為に、コラム・ソルの超常能力者を連れてきています。一時間後にはランデブーできると思います」
サンディ号からの通信に、カラブリアのロイターは何とも名状しがたい表情を作った。
「ロイターだ。なぜ、超常能力者が?」
「議長からの要請であります」
「彼らの目的は?」
「私は聞いておりません」
ロイターはマイクをきっちり切ってから舌打ちした。
軍人は上からの命令が絶対だ。超常能力者を連れて出動せよと言われたら、直ちに従うのが筋だ。
「だが、情報収集くらいはやるものだろう」
吐いて捨てるように呟く上官の様子を、カラブリア号のブリッジに詰める士官たちはそっとうかがった。
「エステルハージに、コラム・ソルの者がまもなく到着すると教えてやれ。彼らが来たのはロンディネ号の為じゃなくてそっちが目的だろう」
副官が無表情に艦内通信で医務室を呼び出す間に、ロイターは再びハンゴルに通信をつないだ。
「来訪者の氏名は?」
「コラム・ソル代表アルフォンソ・ガナールとショーゴ・クドー。それに中央府公安警部のミスター・トモヤ・ハヤシとコラム・ソル中央府事務所長のミスター・アレックス・イルマ、及びナジェーム大学生ケイ・ストウの五名であります」
「公安の警部も同行しているのか」
「イエス」
「どんな男だね?」
「私は面会しておりません。超常能力者はその能力で、艦の宙航にも通信にも自由に介入できると聞きましたので、念のために隔離しております」
これを聞いて、ロイターは眉間に深いしわを作った。
自由に介入できるということは、どこに閉じこめようが無駄ということだ。
これまでの経緯を見る限り、超常能力者は、得体の知れない力の持ち主であっても非合理的な行動はしていない。法に背いてトゥレーディア基地に潜入したサムソン事件でも、あの状況に即した行動だった――後から考えれば。
つまり、彼らは単に心情的に同胞の元にやってきたのではなく、確固たる目的があるはずなのだ。
公安警部は良くも悪くもお目付け役なのだろう。
「ハンゴル大尉。そちらに二十五名の人間は移せるか?」
「イエス・サー」
「救命ポッドごとでは?」
「それは、空間が足りません」
「機関室でもどこでもいい。積み上げてもかまわん。どうせ極低温睡眠中だ」
「イエス・サー」
「ではランデブー後にロンディネ号の傷病者一名とポッドを二十五引き渡す。君はただちにトゥレーディアに引き返したまえ。ああ、乗せてきた客はこちらで引き取る」
「アイアイ・サー。そのようにいたします。帰還後のポッドの取り扱いはいかがいたしましょうか?」
ロイターは肩をすくめて素っ気なく言った。
「司令に聞いてくれ」
通信を切ると、ロイターはポッドの移送準備を副官に命じ、しばらく目を瞑った。
わざわざコラム・ソルの人間が駆けつけてくるということは、エステルハージが、サッタール・ビッラウラが何かと戦っていると感じたのが正解だったということなのだろう。
「見えない事象にいたずらに惑わされてはいかん、とは思わないかストウ中尉?」
背後から艦長の様子をうかがっていた若い女性士官は、さっと敬礼して答える。
「イエス・サー。しかしあの空間異常は我々にも感知できます。プローブの発射準備は完了しています」
感情を面に表さない態度の部下に満足して、ロイターはプローブの打ち出しを命じた。
「どこまでプローブがもつかわからんが、取得したデータはペリカーノにも送っておけ」
「はい、自動でいくように設定してあります。ただ……」
「何だ?」
ストウ中尉は観測員に顔を向けた。
「急速にエネルギーの放出が収束しつつあります」
ロイターは自席を離れて、観測用モニターの前に立った。艦のAIが、計測したデータを三次元ホログラムにして見せてくれている。
「時間の経過で見てください」
ストウの指示でホログラムが変化する。
「これが観測を始めた頃の状態です」
針の先でつついたような小さな点から、放射状に広がったエネルギーの束が途中で気が変わったかのようにまた一点に集まっていた。そして、集中したポイントで膨大なエネルギーはまた何かに飲み込まれるように消えていく。
「時間を進めます」
ストウがささやくように言った。
両端を糸で絞ったような形だったエネルギーの束は、やがて真っ直ぐな線に変わり、さらに出口と入り口の距離が引き付け合うように縮まっていく。
「このエネルギー線の分析は?」
「ガンマ線、中性子線、いろいろ当たっていますが、今のところ未知のものだとしか」
「これが途中で消えずに、この艦に当たった場合、なにが起きると考えられる?」
ロイターの問いに、ストウ中尉と観測員は顔を見合わせて首を振った。
「……エネルギーの性質がわからないままでは何とも。ですが、ロンディネ号の二の舞でしょうね」
うなずいたロイターは、メインモニターに視線を移した。そこにはドッキングの為に近づきつつあるサンディ号の姿があった。
「彼らが答えを持ってきているといいのだがな」
コラム・ソルの超常能力者ならこの不可解な事態を何とかできるというのなら、こちらは黙って手並みをみてやってもいい。
「そういえば、君の弟も来ているそうだな、ストウ中尉。元気がありあまっているのか、浅慮なのか、それとも弟も能力者なのかね?」
上官の皮肉に、初めてストウ中尉の表情が曇る。
「精力を持て余しているのも、考えが足りないのもおっしゃるとおりですが、弟に精神感応力があるとは思いません。乗船はトゥレーディア司令の許可があってのことだと思いますが」
「それはそうだろう。仮にも軍艦だ。彼は軍人には向いていなさそうだな」
「……ええ。弟は、むしろ冒険者に向いているのかもしれません」
上位下達の組織である軍には、はまりきれないのだという皮肉の返しを受けて、ロイターは口の片側だけで笑ってみせた。
***
今、どこにいて何の作業中なのか、何の連絡もないまま放置された形のサンディ号の客たちの中、ケイだけが落ち着きなくきょろきょろと視線をさまよわせていた。
「えーと。亜空間からは出たと思うんだけど。何か一言ぐらいあっても良さそうじゃないですか?」
四人の中で、一番取っつきやすそうなアレックスにこそこそと耳打ちをすると、のんびりした青年はふわふわと踊る髪を撫でつけながら笑った。
「多分、今が一番忙しいんだろう。宇宙船のことはよくわからないけどね」
「ああ、そうですね。でも、サッタールたちに連絡ついたのかとか、あとどのくらい待てばいいのかとか」
「うん、でもこの艦は乗員も多くなさそうだしなあ。俺たちは客といっても料金払ってるわけじゃないしね」
でも、と言いかけて、ケイはアルフォンソの不機嫌そうな顔に口を閉じた。
大柄なコラム・ソルの長は、本人はどう思っているのか知らないが、そこにいるだけで圧倒的な威圧感を持っている。何か、精神感応者のご機嫌を損ねるようなことを言っただろうか。
サッタールもよくピリピリしていたが、それとは違った圧力のようなものに、ケイは首を縮めたくなるのを抑えた。
「ミスター・クドーなら、聞き耳立てられるんじゃないかなあ」
しかしアレックスは、笑いながら言って、この重い空気を感じていないのかとケイはむせそうになった。
「あんた、怖がられてるぞ」
ショーゴが、そんなケイを顎で指してアルフォンソに言う。
「別になにもしてないぞ。そいつが勝手にビビっているだけだろうが」
「その顔とガタイと偉そうな言い方がダメなんだろ? 外の女にもてないぜ?」
「ふん。三年かけてふられた奴に言われたくないな」
「うるせえよ」
緊急事態で、決死の覚悟で、ここまで来たのに。自分の他は誰も緊張していないのだろうかとケイはこっそり考えた。こんな時にふざけるなと言われるのは、自分の役ではなかったのか? 常にまじめくさった顔をしていたサッタールが懐かしかった。
「バーカ。緊張なんてものは、ここぞって時にすりゃいいんだよ。島に嵐が来んのは避けられねえが、だからって四六時中空ばっかり見てられるか」
ショーゴに指摘され、ケイはますます落ち込んだ。
サッタールは、内心を読んだとしても必要がなければ知らん顔をしてくれていたから気にしてなかったが、ここでは頭の中がだだ漏れなのだ。
「……ミスター・イルマはどうやって心を読まれないようにしているんですか? コラム・ソルに住んでいるんでしょ?」
「俺? うーん、コツは気にしないことかなあ。どうしても漏らしたくない情報があるなら、頭で円周率とか唱えているといいよ。まあ、それだと他のことは何にも考えられないけどね。じゃなきゃ、差し支えないことしかはっきり頭に浮かべないようにするしかないけど、俺はそれが苦手でね」
そう笑われたが、気にしないようにするには、まだ修行が必要だとケイは肩を落とす。
だが、のんきに話していられたのもそこまでだった。
壁と一体化していたドアが音もなく開き、乗艦時に案内をしてくれた若い士官が、顔をのぞかせたのだ。
「カラブリア号とのドッキング作業が終わりました。あなた方はあちらに移っていただきます」
寝袋状のベルトを外すと、乗ったときよりも重力を感じた。
「サッタ……ミスター・ビッラウラはカラブリア号に?」
アレックスが代表で尋ねると、士官は黙ってうなずく。
「そうか。じゃあ、会いに行こうか?」
まるで友人の家を訪ねるような気安さでアレックスは答えたが、そのブルーの瞳の奥に隠しきれない緊張の影をみつけて、ケイは居住まいを正した。
彼らはいたずらに弛緩していたのではない。ショーゴが言ったとおり、そのときに備えて平常を保っていたにすぎないのだ。
(僕はまだまだ子供だなあ)
思いを隠して内心だけで吐いたため息に、アルフォンソが振り返った。
「それが解るだけマシだ」
なるほど、アレックスの言うとおり、ここは気にしないのが一番なのだと、ケイは考えて、一番最後にドアを通り抜けた。
2/17 文章を少しだけ直しましたが、内容は変わりません




