第五章 宇宙空間へ(5)
フィロメロスから今度は進路を変え、ロンディネ号はフィオーレの黄道面から離れる方向へと船首を向けた。
今度は一光年近くの距離を飛ぶ。約9・5兆キロメートルだ。
ロンディネ号はまるで助走をつけるように最大高速で通常空間を飛んでいる。それでも離れていく第五惑星とフィロメロスはすぐには小さくならない。
三時間ほどの通常空間を航行した後、亜空間へと飛ぶのだ。
サッタールはスクリーンに張りつくように離れていく巨大惑星を眺める学生たちの輪から離れ、一人壁に寄りかかった。何がこれほど自分を落ち着かない気分にさせるのか、わからないことに更に不安をあおられ、唾を飲み込んだ。
が、近づいてくる二人の人物に、サッタールは素早く無表情を取り繕う。
「君は、サッタール・ビッラウラですね?」
先ほどまで乗員の仕事を見守っていた船長のホーガンが、エステルハージを伴って話しかけてきたのだ。
「はい、ビッラウラです」
「精神感応者だと聞きましたが?」
ホーガンの顔には、これまでずっと浮かべられていた柔和な笑みはなかった。
サッタールは用心してただうなずいた。穏やかに見えていても、彼も宇宙軍士官だ。ひっそりと背後に立つエステルハージも表情の読めない顔をしている。
「一つ聞きたいのですが。君の精神感応力はこの船の中……つまり航行中でも有効なのかな?」
考えるまでもなく、再度うなずく。
「では、亜空間航行中ではどうかな? あるいはここからトゥレーディアやファルファーレに通じることはできるだろうか?」
その問いには、思わず苦笑が漏れた。皆、考えることは変わらないらしい。
「亜空間では試してみないとわかりません。ここからファルファーレへというのもできないと思います。試すつもりもありません。この力がどのように働くか解明もされていないのに、試して船に支障がおきたら……私はまだ死にたくはありません」
「賢明な判断ですね」
サッタールの返答に、エステルハージは疑わしそうな表情をちらりと見せたが、ホーガンはあからさまにほっとしたようにうなずいた。
「今は訓練中ですしね。実験をするならば、段階を経て慎重に行った方がいいと思いますよ」
「実験はした方がいいとお考えですか? 宇宙軍として?」
ホーガンは曖昧に口の端をゆるめ、声をわずかに潜ませる。
「うーん。そうだねえ。たとえば我々は、亜空間に物体を通す技術は持っているが、今に至るまで情報だけを送受することはできない。君たちの力がそれを補えるものならいいな、とふと考えたんだが」
「すみません」
「いや。謝ることじゃない。君たちの力は何でも解決できる魔法じゃないということでしょう。ちなみにここからファルファーレに連絡できないというのは距離の問題かな?」
「わかりません。ただトゥレーディアからだって試してないのに、航行中の船でするべきではないと」
「試さなかった?」
ホーガンの太い眉が、面白そうに上げられた。
「君くらいの年齢ならば、いろいろやんちゃをしでかしそうなものだけどねえ」
「……訓練中ですから」
本当はローバーで移動中、やってみようかと思い立ち、レワショフに止められたのだった。だがそれを、目の前の人物に話す気にはならなかった。
「ははは。それはまた真面目なことだ。だが、そうですね。そんな細い体に、思考を一光年先まで到達させられるほどのエネルギーがあるとも思えないな」
「なぜ、そんな質問を?」
「宇宙は広い。飛べば飛ぶほど、その広さが怖くなる。もし非常事態に陥っても、まず助けは呼べない。救助信号が到達するのが一年後ではね。ましてや深宇宙ならば自力で何とかできなければ終わりです」
ホーガンはロンディネ号のメインAIがスクリーンに映し出す様々な計測結果を目で追いながら答えたが、その思考から悲惨な事故で失った朋輩の記憶を読みとってしまい、サッタールは視線を伏せた。
「宇宙に出る者は、常に覚悟がいる。死ぬ覚悟じゃないですよ? 常に自分と仲間たちの能力の最大限を惜しみなく使って生還する覚悟です。だから君たちの存在が、0・1パーセントでも我々の生存率を高めてくれるならば、と期待したんですよ」
そういえば、ケイやジゼルも自分のことを究極の安全装置のように言っていたと思い出し、サッタールは、小さく首を振った。
「ご期待に添えなくて……」
「いや。試してもいないんなら、これから訓練、研究すべきだよ。もちろんここからじゃなくていい。トゥレーディアに戻ったら僕から大学と公安に進言しよう」
ホーガンはサッタールの言葉を途中でさらって、にやりと笑った。
「能力の最大限を惜しみなく使えと言ったでしょう。それが必要な場所なんですよ、ここは。政治的に云々なんて実際に飛んでいる者には関係ないことだ。軍ではなくても、宇宙を職場に選択したのなら、君は君の能力を使う義務がある。僕はそう思うね」
肩をポンと叩いて、ホーガンはメインコンソールの前に戻った。それを黙って見つめていると、今度はエステルハージが渋い顔で告げる。
「トゥレーディアで本当に試さなかったのか?」
「試してませんよ」
「ふむ。訓練がタイトスケジュール過ぎたかな?」
エステルハージは、心の中のやればよかったにという思いを隠さなかった。
「それで私たちがリタイアする羽目になったり、ましてや事故が起きたりしても、あなた方には何の責任もありませんからね」
皮肉で内心の企みに答えると、エステルハージはにやりと笑った。
「僕の理解している限りでは、君は君の超常能力の使いどころについて誰の指図も受けないってことじゃなかったかな? 公安からの依頼ですら拒否権があるんだろう?」
「……その通りです」
「では誰も君に指図なんかできないじゃないか。だが君自身がその気ならば、大学も宇宙軍も君に協力するのはやぶさかではないだろう。他人に影響を及ぼせるほどの力は、種類を問わず社会に還元してしかるべきだと思うがね」
いかにも元エリート士官らしい言いぐさだった。
「まあそうは言っても、確かに船の航行に支障が出ては困る。だから君の判断を支持するが、トゥレーディアに戻ったら実験してみたいというなら、僕もその場に居合わせたいものだね」
言いたいことだけ言って、エステルハージは背を向けた。その思念にケイの顔がつかの間浮かんで消える。その瞬間、サッタールはケイの班のローバーの整備不良が仕組まれたことだったことを確信した。
「エステルハージ教官」
他の学生たちに聞こえぬよう、サッタールは低い声で呼び止める。
「私にやらせたいことがあるなら、正式に話を通してください。私は学生でしかなく、しかもあなた方の管理下にある。姑息な手で追い込むような真似は、私にも……彼らにも非礼だ」
エステルハージは少し伸びた赤い髪に指を突っ込んでカリカリとかきながらゆっくりと振り向いた。
「何のことだか分からんが、人の心を覗き見して、それを口にするのは非礼じゃないのか? 僕はイルマほど君に気を許している訳じゃないぞ」
「アレックスは今は関係ないでしょう」
「ケイ・ストウ他二名の苦境を君は知っていたんだな?」
「……はい」
「だが君はその超常能力を発揮して、何らの手も打たなかった。それはあれが実習で、彼らに生命の危険がないという判断の元だったんだな?」
「燃料も酸素も水もありました。もし彼らが……」
「彼らが本当の危機だと判断したらどうした?」
「あなたの頭に不法侵入してとっとと救助させてましたよ」
エステルハージはくっくと小さく笑った。その様子をレワショフとジゼルが離れた場所からちらちらとうかがっていたが、サッタールは二人の思考は断固として自分の心から追い出した。判断したのは自分で、彼らには何の責もない。
「うん。君の判断は実に冷静だ。状況が厳しいほど判断には的確さが求められる。もし君が僕の頭に侵入してきたら、それは本当に危機的状況だと僕も判断するとしよう。それからストウの班だが、君の助力がなくても挽回することはできたはずだ。できなかったのは不運というよりも実力不足だよ。彼らも納得している」
そろそろ亜空間突入の準備に入るぞと言い残して、エステルハージは手をひらひらさせた。
サッタールも固い表情のまま自分のシートに向かう。
これまでもこれからも、超常能力者を取り巻く社会は、こうやって力と正当性を試そうとするに違いない。常に判断を求められるというのも、なかなか厄介だった。
座って少し頭を冷やそうと、サッタールは尻をシートに押し込んだが、まだ休む暇は与えられない。隣に座ったレワショフが険しい顔で半身をひねり、痛いほどの力で肩を掴んできたのだ。
「何を話していたんだ?」
いい加減にしてくれと思ったが、レワショフから、有益な情報なら教えろという思いと、ちっぽけな嫉妬の欠片を読みとって、サッタールは肩に置かれた頑丈な手をちらりと見てうんざりとした表情を作った。
「読もうと思ってなくても、そう接近されるとあんたの考えてることがだだ漏れになるぞ」
冷たく言ったつもりなのに、レワショフはますます手に力を込める。
「いっこうに構わんな。俺にはやましい気持ちなど一片もないからな」
きっぱり言い返されて、サッタールは呆れたように視線を外し、メインスクリーンを見た。亜空間突入まで後十五分しかない。
「そろそろベルトを締めた方がいいんじゃないか?」
「で、答えは?」
「たいしたことじゃない。私の……超常能力のことについて聞かれただけだ」
レワショフは、驚いたように目を見開いてから、手を離した。
「それで?」
「トゥレーディアに戻ったら実験しろと」
「ああ。それは俺もそう思っている。お前だってやってみようとしていたしな」
もぞもぞとシートを調整しながら、レワショフは考え込むように眉を寄せた。
「コラム・ソルは超常能力研究にあまり積極的じゃないと聞いたが。なぜなんだ? お前自身が公的な地位を獲得したなら、今更人体実験なんかできはしないだろう」
「人体実験で切り刻まれなくても、社会的に抹殺されるのが怖いからだ。なにしろ私たちは、まだ外の世界に慣れてないからな。研究して出てきた結果が怖いんだ。それにあんただって私を嫌っていただろう?」
サッタールの返答に、レワショフは表情を変えることなくうなずいた。
「そうだな。確かにお前たちは異分子だ。受け入れられない者もいるし、過剰な期待を寄せる奴もいるさ。だから何だ? お前はそんなこと百も承知でこっちに来たんだろう? 大方の異分子は、戻りたくなったら戻れる楽園なんか確保してないぜ。だがお前たちには島があるんだろう。恵まれてるじゃないか」
恵まれてる……思いがけない反論に、サッタールは一瞬言葉が出てこず、レワショフを睨みつけた。
「気楽にやれってことだ」
そうできたらしてるさと口の中で反論して、サッタールはムキになったようにホーガンと乗員たちに視線を固定した。
「亜空間センサー、グリーン」
「突入ポイントc19P6まであと二分」
「機関燃焼72パーセント」
「シールド展開終了」
「ポイントまで10、9、センサー再確認、グリーン、5、4、3、2、1、ゴー!」
また五感がぐにゃりと歪んだ。
「突入成功。脱出ポイントまで72分です」
ホーガン大尉がにっこりと笑って学生たちを振り向く。
「この次元空間には磁気嵐も重力渦もありません。一時間はくつろげますよ。何か質問があれば受け付けます」
緊張を解いたホーガンは汗一つかいていないが、学生たちは二度目の亜空間航行にまだ興奮冷めやらない。
「異次元空間センサーを秒読み段階でも確認していましたが、あの時点で突入回避をすると亜空間機関にも通常機関にも過大な負荷がかかると思います。その対処はどのようにされてますか?」
レワショフが、いつかの模擬機関訓練を念頭に質問した。どうすべきだったのかについては、その後に教官を交え散々討議をしたが、実務者からの意見を聞きたかったのだ。
「なるほど。考えるべきポイントはいくつかあります」
ホーガンはにこやかにうなずいて学生たちをぐるりと見渡す。
「まず、センサーの探査能力はそれほど高くはありません。これはファルファーレだけではなく銀河世界の技術の現在の限界ですがね。なにしろ我々が生きているのとは異なる次元をこちら側にいたまま覗こうとするのですから。シールドを展開し、いよいよ次元の膜をくぐろうという瞬間になって初めて異常事態がセンサーに触れるのなんて日常茶飯事ですよ」
「頻度は?」
「フィオーレ星系内に関しては、百回飛んだら三回はあります。これは事故回避という点ではとても見過ごすことのできない数字です。恒星間、更に銀河を越えるとなると、通過する次元の数は加速度的に増えますので、危険度も飛躍的に増します」
そんなにあるのか、と学生たちがざわめく。
「民間船は、わずかでも危険があるとAIが判断した場合、たとえ0・1秒前でも突入できないシステムになっています。軍用艦の場合はその限りではありませんがね。AIの判断基準そのものが違ってきますので。それでも一か八かみたいな博打勝負はやりません。艦と人員、積み荷を丸ごと失うことでの戦局への影響と危険度を常に勘案して判断が下されます」
ほーと溜め息が漏れた。ナジェーム宙航大学の卒業生は民間人として宇宙に出ていくのだが、それでも万が一星間戦争などおきたら軍属として徴用されることになっているのだ。他人事ではなかった。
「カウントダウン中のセンサー確認は人間が判断を下せるギリギリのタイミングですねえ。戦闘中であれば、あれが最終確認となり、その後のAIの判断はキャンセルされる場合もありますよ。まあ、ファルファーレ宇宙軍がそんな局面に立たされたことは幸いにもまだありませんがね」
二十七人の学生たちが一斉に肩から力を抜いたのを見て、ホーガンは口に拳を当てて笑った。
「センサーの感度、精度がもっと上がればいいのですがね」
ホーガンの目がサッタールに向いたのはほんの一瞬だったが、精神感応力などなくても全員がその考えを推察できた。――超常能力で探れないのかという。
サッタールは何も気づかなかった顔を保ち、ホーガンもすぐに次の話題を口にしたが、やはりレワショフの言うように気楽には考えられない期待に、感じるはずのない重みが肩にかかった気がした。
「さて、次は判断がAIか人間かはさておき、直前に回避が必須となった場合ですが、我々は常に同時に突入可能な次元を複数想定しています。つまり予定ポイントがダメだと判断された場合、そのまま次のポイントに向かうのです」
「そのまま……ですか? しかしそんなすぐには……」
レワショフが戸惑ったように声をあげた。
「理由は幾つもありますよ。最大の利点は燃料の消費がかなり違うことですね。いったんクールダウンしてしまえば、また最初からやり直さねばなりません。数十秒余計に負荷をかけても、やり直すよりはぐっと節約になります」
「数十秒?」
「そうですよ。それ以上はさすがに機関への負荷がかかり過ぎますからね」
こともなげに言うホーガンは、さすがに何度も亜空間を飛んできただけのことはある頼もしさにあふれていた。




