第五章 宇宙空間へ(3)
タラス山頂からの眺めは雄大かと言えば思ったほどではなく、それはひとえにトゥレーディアの世界がモノトーンで染められているからだろうと感じられた。
「でもぉ、アレ、第二ベースよねえ? ベースっていうからもっと簡単な施設かと思ったわー」
ジゼルの言うとおり。第二ベースとだけで固有の名もない宇宙軍の第二トゥレーディア基地は、想像よりも遙かに大きかった。
「亜空間船が出入りするんだ。あれくらいは当然あるだろう。トゥレーディア宇宙港の民間委託が決まってから、宇宙軍はこちらを軍空港として拡充してきたしな」
レワショフはファルファーレ有数の大企業の御曹司らしく、その辺りの情報も当たり前に掴んでいたらしい。
「いくら宇宙軍が広報していなくても、空港建設には多数の民間人が関わる。むろんヴォーグもだ」
大気のないここでは、夕焼け空など望めない。ただ陰と陽があるばかりの世界で、同じような灰色の第二ベースはその中にすっかり溶けこんで見えた。ただ自然界では滅多にない規則的な直線と、何よりも基地から延びる幾つもの高層エレベータ、暗い空に浮かぶ巨大な宇宙船が、そこに人間の手が作った建造物が確かにあることを示していた。
「私たちはどの宇宙船に乗るのか分かるか?」
サッタールが残燃料の確認とメンテナンスから顔を上げて聞いた。
「大学の演習に貸し出す船だ。そう遠くにも行かないだろうから多分あれだな」
レワショフは空に浮かぶ船を指さしながら、船名を告げた。
〔T2・ca487・ロンディネ号〕
それは他の船よりも一回り以上は小さく見えた。
「宇宙軍の艦ってことはぁ、武器なんかもあるのかしらん?」
「さあ。どちらかと言えば小型輸送船だな。砲はあるだろうが、戦闘用小型機のようなものは積んでないだろうし、何よりも古い」
船の識別コードの知識をさらいながらレワショフが答えた。トゥレーディア第二ベース所属、貨物船487がロンディネ号の識別コードで、もしフィオーレ星系を出るならば更にファルファーレを表すFARが先頭に付くはずだが、ロンディネ号にそれは必要ないらしい。
「古いってどれくらいなのぉ? 宇宙に出たらバラバラとかないわよね?」
ジゼルが尋ねるとレワショフは呆れて顔をしかめる。
「演習に使うのはたいてい老朽船だろうが、安全面に問題あるようなものを使う訳ないだろ。宇宙で難破したら即死ぬんだぞ」
「うーん。いつかあたしたちが船を持ったらぁ、パステルカラーに塗って、快適仕様にするわぁ」
夢見るようなジゼルは、レワショフの言葉などろくに聞いていない。それはサッタールだけではなくレワショフにも伝わったと見えて、直情な大男はいかにも腹立たしそうに足下の石を蹴った。
拳よりも小さな石はふわっと浮き上がり、トン、トンと軽やかに弾んで止まる。ファルファーレの地上とは微妙に違う動きに、サッタールはくすっと笑い立ち上がった。
「他の班はどうしてるだろうな?」
「あなたなら見つけられるんじゃないのぉ、サッタール?」
「ケイたちが無事にベースに着いても、私たちが間に合わなければ、一緒にあの船には乗れないぞ」
「着くわよぉ。ユーリが失敗するなんて考えられないもの。で、ケイは見つかった?」
なるほど、ジゼルから見れば、レワショフは何が何でもたどり着くという信頼があるが、自分はそうでもないのだとサッタールは青灰色の目を細めた。
だが彼女の心は常にケイに向いていて、つまりはどちらの男も眼中にないのが微笑ましい。
「視てほしいのか?」
「星を飛び越えたりはしなくていいわよ?」
横で会話を聞いているレワショフも特に反対はしなかった。成績至上主義の男は、他の班の動向も気になるのが本音なのだ。
サッタールは静かに肺を酸素で満たすと、目を瞑った。
昨日のように一気に感覚を全開にしたりはしない。少しずつ自分を拡散させていく。
この演習は、十の班が時間とコースを変えて第二ベースを目指しているはず。ケイがどのルートを通っているのかは知らないが、眼下に見下ろした第二ベースを中心にした円のどこかにいるだろう。
サッタールに遠視の才はない。他人の目を借りることはあるが、普段自分の脳内に映し出されるのは単なるイメージだ。実際の風景ではない。
だからぼんやりとした灰色の風景の中、サッタールは思念を探して暗い空を飛んだ。
――ようやく銀の海クレーターが見えたな。
――あぁ、もう。早くこの宇宙服脱いでシャワー浴びたいわ。
――到着順位は関係ないよな。ビリでもいいから明日中には着こうな。
およその方角しか位置は分からないが、幾つかの班の学生の思念が引っかかる。皆、そう遠くないところまで来ているのだ。
サッタールは銀の海を取り囲む尾根をぐるりと思い浮かべながら、なおも静かな真空に漏れてくる思念を拾った。
――くっそ。通信機もないし、もう救助が来るまでできることはないか……。
不意にケイの思念が響いた。
(救助……?)
戸惑いつつ、すぐ側にある他の二人の心も覗くと、三人の会話が聞こえた。
『待って。この配線を取り替えれば』
『取り替える? 予備パーツなんてあるのか?』
『わからないわ。よく見てみないと』
『わかんないじゃ済まないだろっ! このままだと俺たちリタイアだぜ』
ケイと組んでいるのは、女子学生の一人と、ロビーでエステルハージに突っかかっていった男子学生だ。
『まあまあ。ここで頭に血を昇らせてもいいことないしさ。エレンの手腕に期待して、僕たちはその間に他の機器を点検しようか』
ケイは意識して穏やかに話しかけていたが、その心は焦りと不安と落胆に染められていた。
何があったのかと、黙って心を読むことに若干の罪悪感を抱きながらケイの記憶をさかのぼる。
夜の部分だった。サッタールたちが通った道と似たような風景がライトに照らされていた。そして突然、ケイの視界が反転する。
「横転したのか……」
思わず口に出すと、固唾を飲んでいた二人が、目を大きく見開いた。
「横転? ローバーがか?」
「ああ。夜の部分でスピードが出ていたんだな。ローバーはそう簡単に横転しないはずだが」
「重力が小さいからな。だが起こすのもそう難しくはないだろう?」
「それが、どうやら駆動系の配線が切れたらしい。今修理しているが……」
ケガもしてなければ生命の危機ではない。だが間に合うかどうかは別の話だ。
「……ねえ。彼らの場所って分かる?」
ジゼルが堅い口調で聞いた。
「私の精神感応力はそういう風にはできていないんだ。だいたいの方角ならわかるけど」
話さなければ良かったかと思ったが、もう遅い。ジゼルはウロウロと視線を彷徨わせた。彼女の心は、ケイへの心配ではちきれそうになっている。
「お前、場所が分かったとして、どうするつもりだ?」
レワショフが太い眉を寄せた。
「配線が切れたんでしょ? 何に繋がる線で、どういう状態が分からないけど、でもあたしはここに来る前にローバーの整備技術認定を取ってあるの。あたしなら直せるかもしれない」
「それで六人そろってリタイアか? これが、救出しないと奴らが死にかけてるというなら俺も協力するさ。だが宇宙軍は奴らが立ち往生してるのなんてすぐに捕捉するだろう。それなのに駆けつけてやるような義理はない」
レワショフの考えは正論で、彼ならばそう言うだろうと思われることそのものだった。だが理性では賛成しているはずのサッタールは、少しだけ引っかかるものを感じてジゼルに問う。
「なんでローバーの整備技術なんて取ったんだ?」
「ロアナが通信機器の資格取るって言うから、あたしは動かせるもの担当にしたのよ。宇宙船からローバーまで、宇宙でお困りの際はブラッスール姉妹へご用命くださいって」
「動くものって……」
大ざっぱな説明に、レワショフが呆れて首を振ったが、ジゼルは唇をぎゅっと引いて睨みつける。
「でも側にいないんじゃ役に立たないわね。せめて通信できたら、手順の指示ができるんだけど」
そこまで言ってから、ジゼルはぱっとサッタールを振り向く。
「ねえ。サッタールならできるわよね? ケイの心に呼びかけて、状況を伝えてもらって、で、あたしの指示を返すこと」
「だめだ。事前の承諾もなく、ましてや精神感応力のない者に念話を押しつけたら、下手すると脳の血管を破りかねない」
「あらぁ。でもセントラルやトゥレーディアでの事件では使ったんでしょ? ほらぁ、この前あなたが倒れた時に来ていた、エステルハージ教官の同期の人とかぁ」
「なんで知ってる?」
「本人と話したもの。教官と一緒にいたところを、あたしとロアナとケイで突撃したのよぉ?」
額に手を当てようとして、自分が大きなヘルメットを被っていることを思い出したサッタールは、あげた手を所在なく宙に浮かせたまま首を振る。
「あれは緊急事態だったんだ」
「今も緊急事態よ? それにその話を聞いてたケイが、自分も一度体験したいって言ってたわ」
期待に満ちた目を向けても無駄だと、サッタールはローバーに足を進めた。そろそろ休憩時間も終わる。今日中にこの急な斜面を、少なくとも半分は降りておきたかった。下りは登りよりも気を使うのだ。
「くだくだ言ってないで、もう行くぞ」
レワショフもジゼルに背を向け、運転席に飛び乗る。だがジゼルは動かない。
「お願いよ、サッタール。せめてどうなってるかモニターして」
「基本的に、これは盗み聞きと一緒でマナー違反だ。うっかり力を使った私が悪かった。さあ、行こう」
「それならケイに呼びかけて承諾をもらえばいいじゃない。やめろって言われたら撤退すればいいわ」
「ジゼル・ブラッスール」
サッタールはため息と共に友人の名を呼んだ。それでも彼女は動こうとしない。
「これは演習だ。一種の試験だよ」
「でも協力してはならないなんて聞いてないわ」
「レワショフが言った通り、彼らが生命の危機に瀕しているなら躊躇わない。だがそうじゃないんだ」
ジゼルの心がくるくると回転する。ここでケイ達を助けなければ動かないと言い張っても、ユーリ・レワショフは力ずくで彼女をローバーに放り込み、予定通り、時間通りに第二ベースまで連れていくだろう。
(サッタールを説得できない限り、どうしようもないわ)
ジゼルの心を読みながら、サッタールはもう一度大きく息を吐いた。酸素の無駄遣いだが止められなかった。
「モニターはしてやるよ……万が一今より状況が悪くなってしまった時の為に。でも介入はしない。救助は私たちのような経験のない学生の仕事じゃない。私たちにできるのは、自分たちの課題をきっちりクリアすることだ。一緒にリタイアしたってケイは喜ばないぞ」
暗い目でサッタールを見上げたジゼルは、何か言いかけたが、すぐに口を閉じた。同時に思考が固くなる。
「わかったわ。あんた達の言うとおりよ。行きましょ」
もうあの間延びした口調はなく、サッタールは自分よりずいぶんと小柄な友人をナビシートに座らせて再び操縦竿を握った。
結論から言えば、ケイの班は規定時間内には到着しなかった。GPSで学生達の動きを捕捉していた宇宙軍兵士が、迎えを寄越したのは、無事に第二ベースに着いていた学生達が次の訓練に入った後だった。
横転くらいで切れる配線の方が問題だとケイたちは訴えたが、エステルハージはうなずかなかった。
「ローバーの技術認定は、これまでの期間に取ろうと思えば取れただろう。必修ではない? ああ、そうだ。だが未知の星に降り立ったときに足になるものを使いこなせないようでは、どこで死ぬかわからんぞ。君たちは客ではない。宇宙船のブリッジにふんぞり返るのが仕事でもない」
エステルハージは、ローバーを横転させた事故については一言も責めなかった。ままあることなのだろう。
実地訓練は、あらゆる事態に対処する能力を要求する。生命のゆりかごたる惑星の大地から離れて生きるならば、知らなかった、あるいは知ってたけどできなかったでは、死ぬしかないからだ。
「危険が自分達だけならばまだいい。だが一般の客を連れていたらどうする。自分は宇宙船なら操れるが、こんな地上を這うような代物知りませんは通用しない」
「でも。それならどんな分野にも精通しろってことですか? そんなのできる訳ない。何のための専門、分業なんですか? 僕たちは兵士じゃない」
半分以上は落胆のあまりの言葉と理解していながら、エステルハージは心から軽蔑したような表情を、その若く見える顔に浮かべた。
「全てに精通しろと私が言っているのだと本気で思うのならば、君には宙航士などあきらめて、幾らでも換えのきく他人の生命を負わない仕事を勧める。以上」
リタイアは十班中ひとつだけ。ケイはいつものような軽口を叩く気にもならず、ヘルメットを抱きかかえたまま呆然と立っていた。
頭も身体も汗にまみれて気持ち悪い。早くこの宇宙服を脱ぎたかったが、そのままでいいからこの先の実習にも参加しろと言われたら、あと十日着ていても構わなかった。
エステルハージが、残り期間の訓練についてはこの第二ベースで指導役の曹長に従うことと言い捨てて背を向けると、ケイは暗い声で尋ねた。
「他の連中は今、なにをしてるんですか?」
「乗船するロンディネ号を探検中だ。あれは古いが一通りの装備は持っているからな」
「ロンディネ……? フィロメロスとの補給船じゃなかったですか? 亜空間も飛べたんですね」
フィロメロスはフィオーレ星系第五惑星の植民衛星だ。
「ああ」
エステルハージは眉間のしわを解いて、落ち込みを隠そうと努力している青年に笑いかけた。
「よく知ってるな。いや、そうか。ストウ少尉は一時フィロメロスの監督官をしていたな」
ケイの姉を指して言うと、エステルハージは再び背を向ける。
「ちなみに君たちの指導はストウ少尉だ。身内だから余計に厳しいと思うが。まあ、覚悟しておくんだな」
ケイはがっくりと肩を落とした。軍人一家から脱出したくて大学を選んだのに、生粋の軍人みたいな姉に指導される羽目になるとは、つくづく横転したローバーが恨めしかった。




