第五章 宇宙空間へ(1)
ここに再び立ったら、なにがしかの感情が湧き起こるのではないかと恐れていたサッタールは、シャトルからトゥレーディア基地へ続くリフトに掴まりながら、そっと首を振った。
以前、トゥレーディアに滞在したのはほんの三日程度だった。だが、その三日間は、サッタールに重い枷を背負わせた。
サムソンと対峙し、彼の精神を砕き、ジャクソンを撃ったアレックスも重傷を負った。
(あのとき。サムソンの怨念の一部は、確かに私と同化した)
――黒い蛇のような絶望と怒り。
大学でハヤシを打ち倒してしまったのも、自分が負の感情に引きずられやすくなっているのかもしれないと思うと、サッタールは自分が怖かった。
「なに考えてんの?」
リフトから降りて、ファルファーレと同じ重力を保たれたロビーに入ると、すぐにケイが肩を叩いてきた。
「そんな全身に力込めちゃってさー。大丈夫だって。今回のは訓練っつっても、宇宙を感じよう! って体験旅行みたいなもんだしね」
「別に。力なんか入ってないぞ」
「そう? 肩が上がってたぜ?」
にやにやと鳶色の目を細めたケイは、次々にロビーに集まってくる同級生たちを振り返った。
「栄えあるナジェーム大学宙航士科の学生といえど、みんながみんなトゥレーディアに来たことがある訳じゃない。みんな興奮してるだろ?」
確かに、シャトルが宇宙港に着いた時には歓声があがったし、重力の差に慌てたり、面白がったりしている者が何人もいた。
今も学生の大半は、ドームの窓から見える青い惑星ファルファーレを夢中になって見ている。
「ファルファーレでは、まだ宇宙に行くって特別なことだからね。そりゃ金を積めば地球にだって行けるけど、そんなのは一握りだ」
「そういうあんたは?」
サッタールの問いに、ケイはびっくりしたように見返して、それからぷっと吹き出した。
「参ったな。サッタール、君は本当に他人の出身とかに興味ないんだね。心を探ればわかるだろうに。それか、公安の資料か」
「どういうことだ?」
心に厚い遮蔽をおろしたままサッタールは自分より少し長身の青年を睨んだ。
サッタール・ビッラウラが中央府公安部に所属していることは、どういうルートからか学生のほとんどが知っていた。
しかしケイは、そんなサッタールの反応に、また驚いた顔をした。
「宙航士を目指す学生の中には、公的な奨学金を獲得してきたやつももちろんいるけど、ほとんどは宇宙関連の企業のひもつきか、政府要人の関係者の子弟だよ」
「あんたもか?」
ケイは、いずれ自前の船を持ってトレジャーハンターになるんだと語っていたから、てっきりそういうしがらみから外れているのだと思いこんでいた。
「ボクの姉が宇宙軍少尉なんだよ。トゥレーディア勤務じゃないけどね。父親はもう引退したけど大佐だった。まあ、宇宙一家っていうより軍人一家なんだよね」
サッタールは瞠目してケイの少し軽薄そうな顔を見つめた。
物柔らかというか、レワショフに言わせれば軟弱な態度といい、派手な服装といい、ケイ・ストウが軍人一家に育ったようには見えなかった。
宇宙軍には今でもサムソンを追いやったサッタールに複雑な思いを抱く者がいると、エステルハージが漏らしていた。だがケイは初めから、よく言えば友好的、あるいは好奇心の虜でサッタールに近づいてきたのだ。
「まあ、この歳まで生きてりゃ、誰でも鬱屈したものは持ってるってことさ。ってことで、サッタール。君としたらこの基地は居心地悪いかもしれないけど、逃げるなよ?」
「そんな心配はいらない。大丈夫だよ」
好奇心と仲間意識が混ざったケイの感情に、サッタールは柔らかく微笑んだ。
その言葉に嘘はないはずだった。
トゥレーディア宇宙港は、民間に運営を委託されてから年々規模を大きくしている。以前はどれだけ物柔らかな口調で話しかけられても、どこか軍人くささが漂っていたロビーの係員も、今は訓練されたお客様用の笑みで客を迎えていた。
ナージェム大学宙航士科一年最後の実習カリキュラムは、ケイが言った通りにどちらかと言えば観光に近い。
宇宙港での通関業務や荷役作業の体験、低重力下での身のこなしの体験をした後、実際に亜空間航行船に乗ってフィオーレ星系の端まで行き、救命ポッドでの脱出の体験がフィナーレとなる。約十日間の実習旅行だ。
惑星上に戻ったら夏期の長期休暇で、学生たちの間にはどこか華やいだ雰囲気が漂っていた。
「あーん、ロアナとこんなに長く離れるなんてぇ、つらいわー」
以前来た時と同じようなスタンプを手の甲に捺され、引率の教官を待つ間に、ジゼルがケイに甘えるように身を寄せてきた。
「機関士科は海洋訓練なんだってな。しかも海底基地での模擬訓練だってアルがうんざりしてたよ」
「ねええ。閉鎖環境って言うならぁ、最初からこっちに来ればいいのに」
二人の醸し出す親密な空気は、読まなくても自分が邪魔者だとわかる。サッタールが苦笑して数歩離れたところで、引率教官のエステルハージが学生たちの前に現れた。
「これから君たちの宿舎へ向かう。宇宙港及び宇宙軍トゥレーディア基地の構造は複雑だが、基本的に随所に設けられている案内板に手をかざせば、迷うことはないはずだ。迷子が出た場合は、足を踏み入れてはならない区画に立ち入ったということで、厳罰に処せられる。肝に銘じておくように」
ざわついていた学生たちは、一斉に口を閉じた。楽しい実習かと思っていたのが、どうも違うらしいとエステルハージの口調から読みとったのだ。
「宿舎は宇宙軍基地の中だ。一般人の使う港とは違い重力の補正はない。低重力環境で体調を崩した者はそこでリタイアになる。適性がなかったとあきらめろ」
ロビーは水を打ったように静まり返った。
「ここまで来てリタイア? 冗談だろ」
誰かがぼそっと呟いたが、エステルハージは聞こえなかったふりで続けた。
「訓練メニューは宿泊所のモニターに表示される。学生番号と照合して各自指示された通りに行動すること。指導は主に宇宙軍士官が行うが、反論は認められない。指示系統を乱す者もリタイアだ。覚悟しておいたほうがいいぞ」
「……大学じゃなくて軍じゃん」
先ほどの学生がまた呟く。今度はエステルハージも無視をせずに、にやりと笑った。
「そのとおりだよ。いいか? 君たちはいずれ自分の乗務する船の人命を預かる立場になるはずだ。緊急時には上に立つ者が全責任を負う。指揮命令系統を乱されたことで全てを失う事態になることもある。それは軍も同じだ。だから今のうちに慣れておけ」
「でも」先ほどからぼやいていた男子学生は、今度は手を挙げてはっきりと反論した。
「だからこそ宇宙軍はサムソン大宙将の暴走を誰も抑えられなかったんじゃないですか?」
サッタールに限らず、その場にいた誰もがこの発言にひやっとした。エステルハージの前職は、口に出さなくても誰もが知っている。サムソンに操られた当事者だとまでは知られていなくても。
レワショフは険しい目を学生に向けた。自身もエステルハージに食ってかかったことはあったが、あれは個室でのことだった。しかし今は――。
「なるほど。かつて一人の人物にいいように操られた組織の論理に、従うのは不満だということか?」
「上意下達の絶対服従が、必ずしも危機に際して最善だとは思わないだけです」
エステルハージはしばらく黙って学生をじっと見つめた。それからサッタールをちらりと見遣ってから、小さく笑い出す。
「それは当然だ。上に立つ者が間違うことはある。それが壊滅的な事態を引き起こすこともな。歴史を学べばいくらでもそんな事例にはぶつかるだろう」
息を飲んで聞き入る学生たちの中には、やはりサッタールに意識を向ける者もいる。その圧力を、サッタール本人はきっちりと遮断した。読んでも心が乱れるだけでいいことはなにもない。
「だが、それでも宇宙軍は、ファルファーレでは唯一といっていい宇宙空間のエキスパートだ。軍隊ならではの理不尽さを目にすることもあるだろうが、君たちを訓練できる組織は他にはない。君たちはまず、想定できるあらゆる危機を避け、または対処する力を身につけることだ。訓練中の不満は胸にしまっておけ。カリキュラム自体は大学が主導して作っているから、そう心配するな」
学生は、まだ不満そうな顔をしつつもうなずいた。
「では行くか。軍に君たちの指導を引き渡す前に、他に質問があれば今聞くぞ?」
ジゼルがおずおずと手を挙げる。
「あのぉ、あたしの喋りかたもぉ、軍隊式にビシッとしたほうがいいですかぁ? このままだといじめられますう?」
「改められるものなら改めた方がいいだろうな。うまく自分の船を持てれば、好きにしゃべれるぞ」
「りょーかいでっす!」
とたんにあちこちから笑い声がおきた。緊張がほどよくほぐれる。
(頭のいい女性だな)
サッタールはふわふわとした紫の髪を目の端に収めて思った。
トゥレーディア本来の重力はファルファーレの約八分の一だ。体重六十キロのサッタールは、普段の筋肉量で七・五キロの体重を動かすことになる。強く床を蹴ると、思いがけないほど高く飛び上がってしまい、頭を天井にぶつけるはめになるのだ。
「基地の天井はもっと高くしてしかるべきじゃないか?」
先ほどエステルハージにくってかかっていた男子学生が、うっかり作ってしまったコブに顔をしかめながらぼやいた。
「宇宙船の中には狭い通路なんかいくらでもある。標準重力下でしか作業のできない人間など、客にしかなれんぞ」
レワショフがたしなめると、わかってるよといわんばかりに睨んでから、その学生はふわっと飛び上がって簡易ベッドの最上段にとりついた。
宿泊施設といってもそこは、六段に積みあがった棚にベルトがついたベッドが六列ずらりと並んだだけで、男女の区別もない。トイレと洗面台のついたシャワールームが三つ。
個人の持ち物は最初から制限されていたが、各自の私物はほとんど取り上げられ、あとは支給されたジャンプスーツと細々した身の回りのものだけを小さなロッカーにしまうだけだ。
「ええっ? どこで着替えろっていうのよぉ」
ジゼルが床の上で仁王立ちに叫んだ。
「シャワールームへどうぞ、お姫様方」
ケイがおどけてお辞儀をしてみせると、宙航士科の女子学生が一斉にブーイングで答えた。
「あんたのお姫様になったつもりはないわよ」
「ちょっと、ジゼル。あんたも実習中はイチャイチャ禁止だからねっ」
「ああん、わかってるよぉ。このぉ、目の前にいるのに触れられないって緊張感がまた倒錯的でいいわよねえ」
どこまでもマイペースなジゼルは、ケイだけではなく面白がっている男子学生全員に流し目をくれると、さっさとジャンプスーツ片手にシャワールームに入り込んだ。
他の女子たちもかしましく喋りながら、早速着替えに取りかかる。
何しろ次の集合まで、二十分しか与えられていない。着替えやベッドの配置に文句を言っている暇はないのだ。
サッタールも自分のロッカーから着替えを取り出したところで、レワショフに呼ばれる。
「お前は真ん中の列にしろよ、サッタール」
「なぜ?」
「お前たち精神感応者は、レイプのような事件は起こさないと聞いたからな」
この暴言には、男女双方からブーイングがおきたが、レワショフはいっこうに構わない様子で続けた。
「リタイアは勝手だが、この実習で下らん問題を起こす奴は俺が許さん。物見遊山の連中がいるとしたら迷惑なだけだ」
サッタールは漏れかかった溜め息を押し殺した。
ケイが当初言っていたような気楽な十日間にはなりそうもなかった。
シャトルから降りた時にはあまり感じなかった疲れが、数時間後には学生たちを蝕んでいた。
数人の班に分けられて、重力が調整されている通関や荷役業務の見学に回されたまではよかったが、その後、各々義務づけられたメニューに従ってトレーニングをこなす頃には、床に大の字に転がる者が続出した。
「床に背中をつけるなっ!」
指導役の宇宙軍曹長の怒号が響く。
トゥレーディアの時間はセントラル時間に合わせてある。シャトルから降りたったのが午前八時。それからもう十二時間ほどが過ぎていた。
「貴様ら、今この瞬間に緊急事態が起きたらどうするつもりだ。就寝時間までは横になるなど言語道断だ。まったく、ナジェームはどんな教育をしてるんだ」
朝食、昼食は取ったが、全員がメニューをこなし終えるまで夕食は許されてない。学生たちの視線は、どうしてもいまだにクライミングウォールに取りついているジゼルに向く。
業務エリアは重力が確保されていたか、このトレーニングルームにはない。だから身体は軽いのだが、与えられたメニューはそう楽なものではなかった。
今ジゼルがしているクライミングも、オーバーハングになった五十メートルほどの壁を伝うのだ。慣れない低重力環境でバランスを崩せば容赦なく落ちる。実際、ジゼルは三回に一回は落下してロープに宙づりになっていた。下に衝撃を吸収するマットが敷かれているにしても、二十回も落ちれば体力もなくなるし恐怖感も募るだろう。
「あれ、どうにかできない?」
ケイがサッタールの背後から小いさく声をかけてきた。
「どうにかって、励ましでも送るのか? かえって落ち着かないだろ」
ジゼルの体力は、入学当初よりはずいぶんついている。ガリガリだった細い二の腕には、きれいに筋肉もついてきた。バランス感覚だって、そう悪い訳ではなさそうだ。だが――。
「彼女、高所恐怖症ぎみなんだよね」
「……それでよく宙航士になろうだなんて考えたな」
「だって宇宙には上も下もないだろ?」
ケイはにやっと笑ったが、鳶色の目は気遣わしげに細められていた。
「君なら、ここからでも彼女の恐怖を和らげてやれるんじゃない?」
サッタールは返事をせずにそっとジゼルの心を覗いた。
――怖い、怖くない、怖くない、怖い、落ちる、落ちる落ちない、いや、落ちる、いや、助けて、ううん、怖くない、できる、大丈夫、怖い、怖い……。
苦悶の表情は疲労からくるものだけではなかった。
「子供の頃に、飛行機事故に遭ってるんだよね」
ケイは独り言のように続けた。
「それなのになんで宙航士って聞いたら、自分が乗る宇宙船は絶対に事故なんて起こさせないって誓ったんだってさ、ロアナと。ああ見えて、チャレンジャーなんだよねえ」
ジゼルはパニックを起こしそうな自分と戦っていた。こみ上げる恐怖を何度もせわしなく飲み込むが、飲み込んでも飲み込んでも、恐怖は湧いて出てくる。
「薬は? こっちにはそういうものを抑える薬があるんじゃないのか?」
「あれ? 知らなかったのかい。ナジェームの宙航士科は抗精神薬の類の常用は認められないんだよ。地球連合では、脳内の神経伝達物質を調整するナノマシンも開発されていて、たいていの精神障害は問題にならないって聞くけど、ファルファーレは人体原理主義だから、もちろんそんな技術もない」
そんな話はサッタールも聞いたことがあった。ファルファーレは全ての科学技術を失う悲劇を忘れることができず、基本的に人体を精密機械に置き換えることに抵抗が強いのだと。だから、ショーゴの使っているような義足も軍人への提供が主なのだ。
(アルヴィンに聞いたのだったか……)
サッタールは、必死に四十八回目のクライミングをしているジゼルを見つめた。
「サッタール。もしここがトゥレーディアじゃなくて、大学でもなくて。君たちの島で子供たち見ているとしたら、あの状態を放っておくかい?」
ケイは、ほとんど唇を動かさないで訊いた。
もし、ここがコラム・ソルで、恐怖に怯える者がいたならば、それはサッタールが出るまでもなく島人の誰もがその恐怖を分かち合い、その恐怖の源と、現在の状況の違いを体感するまで根気よくつき添うだろう。
本人が自信を持って次の一歩を踏み出すまで。
父親との確執に苦しんだサッタールも、そうして立ち直る機会をもらったのだ。
「以前から知っていて、行動療法的なものにつき合えていたなら協力できたかもしれんが」
「あいつの手足を、ビッラウラが代わって操るって訳にもいかんだろう。つまらんこと言うな」
横からレワショフが口を出したが、意外にその顔は落ち着いていた。
「宇宙軍曹長はビッラウラの行動を厳しく見ている。ボロを出すなよ」
振り返るまでもなく、それはサッタールも感じていた。こちらは覚えがなくても、宇宙軍兵士には、サムソン事件の時の舞台上のサッタールに強烈な印象を抱いた者が少なくはないのだ。
監視するような視線を浴びていると、妙な反発心がうずいて困る。
その瞬間、終点までたどり着いたジゼルが、カウンターを叩いて飛び降りてきた。
「よしっ、あと二回だぞ、ジゼル!」
ケイが声をかけると、それまで不満顔だった学生たちも口々に応援を始める。
「うるさいぞっ!」
教官役の曹長が怒鳴ったが、今度は学生たちも反論した。
「宇宙船もこの基地も一人では運営できないはずです。仲間を応援して何が悪いんですか?」
「他人に頼らねばこの程度の訓練もこなせんのかっ」
「ブラッスールは誰にも頼ってなどいませんよ」
曹長はギロリとサッタールを睨んだ。
「貴様が扇動してるんじゃないだろうな?」
「ノー。私はサムソンではありません」
はっきりと答えると、曹長の顔は目に見えて青くなった。
「貴様っ、あの御方を呼び捨てにするかっ!」
怒鳴る曹長の心は、怒りと怯えが入り交じっていた。あれから三年近く経ってもまだ、サムソンの残した影響力は大きいのかと愕然とする。
しかし、言い返そうとサッタールが口を開きかけた瞬間をつくように、ジゼルの脳天気な声が響いた。
「ジゼル・ブラッスール、最後の一回、行ってきまーす。みんなぁ、夕飯のためにもぉ、応援よろしくねぇ!」
冷えかけた空気が、その一言で霧散する。
「食いっぱぐれはカンベンなー」
「落ちてもかまわねーぞ。だが落ちるな」
「デザートおごるわよ、ガンバ!」
普段の軍ではあり得ない歓声に、曹長は顔をしかめたまま口を閉じた。サッタールもその視線を痛いほど感じながら、細い手足で壁に取りついているジゼルに自分の意識を振り分けた。




