第四章 彷徨う心(8)
細い蜘蛛の糸をたどるように、サッタールはサハルの呼び声を灯台にして帰ってきた。
最初に目に映ったのは、姉の微笑み。
姉さん、ごめんと言いかけたサッタールだったが、それが声になる前に頬をものすごい力でつねられた。
「サッタール! もうっ! 心配したよおおお」
頬をつねりながら抱きついてきたのはユイだった。涙と鼻水も一緒に押しつけられ、サッタールは点滴のついた腕でユイの背中を抱きながら素早く周囲を探った。
サハル、ユイ、ショーゴ……それにゴータム爺さんまでが自分を取り囲んでいる。
「みんな……コラム・ソルから来たのか?」
「ふん。他にどこから来ると言うのじゃ」
ゴータムは不機嫌に言って、やれやれと床の上にあぐらをかいた。サハルとユイを除く他のメンバーもそれぞれ力を抜いてくつろぎ始める。
「輪を作ってから六時間よ。思ったよりも早くて助かったわ」
サハルがユイの髪をすきながら笑った。その目の下にはうっすらと疲労の影がある。
「ごめん。姉さん。みんなも」
するとショーゴがもたれ掛かっていた壁から背中を離し、親指で大きな窓ガラスを指さした。
「よお、お帰り。まあ……みんなはいいけどよ。アレはそういう訳にはいかねえぜ。覚悟しとけよ、サッタール」
視線だけを向けると、ガラス窓に顔をつけて手を振っているアレックスの隣に、唇にだけ笑みを乗せたハヤシの姿が見えた。
「ミスター・ハヤシは無事だったのか……」
「ああ、まあ。それはともかく。みんなをここに連れてくる為に、イルマとハヤシが大学と公安とアルフォンソに掛け合ったんだ」
ショーゴはうんざりした顔で告げてから、続きは念話に切り替えた。
『公安はサッタール・ビッラウラを傷害の罪で告訴するつもりはない、だとよー』
『昏倒させたのは私だからな』
『とか、口が裂けても言うんじゃねえよ。告訴しない代わりに……ってことだろうしな』
『自業自得だ。すまない。島に迷惑は……』
言いかけたサッタールを、ゴータムが遮った。
『迷惑など今さらじゃ。外と関係を持ちたくない者は島を出なければよい。出た者は外に合わせざるを得まいて』
『しかし……』
『島にいても外に出ても、我らはコラム・ソルの民に変わりはあるまい』
ゴータムは杖を支えに立ち上がると、サッタールの目をのぞき込んだ。
「ユイにはいい経験だったじゃろ。よく輪を維持したのう」
「ユイが……?」
「そうじゃ。サハルではなくな」
驚いてサッタールは腕の中の少女に目を遣った。あれほど騒いでいたのに急に大人しくなったかと思ったら、ユイはすうすうと寝息をたてていた。
「お前がいなんでも、島はどうにでもなる。来年には久しぶりに子も生まれるのじゃだ」
「子供が……?」
サッタールは黙ってユイに寄り添っている姉の顔を見た。サハルは柔らかく笑ってうなずく。
「私じゃないわよ。今ね、島にはお腹の大きい娘が二人いるの。あなたが島を開いたから、私たちも変わったのよ」
それはサッタールに不思議な感動を与えた。子供達の絶えたことが、いかに未来を絶望させていたか、改めて思う。
「ふん。子が生まれて島の生活が過ごしやすくなっても、外を知りたい者は出ていくじゃろ。だがわしは残る」
「……ありがとうございます」
「殊勝なお前なぞ、しょげたアルフォンソ同様片腹痛いわ」
ゴータムは憎まれ口をきいてから腰を伸ばした。
体調に変化があればすぐに知らせるという条件付きでサッタールが病院から解放されたのは、夜も更けてからだった。
医師よりも脳科学者の方が、もう少し様子を見たいと言い張ったが、ハヤシがそれをやんわりとした笑みで遠ざけてくれたのだ。
「医師の許可が出ている以上、ここに押し込めるというのはいかがでしょうな? 監禁、拘束……あ、いや、もちろん大学の自治は尊いものですがね。学問の自由は大事ですよ?」
この嫌みに、学者は未練たっぷりな顔で退散し、サッタールはアルヴィンと何故かレワショフに付き添われる形で寮の門をくぐった。
「何故、俺がお前の迎えになど……」
レワショフは文句を言ったが、アルヴィンは眼鏡を押し上げながらもそもそと言い訳をした。
「だ、だって、もうバスはないし。君は自家用エアカーを持ってるじゃないか。そ、それに……君だって当事者だろ?」
「俺はその場にいただけだぞ」
サッタールが寝ていたのはたった五日だか、それでもずいぶんと足が萎えていた。普段なら何ともない四階まで昇る階段が少々きつい。
アルヴィンもレワショフもそれに気づいたが、二人とも言い争いを続けながら気づかぬ振りをしてゆっくり歩く。サッタールはその二人の配慮を当然のごとく読んだが、やはり黙って足を運んだ。
奇妙な緊張感を押し隠して、サッタールの部屋まで来ると、二人は申し合わせたようにぴたりと口を閉じた。いろいろ聞きたいことがあるのだなと、サッタールは鍵を開けながら肩越しに振り返る。
「少し、話していくか? ただし飲み物も何もないが」
アルヴィンは慌てたように肩を揺らした。
「い、い、いいのかい?」
「いいんだろ。本人がそう言ってるんだ。俺たちは心なんて読めないから、口から出た言葉を信じるしかない。入るぞ」
レワショフは遠慮の素振りも見せず部屋に入ると、真ん中に仁王立ちになった。その横に申し訳なさそうなアルヴィンが続く。
サッタールは換気の為に窓を開けると、ベッドに腰を下ろした。冷えて乾いた風が吹き込んで、カーテンを揺らす。喉が渇いたなと思ったが、また下まで降りて買ってくる気にはならなかった。
コラム・ソルの者達はハヤシとアレックスが手配した大学内のホテルに連れていかれた。階段を昇りながらそっとサハルの心に触れてみたが、疲れきっているのが伝わってすぐに撤退した。
(ハヤシにはアレックスが付いているしな)
病室に入るなり、両手を握りながらお帰りと声をかけてきた青年の顔を思い出して、サッタールとふっと唇を緩めた。
島の精神感応者たちが一斉に苦笑いを浮かべていたのは、アレックスの反応が開けっぴろげなのと、彼が島で受け入れられているからだろう。
膝の上のユイに気を使いながら手を振り回したアレックスは、だがその心にはっきりと警告を浮かべていた。
『ハヤシ警部と話すのはもう少し元気になってからの方がいい。今日は寮に帰りなさい』
その警告は、サッタールだけではなく周囲にも漏れて、ショーゴは医師が止めるのも聞かないでさっさとサッタールの身体に取り付けられていた医療器具を取り外し始め、サハルも点滴の針を、慣れた手つきで抜いた。老ゴータムは、腰をさすりながらハヤシに向かって、早く宿泊場所に連れて行けとがなりたて、サッタールに一歩も近づけなかった。
そうしてアレックスは学生二人にサッタールを託し、ハヤシとホテルに向かったのだ。引率者よろしく。
「なに笑ってるんだよ、気色悪い」
レワショフの不満そうな声と思念に、はっと顔を上げて表情を消す。アルヴィンが困ったように目を激しく瞬かせているが、サッタールは小さく頭を下げた。
「ああ、すまない。少し、疲れただけだ。聞きたいことがあるんだろう?」
レワショフは、その答えも気に入らないという顔をしながらもうなずいて、勝手に机の脇からイスを引いて座った。
「お前が寝ている間に、例のアンドロイドについて俺から身内に探りを入れた」
「それで?」
「……少なくとも父親のルートじゃない。まだ俺がお前を取り込むのを待っていたようだ。それで、ヴォーグはサン・マルコの行政にも顔が利くからな。エンジニアを派遣して、アンドロイドをあらためた。筐体そのものは確かにヴォーグの汎用品が使われていた。だがAIのソフトを組んだのは、ヴォーグじゃない」
「何故わかるんだ?」
人工知能にもプログラミングにも詳しくないサッタールの疑問に、アルヴィンが答えた。
「AIの、き、基本システム自体は買えるんだよ。だけど、アンドロイドに具体的な仕事をさせる為には、一体、一体に、その目的に合ったソフトを組み込むんだ。そのソフトのプログラミングは、規定の言語で書く。でも癖があるんだよ。ヴォーグのエンジニアならヴォーグの癖が。それは中の人間ならわかるよ。複雑で精巧なプログラムほど、その癖は隠しきれない」
「アルヴィンにもあるのか?」
「ある……と思うよ。ぼ、僕のは、その……高校の基礎の上に……今、ここで入っているサークルの癖とか……」
淀みなく話していたアルヴィンは、自分のこととなるととたんにうろたえる。AIを研究するサークルがある事なんて初めて知ったが、そういえば個々の学生の日常に立ち入らないようにしていたのだったと、サッタールは改めて気がついた。
レワショフが薄ら笑いを浮かべているのを見ると、アルヴィンのサークルは有名なのだろう。
「なるほど。それで、その調査のことを、ハヤシは知っているのか?」
「ああ。ヴォーグも公安に睨まれるのは不都合だからな。エンジニア曰く。有力企業のものではなく、むしろどこかの反政府主義者の組織が関わってるんじゃないかと。サン・マルコの警邏隊じゃあ手に負えないだろう。公安は過去のAIを使った犯罪例から類似のものを追っているようだがな」
そこまで聞いて、サッタールは詰めていた息を長く吐き出した。
合法、非合法を問わず、超常能力者を欲しがる組織は多いのだ。セントラルでサッタールを誘拐したあの男のように、身体的な拘束だけを狙うならば、対処はもっと単純なのに。
「どうするつもりだ?」
レワショフが、サッタールの心を読んだように訊いてくる。
「……このままでは島の者達は島から出られない。望んだとしても。私たちは無防備にすぎるんだ。保護を求めるしかないだろうな」
「公安にか?」
「その上で合法的な活動ができるような施策を中央府と交渉することになるだろう」
明言を避けて答えると、レワショフはふんと鼻を鳴らした。
「今度はこっちが訊きたい。あの……体験は、まあこっちが望んだことだが、ハヤシ警部が倒れたのはお前がやったのか? その後、なんでお前まで昏睡してたんだ?」
「それは……」
あの前後のことを、サッタールはあまりはっきり覚えていなかった。子供の母親と同化してしまったのは間違いない。これまでだって、心を飛ばすことはあったし、セントラルで精神操作の実験をアレックスに対しておこなった時は、アレックスの肉体も思考も共有はした。
だが、自我を失ったことはなかったのだ。
(私に操られたアレックスも、サムソンに乗っ取られたエステルハージも自我は残っていたはずだ。だから強固に抵抗した。だがあの時の私は……?)
背筋が凍りつく。私は私ではなく、あの女だった。そして憎しみと絶望に心を染めた女は、目の前の主に持てる力をぶつけたのだ。
(私は目の前にいたハヤシに力をぶつけた……?)
サッタールは、念動力をほとんど使えない。集中しても髪の毛一筋動かすのが精一杯だろう。
女の力は念動力だ。それもかなり強い。もし女の力をそのものをハヤシにぶつけていたら、彼は今頃肉片になっていただろう。
サッタールが心底ハヤシを殺すつもりだったのなら、効率的な方法はいくらでもあった。意志を奪って舌を噛ませるなり、高いところから飛び降りさせるなり。
そうではなく単に力をぶつけただけだったから――サッタールの力が念動力などではなかったから――ハヤシはショックを受けただけで済んだのだ。蘇生法を知っている人間が側にいたのも幸運だった。
「私は……」
絞り出すように声に出してから、サッタールは絶句した。
「お前はミスター・ハヤシを殺そうとしたのか?」
レワショフが重ねて訊いた。傍らでアルヴィンがちょっととレワショフの袖を引いたが、大男はビクともしない。
「目の前にいた、あの男を殺そうとはしていたな」
何度か唾を飲み込んでから、サッタールはようやく平静を装って答えた。
「男とは、あの奴隷女の主人だな。子供の指を切って送らせた男だ。ふん、自業自得だな」
吐き捨てるように言ったレワショフは、大きな肩をすくめて見せた。
「だが、お前が女と同化して我を失ったのはいただけないな。言っただろ。自分が何をどこまでできるのか、できないのか、シミレートしておけって。いつか本当に人を殺すぞ。望んでもいないくせに」
「ユーリ。言い過ぎだよ。さ、サッタールはまだ目が覚めたばかりで……」
「だからなんだ? これは緊急事態だ。誰も死ななかったのは単に幸運だっただけだ。お前はこいつを人殺しにしたいのか? 友達ごっこなんか宇宙船の中じゃ通用しないんだぞ」
レワショフの言葉は厳しかったが、同時に正論でもあった。
「その、通りだ。私は自分を過信していた。誰の心もコントロールできると。自分を含めて。だが……そうではなかった」
「ぼ、僕はその場にいなかったからよくわからないけど……でも、死を覚悟するような人間って……すごいエネルギーなんじゃないかな? そこがAIなんかとは違って……」
「今、AIの話なんかするなよ」
呆れたように言われてアルヴィンは顔を真っ赤に沈黙した。
風がまたカーテンを揺らす。とっくに消灯時間を過ぎていたが、三人とも時計を気にする余裕はなかった。
「……で。何でこんなに長く寝てたんだ? 公安警部を殺したかもしれないからって逃げたのか?」
全くレワショフは容赦がない。心の底で、静かに怒っているのだ。
「いや……確かにハヤシ警部のことは考えたが……迷子だったんだ」
「ま、迷子? ど、ど、どこで?」
「ファルファーレの別の時代に」
「あの女のところか?」
「その後だな」
こうして寮の部屋で話していると、あれは単なる夢のような気もした。だが、そうではない。彗星の向こうにある引力も、子供やサハティと話したのも、サッタールにとっては真実だった。
(私は歴史に干渉したのだろうか?)
視るだけではなく、言葉を交わした。それは小さな波紋を起こしたかもしれない。
その波紋の末が、今の状態だとすれば、ハヤシを倒してしまった事故も必然なのだろうか?
「また、嫌なものを見たのか?」
考え込んだサッタールにレワショフが痺れを切らして訊いた。
「……いや。そうでもない。あの女の息子らしい子供に会った」
「生きていたのか?」
「五百年前だ。今はみんな死んでるさ」
「そうじゃなくてっ!」
珍しく勢い込んだレワショフが苛立たしげに怒鳴った。
「あの、後なんだろ? 俺たちが見た……お前が見せた、あの……」
「恐らく、だ。名前も知らない。場所も正確にわからないんだ。子供は超常能力による報復を恐れられたのか、町から追い出されて、荒野に一人でいたんだ」
「それだと野獣に……」
「私も手伝って、思念で周囲に呼びかけた。自由人の能力者が迎えにきたよ。あの子は、少なくともあの場は切り抜けただろう」
二人は唖然としたようにサッタールを見つめた。
「直接話しかけたのか? 昔の……人間に……」
「そ、それだと、タイムパラドックスが……?」
「いや。だが、あの時は、あの女に同化しても干渉はしてないだろ? そもそも俺には精神が抜け出て時空を越えるってのがさっぱりわからん。あの体験をしても、だ」
現在の科学で解き明かせる現象ではないのだ。サッタールはレワショフの混乱した心を読んで、小さくため息をついた。
精神感応の体験は自我を揺るがす。その上、同化してハヤシに敵意を向けた自分を見れば無理もない。
「夢だと思えばいい」
サッタールはぽつんと呟いた。
本当に自分が過去の人間に影響を与えられるならば、せめてあの母親が死んでしまう前に行けばよかった。しかし、それではもしかすると奴隷制度の上に成り立つ社会が続いたのかもしれないし、サッタールが何をしようと今に繋がる流れが必然だったのかもしれない。
「う、うん。あんまり考えすぎない方がいいんじゃないかな? だ、だって、サッタール自身は、結局、今、ここにい、いるんだし……」
アルヴィンが眼鏡の奥の瞳を伏せて答えた。
「ぼ、僕は、その……君が帰ってきて、ホッとしてるんだ。タ、タキも心配してたし……。理論も意味も、な、なくていいんじゃないかな……大事なのは、その、これから君がどうするか、とか」
口ごもりながら話すアルヴィンをレワショフは険しい顔で睨んでから、ふっと力を抜いた。
「まあ、いい。それなら夢ってことで、俺は忘れる」
意外な言葉に、アルヴィンは口をあんぐりと開ける。
「……何だよ?」
「あ、ご、ごめん。ちょっとびっくりした」
「大事なのはこの先だと、てめぇが言ったんだろが」
レワショフは顔をしかめたままサッタールに視線を移した。
「で? 公安と手を結ぶんだな?」
「ああ。そうだ」
サッタールは考えをまとめようと努力しながら答える。頭がまた痛んだが、少し眠れば回復するだろう。
「まず私が個人として公安組織に入り込むことになるだろう。それだけで、ショーゴ・クドーに対して行われたような余計な手出しを少しでも排除できるなら構わない」
「大学は?」
「学生のままさ。これはプロパガンダだからな。宙航士の資格を取ったら、私はいつか宇宙に出る」
サッタールの青灰色の目がつかの間宙に向けられる。
「だからヴォーグ社とも敵対するつもりはない。公安の息のかかった者でもいいから雇いたいというなら、あんたの下でだって働くさ」
「その前に無事卒業しろ。ヴォーグは優秀な者しか取らん」
君が採用を決めてるんじゃないだろとアルヴィンがぼそっと呟いた。だが白熊のような男は拳の代わりに獰猛な笑顔を向けた。
「いつかなるさ」
いつか。ここに学ぶ者たちは皆、宇宙に出ていくのだ。そんな彼らを仲間だと思えることが、サッタールには不思議だった。
次回は9月23日を予定しています




