第四章 彷徨う心(5)
ナジェーム大学内の総合病院の奥まった一室に、真っ青な顔をしたタキがいた。ソファだけが置かれた簡素な部屋にはアルヴィンが付き添っていた。
タキは、父親が大学を訪れていたことも知らなかった。講義が終わり、これから夕食という時間に、大学の学務課から知らせを受け、とるものもとりあえず駆けつけたのだ。
倒れた時、教官と学生二人、それに外部からの訪問者が二人いたとは聞いたが、それ以外何の事情も知らされていない。
「サッタールとユーリがいないらしいよ。学生二人は彼らじゃないかな」
アルヴィンは自分の携帯通信機をポケットにしまいながら言った。
タキはうなずいて床の一点を見つめ続けていた。
父親の仕事が、サッタールを……コラム・ソルの超常能力者を困らせているのは知っている。でも丘で三人で話して以来、サッタールはタキを避け続けていたし、父親が自分の仕事について娘に情報を漏らすこともない。
一体何が起きたのか、父親が倒れたのは病気なのか、事件事故なのかもわからなかった。
「僕……売店で何か買ってくるよ。タキは何が欲しい?」
アルヴィンは落ち着かない様子で尋ねたが、タキは黙って首を振った。喉の渇きも空腹も感じていなかった。
「じゃあ、適当に……」
アルヴィンがドアノブに手を伸ばすと、ドアは勝手に開いて、廊下からエステルハージ教官と見知らぬ細身の男が顔をのぞかせた。
「き、教官? タキのお父さんと一緒にいたというのは……?」
「ああ、そう。僕だ。君は機関科のアルヴィン・ケルナーか」
赤髪の教官は、表情を変えずに訊いた。
「は、はい。僕は……タキ・ハヤシの付き添いでここに」
「そうか。それはご苦労。だがしばらく外してもらえないだろうか?」
アルヴィンはタキを振り返った。足を踏みしめるように立ったタキは、小さくうなずいて、すぐにエステルハージに視線を移す。
アルヴィンは迷いながら眼鏡を押さえてもう一人の男の様子をうかがった。軽くウエーブのかかった黒髪の男は、真っ青な瞳に沈痛な色をたたえてアルヴィンに言った。
「ミズ・ハヤシに何か飲み物を持ってきてくれないか? その間に話は終わる」
「……わ、わかりました。すぐ、戻ります」
不承不承なのを隠さないアルヴィンが立ち去ると、エステルハージはドアをきっちりと閉めて、タキに向き合った。
「まずはミスター・ハヤシだが。一時、心肺停止をした。だが今は蘇生して眠っている。意識を取り戻さないと詳しくはわからないが、脳の電位状態を見る限りダメージは最小限に留められたと思う。詳しくはこの後、主治医に聞くように」
タキは、一度ぎゅっと唇を引いてから、エステルハージに問いかけた。
「父は、何をしに大学へ来たんですか? 私に会いにきたのではないことはわかっています。仕事、ですね?」
「そうだ」
「サッタール・ビッラウラのことですか? 超常能力者の」
「そうだ」
エステルハージの答えが簡潔過ぎて、タキはいったん押し黙り、それから必死な目でもう一度問いかけた。
「父が、彼に何かしたんですか?」
エステルハージの瞳が逡巡に瞬間伏せられる。すると横に立っていたもう一人の男が手でソファを示した。
「いろいろ疑問なのも無理はないよ。俺から説明するから座ろう」
タキは反抗するように目を怒らせたが、男はさっさと座ってしまった。仕方なく前に座る。
「自己紹介が遅くてすまない。私はアレックス・イルマという。今は中央府コラム・ソル出張事務所の所長ということになっている」
「コラム・ソルの?」
アレックスは小さくうなずいて続けた。
「君は、ハヤシ家に伝わる陶板のことを知っているね? ハヤシ警部がそう言っていたが」
「はい、知っています」
「私も一部を見せてもらった。ただ今あれは中央府の第一級機密資料でね。外には持ち出せないんだ。そこで……まあいろいろ経緯はあるんだけど、ハヤシ警部が大学まで来て、彼が記憶している内容を伝えてもらったんだが」
「……どういうことですか?」
超常能力者を奴隷のように扱ったという内容は、既にサッタールは知っている。そのことと父親が倒れたことの関連性が見つけられずに尋ねると、アレックスは言いにくそうに説明した。
「口で、ではなくて。ハヤシ警部が開放した記憶をサッタールが仲介して我々全員の脳に直接伝えたんだよ。精神感応者なら誰でもできる訳じゃないらしいけどね。サッタールにならできるし、実際我々二人も直接ハヤシ警部の思考を共有した。ただ……事故が起きたんだ」
「事故、ですか?」
「うん。何があってそうなったか、我々にもはっきりわからない。もう一人、コラム・ソルの人間が加わっていたんだけど、彼によれば、ハヤシ警部の陶板の記憶からサッタールが過去に心を飛ばしてしまって……その、過去の誰かに同化した結果、過剰な力が警部に逆流したんだろうと」
タキはロデェリアでの調査面談を思い起こした。あの時も触れあった指先を通してサッタールの心と繋がったが、それはほんの表面のことで、しかも彼は自分が傷つかないように細心の注意を払っていたはずだ。
それなのに――。
「その、過去の誰かって誰なんですか? あの……教官やあなたも、それを一緒に感じたんですか?」
アレックスはエステルハージと目を合わせてからうなずいた。
「誰かはわからない。女性だった、と思うけどね。ただ、彼女はとても怒っていた。いや、憎んでいたのかな」
「誰を? 父ですか」
「まさか。五百年前だ」
アレックスは首を振って、思い出すように瞳を宙に浮かせた。
「この星を、世界を、憎んでいたと思う」
タキは今にも泣きそうに顔を歪めた。
「それでサッタール君は?」
「彼は……睡眠剤を投与されて別室に隔離されている。大学としては危険がないかどうかの確認ができるまでは目覚めさせる訳にはいかん。無意識、不可抗力であったとしてもだ」
エステルハージが答えた。言葉をなくしたタキに、アレックスは慰めるように加える。
「エステルハージの言ったのは公式見解じゃないよ。まだ原因も分からないんだから、保護されているだけだ」
呆然と二人を見つめるタキに、それ以上かける言葉もなく、アレックスは立ち上がると静かにドアを開いた。そこには温かい茶のカップを持ったアルヴィンが、やはり青い顔で立っていた。
「話を聞いたかい?」
「あ、あ、あの……」
狼狽する学生に、エステルハージは事務的に声をかけた。
「今のところは口止めするつもりはない。君たちはもう大人だからな。それを飲んだら、ミスター・ハヤシの見舞いに行ってくれ」
「……はい」
何か言いたげな学生二人を残して、アレックスとエステルハージはドアをきっちりと閉めた。
眠るサッタールにはショーゴがついていた。
一応バイタルを見る以外の機器類はつけられていないが、睡眠剤が強力なのかいくら呼びかけてもサッタールからは何の反応もないことにショーゴは苛立っていた。
たとえ熟睡していても、これだけ近くから呼びかけてサッタールの心が動かないなんてことは今までになかった。
「アルフォンソ。悪いがサハルを呼んでくれ」
考えた末、ポケットから通信機を取り出してコラム・ソルに連絡すると、案の定アルフォンソは素直にサハルを呼んではくれない。
「まず何があったら吐けよ。サッタールの奴が何かしでかしたか?」
「何でそう思うんだよ?」
「バーカ。何年のつきあいだと思ってるんだ」
せせら笑いながらもアルフォンソの声は笑っていない。ショーゴは天井を仰向いた。
「もしかしたらヤバいかもしれん。サッタールが心を飛ばしたまま帰ってこねえ」
「何から逃げてるんだ?」
話が早い。ショーゴはかいつまんでこれまでの経緯を説明し、最後に言った。
「自分がハヤシを殺したと思ったのかもしれんし、過去にもう一度捕らわれたのかもしれん。俺には追えねえんだよ」
「サハルだって追えないだろ」
「だがあいつの唯一の肉親だ。呼べるとしたら……」
「ほっとけ」
「アルフォンソ!」
怒鳴りつけたショーゴにアルフォンソは低く告げた。
「お前がなにやら面倒事に巻き込まれたらしいのは知ってる。だがそれとサッタールの今の状態は別物だろ? あいつは戻るべき時には戻ってくる。だからほっとけ」
目の前にいたら、アルフォンソの胸ぐらを掴んでいただろう。ショーゴは携帯通信機を握りしめて叫んだ。
「あいつはしぶとそうに見えて折れやすいんだ。いいか? 俺が死にかけた時はあいつが迎えに来た。もう死んでもいいかと思った時にな。サッタールが過去に飛んでんなら俺も四の五の言わねえよ。だがハヤシのことで責任感じて逃げてんなら誰かが連れ帰らにゃならんだろうがっ!」
「ハヤシは生きてんだろ?」
「だからっ! あいつはそれを知らねえんだよっ!」
「結果も分からずに逃げたんなら自業自得だ」
そう言ってアルフォンソは返事も聞かずに通話を切った。サハルに知らせるつもりもないらしい。
ショーゴは険しい顔で眠り続けるサッタールを見下ろした。人差し指をのばして、額に当てて念じる。
「帰って来いよ、サッタール。あれはずっと昔の話だ。それを俺たちの未来にしたくなければ戻ってこい」
だがショーゴに感じたサッタールの心は空っぽだった。
ハヤシはうつらうつらと夢の中にいた。
あの瞬間。確かに自分は――いや自分たちは、五百年前の誰かに漂依していた。それはコラム・ソルの精神感応でのやりとり以上に驚くべき体験だった。
その誰かの感情に同化したとたん、匂いも肌触りもハヤシの脳は現実のものとして認識した。膝をついた石の床の冷たさも、切り取られ腐りかけた子供の指の感覚も。
公安に入ってから、様々に凄惨な現場を見てきた。仕事だと割り切れば人道にもとる行為にも躊躇はなかった。それでもハヤシの中には常に一定の倫理があり、その倫理と理性が感情を抑えてきた。
だがあの瞬間、女の怒りに飲み込まれたハヤシは、強烈な恐れと嫌悪を感じた。
それは、当時の超常能力者の置かれた立場へのものではなく、自我がなくなる恐怖と嫌悪だった。
(彼らはあんな風に他者と同化して、どうやって自我を保っているんだ?)
コラム・ソルの超常能力者は一枚岩ではない。一人一人を見れば実に個性的だった。それでいながら常々、文字通りに心を合わせてきたのだ。あの小さな孤島で生き抜くには他に選択肢がなかったのかもしれないが、それでよく気が狂わないものだ。
(いや、今回のような事故はいつだって起きる可能性はあるのだろう……)
ハヤシの記憶は、倒れる数瞬前でとぎれていた。ただあの時、心臓を押し潰すほどの憎悪を向けられたことは理解していた。
(あれは、あの女の感情だったはずなんだが……女に同化したサッタールは自我を失って私を奴隷の主人と認識したのか……?)
それは本人に問い質さなければならない。
これまではサムソンのように自らの意志でこの社会を乱す者が出てくる可能性しか考えていなかった。しかし、サッタール・ビッラウラはそんなことは露ほども望んではいまい。それでも、憎悪に身を焼く他者に引きずられたのだ。
これが特異な例なのか、日常的に起こることなのか。ハヤシはそれを知らなければならない。
(そろそろ起きるか……)
昏睡から浮上して、そんなことを考えながら、ハヤシはまず瞼に力を入れた。しばらく網膜に映る病室の白い天井を眺めてから、手の指を一本一本動かしていく。
もしかしたら脳に障害を負ったかもしれないという恐れは、足先までを順々に動かしてすぐに消えた。
酸素マスクと手足につけられた様々な医療機器の管で身動きが取りにくい。さて、まずはナースコールがと思う間もなく、ドアが勢いよく開かれて、誰かがハヤシに与えられている個室に飛び込んできた。
「お父さんっ」
看護師か医師かと思ったハヤシは、唇を微かに緩めた。まさか、自分の仕事を懐疑的に見ているはずの娘が、真っ先に来るとは思いもしなかった。しかも、その声にはちゃんと父親の容体を案じる響きがあった。
「よく……目がさめたと……わかったね?」
マスクの奥から舌を苦労して動かすと、タキの顔がすぐ目の前に近づいてくる。
「ずっと脳波や筋電図を見ていたもの」
「……変わった看護の仕方だねえ」
「だって。私、AIの研究をしてるのよ?」
くしゃっと歪んだ顔が、笑ったものなのか、泣くのを我慢してのことなのか、判別がつかなくて苦笑する。この子は昔からそうだったと、妙に甘酸っぱい思いが胸に広がる。
「マスクを、取ってくれない……かな」
タキはぱちぱちと瞬きをしてから、そっと酸素マスクを外した。黒目がちの瞳がじっと向けられる。
「どこも痛くない? ううん、じゃなくて。どこか感覚がおかしいところはない?」
「いや……身体が重い気はするが、大丈夫だろう。私は何日寝ていたのかな?」
「三日」
「そうか。脳の血管でも切れたのか」
「ううん。脳はきれいだったの。ただショックで心臓が止まったから……」
「ほう? じゃあ、私は一度死んだんだな」
何気なく言うと、タキはまた幼い頃のように顔をくしゃっと歪めた。
「こ、こんなところで死んじゃったら……迷惑よ……」
力なく答えたタキは、いったん目を背けてから、今度は一転して真剣な眼差しを向けてきた。
「あのね。サッタール君が……」
「ミスター・ビッラウラが?」
「眠ったまま目を覚まさないの」
ハヤシは、ゆっくりと考えを巡らせた。
「彼は……私と一緒に倒れたのかね?」
「……最初は、睡眠剤で眠らされたって聞いたわ……安全のためって。でも薬が切れても目を覚まさないの……」
タキは今度は顔を歪めなかった。ただ宙の一点を見つめていた。
目が覚まさないというのは、サムソンと同じく大脳の活動がすべて停止してしまったのだろうか。それならばほぼ死んだのと同じことだが――。
「ミスター・クドーが、彼はどこか別の時空に飛んでしまっているんだって」
タキは意外な洞察力を発揮して説明した。
それではまだあの闇のような時代にいるのか。それとも別のところなのか?
ハヤシはゆっくりと身を起すと、アレックスとショーゴを病室に呼ぶようにタキに頼んだ。その顔にはもう、父親らしさは抜け落ちていた。
次回は9月11日更新の予定です




