第三章 忍び寄る影(1)
ロデェリアでの調査面談から大学に戻ったサッタールの日常は、以前と変わりないように見えて少しだけ違っていた。
レワショフは相変わらず事あるごとに突っかかってきて、それをケイや双子が、時には面白がりながら、時には腫れ物に触るように口を挟んでくる。
毎日出される課題も大量で、こなす為には余分なことを考える暇もなく追い立てられる。
変わったのは、アルヴィンやタキが食堂や談話室に姿を現すと、サッタールが入れ替わりにすっと席を立つようになったことである。
「なぁに、あれ?」
今日もランチのトレーを両手で持ったタキが、キョロキョロと周囲を見回した瞬間、断りもなく立ち上がって出ていくサッタールを見送って、ロアナが眉をきゅっと寄せた。
「感じ悪いわねぇ」
ジゼルがそっくり同じ表情で答えると、ロアナは人差し指をたてて、ちっちっと振った。
「意識してるようにしか見えないわぁ」
「うん、僕にもそう見えるな」
ケイがロアナに賛成した。
「半月前、サッタールは公務だって言って講義を二日ほど休んだだろ? その後からだよね」
「何があったのかしらん?」
興味津々のジゼルは、狩人の目で食堂内を見回し、ちょうど一人ぽつんと席についたタキのテーブルに向かおうとしていたアルヴィンに目を留めた。
「ちょっとぉ、ケイ。彼、捕まえてきて? タキのとこに座っちゃう前に、早くぅぅ」
ケイは、それならタキを誘えばいいのにとぼやいたが、それでも素早く学生たちの間をすり抜けてアルヴィンの腕を取った。
「こっちへ来てくれないか?」
「え……でも僕は……タキの……」
戸惑ったようにずり落ちかけたメガネを押さえたアルヴィンは、有無を言わせぬケイに引かれていく。
「来てくれないと僕があそこのコットンキャンディーに絞められるんだよ」
アルヴィンは待ちかまえている双子を目にすると、いかにもげんなりとした顔をした。
「や、嫌だよ。どうせ質問責めなんだろ?」
「多分ね。でも君が来ないと双子はミズ・ハヤシに突撃しそうだけど? ここは騎士道精神で犠牲になった方がいいよ」
アルヴィンは心底嫌そうに首を振ったが、おとなしくついてくる。心身消耗している様子のタキは、双子が責め立てたら泣いてしまいかねない。
仕方なく双子のテーブルについたアルヴィンは、目をキラキラさせている二人を見ないように顔を伏せてトレーのスプーンを手に取った。香辛料がふんだんに使われたチャルネというシチューを選んだ事が悔やまれる。ただでさえ緊張すると喉が乾くのに、これでは水が何杯もいりそうだった。
「ねぇ? あなた何か聞いてるわよねぇ、ミズ・ハヤシとサッタール君になにがあったの?」
単刀直入にロアナが訊く。
スプーンに山盛りにしたチャルネを口に突っ込んだ瞬間を見計らったのだ。アルヴィンはそのままひゅっと短く息を吸ってしまい、とたんにごほごほと噎せた。
「な、な、なに……」
「まあまあ落ち着いて、ね?」
ジゼルは天使のように邪気のない笑みを浮かべて水の入ったコップを渡す。アルヴィンが慌て気味に水を喉に流し込もうした瞬間。
「で? 彼女が夜に忍んで行ったとかなのかなぁ?」
「なっ! そっ! ばっ!」
意味不明の叫び声とともに盛大に水を吹き出したアルヴィンの背中を、ケイが同情混じりの笑顔で優しく叩いた。テーブルは水浸しだが、双子は関係ない顔でにこにこしている。
ハンカチで口を覆い、紙ナプキンでテーブルを拭いたアルヴィンは、面白がっている三人を涙目で睨んだ。
「し、失礼なこと、い、言わないでくれっ! タキはそんな子じゃないっ」
「それならぁ、何があったのかしらん?」
少しも悪びれずにジゼルが畳みかけた。
「ち、違うんだ。そりゃ、確かにサッタールはタキを避けているみたいだけど」
「うん、その理由は?」
ケイが濡れてちぎれたナプキンをまとめてゴミ箱に放りこみつつ訊く。
「……い、言えないし言わないよ。思うにこれは個人間の諍いとかじゃなくて高度に政治的な問題を含む葛藤だから」
「政治的?」
大げさな言葉に、双子もケイも目を見合わせて黙った。サッタール自身が様々に政治的な立場を持っていることは了解しているが、あの大人しそうなタキ・ハヤシがそこに絡むとは想像できない。
「もしかしてぇ、彼女も精神感応者だったとかぁ?」
ロアナが声をひそめた。そもそもサッタールが講義を休んだのは、自己申告した超常能力者候補の調査に出かけたのは、周囲の学生ならみんな知っている。調査の実施自体はニュースになっていたのだ。
「いや。それも違う、と思う」
アルヴィンが歯切れ悪いのは、結果は聞いていなかったからだった。
ロデェリアから帰った後、タキは、サッタールを怒らせて避けられたと白い顔で言ったが、理由は告げなかった。だから陶板の文言を調べるのはもういいと。
何事にも控え目なタキが、あの陶板に記された文書をサッタールに告げるのには、とても勇気がいったことだろうにと思うと可哀想な気がした。
(でも、彼だって公安の娘と親しくする訳にはいかないんだろうなぁ)
タキが気にしているのが、純粋な正義感からなのか、それ以上のものなのかは人付き合いが苦手なアルヴィンにはわからない。
ただ、一つ年上なのにも関わらず、時に庇護欲をかき立てるタキが、純粋に心配だった。
「ちょっとぉ、黙り込まないでよぉ」
思いにふけるアルヴィンは、ロアナの声に顔をあげた。その拍子に食堂の隅で食事を終えたタキが、うつむいたまま立ち上がるのが目に入る。
「何があったのかわからないけど、サッタールはここでは学生の立場を貫くつもりだと思っていたんだけどな」
ケイが肩をすくめ、アルヴィンの視線を追ってにやりと笑った。
「どう見ても気を落としてるお姫様のところに行ってあげれば? こっちの綿菓子頭は引き受けるよ」
「なによぉ、ひどぉいー!」
双子の抗議を聞き流し、アルヴィンはうなずいて席を立った。そもそもケイ・ストウが僕を連れ込んだんじゃないかと思ったが、ここはありがたく退散する事にする。
どちらにしても午後の講義でロアナに会わざるを得ないが、双子をいっぺんに相手にするよりずっとましだった。
「タキ? ちょっといいかな」
足早にアンタレス棟から出るところだった従姉妹を捕まえたアルヴィンは、タキの顔色を見て大学裏の丘へ続く遊歩道に誘った。
南半球に位置するナジェーム大学近郊は、秋も終わろうとしている。小さな実をつけた草が、踏む度に種を蒔き散らしてズボンの裾にくっついた。
「あの……アル?」
しばらく歩いてから、タキがおずおずと声をかけてくる。
「あのね。気を使ってくれなくてもいいよ?」
「うん。そうは思ったんだけど」
少し迷ってからアルヴィンは背中のタキに向けて聞いた。
「サッタール・ビッラウラと、本当は何があったの? 彼はレワショフには厳しい態度を取るけど、理由もなく怒ったり、理不尽に人を避けるタイプには見えないけど」
タキは唇をきゅっと引いた。
ロデェリアで調査面談に臨んだ際、サッタールに父親の陰謀を伝えた。公安という仕事が、時に卑劣な手も使うとは、おぼろげに想像していたが、それが自分の知っている人間に向けられるのかと思うとたまらなかったのだ。
しかしサッタールは、大学に戻る帰途、きっぱりと今後自分には近づくなと言った。
どうしてと聞くこともできない断固とした態度に、タキは重ねて何か聞くことはできなかった。
「理由はあるの……理不尽さに晒されているのは彼の方なの」
アルヴィンの心配は胸に暖かいが、父親のことを打ち明ける気にはなれない。
「そうか……。でもそれはタキ自身が彼に何かをした訳じゃないだろう? それなら堂々としていればいいよ」
「な、んで?」
「タキのお父さん絡みじゃないの? 伯父さん、確か公安だろう?」
タキは首が折れそうなほどうつむいて、草の間に座り込んだ。白い靴の紐に、茶色がかった小さな草の実がついていた。それを細い指先で取りながら、タキはぽつんと言った。
「ANIAは宇宙船の全てを統括するでしょ? あらゆる場所を見て、聞いているから、船内の秘密もデータ化するよね。宇宙船で治安が乱れたら全員が死んでしまうから、それは当然なんだけど。でも私はそんな風に他人のプライバシーなんて知りたくない。ただ……精神感応者は知りたくなくても知っちゃうんだよね」
「サッタールはちゃんと遮蔽をたてるって言ってたけど?」
それはタキも知っている。だけど面談の際、サッタールに触れられた自分の指先から、どんな感情が漏れ出たのかと思うといたたまれない気がした。
もちろんANIAの全データ閲覧権限を持つ船長が、職務に不必要なプライバシーは目にしてもそれをスルーするように、サッタールだってタキの何を知っても知らぬ素振りをするだろう。
でも急に近づくなと言われてから、父親のことだけではなく何か自分で自覚できない欲のようなものを悟られたのかもしれないと、心は乱れる。
「僕には想像しかできないけど。万が一、彼がタキの何かを知ったとしても、それを態度に出したり、ましてやそれを理由に避けたりはしないんじゃないかな。多分彼はレワショフの感情も読んでいるけど、レワショフが誰の目にもわかる挑発をしない限り特に表情に出さないからね」
そうだとしても恥ずかしいし悲しいのだ、とはタキはアルヴィンに言えなかった。説明してもわかってはもらえないだろう。
「でも……怒っているわ、きっと」
ようやく言葉を返すと、アルヴィンはメガネを押し上げて微笑んだ。
「本人に聞いたらいいんじゃないかな?」
「もういいの。陶板について思い出せることはメモにして渡したんだし。私にできることなんか、もうないわ」
「そうかな?」
「アルは、何ができるって言うの?」
「そこじゃなくて。本当にサッタールに避けられたままでいいの?」
タキはまた考え込む。
最初にサッタール・ビッラウラをニュースで見たときは、どこか他の星の貴公子かと思った。もっと彼のことが知りたいと思い、そういえば超常能力者についての古い記録があったなと思い出して、アルヴィンに手伝ってもらい陶板を見つけたのだ。
その内容に背中が冷たくなった。自分と血が繋がる先祖たちが彼らを奴隷として使役していたことは、タキには衝撃だった。
思いがけずにナジェーム大に入学してきたサッタールを見かけたときは、他人を寄せ付けない固い表情に胸が痛んだ。そして父親が、彼らに何かを企んでいると知って、また陶板にあったような歴史を繰り返すのかと怒りと悲しみがこみあげた。
でもそんなのはタキ一人の感情であって、サッタールには迷惑なことだったのかもしれない。それでなくとも超常能力者に近づこうとする人間は多いだろう。レワショフのように反発する人間よりも、もしかしたらもっとたくさん。
「迷惑だもの」
ぽつんと言ってタキは立てた膝に頬を寄せた。
冷たい風がさぁーっと吹いて草を波立たせる。雲が次々と流れて、冬の前触れを告げた。
アルヴィンは、そんな従姉妹の頭にポンと手を置こうとして、寸前で手を止める。それまで風の音に紛れて気づかなかった人の気配がした。
振り返ると、困ったような顔のサッタールが立っていた。
「聞くつもりはなかったんだが……ごめん」
サッタールは丘の上から下りてきたようだった。確かにこの辺りまで足を伸ばす学生は少ないし、一人になりたかったり、人目を避けるにはいい場所だった。
隣を見下ろすと、タキは先ほどの姿勢のまま固まっている。
「いや……で、でも。君なら僕たちに気づかれないように通り過ぎることもできただろ?」
アルヴィンは若干の非難を込めてメガネを押し上げる。
人の気配を自分たちの何倍も読めるはずの男が、わざわざ声をかけてきたのだから、この始末をつけてもらわなければ困るのだ。
サッタールは逡巡する素振りを見せてから、結局溜め息と共にアルヴィンの隣に腰を下ろした。アルヴィンとしては二人で話で欲しかったが、当事者に挟まれては、抜け出すこともできない。
「どこから、そ、その聞いてたんだ?」
サッタールはその問いには答えずに、空に目を向けた。
「普段、私はなるべくなら他人の思念に触れまいと遮蔽を立てている。すっかり慣れたつもりだけど、でも時々それが煩わしくなることもあるんだ。だからそんな時はよくこの丘に登るんだ」
「そ、そう。じゃあ僕たちが邪魔をしたと……」
「そうじゃない。別に誰のものでもないだろ。まあ敷地は大学のものだけど」
どう話そうか考えるように、灰青色の瞳が揺れた。
「私の態度がタキを傷つけたのなら、悪かった。だけど、アルヴィンも予想しているようだが、彼女の父君と私たちはちょっと揉め事を抱えている。私には彼の意図がよくわからないし、今後も何かとぶつかりそうなんだ。そこにタキを巻き込むつもりはない。ただ、それだけなんだ」
アルヴィンは白い頬をかすかに赤くして、視線を宙に投げている同級生を睨んだ。
「そんなことだろうとは思っていたよ。だ、だけど、それならタキにちゃんと説明してもらいたいな。そ、そして……その、説明を聞いた上でどうするか決めるのはタキじゃないか。き、君は少し、上から物を考え過ぎる」
「そんなつもりはないけどな」
「き、君はタキの保護者じゃないだろう?」
その保護者たる父親がサッタールに告げたのは、娘を自分に対する人質だと思っていいということだったのだが、とムッとする。
「アルヴィンだって保護者じゃないだろう。これで理由は説明した。とにかくタキが気に病むことはなにもない」
断ち切るように言ってから、少しだけ間を取って、サッタールは頭を下げた。
「陶板のことはありがとう。メモはとても参考になった」
アルヴィンは肩をすくめて首を振る。
「ぼ、僕は、別に君の為と思ったんじゃないよ。単純に好奇心なんだ。ケイなんかと変わらない。でもタキは……」
それまでずっと顔を膝に埋めていたタキが、ぴくと背を震わせて、ゆっくりと顔をあげた。
「あの……」
整理されていない感情が渦を巻くのを見て、サッタールはその場から腰を上げたい衝動を抑えてじっと待った。
タキは自分の中にある様々な想念の欠片を、丁寧に一つ一つ拾っては吟味し、仕舞うもの、表に出すもの、今は判断できないものと整理していた。
それをサッタールは若干の後ろめたさを覚えながら、見つめる。今、声をかけたり急に動いたりしたら、彼女は作業を中断して、たちまち元の混乱した状態になってしまうだろう。
タキの父親は非常に明晰な思考を持っていたけれど、即断即決できる人間ばかりではないのだ。
「あの……父があなたに何を言ったのか、私は知らないけど……でも、ごめんなさい……どうしても気になるの。あなたのことも、その……コラム・ソルの人たちのことも……だから、気にしなくていいって言われても、その……私、勝手に困っていてもいい、かしら……」
ようやく出した結論は、それほど割り切れた物ではなかった。それでもそれは彼女の意志であってサッタールがとやかく言えるものではない。
「板挟みになって進退窮まらないなら、私がどうこう言うことではないな。ただ私は君を避け続ける。それで構わないなら」
「いいわ」
タキは瞳に力を込めてうなずいた。
黙って答えを待っていたアルヴィンは、メガネをポケットから出したハンカチで拭いてから立ち上がった。
「午後の講義に遅刻するよ」
何も変わらないけれど、どこかでほっとする気持ちを抱きながら、三人の学生は緑の丘を駆け下りて行った。
次回は7月24日の予定でいます。
よろしくお願いします。




