第二章 島の事情(2)
嵐が去って晴れ渡った朝。コラム・ソルの人々も、沿岸の船に寝起きする人々も、皆久しぶりの日の光に目を細めながら外に出てきていた。
三日間というもの暴風雨に閉じこめられていたのだ。いくら人工灯の明かりがあったとしても、やはり恒星フィオーレのもたらす圧倒的な光と熱は恋しかった。
「さて、申し訳ないけどまたウェイブレット号に戻ってもらえるかな?」
アレックスは、缶詰の魚のオイル漬けをぱさついたパンに挟んでもぐもぐと口を動かしているジャン・ポワイエに申し訳なさそうに話しかけた。
「構わねえぜ。少なくともあそこの方が飯はいいからな」
ジャンは、これだけは贅沢に淹れられた珈琲で口の中の物を流し込んでうなずく。
「はは。それはそうだね」
家事全般が苦手なアレックスは頭をかいてリビング兼仕事場を見回す。三日前にはあれだけ乱雑に物が散らかっていた部屋は、すっかり片づけられていた。衛星通信も途絶えて仕事もないしと寝て過ごすつもりだったのに、意外に几帳面なジャンに追い立てられて掃除三昧だったのだ。
それでも食料の備蓄がなくては豪勢な食事という訳にもいかず、二人はこの三日間、保存食をもぞもぞ食べる羽目になった。
「あんたには誰か世話をする人間が必要なんじゃないのか? だいたい軍ってのは整理整頓は教えないのか」
ジャンが呆れたように追い打ちをかける。
「うーん。一人だと別にいいかって気になっちゃってね。軍にいた頃は散らかすだけの物も持ってなかったし」
言い訳がましく頭をかいたが、今だって特に物持ちな訳じゃない。荷物なんて着替えと本ぐらいのものだ。ただ洗濯はしてもアイロンが面倒だったり、手当たり次第に読んだ本をその場に置きっぱなしにしてしまうだけで。
ジャンが鬼の形相で片づけを指示しなければ、今だって床の上に置かれた物を避けて歩かなければならなかっただろう。どちらが囚人かわからない雰囲気の中で、風雨に閉じ込められた男二人がせっせと働いた成果は、目を瞠るものだった。
「太陽光パネルの修理もしてやりたかったが、しかたないな。艇に戻るか」
ジャンは拘束場所に戻るのにもかかわらず、さばさばと言って立ち上がった。テーブルに食器を残して行ったら、多分この軍人上がりの怠け者は、洗った食器がなくなるまで流しに放置しかねないと、ちゃんと洗っていく辺りに几帳面さが表れている。
とはいえ、実を言えばアレックスに限らずコラム・ソルの外に育った大多数の者は、ろくに皿洗いの経験などないのだ。たいていは自動洗皿機に放り込めば済むのだから。
二人が外に出ると、水平線から上ったばかりの朝日に、残された水滴がキラキラと輝いていた。だがこれも昼前にはすっかり乾いてしまうだろう。
小さな港には、三日前と変わらない姿で沿岸警備艇ウェイブレットが揺れていた。
「おはようございます、イルマ所長」
アレックスが来ることを予期していたように、艇長の海軍准尉シムケットが入り口で挨拶をする。
「うん、おはよう。またしばらくミスター・ポワイエの世話を頼めるかな? 嵐は無事にやり過ごしたようだね」
あの彗星がやってくる前まで、ウェイブレットの艇長はアレックスで、シムケットは副官だった。そのせいか、気をつけていてもつい気安さが出てしまう。
「はい。滝壺に落ちたような有様でしたが、設備には何の問題もありません。それより、中央から指令が入っています」
シムケットは、アレックスの気さくな態度にしかめっ面を返しながら、声を低めた。すぐ側に立っているジャンの存在を気にかけたようだった。
「指令? 俺のとこにはなかったけど……」
小さく呟くと、ジャンに視線を移した。
「あー、俺は先に部屋に入ってるぞ。案内はいらねえよ」
本来はシムケットが付いて行って施錠をするべきなのだが、老練な准尉はうなずいただけで留置すべき人間を自分の艇に入らせる。コラム・ソルの住人が嘘をつくことはないと、知っているのだ。
「で、指令って? わざわざ報告してくるってことは、海軍からじゃないんだろ?」
アレックスの問いに、シムケットは再度うなずいた。
「ええ。内務省公安部の超常能力者対策チームからです。ハヤシ警部という方から」
アレックスもその男を知っていた。調査面談のセッティングをしたのも彼だ。ただし面識はない。
「それでなんだって? なんで俺のとこに連絡がないんだ?」
そもそもポワイエを拘束しているとはいえ、ウェイブレットの所属は海軍だ。中央から指令が来るのは、アレックスのところでなくてはならないはずなのにと、疑念を抱く。
「ハヤシ警部は、あなたのところに連絡したけど通信が届かないと言ってましたよ」
しかしシムケットはむっつりと答えた。その目が、ちゃんと通信機器のメンテナンスをしていたのかと聞いていた。
「え? あ、そういえば携帯はチェックしていたけど……」
屋根の太陽光パネルによる発電がうまくいってなくて、パソコンが使えなかったことを遅ればせながら思い出す。蓄電池もチャージが切れていたのに放置していたのは大失敗だ。これが軍ならば懲罰ものだろう。
「参ったな……」
「私からは、コラム・ソルが暴風雨の中なのでと話しておきました。後で部下の技師を派遣します」
「悪いな」
ボソボソと謝ると、シムケットはにやりと笑った。
「あなたが相変わらずで、世話のしがいもあるってもんですよ」
旧悪を暴かれそうで、他に誰もいないのにアレックスは曖昧に笑って足を引いた。
「で、ハヤシ警部は何だって?」
「来るそうです。明日、ペレスから来る補給鑑に乗って」
「明日? しかし彼はロデェリアに行ったばかりだろうに」
「それは自分は知りませんが」
シムケットは笑顔を引っ込めて視線を水平線に向けた。まだ波は高いが航海に支障が出るほどではない。
「ウェイブレットは警備の一環として容疑者を預かっているだけです。だから釈放するか中央に連行するかの判断はあなたからいただきたいですよ、イルマ所長」
「ああ、わかってるよ」
アレックスは癖のある髪を無意識に撫でつけたが、風にすぐに吹き散らされて、またわやくちゃになる。シムケットはそれを横目で見ながら、元上官がこの状況に意外と困っていないことを察して姿勢を正した。
「僭越なことを申し上げました」
「いや。お前がここにいてくれて助かっている。ありがとう」
アレックスは昔のように歯を見せて笑いながら、シムケットの肩を叩き、踝を返す。
まずは、被害者の男を収容している病院船の主治医に会わなくてはと、公安の警部が来る前にやっておくべきことを頭に浮かべた。
病院船の中は思ったよりも患者でいっぱいだった。宿泊施設になっているのは、二十万トンを越えるかなりの大型船とはいえ、昨夜までの嵐はこの二年で最大級のものだったのだ。
(そりゃあ、具合悪くもなるよなあ)
ここに作業に来ているのは、海に慣れた海軍軍人ではないのだ。地震でもない限り、揺れない床が当たり前の者たちである。
同情しつつ、アレックスは青い顔をした患者たちの間をすり抜けて、奥の入院施設に足を運んだ。
トマス・ガルボというのが被害者のID登録上の名前だが、これは偽名だろう。アルフォンソは彼が公安の諜報員だと断言したが、当然本人はそんなことは認めていない。
経歴もロボットアームの操作技術者ということになっていて、実際仕事は優秀なものらしいが、これも作られたものだとアレックスは確信していた。
(IDの偽造が明らかにできればなあ)
古巣の海軍にも諜報部はある。トゥレーディア事件を通して知り合ったそこの工作員にも聞いてみたが、偽造IDを暴きたかったら本人を連れてこいと言われて断念した。
そんな訳で、公安の企てを証明できなければコラム・ソルに有利に話を運ぶことはできないと思い悩んでいたが、全てをひっくり返す手だてを思いついた。
とは言うものの、アレックスはあくまでも中央府の派遣なのだ。いたずらに公安を怒らせても、解雇されかねない。
(そしたら、もうこっちに移住するかなぁ)
電力の供給がスムーズになり、通信設備も増強されれば、超常能力を持たなくても生活に困難はない。
心を読み放題読まれても別にいいやと考えられる脳天気なアレックスならではの感慨を抱きつつ、整形外科の診察室のドアを叩いた。
すぐにいらえがあって、若い女性医師が応対に出てくれる。
「診療時間中に申し訳ありません。駐在事務所のイルマです」
女性医師は、アレックスの顔を見ると、患者に振り向けるはずだった笑顔をさっと引っ込め、事務的に診察用のイスを手振りで示した。
「今日はお一人ですか?」
一度アルフォンソを伴って来て以来、顔見知りになった医師は、自身のコンピュータに向かって続けた。
「ミスター・ガルボは明日退院させるように通達が来てますよ」
「そうですか。明日、公安から人が来るので、彼が連れて帰るつもりなのでしょうね」
にこやかに、アレックスは固い顔の医師を見つめた。
「その前に。ドクターにお聞きしたいのですが、ミスター・ガルボの怪我はいかがでしょうか?」
医師は、肩で切りそろえた髪を苛立たしげに揺らしたが、アレックスには目も向けずに答えた。
「いかがも何も。骨も神経も問題ないのですから、七日前には退院できたんですけどね。あなたから要請があってお預かりしていただけですから」
「ええ、承知しています。それで、問題ないという状態についてもう少し詳しく伺いたいのです。こちらに運び込まれた時からの治療経過を出してください」
「治療経過?」
鼻で笑うように息を吐いて、医師はようやくまともに目を合わせてきた。
「そんなものはありませんよ。入院時点でミスター・ガルボの腕には医学的な問題はありませんでした。レントゲン写真でもご覧になります?」
「ぜひ。それと写真の原本は改竄の疑念を抱かれないよう管理をお願いします。ちなみに過去の骨折の形跡はその写真でわかるでしょうか?」
アレックスの言葉に、医師の目がつと細められる。
「医療者は常に政治的中立でありたいと思っています。改竄などさせませんよ。もっともこの島の超常能力ならばそんなこともできるのかもしれませんけど」
それからと続けながら、医師はプロジェクタに肩の関節部分を映した写真を呼び出した。
「はっきり申し上げますが。この患者の肩に、過去の治療の形跡は一切認められません。今回に限らずです。それなのにあなた方は、重傷者としてここに運び込んできたのですよ。本人も確かに痛がってはいましたけどね……最初の日だけは」
「神経も?」
「腱に引き吊れでもあれば、少なくとも脱臼したのかと思うところですが、診察の結果は打撲による内出血すら認められませんでしたよ」
プロジェクタの写真に日時がはっきりと記されているのを確認して、アレックスは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
しかし医師は、細い眉をぐいっと寄せて睨みつける。
「もしミスター・ガルボの骨折が真実であり、超常能力による治療を受けたということならば、私たちとしては是非その治療者に会いたいと思っています。こんな風に跡形もなく人間の肉体が再生されるなんて……。しかしあなたも、ミスター・ガナールも、治療者との接触を拒否されましたね。何故ですか、イルマ所長?」
それが彼女の腹立ちの元かと、アレックスは内心で溜め息をついた。医療者としての常識とプライドを傷つけられた上に、政治的な駆け引きの中で治療の必要もない男を隔離するように滞在させていることが気に食わないのだ。
「それに関しては、私からは何とも言えません。正式に文書でもってコラム・ソルに依頼をかけていただければ取り継ぎはしますが、あくまでも彼らの意志ですので」
「そうですか」
素っ気ない返事と共に、女性医師はプリントアウトした写真の束をアレックスにぞんざいに渡した。
「再生医療って言葉がこれほど虚しくなる話はありませんよ。私の骨が折れたらその治療者に施術してもらえませんか?」
「……折らないように気をつけてください。患者は明日、引き取ります。それとこの写真の原本をもしかしたらもう一度確認させていただくかもしれません」
「ここは怪我人以外はお断りなんですけどね」
女性医師は鼻を鳴らして手をひらひらさせた。アレックスは深々と頭を下げて診察室を退散した。
渦中のミスター・ガルボに会っていこうかと考えて、アレックスは首を振った。明日まで、会わない方がいい。自分の言動は、精神感応者じゃなくても筒抜けになりがちなのはよくわかっている。
代わりにアルフォンソを訪ねることも考えたが、公安に口裏を合わせたような疑いを持たれても困る。頭をかきながら考えた末、アレックスはウェイブレット号の技師の手を煩わせぬよう自力でパネルの点検と配線の補修をしてみることに決め、足取りも軽く爽やかな風の中を引き返していった。
次は7月10日に更新予定です。




