第二章 島の事情(1)
その日。コラム・ソルは暴風雨に見舞われていた。
住人との接触を最小限にするため、外から来た者たちは基本的に大型の艦艇で暮らしている。十五メートルを越す大波が島の周辺を泡立てているが、コラム・ソルには大きな湾もなく、ほとんどの者は緩衝材を岩肌に打ちつける船内で耐えるしかない。
しかしジャン・ポワイエは押し込められていた海軍の警備艇ウェイブレットから久しぶりに解放され、コラム・ソルの土を踏んだ。
「申し訳ないが自由に自宅に帰す訳にもいかなくて。私の部屋に避難してもらうことになるけど」
アレックスはジャンに手錠をかけるでもなく、腰縄を打つでもなく、まるで友人を案内するかのような気さくさで留置人の手を取った。
小型のウェイブレットは港に横付けされているとはいえ、この天候の中に放置するのも忍びないと連れ出したのだ。
「あんた、みんなからお人好しって言われる訳だよな」
ジャンは久しぶりの外の空気を胸一杯に吸い込んで獰猛に笑った。
捕まってからの待遇は悪くはなかった。小型艇の艇長はわざわざ一番広い自分の部屋を明け渡してくれたし、食事もトイレも不自由はなかった。やることがなさすぎて退屈なのを除けば。それでも念話で自由に島の者と話せるのだから、一般の囚人たちよりよほど気楽だったろう。
狭い船室でじっとしてると身体がなまるのが一番の心配だったが、それも交渉が終わるまでのことだと思えば我慢もできる。
「お人好しとか、脳天気とか、うっかりぼんやりとか。まあだいたいそんな感じで言われるよ。ミスター・ガナールを筆頭にね」
アレックスは雨が目に入らないように顔を背けながら快活に答える。ジャンの暴行傷害事件以来、ずっと中央と島との板挟みで働きづくめだった。この暴風雨は少なくとも三日は続くらしいから、頭と身体を休ませられるのは正直ありがたかった。
「俺があんたを殴りつけて逃げ出さないかとか、心配しねえの?」
桟橋を歩くうちに、下着までぐっしょりと濡れた。これだけの雨はこの島でも久しぶりだ。おまけにとんでもない突風が吹き荒れるから、よほど気をつけていても身体が浚われそうになる。
ウェイブレット号の艇長は、アレックスがジャンを連れ出す前、一応の確認といった表情で、護衛に付いて行きましょうかと聞いてきた。だがこのお人好しな事務所長は、びっくりした顔で首を振った。
「それより艇の保守の方が大変だろ? 構わなくていいぞ、シムケット」
その言葉で、自分が襲われるとか、囚人が逃げ出すとかの可能性を露ほども感じていないのが、ありありとわかる。言われた艇長も、予想通りと言わんばかりにジャンを引き渡すと、さっさと艇の保全に取りかかってしまったのだ。
「なに? 何か言ったかな、ミスター・ポワイエ?」
アレックスが怒鳴るように聞き返してきて、ジャンは肩をすくめた。連れ出してくれるならもう一時間前にして欲しかったが、それはわがままというものだろう。小艇では危険だからという大義名分が必要なのだろうから。
どちらにしろ耳を聾するばかりの風が吹いてきて会話などできっこない。それより吹き飛ばされて荒波に落ちる方が心配だ。
ジャンはアレックスの腕を掴むと、少しだけ精神を集中させた。アルフォンソならそんな手間もいらないだろうが、あいにくジャンには頑丈で不遜な島の長ほどの力はない。
自分とアレックスの周囲に力場をつくり雨と風を一時的にしのぐ透明な壁を立てる。急に弱まった風雨にアレックスの目がまん丸になった。
「とにかく行こうぜ。あんたの部屋って事務所だろ?」
「ああ、うん。すごい、便利だね」
素直に感心する男にジャンはますます呆れたが、こんな力の使い方は滅多にしないのですぐに消耗する。
「これを保たせられんのは五分ぐらいなんだよ。走るぞ」
どっちが囚人なんだかわからない態度で、ジャンはアレックスを掴んだまま走り出した。
中央府在コラム・ソル事務所は集会場の奥にある。元は島民の住宅だったが、人口が減ってこんな空き家は幾らでもあるのだ。大海の孤島であるコラム・ソルの建物は、石を積んだだけに見えて非常に頑丈だ。なにしろ三百年耐えてきたものばかりなのだから。
その頑丈な家の玄関に飛び込むと、二人はへなへなと床に尻をつけた。特にジャンは運動不足と力を使ったことで、すぐには起きあがれない。荒く息を吐きながら、玄関ポーチに水たまりを作っていると、アレックスは慌ててタオルを取りにバスルームへと走った。
「助かったよ、ありがとう」
オイルランプを片手に、乾いたタオルを差し出しながら、アレックスは青い目を心配そうに瞬かせる。
「このところの雨風のせいでお湯が沸かせないんだ。灯りもなくてね。とりあえず私の服を貸すから風邪ひく前に着替えたらいいよ」
「ああ、悪いな」
各戸の電気は太陽光発電だが、どこか故障しているのか、暇だったら修理ぐらいはしてやってもいいと考えていると、不意にアルフォンソの気配がした。
『よお、元気そうだな』
『そうでもねえよ。体力不足だ』
『俺やイルマはてめえの件で寝不足だ』
『……そりゃ、そうだったな、悪い』
湯の出ないバスルームで肌にぺったりと貼りついた服を引き剥がし、アレックスに渡された外の服をありがたく着込む。
事件から十日たっていた。その間、ジャンへの事情聴取は一度きりで、後はアルフォンソとイルマが中央の役人と通信で押し問答していることは知っている。
はめられたのだということは、相手の男に接触したアルフォンソから聞かされた。あの男は公安の犬だったと吐き捨てるように告げたアルフォンソは、そうとわかってもジャンを解放できないことに苛立っていた。証拠がないからだ。
『サッタールに公安が接触してきたって言ってたが、それはどうなったんだ?』
『欲しいと言われたのを蹴り飛ばしてそのまんまだとよ。こっちに戻ることも考えたらしいが、あいつは外に置いておくぞ』
『ああ、その方がいい。っていうか、俺は当て馬かよ』
『引っかかったお前が迂闊なんだよ』
『……悪い。迷惑かけた』
殊勝に謝ったのは拘束されてから初めてだった。いや、生まれてからずっとアルフォンソの力の強さを妬んできたジャンは、そもそもこちらから悪いなどと伝えたことはなかった。
『それでカタリナはどうしてる?』
気恥ずかしさを誤魔化すように頭を拭きながら言うと、アルフォンソが低く笑った。
『よってたかって甘やかされてるさ。男がわざと浮かべた妄想を現実の計画と勘違いして、結果まんまとお前を拘束させちまったんだからな。しばらくは泣きやまなかったが、今は女たちが側にいるからな』
そうか、それならよかったとジャンは嘯いた。そのカタリナの悲鳴に反射的に力を使ってしまった大馬鹿者は自分だ。見事に引っかかったものだ。
そこにひょっこりアレックスが顔をのぞかせた。
「なんにもないけど、即席のスープがあるよ」
面倒見のよい男だなと、ジャンはアルフォンソとの念話を打ち切って、事務所兼リビングへと足を運んだ。
甘みのあるトルヤの粒を砕いて作ったスープは、水に溶いただけの代物で、どこか舌に違和感があった。ジャンが微妙な顔ですすっていると、アレックスは申し訳なさそうに眉を下げる。
「料理は全然だめでね」
「ダメなのは料理だけじゃなさそうだが」
見回すと事務所は乱雑に散らかっていて、仕事机の周りだけは片づけられていたが、およそ細やかなことは苦手らしいのがうかがえた。
アレックス・イルマがこの島に来てもう二年以上経っている。島の者も彼の顔はよく知っているし、子供のように開けっぴろげな思念で裏表のない人間だということも、ほとんど全員が知っていた。
だが中央との交渉はアルフォンソとショーゴが引き受けていたから、ジャンはこうして二人で向かい合うのは初めてと言っていい。
「いろいろ俺のことで迷惑かけているようだな」
ぽつりと言って頭を下げたジャンに、アレックスは微笑んで首を振った。
「仕事ですからね。それに私はあまり役に立っていない。まるで子供の使い扱いだから」
あの男の素性を、この脳天気な男も知っているのだろうかと疑問が浮かぶ。
「男の容態は?」
「折れた骨はミズ・ビッラウラが接合してくれたし、今はもうピンピンしてるよ。公安は彼を中央に帰したいらしいけどミスター・ガナールが反対している。重要な証人だからね」
アレックスは穏やかな表情のまま答えたが、心は公安への憤りに染められていた。知っていたかとジャンが思うのと同時に、アレックスはため息をついて頭をかいた。
「私の心は読みやすいらしくてね。事務所長のくせに機密事項は何も伝えられないていたらくなんだ。男のことはミスター・ガナールから聞いたんだよ」
「それで、それを信じたのか?」
「心で嘘をつくのは難しいって、サッタールが言ってたから」
確かにそうだが、サッタールなら心を何層にも分けて誤認させることなんて朝飯前だぞ、という言葉は飲み込んだ。
「つてが海軍関係しかなくて、事情を探るのに手間取ったんだけど、本当のことを言うと公安はあなた自身も欲しがっています。というか、コラム・ソルの方々全員が対象ですが。ただこの件に関しては、公安は失敗したと思っているでしょう。サッタールもミスター・ガナールも、彼らが思っていた以上に態度を硬化させていますから」
「公安の奴らは俺たちを取り込んで何をしたいんだ?」
アレックスはしばらく瞑目して頭を整理してからゆっくりと口を開いた。
「超常能力者を完全に統制下において、彼らの思うままに使いたいんでしょう。科学技術が進んでも、いや進んだからこそあなた方の能力は我々の想定を越えた効果を発揮できる。しかもコラム・ソルはまとまっていて訓練されている。これから超常能力者が発見されたとしても、即戦力になるかどうかは未知数ですしね」
アレックスは海軍時代の上司を頼って、公安の狙いを探ってもらった。それによれば治安維持の為にも超常能力者全員の強制ID登録だけではなく、能力の徴用を目指しているのだという。
「職業選択の自由は、ファルファーレ憲章に謡われる基本的人権の要の一つなんですがね」
苦しげなアレックスの瞳に、ジャンは肩をすくめた。
「あんたが俺たちのことを最大限考えてくれるのはありがてえ。が、誰もがなりたいものになれる訳じゃねえだろ。島で暮らしてたって能力の種類と大きさによって各々の務めが決まるんだ。条件次第じゃあ、案外、あんたが思うほど悪い話じゃねえかもしれないぜ」
ジャンはアルフォンソに及ばない自分の力の大きさと、金属精錬に特化した技術のことを考えていた。それだって生まれつきってもんだろと、どこか突き放した感情があった。
「見返りに、今度みてぇな事がなくなるんなら、俺は乗ってもいい。ただし島は島で、あり続けてくれんと困るな。力の薄い者もいるし、何が何でも外に出たくない奴もいる。そいつらが安心して暮らせる場所は必要なんだよ」
アレックスは黙って無精髭の生えたジャンの顔を見つめた。精神感応力がなくても、見つめることで何か探れないかとでもするように。
「ミスター・ガナールとサッタールは、そうは思ってません。譲歩できるのはID登録までで、自由意志ならともかく徴用されるような制度には最後まで賛成しないだろうと、私は見ています」
「ああ、あいつらはな。長の責任とか、超常能力者の代表とかの意識が強すぎて過保護なんだよ」
ジャンはひねた笑いを浮かべた。
「その意味じゃあ、長老のゴータム爺さんとも変わらん。あんたはサッタールと親しいから奴の意見が島の者全員の意見だと思うだろうが、そうでもない。それでもアルフォンソが最終的に決めたことなら俺は従うがな」
話している間にトルヤの粉末スープは淀んで、口の中が粘つくような気がした。
彗星が来るまでは、島の中での取り決めは単純なものだった。複数の道などなかったし、全体が生き残る為にはという命題に対する答えなんて誰が長でも大差はなかったから。
しかし今、コラム・ソルのあり方に幾つもの選択肢があって、誰もどの道が最善かなんてわかりはしないのだ。
アレックスは長いため息を吐いて、背中をイスに預け仰向いた。セントラルで、コラム・ソルの為にと心身を削るように働いていたサッタールの姿を思い浮かべる。
「あなたの意見を、ミスター・ガナールは……」
「そりゃ、知ってるさ」
ジャンは声に出して笑って見せた。
「サッタールは島を離れてるからどうだか知らんが、アルフォンソは直接顔をつき合わせてんだ。サッタールほどじゃなくっても、全員と話せば嫌でもそれぞれの思っていることが違うなんて思い知らされるのが、俺たちの長の辛ぇとこだな。厄介なもんだろ、能力なんて?」
ときおりゴォーっと地面を揺るがす風の音がした。
アレックスはジャンの言葉をじっくりと考えてから首を振った。
「あなたのおっしゃることはわからないではないですが、正直に言って甘い。国家権力というのは、そんな簡単なものではありません」
「甘い、だと?」
一瞬むっとした顔で睨んだジャンは、すぐに視線を落とした。感情を抑えるのを待って、アレックスは静かに語りかける。
「あなたが男の骨を折ったとき。あなたは男の苦痛を感じませんでしたか? 私にはそれがどういう感覚なのかはわかりませんが」
ジャンはその時の記憶を反芻した。
カタリナの悲鳴を聴いて、瞬時に彼女に同調したジャンは男の暴力的で邪な表層思考を読んだ。そして男の肘を――見えない手で掴むように――力を使って捻りあげた。次に聴いた悲鳴は男のものだ。ポキッと上腕の骨が折れ、男は絶叫した。
その痛みと目に見えない力に操られて勝手に腕がねじ曲がる恐怖。
やった瞬間は、いい気味だと思ったのだ。だがすぐにジャンは男の感じている苦痛と恐怖に自分自身も囚われた。男が地面に崩れ落ちてのたうつのと同様に、自分も腕を押さえて床に膝をついた。
「たとえば。公安組織に取り込まれて、力を使って人を殺せと命じられたらどうしますか? もちろん公安にはそう命じるだけの理由は持っているでしょう。その理由に納得したとしても、それはあなた方にとっては苦痛なはずです。そして公安の示す正当性が常に真実だとは限らないのが、今回のことでもわかります」
サッタールと初めて出会った頃。少年だった彼が人を傷つけることをとても恐れていたのをアレックスは知っている。心を無用に探ることも躊躇していたのだ。
「あー、わかったよっ」
ジャンはアレックスを遮って両手で顔を覆う。金属精錬の腕を買われて、普通の反応炉では生成できない合金を作る。それならばいい。しかしジャンは自分から、念動力がいかに容易に人を傷つけることができるか証明してしまった。
あの人を食ったようなアルフォンソが、口ではいかに罵倒し横柄な態度を取ろうとも、中央の人間に自らの力を見せないようにふるまっていたのはそういう理由だ。
「俺は、馬鹿だな」
「仕方ありません。彼らは人を欺くことにかけてはプロです」
慰めの言葉に力なく首を振るジャンを、アレックスは複雑な思いで眺めた。
アルフォンソによれば、怪我をした男は精神感応者ではないという。それなのに巧みに本来の目的を心の底にしまいこんで、それが間違いなく彼の意志だと、ジャンやカタリナに思いこませるような感情を脳の表層に浮かべたのだ。暴力で女性を陵辱する妄想を。
(俺には絶対に無理だろうな、そんな器用なこと)
アレックスが考えると、それを遠慮なく読んだジャンが口に出して答えた。
「ああ、あんたにゃ無理だ。だからサッタールが懐いたんだろ」
「懐くって……」
「それともあんたが懐いてるのか」
「犬じゃないんですから」
少しだけ肩を落とすアレックスに、ようやく顔をあげたジャンは小さく笑った。
「俺たちは外の人間を知らなさすぎる。あんたみたいな男がサンプルじゃ余計に誤解するな」
「私のせいですか?」
「そうさ。だからサッタールは外に一人で行ったんだろ? 星を追いかけるって酔狂な話だけじゃなくて」
アレックスは自分の心が読まれているのを承知した上で、毅然と言った。
「とにかくあなたの身柄は私が責任を持って解放させます。もう少し待ってください」
一つ思いついたことがあった。法を盾にジャン・ポワイエを確保しようとする公安に、堂々と法で応える術が。
「へえ、そんな話、通じるのかねえ……?」
思いついたアイディアも勝手に読んだジャンは半信半疑の顔をしたが、アレックスは青い目を悪戯っぽく光らせる。
「まあ何分論述するのが能天気の私ですから、一言で黙らせられるとは約束できませんが」
「いや、期待してるぜ、イルマ所長」
ジャンはカップに残った不味い粉末スープを飲み干して、不敵に笑った。
次は7月8日に更新予定です。




