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蝋梅

作者: かぶと。

外の柔らかい陽射しとは対照的に家の中は薄暗い。ドアを開けた時に、微かに吹き込んだ春風が埃を舞い上げた。ボクはきちんと靴を脱ぎ、揃える。暫くぶりの我が家の匂いは埃臭い。高校は寮制だったから、この家には三年以上居なかったことになる。あんなに苦しんだのに、時間はあっという間だな、と苦く笑う。                          


あの人に云いたいことがある。


姉はとても優しい人だった。五つ歳が離れた優しくて強い姉。決してボクの前では泣かず、何時も暖かな微笑を浮かべていた。姉は、亡き母の代り。姉は母であり母は姉だ。小さい頃のボクは泣き虫で姉に抱かれ姉の胸で姉の仄かに甘い蝋梅の匂いの中で泣いてばかりいた。泣く理由は幾らでもあった。母も亡ければ、父は女遊びに忙しくて滅多に家へ帰ってこない。誹謗中傷の種はボク等のどこにでもあった。それが、ボク等自身の所為では無くとも。泣くボクを姉は抱きしめ慰め、ボクの涙を拭う。涙を拭った先に見えるのは綺麗な姉の顔だ。二重瞼の大きな眼は丸眼鏡越しに慈愛の色を見せ、優美な貌、曲線を描く唇は花弁の様に可憐だった。長い髪に触れると絹糸の様にさらりと指を抜けた。ボクはあの頃から今まで姉以上に美しい人を見たことが無い。家族は姉とボクだけだ。姉がボクだけを見てくれる。ボクはとてもとても幸福だった。

ああ、それなのに。それなのに。幸福は呆気無く崩れた。姉が高校一年生となり、ボクはもう少しで小学校を卒業する頃に。

「好きな人ができたの」

あの日、姉はそう言った。白地に透けた紅を重ねた様な頬、はにかんだ笑みで。ボクは、姉がもうボクだけを見てくれないことに気づき、ボクの姉に対する感情にも気づいた。 

言葉少なに初恋相手への想いを姉は呟き、ボクの嫉妬は泥の様に溜まっていく。それでも、ボクは一線を越えることが出来ず、優しく美しい姉への思慕を断つ事も出来ない。

「あのね、あの人と私、両思いだったみたい」

あの大人しい姉が、歳相応の明るいはしゃいだ声でボクに言った時。ボクは、「おめでとう」と茫然としながら、口に出した。姉は高校二年、姉の美しさは、誰の目にも止まり、振り返らせる程になっていた。その日の姉は何時もよりも華やいで見えた。どうして? どうして? 問い詰めたかった。くるしいよ、姉さん。たすけて、姉さん。それから間もなく、姉の初恋相手は、姉の恋人となり、家へやってきた。どこからどう見ても姉に惚れぬいているそれにボクは、奥歯を噛み締め、震える拳を辛うじて黙らせる。

 姉と姉の恋人は、傍から見ていても幸せそうな二人だった。ボクの入り込む隙間等、一寸も無い。姉弟で無ければ良かったと幾度も呪う。時折微かに聞こえる姉の艶かしい吐息が相手の男への憎悪を掻き立てる。なんで、ボクじゃないの? ボクの前であんな声出さないのに。どうして? 眠れぬ夜が続いた。頭を掻き毟り血を滲ませ、姉が懸想する相手を殺したい程憎んだ。

高校を受験する際、ボクは、寮制の遠い学校へ行くことを希望した。それは最早、ボクが姉に対して、欲情し、何時姉を汚すかわからなくなったからだ。遠くに行けば、離れれば、姉とボクは、姉弟として幸せなのだ。姉は細やかな気遣いで、ボクに手紙と電話をくれた。嬉しいと同時に寂しさも募る。そして、その夜には、姉への愛情が昂ぶり、ボクは苦しんだ。憎んだ。悩んだ。殺したい程に。ボクの愛は歪んでいるのか。姉を殺して、ボクも死ねば、姉はもうずっとボクだけを見てくれるのか。頭痛がし、胃液が逆流し、何度も何度も、吐く。そんな日々だった。しかし、それも今日までだ。一通の手紙が、一人暮らしのボクの元へ届いた。紙切れ一枚で家族は増えて減り、それは姉の結婚でもそうだしボクが養子であり姉の本当の弟で無いことの証拠でもある。ボクは、姉が好んだ場所を正確に覚えていた。明日この家は取り壊される。姉の居た場所には細い陽射しが入っている。そこにだけ、あの甘い蝋梅の匂いがした。ボクはそっとそこへ跪き、床の埃を払い、口付けを落とし、云った。

「これからもずっとずっと愛しているよ、ねえさん」

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