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シュレーディンガーの射手

作者: 井渕 孝久

 弓道場は、体育館と、学校の敷地を囲む木々に覆い隠された辺鄙(へんぴ)な場所にある。改築から十年も経っていないという、切妻造の木造家屋。内装も小綺麗なままだ。壁には、歴代の部員の名が書かれた木の札が並ぶ。蛍光灯がフローリングの床に爛々とした光を与えている。私は持っていた弓を弓立てに、矢を矢立箱に戻した。

 部員があらかた帰ってしまうと、道場は急に静かになる。校庭で練習している部活のかけ声はここまで届いてこない。ともすると、ここが学校の中であることを忘れそうになる。学校生活とは集団生活で、人の目、人の声、他人から様々な感覚を受けているのが普通の状態だから。ここは学校の中であるのに学校らしくない。私とこの道場だけが、世界から置いてきぼりをくらったような錯覚にとらわれる。結果として、全然集中できないのだ。一人で黙々と練習した方が身になるはずだと思ったが、誰も見ていない中での練習は、むしろ落ち着かなかった。

 明日の競射((1))のために時間いっぱいまで自主練するつもりだったが、いまいち優れないので射場((2))を離れた。制服に着替えることにする。部活のためにまとめていた髪を下ろした。

 もう誰も残っていないと思っていた。道場の奥、畳が敷かれた控えのスペースに戻ると、一人の女子がたたずんでいた。丸っこい小さな顔。目がパチっと開いていて、少し童顔には思えるけれども愛嬌がある。

 二見綾子、私の親友。

 彼女は真剣な顔で、かと思うとうっとりとした顔で、一点に視線を向けている。ちょうど一番右の的を射るときに立つ場所だ。

 以前そこには、宮代という先輩が陣取ることが多かった。宮代先輩は弓道部のエースで、いわばそこは彼の特等席だったのだ。しかし一か月ほど前、八月の頭に、彼は死んだ。自転車での下校中、交差点で車にはねられたという。あまりにも突然な、悪い冗談のような出来事だった。以後、一番右の的は誰も使おうとしなくなった。

 私は制服に着替え終わると、彼女に近づいて声をかけた。

「ねえ、綾子」

 もう帰ろうよ、と言おうとした瞬間。

「かっこいいな、宮代先輩……」

 目線を全く動かすことなく、彼女はしみじみと呟いた。改めて彼女の顔を見ると、その頬は朱がさしたようにほんのりと赤く見えた。

「宮代先輩は、もういないよ」

 私はなるべくソフトに言う。そこでやっと、綾子は私を見た。彼女の顔には困惑がありありと見て取れた。

「何言ってるの? そこにいるでしょ」

 綾子が視線を戻した先には、やはり誰もいなかった。私はその会話を早々に打ち切り、荷物を持って道場を後にした。

 少し早足になっていた。歩調を緩めて、振り返る。道場から彼女が出てくる様子はない。日が沈んで、寒色だけになった空が目につく。

 ……今日の綾子は、ちょっと怖かったかもしれない。

 彼女は、宮代先輩の死によってどこかが壊れてしまった。普段の生活や授業に何ら変わりはない。ただ、部活の中では違った。自分の練習もしないで、さっきのように虚空を一心に見つめている。そのときの彼女の横顔は、まさに恋する乙女のそれである。

 実際綾子は、先輩に惚れていた。弓道部内でもはや公認の、熱烈な片想いだった。しかし結局、綾子は宮代先輩と正式に交際するには至らなかった。想いを伝える前に、彼は死んだ。その未練のせいなのか、彼女は先輩がまだ生きていると信じているらしい。というより、そもそも先輩の死という事実が見えていないようだった。恋は盲目、というやつだろうか。笑えない。

 私は綾子が理解できない。いくら先輩に生きていてほしいからといって、死を認めないなんていうのはおかしいと思う。何がおかしいのかは説明できないが、とにかく、おかしいのだ。人殺しはいけないことだというのと同じ。彼女の心の動きは異常なものにしか見えなかった。それは他の弓道部員も同じだったようで、綾子を気味悪がる人は多かった。そして、不可解な彼女の行動に説明をつけようとして、こんな話が生まれた。

 彼女の恋情が、宮代先輩の霊魂を呼び戻している、と。

 はっ、と鼻で笑ったつもりで、思考をバッサリ切った。陳腐な感動ものの小説にありそうな筋書きだ。突然世の中に躍り出ては映画化され、翌年には忘れ去られるようなやつ。

 向き直って校門に向かおうとした矢先、視界の端に、誰かいるような気がした。目を凝らす。道場へ続く道には、様々な種類の木が覆いかぶさっている。うねりを帯びた木の幹、複雑に分かれた枝が、景色から人の姿を切り取っているように見えた。

 それが人の姿だとは断言できない。雲が動物の形に見えるとか、その類の感覚。私は道場の方に引き返して、その地点に近づく。道場の裏の茂み。果たしてそこから、道着姿の男が姿を現した。

 痩せ細った体つきの、不健康そうな男だ。肌が病的に白い。輪郭は細長く鋭利な印象。顔は――評価しがたい。どこにでもいそうでありながら、どこか異様。じっと見ていると目をそらしたくなって、視線を外した瞬間に忘れてしまいそうな。こんな人が部にいただろうかと記憶を探ってみるが、思い出せない。弓道部員はかなり多いから、あまり気にしたことがないだけか、あるいは、幽霊部員であるのか。

 男は私の前に立った。お互いに腕を伸ばすと届きそうな距離。近くで見ると、私よりかなり背が高いのが分かった。

「二見さんと話していたみたいだけど、どうしたの」

 男が尋ねてきた。ラップでくるんだような、不鮮明で聞き取りづらい声だ。しかも声量は小さい。私は会話をするにあたり、さりげなく相手の名前を確認する。彼の道着には小さく「霧生」とあった。聞き覚えがないが、おそらく先輩なのだろう。それなりに気を遣って話すことにした。

「いえ、彼女は幽霊が見えるというので。本当なんですね」

 私は幽霊なんて信じていないが、他に適当な言葉も浮かばない。狂っていると言ってしまえばそれまでだが、それは気が引けた。彼は私の言葉に、真面目くさった声で返した。

「二見さんが見ているのは、幽霊じゃないよ」

 そんなの分かってるってば。

 いるんだよね、こういう人。適当に流してよ、ってところでいちいち茶々を入れてくる。特にガリ勉っぽい男子に多い気がする。

「本当にどうしたんでしょう、綾子は」

 言った後で、自分の口調がかなり投げやりになったのを自覚した。もう私は帰りたいのだけど。

「彼女は、本物の宮代くんのことを見ているんだ」

 その言葉の意味をはかりかねて、結局はそのままの意味だと解釈した。

「宮代先輩はもういないのに、ですか?」

 死んだ、という言葉を口に出すことは躊躇われた。

「君は、自分の感覚と他人の言葉、どちらを信じる?」

 彼は私の指摘をあっさりといなして、脈絡のない質問を投げてきた。面倒に感じつつも、私は答える。会話の主導権が向こうにあるなら、こちらは大人しく応じていればいい。その方が早く終わる。

「自分の感覚です。他人の言葉は、嘘だったり、間違っていたりも多いですから」

 百聞は一見に如かず、ともいう。他人の言葉を鵜呑みにしないことは、だいたいの人が心得ているのではないかと思う。

「二見さんも同じなんだよ」先輩は言う。「彼女には、たぶん実際に『生きた』宮代くんの姿が見えている。でも他人は『宮代くんは死んだ』と言う。さあ、二見さんはどちらを信じるだろう。自分の感覚か、他人の言葉か」

 綾子の気持ちにならなくても、それは予想がついた。一般論を言えば、人は信じたいことを進んで信じるものだから。

「自分の感覚、でしょうね」

「そう。だから、いくら彼女に宮代くんが死んだという話をしても無駄ってこと」

 先輩はあからさまに上機嫌だ。私はそれを心の中で冷ややかに見ていた。綾子について最も重要な謎を、この人は説明していない。

「……でも、そこにいない人間の姿が見えるなんてあり得るんですか?」

 尋ねると、彼は即座に応答する。

「人間の認識は脳が行うから、絶対的じゃない。幻肢痛って知ってるだろう」

 幻肢痛。怪我で手足を切除した人が、もはや無いはずの手足の痛みを感じるという話、だったろうか。

「感覚というのは、脳が受け取る電気信号でしかないんだ。そして、体の中で電気信号が勝手に送られることなんて珍しくもない。もはやないはずのものが、確かに在る。あるいは、存在しているように見えて、実は何もない。そういうことが起こっても不思議じゃないんだよ」

 彼の言うことは、ギリギリのところで筋が通っているように思える。言葉をうまく並び替えただけの詭弁のようにも思える。

 こういう話を鵜呑みにする人が宗教の勧誘に乗ってしまうのだろうなあ、と感じた。これはただの言葉遊びだ。信じるに値しない。

「例えば、僕はここに存在していると思う?」

 また、唐突な質問。しかしさっきよりも馬鹿らしい質問に聞こえる。

「当たり前じゃないですか。今、私と話しているでしょう」

「そうだね。でも、君も二見さんのように、何もないところに僕という幻覚を見ているのかもしれない」

「自分は幻覚だって言いたいんですか?」

「分からない。僕は誰かの目には見えるかもしれない。誰かの目には見えないかもしれない」

 ほとんどの人には見えていないみたいだけどね、と彼は付け加えた。この人、思わせぶりな言葉が多くて嫌になってくる。

「どういう意味ですか、それは」

「僕は、この部活に必要とされてない。故意に無視される、嘲笑される、そういうわけじゃないんだ。誰も僕という存在に、興味がないだけ。意識に引っかからないんだろうね」

 彼の顔は歪んでいた。それが自嘲の笑みだと解釈できた私の感受性はなかなかに豊かだと思う。

 「そんなことないですよ、センパイ」って励ましてもらいたいならお断りだった。彼の表情と言葉にイラッときた私は、沈黙を貫く気でいた。しかしそれほど間は開けず、彼は言葉を継いだ。

「それで『誰も僕の存在を認識できない』としたら。

 『観測者がいない』としたら」

 彼はもはや私との会話を放棄しているかのように、一人で語る。

「それは、僕が存在していないことと同じじゃないのかな」

 その言葉に限って、彼の言葉は重かった。しばしの間、その空気振動は消散することなく空間にとどまっていた。

「いつも、そんなことを考えてる」

 とうに私から顔を背けていた彼は、そう締めくくった。

 私はすぐに反論しようと必死になった。強迫観念のようなものが、そうさせていた。

「そんなの、頭の中だけの話ですよ。先輩はここに、」

 私は手を伸ばした。

 避けられた。

 私の行動は読まれていたようだった。彼はまたさっきのように顔を歪めた。殺意が湧いた。

「……じゃあ、例えばここで矢を放ちます。先輩が存在していれば矢は先輩に当たる、存在していなければ、そのまま前に飛んでいく。それで証明できるでしょう」

 彼はあまり表情を変えないまま、鷹揚に答える。

「それはいい考えだね。この距離ならさすがに避けられないだろうし。

 ――僕以外にも、使えるかもしれないね」

 どこか、意味深な言葉。

 「他の人にも使える」。他の人? 存在を証明したい相手、またはその逆。

「……宮代先輩?」

 思わず、呟いた。綾子が宮代先輩の幻を見ている最中に、その幻を狙って矢を放つ。矢が何事もなく、的に当たったとしたら。綾子が見ている空間は、物理的に「何もない」のだと示すことができる。それは宮代先輩が存在していないことの証明にはならないだろうか。それなら彼女も、正気に戻るのではないか。

 そして都合のいいことに、明日は競射がある。私は、宮代先輩の幻に矢を放つことを現実的に考え始めた。

「幽霊だと噂の彼か。そもそも、弓矢は昔から魔よけの道具としての意味もあったそうだからね。実際に矢を射ったり、((3))を鳴らしたりして悪霊とかを追い払う、そういう儀式は珍しくなかった」

 また、聞いてもいない知識をひけらかす。彼は続ける。

「彼を(はら)うのだとしたら、似たようなものになるのかもね」

「そう……ですね」

 全然違う、と思ったけど言わなかった。だから私は幽霊なんか信じていないっていうのに。

 でも、納得できるところもあった。昔の人は迷信深いから、血迷って、見えるはずのないものが見えたりしたのかもしれない。その不安を拭うために、現実的な武器の力を用いたのかもしれない。

 何かがそこにいるんじゃないかという恐れや不安――死霊の類――は、科学が世の中を保証する現代でもしばしば話題に上る。それはどうしてなのだろう? 死んだ人間は生き返らない。幽霊の存在を否定する理由なんて、それで十分じゃないか。この世にないものはないのだ。魂だって戻ってこない。人が死んだ後に残るのは、その人が生きていた頃の記憶とそれに比例した悲しみ、遺骨くらいだ。

 私は、身近な人の死を経験するのはこれで三度目だった。初めは十歳のとき、父親が。その三年後に曽祖母が。そして、次が先輩。人は遅かれ早かれ死んでしまうということを理解させられた。私は悲しかった。悲しいという気持ちを引きずるのは嫌だったが、引きずり続けた。それなのに、綾子ときたら。私は悲しいのに、いつまでも死んだ人の幻想に浸っているなんてずるい。「メメント・モリ(死を想え)」と、彼女の耳元で囁いてやりたい。綾子も、私と同じ涙を流すようにしてやりたい。ヘドロのように心にまとわりつく死の恐ろしさを知らしめてやりたい。

「そろそろ最終下校の時刻になるね」

 不意に先輩が口を開いた。その声で、思考は中断される。性悪な妄想も霧散した。

「二見さんは僕が帰らせるから、君は先に帰ればいいよ」

 言われなくても、という憎まれ口は飲み込んで、一応の応答。

「それじゃ、失礼します」

「うん。また明日」

 私はその場を離れた。それから先輩を振り返らなかった。振り返るもんか、と思った。

 校門を出て、少し歩調を速めた。誰にも見られていなければ存在しないなんて、馬鹿らしいにも程がある――そう、心の中で呟きながら。



 翌日の放課後。

 いつもと同じように、部活が始まった。集合のときにそれとなく探したけれど、昨日会った霧生先輩は来ていないようだった。何が「また明日」だ。

 道場に部員が並ぶ。むろん正座である。部長が号令をかけると、一同は礼。続いて黙想((4))が始まる。みな集合した時点で黙っているのだが、ここへきて静寂がより濃くなるように感じる――おっといけない。私もここで精神統一して、切り替えないと。

 ……

 黙想が終わると、もう一度礼をする。その後、部長からの連絡。特に今日は何もないようだ。最後にも礼をして「お願いします」を斉唱。そしてようやく、弓道部の練習開始と相成る。入部以来何度も繰り返してきた一連の儀式。やたら礼が多いように感じるが、日本の武道はそういうものかもしれない。礼節や心構えを大事にする。精神的な活動でもあるのだ。

 自由練習は、すでに来た部員からそれぞれ始めていたので、早速これから競射が始まる。

 全部で六つの的があるところに、五列になって並んだ。一番右の列は相変わらず空いている。

 ここから、私は昨日考えた方策を実行に移す。綾子に、宮代先輩の死を認識させる作戦。まず私は、綾子に声をかけた。

「綾子、私先にやるね」

 綾子の手を引いて後ろに並ばせる。彼女は私よりも後ろにいて、矢を射るところを見ていなければならない。

 私自身は、右から数えて二番目、つまり宮代先輩のいる(とされる)列の隣に並んだ。順番は二番目、綾子は三番目になる。彼女は相変わらず、宮代先輩が弓を引く幻覚に気を取られているらしく、ずっと右斜めの射位((5))を見つめ続けていた。彼女にとっては、弓を引く姿を見ているのだから勤勉かとも思うが。私からしたら、弓を引いている人たちから目をそらして呆けているようにしか見えない。暇があれば、こうなる。先輩の幻影は、綾子が望めばいつでもそこに召喚され、弓を引いている。明けても暮れても、延々と。量子力学をも嘲笑う幻の射手。ある者には見え、ある者には見えない。……いけない。知らず、昨日の先輩の言葉に影響を受けてしまっていた。思考を一掃する。

 地面より数段高くなっている射場から、道場の外を見据えた。手前の地面には砂利を敷いたスペースが三畳ほど横に連なっている。その先に色の濃い柔らかそうな土がずっと続き、一円玉ほどに見える的が、木製の小屋のような構造の中に安置されている。その建物は、的場と呼ばれるものだ。

 一列目の五人が、それぞれ弓を引き始めた。動作のタイミングは人それぞれなので、自分の番で焦る必要はない。

 矢が的に(あた)った場合、弓を引いている途中の部員以外は全員で「よし!」というかけ声をかけることになっている。と言っても、弓を引く間隔は割と長く、そう毎回的中させられるものでもないので、間断なく声をかけているわけでもない。基本的には静かで、競射のときはより静かになる。いつもの練習より少し張り詰めた雰囲気の中、私は自分の番を待った。

 一列目の部員が全員終わると、「矢取り」担当の人たちが的の近くまで行き、矢を回収して戻ってくる。そして、次はとうとう私の番。

 特別なことはしなくていいんだ、と自分に言い聞かせた。ただ、少し立ち位置を変えるだけなのだと。私は並んでいた列を離れて、一番右の的の前に立った。宮代先輩が事故に遭って以来、私が初めてこの位置で弓を引くことになる。私はいつも通り、()((6))弓の姿勢をとり、立礼((7))して射位に向かう。三歩進んだところが本来の射位となっているが、今回に限っては一歩だけ進んだ。宮代先輩の幻の背後に立つためだ。

 ここからは、「射法八節((8))」というプロセスに従うことになる。まずは、「足踏み」。左足を斜め前向きに変え、右足は弧を描くように後方へ引いて半身になる。足は六十度の角度で開いている。持っている四本の矢のうち一本を残して右足元に置く。次は、「胴造り」。ひかがみ((9))を伸ばし、重心が体の中心にあることを確認。

 「弓構え」。右手の(かけ)((10))弦にかけ、中指を親指に触れ合わせるようにする。手首を自分の体の方にひねり、矢を支える形が出来上がる。弓を持つ左手は握りしめることはせず、親指の付け根と小指を近づけるような力を加える。ここまでできたら、頭を的の方に向ける。鼻筋が的の中心に来るようにする。「物見」といって、弓を引き終わるまで、こうして的を見続けなければならないのだ。

 私の目前には、死んだはずの宮代先輩の背中がある、そんなはずもなく。いつもよりわずかに小さく見える的があるだけだ。私の後ろにいる綾子の表情は、当然うかがい知れない。

 射法八節の四、「打起し」。弓矢を持った両手を、同じ高さのまま上げる。体と腕が六十度ほどの角度になったところで止める。ここで、自分の心音が耳につき始めるので、呼吸にも注意しながら落ち着いて行う。とうとう次、「引分け」。矢が水平を保つように注意しながら、矢の長さの三分の一まで引く。ここで一旦、左右の引く力を改めて意識しなおし、体を弓と弦の間に割り込ませるようにしながら、残りを引分ける。ここまで息をつめてはならず、丹田((11))に落とし込むような気持ちで呼吸。今、矢は頬に接している。

 射法八節の六、「(かい)」。動きは止まるが、引く力は意識し続ける。ここでは弓の左側を的の中心に合わせて狙いを定めるのだが、それよりも、精神的に重要な意味を持つ段階である。雑念を捨て、心を無にする。入部して、初めて弓を引いたときから、私はそれを自然に行うことができた。それは、目の前に宮代先輩の幻影がある今でも変わらなかった。綾子にとっては、私が先輩を至近距離で射抜くことになるのかもしれない。けれども躊躇など微塵も感じなかった。私には先輩の姿は見えないのだから。否、見えないどころか、存在していると想定することもできない。今この空間に存在するのは私だけ。他の存在は意識から排除され、同時に耳からの感覚が途絶える。鳥の鳴き声も、木々のざわめきも、部員のひそひそ声も聞こえなくなる。視界中の色彩は褪せ、輪郭は溶け合い、より単純化された情報として映る。その世界の中で私はただ、発射の機を待つ。

 ……

 「離れ」。来るべき時に、自然と矢は放たれる。一瞬の後、矢の的中する音を聴いた。トン、とも、カタン、ともつかぬその音が引き金になって、会の状態にある意識は日常に立ち返る。少し遅れて、周りから「よし!」の掛け声。

 「残身(残心)」。離れの姿勢を二秒ほど保つ。その間に、的に中った自分の矢を確認した。よかった。いつもより二歩ほど下がった位置からでも、変わらず的中させることができた。内心では大きく息を吐いたつもりだが、頭の向きは変えない。息を落ち着かせたところで両手を腰に戻し、続いて視線を的から外し、体の正面に向けて少し先の床を見る。足をそろえて、一つの区切りがつく。

 私は綾子の様子が気になっていた。私がここで弓を引くのを、彼女は見ていたはずだ。目を閉じていたならすべてが無駄になるが、それはない。綾子は、好きな男を目前にして目を閉じることができない。きっと凝視し続ける。その見つめる姿を矢が貫通し、そのまま的中した音が響く。そうして、彼女は自分の見ていたものが幻だと理解するのだ――

「宮代先輩、ほんとすごい。また的中だ」

 空耳かと思った。さりげない綾子の呟き。

 違うだろう。今的中させたのは私だ。そこで、嫌な可能性に思い当たる。

 ――私の放った矢が、宮代先輩のものにされてしまった?

 綾子は最初から、私と先輩の動きを重ねて見ていた。つまり、「私が矢を放った」事実さえ、彼のものにしてしまった。

 あれ、それじゃ私の存在はどうなる?

 ここで弓を引いていた私は、何だったの?

 心臓が激しく打っているのが分かった。弓を手放し、両手で頭を抱えた。

 それでも、誰も私に声をかけなかった。

 誰も、私を見ていないようだった。

 ――『誰も僕の存在を認識できない』としたら。

 ――『観測者がいない』としたら。

 ――それは、僕が存在していないことと同じじゃないのかな。

 私は矢を的中させた?

 先輩が矢を的中させた?

 ほんとうの世界を見ているのは、誰?

 分からない。

 確かな感覚は一つもなくて、私の意識も感情も確定しない。果てなく無意味。

 私の膝は体重を支え切れなくなり、カクリと折れた。怖くなった。確かなものが欲しい。弛緩しきった腕を伸ばして、落ちた弓を取り戻すといくらか恐怖は和らいだ。私はもう、宮代先輩に向かって矢を放つ気など失せていた。この射位で弓を引くごとに、自分の存在が宮代先輩に奪われてしまうような予感がした。私は私でなければならない。まだ矢が残っているから、それはきちんと私の場所で済ませなければならない。私は本来並んでいた一つ左の列に戻り、再度弓を引くことにした。

 一度弓を引くごとに、また恐怖が蘇った。

 特に、「会」の状態。世界から他の存在が掻き消える。それがどうしようもなく怖かった。綾子も、他の部員も、どうせ誰も私を見ていない。そんな中で弓を引く意味は? 私が存在する意味は? 私がいるのといないのとで、何が変わるのか? それらすべての結論が「虚無」に収束し、背中に氷を押し当てられたような感覚と共に我に返ってみると、私の矢はあらぬ方向へ飛んでいる。無論、「よし!」の声もない。それどころか掃き矢(は(12))も一本出てしまった。

 確かなものが、欲しかった。

 いつも私の存在を望んでくれて、見つめてくれる、私だけの観測者。今まで、それは綾子だった。

 高校一年の一学期、広く浅く人間関係の基礎を敷いておくべきその時期を、私はすべて彼女との仲を深めるために使ってしまった。私の交友関係は、その後も水平の広がりを見せなかった。綾子が高校で最初の友達であり、最後の友達なのだろうと思っていた。でも綾子は今、私じゃない別の人を見つめている。

 私は四本すべての射を終えた後、綾子の前に立った。依然あさっての方向に傾いた彼女の頭を、両手でつかんで私の方に無理やり向けた。彼女はさすがに抗議の声を上げる。

「楓、いきなり何するの?」

 綾子が私の名前を呼んだ。久しぶりに思えた。

「私を見てよ。私が弓を引くの、ちゃんと見てて。不安だから」

 自分の声が弱々しく、懇願するような色を持っていたことに驚いた。

 すると綾子は、申し訳なさげな顔、恥じらうような顔を半々にして、言った。

「……でも私、どうしても宮代先輩のほうに目が行っちゃって」

「だから、――」

 何か、自分の感情を言葉にしようとして、失敗した。綾子への苛立ちか、何もできない自分への苛立ちか。あるいは、両方だったかもしれない。私は彼女の右手をとって、宮代先輩の幻影のところまで引っ張っていった。そして、その幻影に向かって綾子の手を突き出させる。

「誰も! ここに! いないでしょう!?」

 さらに彼女の手を上下に揺り動かすようにさせた。それを綾子は他人事のように眺めていたかと思うと、突然、控えの間の一角に振り向いて、言う。

「楓、先輩は今むこうで休憩してるけど……どうかしたの?」

 ――量子力学さえ嘲笑う、幻の射手。彼はどこにでも存在し、同時に、どこにも存在しない。

 訳が分からないのはこっちの方なのに。彼女の口調が訝しげなものだから、私がおかしいような気がしてくる。

 私たちの行動を不審に思ったか、部員たちが徐々にこちらに目を向け始めた。

 私は、無駄だと悟った。

 絶対に、宮代先輩の幻影は消せない。

 私はすり足も忘れ、道場の外に飛び出した。靴を履いて、行く方角さえ決める前に走り出そうとすると、視界の隅から誰かが現れ、立ちふさがった。私はつんのめって、その相手の肩と胸に手をついてしまう。胸当てを着けていないので、男だ。

 頭一つ分高い位置にある顔を見る。霧生先輩、だった。

 私は慌てて手を放して一歩退いた。彼は極めて平静に問いかけた。

「無理だったみたいだね」

 何が、なんてバカなことは言わない。

「はい」

 私には無理なのだ。存在感がないから。誰も私のすることなどに興味を持たないから。いくら頑張っても意味がない。集団の中で意識されず、幽鬼のようにたゆたう私には、何もできない。存在することさえできない。自分の存在さえ、疑わしい。

「私は、何もできません。存在することもできません。無能です」

 身震いをこらえながら声を絞り出した。それでも、恐ろしさで膝が笑っていた。霧生先輩は、穏やかな、不鮮明な声で応答する。

「持論を言わせてもらってもいいかな」

「何ですか」

「僕は、その無能な君に興味を持っている」

 気持ち悪い言い方をする、と思った。

「興味を持って見ている」

 ストーカー認定してもいいだろうか?

「故に、君は存在する」

 絶句。ワームホール((13))の如き論理の跳躍が起きていた。私はあきれて口を開く気をなくした。対して先輩は、自分の言葉の説明を始める。

「自分一人で自分が存在するのを確かめるのは、無理なんだ。自分に興味を持って見てくれる証人が、『観測者』が、必要だ。

 君が存在しているためには、僕が存在し、君のことを見ていなければならない。僕が存在しているためには、君が存在し、僕のことを見ていなければならない。であれば、お互いがお互いに幻を見合っていることは有り得ない。どうかな?」

 お得意の言葉遊び。真面目に話してくださいと言おうとして、やめた。彼の表情は真剣そのものだった。私は代わりの言葉を投げかけた。

「あなた、変態でしょう?」

「自覚はあるよ」

 真顔で肯定される。

「そして、君はその変態の僕を見た」

「故に、僕は存在する」

 ふざけている。一から十までふざけている。物理的に私が存在しているかどうかの説明は一切なし。私は誰かの意識が作り出した幻で、正気の人間には見えていないという可能性を完全に排除するものではない。

 それでも、体の震えがいつのまにか無くなっているのはどういうわけだろう?

「ありがとう」

 先輩の、唐突な感謝の言葉。聞き終えてまもなく、背後から肩をつかまれて、強く引き寄せられた。部長の手だった。彼は複雑な表情をしていた。戸惑い半分、苛立ち半分。これは面倒なことになりそうだった。さりげなく霧生先輩のいた場所に目を向けたが、彼はうまく逃げおおせたのか、すでに姿を消していた。

 私はその後、何とか部長に弁明をした。自分の振る舞いは、はたから見ていれば完全な奇行だ。私や綾子の心理は端折って、彼女を正気に戻そうとしたのだということを強調すると、何とか分かってもらえた。けれども、落ち着くまで綾子とは関わるなということで、約一週間、私は部活停止になった。


***

 それから三か月が経ち、十二月の初旬。

 ある日突然、綾子は宮代先輩の幻を見なくなった。彼が交通事故で死んだことも、曖昧ながら覚えていると言った。

 その時期はちょうど、綾子に新しい恋人ができたという時期と一致していた。今度は最初から両想いらしく、彼女が異常な行動に出ることはなかった。私や他の友達との交流も回復した。彼女は口を開けば惚気話が出てくるようになったので、よく話す私も最近はうんざりしてきたが。

 惚れっぽく、好きになったら一直線。彼女は、前に好きだった相手についてはすっかり興味を無くすたちなのかもしれない。だから、宮代先輩の幻は消えた。綾子が見るのをやめたから。

 また、相変わらず木陰に隠れつつサボっていた霧生先輩の姿も、同時期にぱたりと見えなくなった。それについて、私は部長に聞いてみたことがあった。

「部長。最近の霧生先輩のこと、分かります? ずっと幽霊部員らしいですけど」

「霧生? えーっと……? あ、ちょっと待った」

 部長は弓道部の記録ノートを持ってくると、それを何枚かめくりつつ、記憶を確かめるように話し始めた。

「そうそう、霧生慎也な。あいつは何か持病があるらしくて、一年のときから学校もたまにしか来なかったんだけど、今年の……春……四月か五月に入院したっていう話を聞いてたんだった。そこからは、ずっと休学なんじゃないか」

 私の記憶との、矛盾。

 思い返してみれば、不審な点はいくつかあった。彼は私以外の部員と全く口をきいていなかった。突然現れたり、突然消えたりするように感じることもあった。小難しい屁理屈を、準備していたかのようにそらで語り始めるし、私の行動や言葉をある程度予測しているような素振りも見せた。あまりに、私にとって都合がいい存在だった。

 彼は私の見た、私が作り出した幻だったと考えれば、すべての辻褄が合う。

 「故に、僕は存在する」と言い切った彼こそが、結局は幻だった。なんて皮肉。私は、記憶に残っていた『現実の』霧生慎也の容姿を元に、都合のいい幻を作った。そしてトンデモ科学と屁理屈を語らせ、自分を安心させようとしていたのだ。あのときの私は、相当に異常な精神状態だったのかもしれない。私は、綾子のことをとやかく言える義理ではなかったようだ。

「しかしよく覚えてたな、霧生のこと。あいつが一年生と顔合わせてたの、一か月くらいの間だろうに」

 俺も宮代のこととかあってすっかり忘れてたわ、などと事もなげに部長は語った。死んだ後でも想われ続ける人がいる一方で、生きているのに忘れ去られる人もいる。

 『現実の』霧生先輩は、まだ入院中だという。私は長期入院者の病室をイメージした。極端に他人の少ない一つの箱。たとえ個室でなくとも、カーテンに視線は遮られる。見舞いの者がいなければ、誰にも見られることがない。まるでシュレーディンガーの猫((14))だ。誰の目にも留まらず、ひとりぼっちで箱の中。自分が生きているのか、死んでいるのかも判然としないままに。その状態の恐ろしさは想像がついた。宮代先輩の幻を消そうとして失敗した、あの日の感覚。

 思わず、言葉が口をついて出た。

「部長。霧生先輩の連絡先、分かりますか」



 そうして、今。私は彼の母親から教えてもらった病院の一室に着いた。霧生慎也とだけ扉の横に名前がある。縦長のハンドルを握って扉を横に滑らせ、彼の閉じ込められた箱を開いた。

 先輩は半身を起こして、ベッドで本を読んでいた。扉を開けた音に気づいて、虚ろな瞳を向けてくる。私の姿を認めると、少し戸惑ったように彼の表情が動いた。

「……あの、あなたは?」

 初対面の人間に向ける態度。当然、予想はしていた。私が見ていたのは先輩の幻だ。現実の彼と私は、姿を見たことはあるだろうが、互いに紹介し合ったことは一度もない。

 私は名乗らず、言いたいことを言う。

「私は、可哀想なあなたに興味を持ちました」

 可哀想というなら、人のことは言えないけれど。もしや、先輩に対して穏やかになれないのは同族嫌悪のせいかもしれなかった。

「興味を持って見ています」

 言ってしまってから、私も相当の変態かもしれないと思った。幻のような先輩に興味を持つモノ好きは、私以外にはいないだろうから。

 そうだ、私は彼のたった一人の射手なのだ。物見をするかのように、先輩の姿にすべての感覚を集中させる。その視線こそが私の矢だった。私はキューピッドではないけれど、ある種、愛の矢と呼べるもの。

「故に、あなたは存在する」

 論拠不十分の、乱暴な結論。実体のない愛の矢。科学的には全くもって失格だが、人を安心させる言葉としては、自我に対する確信を持たせる言葉としては、一級品に思えた。――誰かが、自分を見てくれているということは。

 効果は覿(てき)面だった。言い終えてまもなく、先輩は体をビクッと引きつらせた後「ああ、」と嘆息した。大切な忘れ物を見つけたときの人間の姿は大体あんなものだ。私は心の中で、小さく「よし」とつぶやき、ほくそ笑んだ。











(了)






 注解 

 ※主に、弓道と科学に関連する用語について解説する。


(1) 競射きょうしゃ ここでは、一人四本の矢を持ち、より多くの的中を狙う競技形式の練習をさす。

(2) 射場しゃじょう 弓を引く場所。

(3) つる 弓に張る糸。

(4) 黙想 無言で考えにふけること。武道において、稽古の前後に精神統一の意味で行われることがある。

(5) 射位しゃい 弓を引く際に立つ決められた位置。

(6) ()り弓の姿勢 正しく立って両手に弓矢を持った姿勢。(左手で弓の握りを持ち、弦を外にして両拳は腰骨の辺りに付ける。弓の末弭は身体の前面中央で、床上10㎝の位置に保持する)

(7) 立礼りつれい 正しく立った姿勢で行う礼。

(8) 射法八節しゃほうはっせつ 射法とは、弓矢を持って射を行う場合の射術の法則をいう。昔から射法の形式をは七道または、五味七道と称して、一本の矢をいる過程をその推移に順応し、七項目に分け説明されているが、近世これに「残身(残心)」という一項を加えて八節となった。

(9) ひかがみ 膝の裏側のこと。「膕」。

(10) かけ 弓を引くとき親指の痛みを感じないように手にはめておくもの。

(11) 丹田たんでん へその下約3㎝の下腹部。体の重心があるとされる。

(12) 掃き矢 地表を滑って的に達した矢。

(13) ワームホール 宇宙の離れた地点を結ぶ通路、または穴のようなもの。SFに多く登場する他、物理学の研究対象でもある。

(14) シュレーディンガーの猫 物理学者エルヴィン・シュレーディンガーによって提出された思考実験。「蓋のある箱を用意して、この中に猫を一匹入れる。箱の中には猫の他に、放射性物質を一定量と、放射線の検出器を1台、青酸ガスの発生装置を1台入れておく。放射線を検出すると青酸ガスが発生して猫は死ぬ。 1時間以内に放射性物質が放射線を出す確率が50%だとすると、この箱の蓋を閉めてから1時間後に蓋を開けて観測したとき、猫が生きている確率は50%、死んでいる確率も50%である。したがって、この猫は、生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なりあっていると解釈しなければならない。」という内容である。量子力学の未解決な課題を指摘するものとされる。


(弓道部配布資料・広辞苑・Wikipediaより)

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