右手に花束
「ただいまー」
しんとした部屋に、洞堂さんの控えめな声が響いた。答える者はない。この部屋にいるのは僕だけであるが、ここで声を出したらおしまいだ。
「だれもいないのかなー?」
僕は洞堂さんが明りを点ける前に、こっそりとソファの陰に隠れた。衣擦れの音がしたが、彼女は都合良く鼻歌など歌い出したので、何事もなくかき消された。
「ふんふんふーんふんふーん」
僕はあくまでひっそりと、息を殺している。
「ふんふんふんーんん」
洞堂さんの唄っているのはどうやら「ハッピーバースデイ・トゥ・ユゥ」らしく、なるほど彼女は片手にケーキの箱を提げていた。そう、彼女はただいま恋愛中(そして同棲中)の彼氏の誕生日のために、サプライズパーティを仕掛けようとしているのだ。
ただし残念なことに、その素敵なこころみは成功しない。なぜなら彼氏は今日、いつもよりはやくバイトを終えて帰って来てしまっている。
(ハッピーなバースデーだぜ。本当に)
僕はにやつきながら考えた。彼氏の帰りがいつも通りだと思っている洞堂さんは、荷物をソファに放り投げてシャワールームに向かう。彼女も大学の帰りで、疲れているのである。
キュキュと甲高い蛇口の音がして、低くシャワーを浴びるひびきがしはじめると、僕はそこでようやく腰を上げた。隣室のドアを慎重に開けて、滑り込むように中へ。そう、僕は彼女の企画を知っている。だから、先回りして素敵なプレゼントを仕込んでおいたのだ。祝うほうが祝われるとは思ってもいないだろう。これこそが本当のサプライズ。
「まだまだ甘いぜ、洞堂ちゃん」
ひとりごちて、僕はベッドに置いておいたプレゼントを見た。いい具合に仕上がっている。僕は満足げに見下ろすと、プレゼントを運びこむときに倒れた電気スタンドを直し、レールからはずれたカーテンを誤魔化した。少しだけ力を入れ過ぎてしまったので、カーテンはちょっと破れているが仕方ない。この程度なら彼女も怒りはしないだろう。
がたりとドアが開く音がしたので、僕はベランダに出た。彼女はまっすぐ寝室へやってくる。プレゼントを見てびっくりする彼女を見たいのは山々だが、そういうわけにもいかない。僕にも用事と、そしてのっぴきならない都合というものがある。まあ、カードを書いておいたから、きっとその意図はわかってもらえるはずだ。
鼻歌が部屋の戸を開ける前に、僕はベランダから飛び降りる。部屋は二階ではあったが、そう高くもなく、雨どい伝いに音を立てずに道路へ降りられた。夜の街路に人影はない。
「それじゃあ、ハッピーなバースデイを。彼氏さんよ」
高い悲鳴が上がる前に、僕は血まみれのナイフを捨てて歩き出す。
今度こそ彼女が、僕に振り向いてくれるように。