ハピネスフリー
科学技術は進化を終えた。
人類はワープもタイムトラベルも不可能だと知った。
永遠の命も、完全なクローンも作り出せないことを知った。
宇宙の果てを観測し、天地開闢を目の当たりにし、人類のほかに知的生命体が存在しないことを知った。
この世界における、自分たちの手の届く範囲というものを知ったのだ。
そうして人類は初めて、この世界の確かな自由を得た。
学校の授業を終えた少年は、教科書を開いたまま眉間にしわを寄せていた。
そこへ友人が現れる。
「何か分からないの?『人類は幸せを感じることで上昇する指標【幸福値】を瞬時に計測できるようになり、幸福値の高い人には責務を与え、低い人には施しを与えることができるシステムを完成させた』。このページで大切なのは、ここくらいだよ」
友人がそう、教科書を読み上げた。
「幸福値は好きなことをしたり、好きなものを食べたりすれば上がる。嫌いなことをすれば下がる。ただそれだけのことだよ」
「それは分かるよ。けどさ……」
少年は不満そうに机に頬杖をついた。
「幸福になったら労働を強いられるって、何かおかしくないか?」
「別に強いるわけじゃないよ。その人の希望によって社会貢献してもらうだけなんだから」
「だとしても、それは幸福値を下げる操作ということだろう? つまり、幸福には上限があって、それより幸福になることは社会に許されないってことじゃないか」
「違うって。ちゃんと授業は聞いていた? 幸福値には確かに上限があるけど、それは社会が決めているんじゃなくて、僕たちの中にあるんだよ。そりゃあ幸福になるにも限度があるよ。当たり前のことさ」
「その限度でも不満な人がいたら?」
「それじゃあ上限まで幸福になっているとは言わないじゃないか」
友人は笑い、少年は少しむっとした。
「だったら、例えば幸福値は低いけど、施しは要らないと思う人は?」
「施しは拒否できるし、拒否し続けたいなら苦行期間の申請をすればいいんだよ。まあ申請者の多くは、苦行というほど幸福値が低くないけどね」
「じゃあ、例えば社会にとっては絶対必要なのに、誰もが嫌がる仕事があったとしたら」
「はは、なかなか面白いことを思いつくね。確か、今はそういう仕事はほとんど自動化されていたと思ったけど――」
友人は少年の教科書を取り上げて、ページをめくる。
「ああ、ここだ。『希望者がおらず自動化が不可能なごく一部の必須業務については、自ら自由の一部を放棄したもの【公務員】がそれを行う。ただし公務員には特別な施しが与えられる』だってさ。まあ、こういう仕事をする人は、たいていその特別な施しでも幸福になれない変わった人達なんだけどね」
友人はそう言ってまた笑った。そこへ少女が現れる。
「それって、あなたの父親のことでしょう」
「そうそう。父さんはほとんど何をやっても幸福値の上がらない人だからなあ。僕はあの人に似なくて良かったよ」
「仕事は何をしているの?」
「電脳化施設で働いているけど、具体的にはあまり教えてくれないな」
「科学者なの?」
「まさか。そんな時代遅れの趣味は持ってないだろうよ」
少女は「そうよね」と言って笑った。
「電脳化かあ。少しやってみたいと思うわよね」
「けど、あれって特別な適性が要るんじゃなかったっけ?」
少年が尋ねると、友人が答える。
「よく知っているね。適性というか、資格みたいなものだね。まあ今の時代、電脳化なんてしなくてもたいていのことはできるから、社会としてはより多くの人が豊かに生きられるよう、人という貴重な資源を無駄遣いしたくないんだろうね」
翌日、少年は道で怪しげな格好の男を見つけた。
男は長いグレーのコートを羽織り、同じ色の大きなハットを被っている。
少年がそのまま通り過ぎようとすると、男は少年に向かって言った。
「君、この今の社会をどう思っている?」
少年は思わず立ち止まって答える。
「絶対におかしいと思います」
男は続けて「それはどうしてだい?」と尋ねる。
「幸福値が高いから幸福だなんて納得がいきません。それが絶対の指標だなんて許せません」
それに対し、少年はそう弁を熱くした。
男はそれを聞き、微笑みながら手を叩いた。
「素晴らしい。私は、君のような人間を探していたんだ」
男に連れられて、少年は薄暗い研究室のような場所に訪れていた。
「私は、君のような社会に反感を持っている人間の味方だ」
そう言って、男がコンピュータの電源を入れた。画面が光り部屋が少しだけ明るくなる。
「人は幸福値を幸せの絶対の指標とし、それを自由に操作することができるようになった。だが、そんなことで手に入れた幸せが本当の幸せと言えるだろうか?」
男は少年の言葉を待つ。少年は少し考えて、答える。
「言えないと思います。本当の幸せは幸福値なんかじゃなくて、自分で探し求めて、自分の力で達成するものです。与えられる幸せしか存在しない社会なんて、絶対に間違っています!」
「なるほど。やはり私の目に狂いはなかった」
男はまた微笑んだ。
「実はね、私は今のこの社会を壊してしまおうと思っているんだ。そして君には、この革命に協力してほしい」
「革命?」少年は驚く。
「とは言っても、何も難しいことを要求するつもりはない。」
男はコンピュータを操作し、一つのファイルを開く。
「これが革命の方法だ。君に協力してほしいのは、幸福値の管理をしている施設の爆破だ」
「そんなことが僕にできるんですか?」
「ああ、私が秘密裏に開発した小型爆弾を使えば、あのくらいの施設はひとたまりもない」
男が指さす先には、四角形の台座が付いた、拳大の球体の置物があった。
「けど、どうやってセキュリティを突破するんですか?」
「それに関しても問題ない。私が開発したワープ装置を使えば、施設の中核まで簡単に侵入することができる」
「ワープだって?」
「そうだ」
男がコンピュータを操作すると、部屋の隅で人間一人が入れる大きさの筒状の装置が起動し、前面の扉が開いた。
「しかし、このワープ装置は、私がうまく操作しないと正しい場所に行けないんだ。地球は常に動いているから、場所の指定が難しいんだよ」
「つまり、僕が一人でワープして、爆弾を設置してこなければいけないということですか?」
「いいや、君には場所を指定するための発信機と遠隔操作装置を持たせる。発信機さえあれば場所の指定は簡単だから、君はワープしたらすぐにその遠隔操作装置を起動させて、私をワープさせてくれ」
「分かりました」
「細かいことは現場に着いてから説明しよう。とにかく、今はそのワープ装置に入ってくれ」
少年はゴルフボールのような球体とペンのような短い棒をポケットに入れ、筒状の装置に入った。
「それじゃあいくよ」
男が言うと円筒の扉が閉まり、装置が大きな音を立て、光った。
△ ▼
気が付くと、そこは見知らぬ建物の中だった。薄暗い、どこかの倉庫のような場所で、手前にある扉の奥から光が漏れている。
本当にワープしたようだ。ワープは不可能だと言われていたはずだ。だが可能だった。
ならばやはり、幸福値などというのも嘘に違いない。
そうだ、あの人をここにワープさせないと。ええっと、遠隔操作装置は―――
あれ? こんな箱みたいな形だったっけ?
――とにかく起動させよう。
遠隔操作装置のボタンを押すと、ポケットに入っている発信機が光りだした。
取り出してみると、発信機は十字架のような形をしていた。
「どうやら、無事到着できたようだね」
背後の暗がりから、男の声がした。振り返ると、そこにはスーツ姿の男がいた。
「何かおかしな点はあるかい?」
スーツの男が言った。しかしその声は、さっきとは違うような……。
いや、しかし、そんなことも今はどうでもいい。
「ありません。手順を説明してください」
すべきことは、この革命を成功させることだけだ。
「そうか。手順と言っても簡単だ。ここから廊下に出て、右の突き当たりの扉を開けば、そこに幸福値管理システムの中枢が設置されている。君には、僕が扉のロックを開いて爆弾を設置して戻ってくるまで、廊下を見張っていてほしい」
「分かりました」
「よし、では作戦開始だ」
扉を開き、青白い廊下を静かに走る。突き当りはT字路で、大きな扉とタッチパネルのようなものがある。
突き当りまで到着すると、男はタッチパネルを操作し始めた。
いまのところ異常は―――いや、
右から足音だ!
「よし、開いたぞ。あとは……」
男はまだ気づいていない。
「右! 右です!」
「なに!?」
男は懐から拳銃を抜いて構えた。すると足音は止まる。
「なんだ、誰も来ていないじゃ―――」
「えっ?」
銃声がして、男が倒れた。
音がした反対側を振り向くと、ヘルメットを被った全身白服の人間がこちらに銃を向けていた。
とっさに男が落とした銃を拾った。
「大人しくしろ! 今ならまだ、命までは奪わない!」
白服が言った。
命までは奪わない? 何を言っているんだ、アイツは。
「僕は、僕たちは、この施設のせいで真の幸せを奪われているんだ! そんなもの、生きているとは言わない!」
「なんだと!?」
白服がこちらに近づいてきたので、銃を構え、引き金を引いた。
「んがっ……」
二度目の銃声が響く。
目を開けると、白服のヘルメットが割れて頭から血を流していた。
……やってしまった。
いや、これも仕方のないことだ。とにかく、あれを壊さないと――
男のポケットを探ると、中に台座がついた球体の装置が入っていた。
これだ。これさえあれば!
既に開錠されている扉を開く。
中には部屋一面に黒く巨大な箱が、まるで満天の星空のように灯りを点滅させている。
クソッ! 何て忌々しい星空だ。
近づいて装置を置くと、装置の球面上に数字が表れ、カウントダウンが始まる。
ポケットが光るので見てみると、貰った遠隔操作装置も同じ数字を表示していた。
「おい! そこに誰が居るんだ!?」
外から声がした。
まずい! 早く逃げなければ!
急いで部屋を出ると、左右から白服が迫ってきている。
正面だ!
正面に向かって走った。奥には階段が見える。階段を上がれば出口に着くはずだ!
なに!? 正面からも白服が!
「止まれ! 大人しくし――」
白服が言い終わる前に銃を構えて引き金を引いた。白服が倒れる。
階段を上がると、思っていた通り出口に繋がっていた。
遠隔操作装置を見ると、あと5秒だ! あと5秒で爆破装置が作動する!
3…2…1……!!
凄まじい爆炎が上がり、建物を飲み込んだ。
そして煙が晴れると、そこは瓦礫の山と化していた。
ついに…ついにやったんだ……!
これで…――
「これで、やっと幸せになれるんだ!」
それから社会は大幅に変化した。幸福値に関しては皆が疑問を持っていたため、システムの復旧には大反対が起こり、二度と復旧されることは無かった。
人類は自分たちの幸せを自分で見つけるという、人として当然の義務であり権利を取り戻したのだった。
▲ ▽
「それで、この少年はどうですか?」
薄暗い研究室で、白衣の女性がグレーのコートを着た男に尋ねた。
「適性者だったよ。それでシナリオ061を実行させた。結果は――」
男は椅子に腰掛け、帽子を取った。
「完全に世界不適合者だ。途中からは君も見ていただろう?」
「では、処置はこのまま完全電脳化と」
女性は手にした端末に指を走らせ、調書に記入した。
「気づく機会は何度も与えた。止める機会もね。けど、結局彼は革命を派手に成功させてしまった」
「最後の爆破は少し派手過ぎなのではないですか?」
「まあ最後の最後だし、十代の少年ならあのくらいの方が喜ぶんじゃないかな?」
男は短く笑うが、女性は表情を少し暗くした。
「……本当に、彼は幸せになれなかったのですかね?」
「そうだね。少なくとも、彼はこの世界では幸せになれない人間だった」
男が手を伸ばすと、壁に掛かった装置からコーヒーの入ったカップが現れる。
「この世界で人間ができることは決まった。言うなれば我々は世界に『この部屋の中で自由に暮らしてくれ』と言われているようなものだ。だから、どうしてもその部屋から出なければ幸せになれない人は、こことは別の世界――電脳世界に行ってもらうほか無いんだよ」
「不自由なことですね」
「とんでもない!」
男は椅子を女性の方に向けた。
「こんな確かな自由は、以前の人類には無かったことなんだよ」
「そうなのですか?」
「ああそうさ。以前の人類にはね、どこに壁があるかなんて分からなかったのさ。だから誰もが壁にぶつかることを恐れながら、足元ばかりを見て生きていた。進んでいきたい人にとって、これほど不自由なことは無い」
「しかし、壁があるということは、それだけで真の自由ではないということなのでは?」
「真に拘束が無いことなんて、この世界ではあり得ないんだよ。我々は生まれる前から地球の重力圏に拘束されているし、寿命という時間的な拘束からも逃れられない」
男はコーヒーを一口含んで、カップを横の机に置く。
「仕方のないことさ。私も今回の仕事はとても辛かったよ。私には、彼と同じくらいの息子がいるからね。だけど公務員だから、そんな文句を言う自由は無い」
「お勤めご苦労様です。私はパートタイムワーカーですが、残念ながらこの仕事はあまり長続きできないかもしれません」
「それも仕方のないことだよ」
女性は調書を書き終えて、端末を男に渡す。男は文書に目を通すと「よし」と言い、暗証番号を入れて調書を認証した。
すると、部屋の隅の筒状の装置がブザー音を鳴らした。
「どうやら脳摘出装置も作業を終えたみたいだね。それじゃあ、引き続き彼の脳をよろしく頼むよ」
女性は「はい」と返事をして、筒の横の装置から40センチ四方の金属の箱が乗った台車を引き出した。そして部屋の出口に向かう。
「ところで――、」
女性は扉の前で男に尋ねる。
「公務員の方は特別な施しを受けられるとのことですが、実際にはどのような施しを受けているのでしょうか?」
「それは、人それぞれだね」
男は再びカップを持ち、香りを嗅ぐように顔の前に持ってきた。
「私の場合――私は少々偏食家でね。特別な施しというのは、食材という形で頂いているんだよ」
男は横目でちらりと、部屋の隅の方を見た。
女性はそれに気づかず「そうなのですか?」と少し驚いて、「では、お疲れ様です」と言い、そのまま部屋を出て行った。
思いついたのはずいぶん前ですが、なんとなく思い立って半日で殴り書きしちゃいました。既に修正箇所多数です……。
ショートショートっぽくしたかったんですけどちょっと長めですかね。
こんな世界だったら、自分はどうするのかなあ。
4/30 気になった部分を数か所修正しました。