私と歌姫
1ヵ月後
私は同じ場所に来ていた。
薄汚れた茶色の建物を見上げる。
やはりその建物だけが目立って古ぼけて見えた。ガタガタとゆれるエレベーターに乗り5階で下りる。
廊下を端まで歩き、『Tan Tan Travel Agency』の表札を確認すると私は深呼吸する。そしてドアをノックする。
「はい?」
ドアが開き、鈴木さんが顔を見せる。ちょっと驚いた後に柔らかな笑みを浮かべた。
始めてみた印象と異なり、私は言葉に詰まった。
「どうぞ。アイリーンですよね?」
知っているのか……
自分の顔がこわばるのがわかった。大方婚約者の館林から話を聞いたのだろう。しかし、こんなことでめげてはいられない。
私の面の顔は厚いんだ。
「はい、ホワンさんはいますか?」
「ええ。どうぞ」
運がいいのか、悪いのか事務所の中に館林の姿なかった。
「アイリーン!Your guest’s coming(お客さんきましたよ)」
鈴木さんの言葉に右側の席に座っていた女性が顔を上げる。
彼女は私を一瞥し、眉をひそめる。
1ヶ月ぶりだ。
やっぱりきれいだ。
触れたい。
どうしても、確かめたい!
「鈴木さん、ホワンさんを少し借ります」
「はい?」
鈴木さんが私の言葉を理解するよりも早く私は動いた。
「伍先生!?(伍さん?!)」
私は彼女の腕を掴むとつかつかとドアへ向かう。
いつもの彼女であれば、私をはたくか罵声を浴びせるのだが、鈴木さんの手前、抵抗はしなかった。
バタンとドアを開け、閉めた後、彼女はギロッと私を見上げ、手を振り払う。
「你为什么来这里了吗?(どうしてここにきたの?)」
「因为我想你,我爱你。你呢?你爱我吗?(気に会いたかったから。愛してる。君は?君は私のこと愛してる?)」
「不爱。我不可能爱你。(愛してないわ。愛してるわけないでしょ!)」
「我不相信。你该爱我。(私は信じない。君は愛してるはずだ)」
「你真是疯了!(あなたは本当におかしな人だわ!)」
彼女はそう言うと事務所に戻るために私に背中を向ける。
「爱玲!(アイリーン)」
「あれ、伍さん?アイリーン?」
ふいに館林の声がして、私と彼女はぎょっと振り返る。
「ははは。すまんなあ。邪魔したみたいだ。伍さん、アイリーンは気の強い女だけどいい女ですよ。あの日もわざわざ電話してきて、ホテルの名前を聞いてきたりして。」
「Mr. Tatebayasi!?(館林さん?!)」
アイリーンは珍しく焦った顔を見せる。
「あれ?言ってなかったのか?本当素直じゃないよな。アイリーンは。伍さん、知ってます?この子はあなたが来た日からちょっと様子がおかしかったんですよ。きっといい人ができたんだろうなと思ったら、あなただったのびっくりしました」
「Mr. Tatebayashi! What're you talking about?(館林さん!何を話しているんですか?)」
日本語がわからないアイリーンは顔をこわばらせて、館林と私の顔を見比べる。
「館林さん、ありがとうございます」
私は心底彼に感謝した。
やっぱり彼女は私のことが好きなんだ。
私の表情で何を言われたのかわかったのか、アイリーンが逃げるように私達に背を向けて走り出す。
「爱玲!(アイリーン)」
私は館林にぺこりと頭を下げると彼女を追いかけた。
館林になんと思われようとかまわなかった。
ただ彼女を抱きしめたかった。
なんて可愛い私の歌姫なんだ!
「爱玲!(アイリーン)」
エレベーターを待っていたアイリーンは非常階段のある場所に向かって走り出す。
なんて強情なんだ!
私は彼女の後を追い、非常階段を降り始める。そしてやっと追いつき、彼女の腕を引き、抱きしめる。
「放开我!(離して!)」
「不要。我爱你。(いやだ。愛してる)」
私はぜいぜいと肩で息をしながらも、彼女を両手で抱きしめ、離さなかった。
「求求你。让我走。(お願い。離して)」
「不要。你爱我吗?告诉我。(嫌だ。君は私を愛してるの?話して)」
私の問いに彼女は言葉を放たなかった。
30分ほどして沈黙が流れ、私の根気が果てた。
「爱玲。我不是坏人。我先想当你的朋友,好吗?(アイリーン。私は悪い男じゃない。まずは友達になってほしんだけど。いい?)」
「好的。(ええ)」
そうして汗だくの私達は友達になった。
友達か……
私は日本に帰るために空港にきていた。
見送りはない。
あれから2日ほど滞在していたが、昼は仕事で夜はバーで歌っている姿を見るだけで、彼女とちゃんと話すことはなかった。
まあ、以前よりは進展したか。
私はため息をつくと搭乗口に向かう。
するとふいにジリリンと着信音がなる。私は携帯をズボンのポケットから取り出した。
『祝你一路平安。我等你回来。(よい旅を。戻ってくるのを待ってるから)』
やっぱり彼女は私のことが好きなんだ。
私はそのメッセージで自分の顔がにやけるのがわかった。
離陸する飛行機の窓から外を見る。
時刻は夜の8時になろうとしていた。
眼下の真っ暗な闇の中に美しい光が点々と瞬いていた。
それはまるで満天の星空のようだった。
光り輝く街のどこかで私は彼女が歌っている姿を思い浮かべてほくそ笑む。
私の強情な歌姫はきっと、今日もあの涼やかな歌声を誰かに聞かせているだろう。
私のことを想い、歌ってくれることもあるかもしれない。
そんな期待しつつ、私は輝く夜景を小さな窓から見つめていた。