歌姫
「なるほど。証券会社」
応接室に通され、私と館林は名刺を交換する。
「ああ、本社と同じビルに入居しているんですね」
「ええ」
私は館林の問いにうなずく。
「伍というのは珍しい名字ですね」
「ええ。私の両親は中国から来たんですよ。でも私は日本生まれ、日本育ちなので完全に日本人なのですけどね」
「なるほど。それじゃあ、中国語はもちろんできますよね」
「ええ。でも会話くらいですけど」
「それでも十分ですよ。私も中国語は勉強したいと思っているんですけど、なかなか」
「いやあ。私の場合、英語がからっきしだめで、出張の時は結構困ることが多いんですよ」
「そうですか?」
「ええ、世界に華僑は散らばってますが、共通言語はやはり英語ですからね」
私と館林はそんなそつのない会話を交わす。
館林は人のよさそうな男に見えた。しかし、笑顔の奥の瞳はじっと私を見つめていて、本心が掴めない男だった。
「はい、お茶です。どうぞ」
ドアをノックする音がして鈴木さんが香りのいいお茶を持ってくる。テーブルの上に湯飲みを置くときに、ふわりと爽やかな香りがして、私は彼女の顔を近くで見つめずにいられなかった。
よく見ると私好みの顔の中性的な顔だった。このガードが堅い感じがそそるよな。
「伍さん」
そんなことを思っていると、ひやりとするような声が呼ばれ、私は考えを中断させられる。
目を向けると先ほどまでの笑顔を消した、鋭い視線を向ける館林がそこにいた。
「申し訳ないが、この鈴木はすでに婚約者がいるんだ。遊ぶなら他の子を選んでくれませんか?」
「ははは。面白いことを言いますね。私は何も言ってませんよ」
「先手必勝です。あなたは油断できなさそうな人なので」
「ははは。館林さん」
私が愛想笑いとすると、館林がにこりと笑う。
俺の女に触れるな
そう館林を言っているのがわかる。
鈴木さんは館林が先約済みか。
まあ、いい。
この国にあと4日はいる。いい女がいるだろう。
「じゃ、パトリックと長三山によろしく伝えてください」
30分ほど話をして、私は会社を後にした。
ガタガタと揺れるエレベーターに乗り、一階に着いて降りようとした時、強引に入ってきた女性とぶつかる。
「你!(君!)」
出る人を優先にしなくてどうする。
私は女性を睨みつけた。
「对不起!(すみません)」
女性はそう謝り、私がエレベーターから出たのを確認して中に入る。すれ違いざまに薔薇の香りがした。誘われるように彼女の顔を見ると、私は不甲斐なく怒りを忘れ女性に見とれた。
真っ白な絹のような美しい肌、少し釣り眼の黒い瞳、薔薇の花弁のような唇、ふわりとまとめられた髪ははらりと少しほどけて、白いうなじに黒髪が絡まっていて、何とも言えない色気を醸し出していた。
しかし私が声をかけようとした矢先、無残にもエレベーターのドアは閉じられ、上がっていった。
すぐにチンと微かな音がして、5階で止まったのがわかった。
まさか?
確認しようかと思ったが、腕時計は10時半を指しており、私は次のアポの場所に向かうしかなかった。
その夜、私は同僚との夕食を早めに切り上げ、滞在ホテルに戻った。
今朝見た彼女のことが気になっていた。
しかし館林の会社に電話して確認するのは自尊心がゆるさず、ミヒロちゃんに電話した。
「ああ、届けてくれたんですね。ありがとうございます。館林さんは元気でした?」
電話口から可愛らしい声が聞こえる。
この声はいいよな。
パトリックが少しうらやましく思える。
「ああ、元気だったよ。鈴木って女性がいて仲良さそうだったよ」
私はあの女性のことをどう切りだそうか迷いながら、そう答えた。
「そうなんですね。ああ、うまくいっていてよかった。館林さんは強引だからちょっと気になってたんです。ところでアイリーン見ました?」
「アイリーン?」
私は胸がざわつくのがわかった。
「そうです。バーのシンガーのアルバイトしていて、すごく綺麗な人なんですよ。結局あまり話すこともなかったんですけど……。歌手になれたらいいなと思ってて」
綺麗?歌手?
あの女性はアイリーンなのか?
聞くよりも先に他のスタッフについてミヒロちゃんが話してくれたので、私はそれとなく遠回りにそのアイリーンという女性についていくつか質問した。
15分して電話を切った後、私はパトリックの苛立つ様子を想像して面白がることもせず、ミヒロちゃんから得た情報をまとめる。
現地の華僑で、年頃は20代後半、真っ黒なストレートの黒髪、釣り目の瞳、ミヒロちゃんより少し高めの身長……
彼女だ。
きっと……
私は確かめずにはいられず、パソコンを開くと、その名前を入れる。
Aileen Huang Singer
グーグルでそのキーワードで検索する。
そしてヒットした。
彼女だ!
私は食い入るようにパソコンの画面を見た。
シンガーの写真と共にバーが紹介されていた。写真の彼女は化粧の具合と衣装で印象が違って見えたが、彼女に間違いはなかった。
私はメモを掴むと、バーの場所を書く。
毎週月曜日、夜9時からか。
今日は運がいいことに月曜日だった。腕時計を見ると午後10時。
すでに終わってるかもしれない。
しかし私は運を頼って、その店に行くことに決めた。