俺がとんかつクンを食べなければならない極めて純文学的な理由
「落ち込むなよ、たかが模試だろ?」
杉下は俺の肩をポンと叩いた。
大学受験まで残り半年を切っている。にも関わらず模試の結果はC判定だ。大学受験に失敗したらどうなるのだろう。私立には進学させてくれないだろう。そもそも、塾に通わせて貰ってるのに第一志望に落ちるなんて、自分の不甲斐なさに泣きたくなる。両親に申し訳がない。最近は、そんな不安ばかりが募るのだ。
塾の帰りに、俺は杉下と並んで帰途につく。歩道には人が溢れ、夜の街は暗闇の中に明かりが満ちている。
落ち込むな、と言う杉下もやがて言葉数が少なくなっていった。彼は同じ大学をA判定。却って気を遣ってしまうのだろう。気を遣うのなら話しかけてくるなよ、なんて僻んでしまう自分が嫌で、会話の接ぎ穂を探そうとするけれど。
C判定という現実の前には友人との友好関係が霞んで見えてしまう。
どうして俺は杉下より勉強ができないのだろう。勉強時間は足りている。勉強方法も…杉下が嘘をついているのでない限り、大した違いはない。
だとしたら俺と彼の違いはなんなのだろう。最も考えられるのは記憶力や応用力の違い。つまるところ地頭の違いだ。要は俺より杉下や、他の受験生の方が頭がいい。それだけの話。
本当にそうなのだろか。俺はそれほどに頭が悪いのだろうか。そんなふうに…逃げてしまっていいのだろうか、
俺が勉強のできない理由は…
交差点。歩行者信号が赤に変わり二人揃って立ち止まる。ぼんやり赤信号を見る俺の前を無数の自動車が通り過ぎていく。
横切る自動車のヘッドライトと交差点。その向こう、交差点の角に建つコンビニエンスストアがふと目に留まる。
青色のイメージカラー。全国チェーンのロートンだ。
ロートンの店内はガラス張りになっており、ここからでも商品棚や店内が見える。
商品棚の上には豚のぬいぐるみが乗っていて、つぶらな瞳を通行人に向けている。
あの豚のぬいぐるみ、なんて名前なんだ?
「ああ、とんかつクンのこと?」
杉下が答えてくれる。とんかつクン?
「だから、あの豚のぬいぐるみだろ?ロートンの中からこっち向いてる」
豚のぬいぐるみなのにとんかつクンって名前なのか。
それは何と言うか、自虐的すぎないか。
「あれさ、とんかつクンって商品のイメージキャラなんだよ。ホットスナックの」
ホットスナックって、コンビニによくある肉まんとかチキンとか?
「そうそう、ロートンは手のひらサイズのとんかつが売ってるんだよ。一袋250円…気になる?」
そこで、歩行者信号が青に変わった。歩き出した杉下の横を俺も共についていく。
交差点を渡ってロートンの窓際まで来る。商品棚の上に乗った豚のぬいぐるみ、通称とんかつクンが窓越しにこちらを向いている。
豚の蚊取り線香をそのままぬいぐるみにしたようなデザインだ。全身は淡いピンク色。寸胴の胴体から生える四つの足はいずれも小さい。鼻は所謂豚鼻で、大きく丸い鼻の中には、縦長の楕円形をした鼻の穴。鼻の大きさに反比例して耳はぴょこんと控えめで、同じ様に、目も小さい。黒豆のような小さいとんかつクンの目。ただ黒いだけの目なのに、じっと見ているとこちらを見つめ返しているような、不思議な印象を受ける。
「変わってるよな。こういうマスコットのぬいぐるみって普通はレジ横に置いてあるけど、なぜかこの店は通行人から見えるように置いてあるんだ。豚にこっち見られてるみたいでキモくない?」
キモいかな。むしろ可愛いと思うけど。
しかし、杉下の気持ちも分かる。俺と杉下は塾帰りに毎回この道を通るが、そのたびにこのロートンの前まで来るから、どうしてもこの豚のぬいぐるみが目にはいるのだ。
思い返すと、いつもこの豚のぬいぐるみ…通称とんかつクンに見られていた。
塾に通いだしたばかりで緊張していた帰り道。同じ高校の杉下を見つけて、初めて友人と帰路に着いた日。雨の中傘を忘れて、信号が変わるのを我慢強く待った日もあれば、台風が来て飛ばされそうになりながら帰った日もあった。塾のテストで高得点を取り、誰に褒められるでもないのに全能感に胸が高鳴った日も、テストで結果が出なくて…今日みたいに落ち込みながら帰った日も。
塾に通うのは、楽しさより辛さが勝った。そんな日々の鬱憤を抱えながら、ゲームやアニメで気を紛らわせながら、あるいは杉下のような友人と辛さを共有しながら、今日まで通い続けるしかなかった。
そんな日々、塾の帰り道には、必ずこの交差点を通り、その度にロートンの窓から覗くぬいぐるみ、とんかつクンを見ていた。
特に興味はなかった。だからとんかつクンに癒やされたわけではなかった。それでも、そのぬいぐるみをみる度に俺は、少しだけ気が紛れたのだ。
何で窓際に置かれてんのかな。豚の蚊取り線香みたいだな。店内から見たらお尻しか見えないのかな。日焼けとかしないのかな。こっちが見られてるみたいで居心地が悪いな、と思うこともあれば…こっちを覗き見てるみたいでちょっと可愛いかもと思ったり。
とんかつクンは確かにそこにいた。そこにいて、少しだけ俺の気持ちを動かしてくれた。
「食ってみる?」
杉下の言葉に、ぎょっとする。
食うって、何を。
「だから、とんかつクン。食ったことないんだろ。結構おいしいよ」
とんかつクンを、食う…でも…
思わず目の前のとんかつクンぬいぐるみを見ると、杉下が俺の背中を叩いて笑った。
「別にそのぬいぐるみ食うわけじゃないから。それはあくまでイメージキャラで、とんかつクン自体は普通のとんかつだから」
分かってるけどさ。とんかつってことは豚肉だろ。それを食うっていうのはつもりさ。
「遠慮すんなって。俺が奢るからさ」
買ってくるから待ってろよ。と彼は言って店内に消えていった。
すぐに杉下は店内から出てきた。手には袋を持っている。
「奢るって言っても250円だから気にするなよ。ほら、これ」
袋を受け取り中を開ける。
明けた瞬間、揚げ物の重厚な香りが目の前に広がった。食欲をそそる匂いだ。袋の中を見ると、とんかつが入っていた。商品名とんかつクン。杉下の言う通り、豚のぬいぐるみはあくまでマスコットに過ぎず、商品としてのとんかつクンは、ただのとんかつのようだ。袋の中を見ると、切られたとんかつが5切れ入っていた。揚げ物の外食チェーンのとんかつと比べると小さいが、値段を考えるとリーズナブルと言えるかもしれない。袋越しにも熱が伝わるほど熱くなっており、少し揺らすだけでコロモが擦れてサクサクと軽快な音を立てる。大きさはやや小ぶりだが肉厚で両手に持つとんかつクンの袋はずっしりと重みを感じる。
美味そうである。そして、俺は男子高校生らしく揚げ物は好物であり、加えて塾帰りの今、腹は充分に減っている。帰ったら母親が夕食を用意してくれているだろうが、俺の胃袋を考えれば問題ないだろう。
食べない理由はない。
しかし。
俺は再び目の前のロートンの窓を見る。窓越しに豚のぬいぐるみ、とんかつクンがこちらを見つめている。
「どうした?食べないのかよ」
とんかつクンの入った袋を持ったまま固まっていると、痺れを切らしたように杉下が急かした。確かに、早く食べないとせっかくのとんかつが冷えてしまう。交差点とロートンに挟まれた歩道でいつまでも立っているわけにもいかない。
そう思いながらも、俺はどうしても食べられないでいた。
やはり、とんかつクンに見られながらはちょっと…豚のぬいぐるみの目の前で豚料理を食うというのは…
節操がないではないか。
「食わないなら、俺が食うぞ」
逡巡する俺を無視して、杉下は袋に付属した爪楊枝でとんかつを一切れ刺すと
「やっぱとんかつクン美味いな」
口に放り込んで咀嚼した。シャクシャクと小気味いい咀嚼音が彼の口から聞こえてくる。
こいつには、人の心がないのか。
それとも、ぬいぐるみの目を気にする俺が変なのか。
疑問を抱く俺を無視して、杉下は2個、3個と口に入れていき。ついに残りは1切れとなった。
まあいい。おいしそうだが、やはり俺は食べたくない。食べられない。そう思い直していたのだが。
「最後の一切れはお前が食え」
言って袋を突き出してきた。
再び受け取ろうとして、手が引っ込む。
いいよ俺は。杉下が全部食べろよ。
遠慮する俺を、杉下は許してくれない。
「いや、一切れは食べないと」
いつになく強引である。しかしそう勧められても…仕方なく俺は言った。
俺さ、このとんかつクンのぬいぐるみに愛着があるんだよ。だからさ、とんかつクンを食べるわけにはいかないんだ。
俺の言葉を受けて杉下は呆気にとられたように口を開けた。
杉下が呆れる気持ちもわかる。
とんかつクンが好きだからとんかつクンを食べられないっていう理屈は変だ。
それに、高校生にもなって、ぬいぐるみの目が気になって食べ物を食べられないとか、そもそもぬいぐるみに愛着が湧くとか、恥ずかしい気もする。
でも俺は食べたくなかった。だから羞恥を晒して本心を打ち明けた。
なのに杉下は
「駄目だ。お前はどうしても、とんかつクンを食べなければならない」
何を意固地になってるんだこいつは。俺は憤慨した。こちらが恥ずかしいと思ってるのにその気持ちを踏みにじりやがって。
それとも、理由があるのだろうか。
俺がとんかつクンを食べなければならない、重大な理由が。
杉下の真剣な表情を見て、俺は思わず唾を飲んだ。
理由はある、かもしれない。
俺は思い直した。本当に俺はぬいぐるみに気を遣ってとんかつを食べたくないのか?そんなファンタジー的な理由でとんかつを食べられないのか?
いや、確かにその気持ちはあるのだ。豚のぬいぐるみの前で豚を食べるのは嫌だという気持ちは確かにある。
その気持ちはどこに繋がっているのだろう。そして、なぜ杉下は俺に、とんかつを食べて欲しいのだろう。
俺が今、感じている気持ちは…
負い目だ。
俺は負い目を感じている。豚のぬいぐるみの目の前で豚料理を食べたくないのは、そのぬいぐるみに負い目を感じているからだ。
それだけじゃない。俺は杉下にも負い目を感じているのかもしれない。
彼にとんかつクンを奢ってもらうことに負い目を感じている。つまり俺は、誰かに何かして貰うことに負い目を感じて…
そうだ、俺は…両親に負い目を感じている。塾に通わせて貰っていることに、金を出して貰っていることに、負い目を感じているのだ。
負い目を背負うとどうなる?
それは重圧となる。
両親に負い目を感じている俺は、どこかプレッシャーを覚えていて…そのプレッシャーに俺は今、潰されかけているのかもしれない。
勉強時間も方法も悪くないのに、結果が伴わないのは、負い目という名の重圧が原因なのかもしれない。
だとしたら、ここでとんかつクンを食べれば。
杉下にとんかつクンを奢ってもらうという負い目、豚の前で豚を食べるという負い目、それらに打ち勝つことになるのではないか。
つまり杉下はこう言ってるのか。
負い目を感じるな。プレッシャーを克服しろ。
ありがとう杉下。お前のエール、受け取ったぞ。
心の中で友人に感謝を繰り返しながら…またとんかつクンに謝りながらも、俺は最後のとんかつクンを食べ切った。
美味い。とんかつが美味いだけじゃない。これは…勝利の味だ。
「良かった。これで受験も安心だな」
そうだな杉下。俺はプレッシャーを克服したぞ。
「プレッシャー?何言ってるんだお前」
だから、負い目を感じずにとんかつクンを食べることでプレッシャーに打ち勝てと。杉下はそう言いたかったんだろ?
杉下は首を傾げた。
「何言ってるんだ?俺が言いたかったのは」
彼は恥ずかしそうに指先で頬をかいた。
「とんかつを食べて受験にも勝つってだけで」
―母親かお前は。




