第5章 12月14日
「女の子の連れている犬って、ドーベルマンや土佐犬じゃないだろうな?」
「心配するなだニャン。お前でも勝てる小さな小さなチワワだニャン」
猫は机に腰を掛け足を組み本を読んでいる。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」だ。「おもしろいかい?」と訊くと「ユニークだニャン」と答えやがった。この化け猫め。ゲーテもまさか自分の書いた本を、猫が読む日が来るとは想像もしなかっただろう。
母は朝から同窓会に出掛けている。彼女は以前からよく同窓会に出席していたが、仕事を定年退職してからは更に出席する回数が増えた。今日は土曜日。同窓生と一緒に温泉旅館に泊まり、明日帰ってくる。
しんどい。
食事とトイレ以外は万年床から出る事が出来ない。寝たきりだ。それでもトイレはともかく食欲だけは旺盛なのが恨めしい。道理でメタボになる訳だ。
夜6時に夕食を済ませ、1時間休んで、7時からウォーキングに出掛ける。これがいつものパターンだ。ただ今夜は、全裸で、ポケットに包丁の入った黒色のロングコートだけをまとって出掛ける。ただ猫が言うから。
勿論僕には女の子を殺す気など毛頭無い。かといって「吾輩は神であるだニャン」と言う猫に逆らう気力もない。ただいつものウォーキングの時間が来たから家を出ただけだ。継続は力なり。千里の道も一歩から。来年はメタボ検診が待っている。僕にとっては女の子を殺すよりもウォーキングが最優先すべき課題だ。
それでも僕は家を出て最後にもう一度だけと、我が家を振り返る。
近所の人々がみんな窓から僕を見ている気がするので、一瞬チラッと振り返るだけだ。本当はいつまでも見ていたいのだが、近所の人々から挙動不審と怪しまれる事を僕は恐れる。
その家は僕を安らかな眠りで包み込んでくれた。子供の頃からの思い出が詰まっている、僕にとっては年上の愛人の様な存在。
僕の頭の中では「警察に捕まり死刑か無期懲役だニャン」という猫の言葉が響いていた。
僕の家が失われてしまう。二度と戻ってくる事はない。
公園に着くと猫の予言通り女の子が一人で犬の散歩をしていた。女の子の服装は前もって猫から教えられていた通りだった。女の子の連れている犬もドーベルマンや土佐犬ではなくチワワだった。女の子は足元の小犬に向って何か話し掛けていた。
女の子は猫の言っていた通り普通の田舎の女の子に見えた。
取り敢えず僕は女の子とは正反対の方向にあるトイレに向った。全裸にコート1枚だとさすがに寒い。まずは小便をしてそれから女の子の様子を観察しよう。あの女の子が本当に屠殺を産み出したのだろうか?
しかし用を足してトイレから出た瞬間、僕は悲鳴をあげそうになった。女の子がそこに立っていたのだ。
「こ、こんにちは」
と女の子が言う。
僕は平静を装いつつ、
「こんにちは」
「あ、あれ?こ、こんばんは。かな?あ、あれ?」
僕は平静を装いつつ、
「こんばんは」
「あ、そ、そうですよね。こんばんは。ですよね。そ、そうですよね」
女の子はうつむいてウンウンとうなずいて一人で納得している。
女の子の連れている小犬は「ご主人様が話しかける相手なら安心だワン!」と無防備に興味津々、僕を見ている。
女の子は意を決した様に顔を上げると、
「あ、あのう、わ、私と一緒に散歩してくらさい!」
「(え?)」
僕の頭の中に猫の顔が5倍ズームアップで浮かんだ。
「い、いつもこの時間に散歩してるのを知ってました!い、いつもあなたの事を見てました!」
猫め、そんな事は何も言ってなかったぞ!
「よ、よかったら、わ、私と一緒に散歩してくらさい!」
女の子はまっすぐに訴えてくる。
「あ、で、でも私はストーカーじゃないですよ!あ、で、でも似たようなものかな?あ、あれ?どっちだろう?あ、あれ?」
女の子の頭は独りで、京都の観光名所・哲学の道を歩き出したようだ。
僕は大きく息を吸い込んだ。
僕に異論は無い!
女の子を殺すより、一緒に散歩する方がいい。猫が聞いたら激怒間違いなしだが。
「いいですよ。OK!OK!」
僕は日本語の曖昧さを緩和する為に、女の子に英語で明確に意思表示する。
女の子は何故かウケたようで、
「おもしろい事言うんですね!」
とクスクス笑い出した。箸が転がってもおもしろい年頃なのだろう。
「も、もっと怖い人かと思ってました!安心しました!」
僕は笑う。
女の子も笑う。
女の子の連れている小犬まで笑った。
僕は女の子の名前を聞いてなかった事を思い出し、女の子に名前を訊こうとした。その時、黒色のロングコートの間から、僕の息子が世界に向って「こんにちは!」をしていた。
リアルの女の子と久し振りに話が出来た僕は、嬉しさのあまりいつの間にか勃起していたのだ。そして笑った瞬間、黒色のロングコートの前を塞いでいた手が緩んで……世界に向って「こんにちは!」だ。
陰毛が風に揺れた。僕の息子は雄々しく勃起しグロテスクな生き物に見えた。
女の子はそれを見て固まった。
そして間違いなくポケットに入れていた包丁が、何故か乾いた音を立てて女の子の足元に転がり落ちた。女の子の連れていた小犬が驚いて後ろに飛び退いた。夜の公園の明る過ぎる照明を受けて、包丁はギラギラと輝いていた。
次の瞬間女の子は僕の目を哀願する様に見て、公園中に響き渡る大声で叫んだ。
「逃げて!!!」
僕は女の子の声の大きさにびっくりしたが、彼女の言っている意味がわからなかった。
「私から逃げてーーー!!!」
女の子はその場に座り込み、頭を抱え込みながら更に絶叫する。
僕はその時ようやくわかった。ああ、僕は屠殺されるんだなと。頭のてっぺんから足の爪先まで、体の内側で何か異変が起ころうとしていた。
僕の過ちは、自分で断罪せずに、女の子に審判を下させた事。
屠殺されるその刹那に猫の声が聞こえた。
「少女が大人になり結婚した時にだニャン、お前は少女の子供として生まれ変わるだニャン」
そして僕は数百数千の肉片となり四方八方に飛散した。
(続く 最終更新日15年09月17日)




