あなたの腕、買います
その腕、使っていませんか?
あなたの腕、査定します。
身体は、大事な資源です
最初はやけっぱちの冗談だった。
大学も辞めて、バイトも続かなくて、家賃も滞納して、いよいよ何もかもがどうでもよくなっていたのだ。
《俺の腕、売ります》
駅前の雑踏の中、段ボールにマジックで書いて首からぶら下げただけ。
誰かが反応してくれたらば、俺の勝ち。
掛け率は、そうだね。1%もないだろうし、80倍ってとこ?
ただ、実家に戻るきっかけが欲しいだけだったのかもしれない。
だけど、朝から8時間も経ったころ、声をかけられた。
それは流石に売れないと思って少ない荷物を片づけていた時だった。
「本当に売ってるの?」
振り向くと、黒いスーツの女が立っていた。
歳はわかりにくい。30前後か。
俺の腕と顔を見比べている。
「……冗談のつもりです。第一、こんな道端で買う人なんかいませんよ」
「売れるなら売りたい?」
言い当てられて、言葉に詰まった。
売れるわけがない。そんなこと、わかっている。けど、もし売れるなら――借金も、家賃も、全部チャラにできるかもしれない。
「……いくらなら?」
気づいたら、そう聞いていた。
女は少しだけ口角を上げた。
「いい値段で買うわよ。あなたの利き腕ならね」
その言い方に、妙な引っかかりを覚えた。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味。あなたの利き腕、ちゃんと使える状態で欲しいの」
ぞっとした。冗談じゃない。腕を切り落とすなんて現実的じゃないし、第一そんなことして生きていけるはずがない。
けど、女は淡々と続ける。
「もちろん、医療的な処置は全部こちらでやる。痛みも最小限に抑えるし、義手も支給する。リハビリもサポートするわ」
「……なんで、そんな」
「需要ってあるものよ」
女はスマートフォンを取り出して、画面を見せてきた。
そこには、奇妙な広告が並んでいた。
《技能付き部位、買取強化中》
《職人の手、求む》
《記憶定着済み四肢、高額査定》
「……なんですか、これ」
「本当知らなかった?」
女はスマートフォンをしまった。
「人の体にはね、ただの肉以上の価値があるの。
特に長年使い込まれた部位には、その人の癖や技能が染み込む。
料理人、ピアニスト、いろいろな職人……
そういうものを欲しがる人は、いるのよ」
意味がわからない。
だけど、完全に否定もできなかった。
俺は、小さい頃から絵を描くのが好きだった。
誰に教わったわけでもない。
ただ、自然と描いてきた。
「……俺の腕なんか、大したことないですよ」
「そうかしら?」
女はじっと俺を見る。
「あなた、絵を描くのよね。かなりお上手に」
心臓が跳ねた。
「なんで……」
「見ればわかるわよ。指の動き、関節の柔らかさ、筋肉のつき方。何より、無意識に空間をなぞる癖がある」
無意識に、右手を握りしめていた。
「……もし、売ったら……いくらになるんですか」
女は少し考えてから、さらっと言った。
「300万はあるかしら」
呼吸が止まった。
300万あれば、全部返せる。いや、それどころか、少し余る。
「……売ったら、俺の……」
「利き腕はなくなるわね」
あっさりとした答え。
頭の中で、いろんなものがぐるぐる回った。金、生活、未来、それから――絵。
右腕がなければ、もう描けない。
「義手でも、練習すれば描ける人はいるわよ」
女が言う。
「でも、今のあなたの腕で描く絵は、もう描けないかも」
それは、慰めじゃなくて、ただの事実だった。
しばらく沈黙が続いた。
人の流れは途切れない。誰も俺たちに興味を持たない。この世界のどこかで、腕が売買されているなんて、想像もしないまま。
「……買った人は腕を、どうするんですか」
「さあ? 必要としてる人のところに行くか、自分が必要なのか」
「その人は、俺の腕で……絵を描くんですか?」
女は少しだけ首をかしげた。
「描くかもしれないし、描かないかもしれない。ただ、描く以外の可能性も手に入るわね」
それを聞いたとき、胸の奥が妙にざわついた。
俺が売ったものを、誰かが手にする。
俺が手放す未来で、知らない誰かが別の形で手に入れる。
「……考えさせてください」
「もちろん」
女は名刺を差し出した。そこには会社名も肩書きもなく、ただ電話番号だけが書かれていた。
「気が変わったら、いつでも連絡して」
そう言って、女は人混みの中に消えた。
俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。
段ボールには、まだ「俺の腕、売ります」と書かれている。
右手を見下ろす。
いつも通り、思った通りに指が動いた。
この腕で、たくさんの線を引いてきた。
たくさんの絵が、この腕から生まれていった。
スケッチブックを鞄から取り出して、開いた。
その場で、がむしゃらに描き殴った。
この風景でも、さっきの女性でもない。
描きたいものが、俺自身すらわからない。
画面の上に、歪な線が積み重ねられていく。
奥にしまい込んだ夢か。
厳しい現実への怒りか。
過ぎていく時間への焦燥か。
ただの諦めか。
気が付けばスケッチブックは真っ黒になっていた。
俺は小さく息を吐いて、スケッチブックを鞄にしまった。
そして、ポケットから名刺を取り出して眺めた。
まだ、売れません。
少なくとも、もう一枚くらい、
納得できる絵を――
腕を売るなら今です。
まだ、持っていますか?




