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ヒールを脱いだら、東京はただの空になった  作者: 久遠 睦


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名前のない歯車

第四章:名前のない歯車


 月曜日の朝、オフィスに漂う空気はいつも以上に乾燥していた。  千代田線のラッシュに揉まれ、駅の階段を駆け上がっただけで、肺の奥がちりちりと焼けるように痛む。デスクに座り、PCの電源を入れる。起動するまでの数十秒間、黒い画面に映り込む自分の顔は、まるで行き先を失った遭難者のようだった。


 私が勤める「ルミナス・アパレル」は、二十代後半から三十代の女性をターゲットにした中堅のブランドだ。今の私の役職は、販促企画部のシニア・アソシエイト。聞こえはいいが、実態は膨大なデータの整理と、外部業者との調整、そして上司である部長の思いつきを形にするための「調整弁」である。


「長谷川さん、例のスプリング・キャンペーンの進捗、どうなってる?」


 背後から声をかけてきたのは、販促部長の佐久間だった。五十代半ばの彼は、常に効率と数字を優先する。彼の瞳の奥には、部下を一人の人間としてではなく、Excelのセルの一つとして数えているような冷たさがある。


「はい、主要なインフルエンサーへの献本と、SNS広告の入稿はすべて完了しています。あとは明日のローンチを待つだけです」 「そうか。今回のキャンペーン、社長も期待してるからな。ミスは許されないぞ」


 佐久間はそれだけ言うと、私の返事も待たずに会議室へと消えていった。  この三週間、私は終電近くまで残業し、休日にまでインフルエンサーからの細かな修正依頼に対応してきた。目の下にできたクマをコンシーラーで塗りつぶし、栄養ドリンクで誤魔化しながら積み上げてきたプロジェクトだ。けれど、佐久間にとって、それは「できて当然」の業務でしかない。


 ふと、隣のデスクに座る派遣社員の佐藤さんに目をやった。彼女は私より三歳年下で、いつも淡々と仕事をこなす。 「長谷川さん、顔色悪いですよ。大丈夫ですか?」 「あはは、ちょっと寝不足なだけ。大丈夫、明日が本番だから」


 無理に作った笑顔が、頬に張り付くような感覚があった。  その日の午後、事件は起きた。  明日のキャンペーン開始に向けた最終確認の会議中、私の視界が急にぐらりと歪んだ。耳の奥でキーンという高い音が鳴り、佐久間の喋っている声が、まるで水底から聞こえてくるように遠のいていく。


「……長谷川さん? 長谷川さん!」


 誰かに肩を揺すられ、私は自分がデスクに突っ伏していたことに気づいた。  冷や汗が背中を伝う。体温計を借りて測ってみると、表示された数字は三十八度五分だった。


「長谷川、今日はもう帰れ。明日のローンチは佐藤さんと僕で対応する」  佐久間の声には、私への心配よりも、予定が狂うことへの苛立ちが滲んでいた。 「すみません……明日、大事な日なのに……」 「いいから。君がいなくても、仕事は回るようにできている。それが組織だ」


 その言葉は、優しさの皮を被った「宣告」だった。  フラフラする足取りでタクシーに乗り込み、帰宅してベッドに潜り込む。熱に浮かされながら、私はスマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。


 翌朝。キャンペーンの開始時刻である午前十時。  私が全身の倦怠感と戦いながら、震える手で社内チャットを開くと、そこには「ローンチ成功」の報告が飛び交っていた。


〈インフルエンサーの投稿、すべて確認しました。初速のリーチ数は過去最高です!〉 〈佐久間部長、佐藤さん、フォローありがとうございました。完璧なスタートです〉


 佐藤さんから届いた個別のチャットには、こう書かれていた。 『長谷川さんが準備してくれた資料、すごく分かりやすかったです。おかげで私でもスムーズに代行できました。ゆっくり休んでくださいね』


 私は、スマートフォンの電源を切り、布団の中に潜り込んだ。  涙は出なかった。ただ、胸の真ん中に大きな穴が開いたような、空虚な風が吹き抜けていた。


 私が三週間、心血を注いだ仕事。  私がいなければ成立しないと、どこかで信じたかったプロジェクト。  けれど実際には、私が熱を出して倒れた翌日、代わりの誰かがボタンを押し、何事もなかったように「完璧」に遂行された。


 結局、私という存在は、この会社にとって「マニュアル通りの出力ができる部品」でしかなかったのだ。私が壊れれば、予備の部品をはめ込めばいい。そしてその予備の部品もまた、私の席で同じように笑顔を作り、同じように疲弊していくのだろう。


 夕暮れ時、少し熱が下がった私は、ふらりと近くの公園へ向かった。  オフィス街の片隅にある、遊具もない小さな公園。  ベンチに座り、沈んでいく夕日を眺める。  家路を急ぐサラリーマンや、スーパーの袋を下げた女性たちが、私の前を通り過ぎていく。誰も、私が今日一日、寝込んでいたことも、職場で「不要」であることを突きつけられたことも知らない。


 この街で頑張っている女性たちのSNSを、また開いてみる。  地方でパンを焼く女性、農業に精を出す同世代。  彼女たちの仕事は、代わりがいるのだろうか。  「あなたの焼いたパンが食べたい」  「あなたが育てた野菜だから買いたい」  そんなふうに、「個」として求められる場所が、あの山々の向こうにはあるのだろうか。


 それとも、それは私の勝手な幻想なのだろうか。  どこへ行っても、人は結局、何かの歯車としてしか生きられないのかもしれない。  けれど、せめてもう少し、自分にしか出せない「音」を鳴らせる歯車になりたい。そう願うのは、東京に十年も住んでしまった私の、最後の傲慢なのだろうか。


 夜の風が、火照った頬に冷たく当たった。  私は、自分の手のひらを見つめた。  この手で、私は今まで何を掴んできたのだろう。  十年かけて積み上げた「順調な仕事」という城は、熱一つで砂のように崩れてしまった。


「……私の居場所は、ここじゃないのかもしれない」


 初めて、その予感が「確信」に近い響きを持って、心の中に着地した。  まだ答えは見えない。けれど、明日、会社へ行くのが昨日までとは違う感覚になることだけは、分かっていた。


 空には、都会の光に掻き消されそうな、頼りない月が浮かんでいた。  私は、自分の名前が書かれた社員証をバッグの奥にしまい、一歩、重い足を踏み出した。


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