十八歳の切符、片道分の高揚
第三章:十八歳の切符、片道分の高揚
朝、スマートフォンのアラームが鳴る前に目が覚めた。 カーテンの隙間から差し込む光は、都会特有の不純物を含んだような白さをしている。重い身体を引きずり、洗面所の鏡に向かう。歯を磨きながら、ふと視界に入ったのは、棚の隅に置かれた一本のヘアオイルだった。
それは、上京して最初の一ヶ月、慣れない表参道の美容室で「東京で一番人気のやつをください」と背伸びをして買ったブランドのものだった。今やラベルは色褪せ、中身は酸化してドロリとしている。捨てればいいのに、なぜか捨てられずにいた。それを見るたび、あの時の、吐き気がするほど鋭利な高揚感を思い出すからだ。
十年前。十八歳の三月。 私は、長野駅のホームに立っていた。 足元には、昨日まで何度も荷物を詰め直しては閉まらなくなり、父に手伝ってもらってようやくロックをかけた、真っ赤なスーツケースがあった。
「真帆、忘れ物はないか。仕送りは毎月決まった日に振り込むからな」 父は、普段の厳格さをどこかに忘れてきたような、頼りない声で言った。 「……うん。わかってる。お父さんも、お母さんも、元気でね」 母は何も言わず、私のマフラーの形を何度も整えていた。その手は少し震えていて、私はそれがいたたまれず、わざと大きな声で「じゃあ、行くね」と言って、新幹線の自動ドアの向こうへ逃げ込んだ。
新幹線が動き出し、見慣れた山並みが加速して後ろへ流れてくる。 その時、私の胸を満たしていたのは、両親への感謝でも別れの寂しさでもなかった。 ——やっと、逃げ出せる。 そんな、罪悪感を含んだ解放感だった。
地元の町は、私にとって「予告編だけで終わる映画」のような場所だった。 誰がどこの大学に行き、誰と誰が付き合い、誰の家の車が新しくなったか。そんな些細なニュースが光の速さで駆け巡り、個人のプライバシーは霧のように薄い。 「女の子なんだから、そんなに遠くに行かなくても」「地元にいたほうが幸せだよ」 善意という名の鎖が、私の足首に絡みついているような気がしてならなかった。 東京に行けば、私は誰の娘でも、誰の同級生でもない、「ただの私」になれる。何にでもなれるし、どこへでも行ける。あの時の私は、東京を「魔法の国」だと本気で信じていた。
東京駅に降り立った瞬間の、あの熱っぽい空気は今でも覚えている。 人の波、広告の洪水、絶え間なく鳴り響くアナウンス。肺の奥まで排気ガスの匂いが入り込み、都会の毒気に当てられたようで、それでいて心地よかった。 「私は今、世界の中心にいる」 大学の入学式、日本武道館の大きな屋根を見上げながら、私は自分の未来に一点の曇りもないと確信していた。
最初の数年間は、まさに「キラキラ」という言葉そのものだった。 大学の友人と行く、深夜のドン・キホーテ。初めて飲んだ、一杯一二〇〇円もするラテ。 週末になれば、おろしたてのヒールを鳴らして渋谷へ向かった。ハチ公前広場を抜け、あのスクランブル交差点を渡る。巨大なビジョンから流れる音楽と、圧倒的な人の数。その渦の中に身を投じることが、当時の私にとっては「東京という物語」の主人公になるための儀式だった。 SNSにアップする写真は、どれも彩度が高かった。 〈東京生活、最高!〉〈帰りたくないな(笑)〉 そんな投稿に付く「いいね」が、私の生存証明だった。あの頃の私は、消費すること、刺激を受けること、そして何より「ここにいること」そのものに価値を見出していた。
就職活動の時も、迷いはなかった。 地元に帰るという選択肢は、一秒たりとも脳裏をよぎらなかった。 「せっかく東京の大学に出たんだから、こっちでバリバリ働かないと損だよ」 キャリアウーマンという、今では少し古臭く感じる言葉に憧れ、私は必死に自分を磨いた。リクルートスーツに身を包み、分刻みのスケジュールで地下鉄を乗り継ぐ。自分が「社会という大きな機械の歯車」になりたがっていることに、当時は気づいていなかった。
変化は、少しずつ、けれど確実に忍び寄ってきた。 きっかけは、入社して三年目の秋だったと思う。 その日、私は大きなプロジェクトのプレゼンを終え、疲れ果てて渋谷駅の連絡通路を歩いていた。ふと視線を落とした先には、いつものように数え切れないほどの人々が交差するスクランブル交差点があった。
その時、私は唐突に足を止めた。 信号が青に変わり、四方八方から人々が溢れ出してくる。 かつては「自由」や「エネルギー」の象徴に見えたその光景が、その日はなぜか、無機質な「粒子の移動」にしか見えなかった。 一人ひとりに人生があり、家族があり、悩みがあるはずなのに、ここではすべてが匿名性の海に沈んでいる。私もその海に浮かぶ、名もなき粒子の一つ。 もし今、私がこの場所で倒れても、人々は私を波のように避けて通り過ぎるだろう。そして、私の仕事は明日、何事もなかったように別の誰かに引き継がれる。 その事実に気づいた瞬間、背筋に氷を押し当てられたような戦慄が走った。
——私の居場所は、ここなの?
魔法が解け始めた瞬間だった。 年齢を重ねるごとに、かつて輝いて見えた街の明かりが、単なる「光害」に感じられるようになった。 週末の渋谷は、もう私をワクワクさせてはくれない。目に入るのは行列と、スマートフォンの画面越しにしか世界を見ていない人々の後頭部ばかり。 「別に、東京じゃなくてもよくない?」 心の底で鳴り始めた小さなノイズは、年を追うごとにボリュームを増し、今や私の思考を支配している。
洗面所で、古いヘアオイルのキャップを閉める。 鏡の中の二十七歳の私は、十八歳の私が見たら、きっと「つまらない大人」に見えるだろう。 何者かになれると信じて飛び出した東京で、私は結局、「代わりのいくらでもいる事務員」になった。
クローゼットを開け、今日着るための、無難なネイビーのジャケットを取り出す。 ふと、その奥に押し込まれた、あの赤いスーツケースに指が触れた。 十年前、私をここまで運んでくれた相棒。 あの日、私は確かに「片道切符」のつもりでこれを持ってきた。もう戻らない、戻る場所なんてない、と。
けれど今、私は初めて、そのスーツケースを引っ張り出して、中身を空にしたいという衝動に駆られていた。 空になったケースに、今の私が本当に必要としているものだけを詰め込んで、もう一度、駅に向かう自分を想像する。
その行き先は、どこなのか。 まだ、霧の中にある。
「……行ってきます」 誰もいない部屋に向かって小さく呟き、私はドアを閉めた。 十回目の東京の春が、もうすぐそこまで来ていた。




