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ヒールを脱いだら、東京はただの空になった  作者: 久遠 睦


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賞味期限の切れたネオン

第一章:賞味期限の切れたネオン


 午後八時半。地下鉄千代田線の窓ガラスには、ひどく疲れ果てた一人の女が映っていた。  乱れた後れ毛、乾燥で少し粉を吹いたファンデーション、そして何より、焦点の定まらない濁った瞳。それが二十七歳になった私、長谷川真帆はせがわ まほの現在地だった。


 十年前、長野の山あいの町から高速バスに揺られて新宿に降り立ったとき、この街の空気は肺の奥まで痺れるほど刺激的だった。ビルボードの光、絶え間なく流れる人々の群れ、深夜まで消えることのないカフェの明かり。そのすべてが「自由」の象徴に見えた。あの頃の私は、この街に吸い込まれることこそが、本当の意味で人生を始めることだと信じて疑わなかった。


 けれど、今はどうだろう。  代々木公園駅を過ぎたあたりで、私はふと、手に持っているブランド物のバッグがひどく重く感じて、膝の上で抱え直した。三年前、昇進した自分へのご褒美として、表参道の路面店で震える手で購入したはずのそれは、今やただの「仕事道具を入れる箱」に成り下がっている。


「……別に、東京じゃなくてもよくない?」


 誰に聞かせるでもなく、心の中で呟いた言葉が、電車の走行音に掻き消されていく。  かつては、週末に渋谷の新しい商業施設をチェックしたり、銀座で話題のスイーツを並んで買ったりすることが、私のアイデンティティだった。インスタグラムのストーリーにそれらしい写真をアップし、通知の数で自分の価値を測っていた。  けれど最近は、土曜日になると一歩も外に出たくなくなる。話題のスポットには、自分と同じような顔をした人間が溢れ、誰かが用意した「正解の幸福」を消費するために列を作っている。その光景を想像するだけで、胃のあたりが重くなるのだ。むしろ、人がいない神社の境内や、オフィス街の裏通りにある誰もいないベンチのほうが、今の私にはずっと贅沢な場所に思える。


 マンションの最寄り駅で降りると、冷たい夜風が首元を抜けた。  駅から自宅までの徒歩十分。コンビニの明るすぎる照明が、歩道に鋭い影を落としている。    仕事は順調だ。中堅のアパレルメーカーの販促部門で、私はそれなりの信頼を勝ち取っている。後輩もでき、予算を任されることも増えた。けれど、先週の会議で、部長が何気なく放った言葉がトゲのように心に刺さったままだ。 『長谷川さんが有給でいない間、代わりに派遣の佐藤さんに資料作ってもらったんだけどさ、完璧だったよ。これからは彼女に任せてもいいかもね』  悪気のない、単なる効率の話。けれどそれは、私がこの数年間、睡眠時間を削って積み上げてきた「キャリア」という名の城が、実はいとも簡単に他人に明け渡せるものであることを残酷に証明していた。  私がいなくなっても、会社のプロジェクトは止まらない。私の代わりに誰かがメールを打ち、誰かが会議で発言し、誰かが笑顔でクライアントを接待する。東京という巨大なエコシステムの中で、私は「交換可能な部品」の一つに過ぎなかった。


 コンビニの自動ドアが開く。  夕食は、野菜炒めのセットと、安売りされていたノンアルコールのビール。  レジで会計を済ませるとき、ふと店員の胸元にある名札を見た。そこには聞き慣れない外国の名前が書かれていた。彼もまた、どこか遠い国からこの「キラキラした街」を目指してやってきたのだろうか。それとも、単なる労働力として、この街に消費されているだけなのだろうか。


 自宅に帰り、狭いワンルームの照明をつける。  ベッドに倒れ込み、スマートフォンの画面を点けるのが、最近の私の「自傷行為」に近いルーティンだった。  指が勝手に、地元のニュースサイトや、地方移住をテーマにしたハッシュタグを追いかける。


 画面の中には、自分と同じくらいの年齢の女性がいた。  彼女は、廃校になった小学校を利用してパン屋を始めたらしい。エプロン姿で、小麦粉にまみれて笑っている。その背景には、私が捨ててきたはずの、青すぎるほど青い山々が映っていた。 〈東京での生活は、どこか息苦しかった。でも、ここで土を触っていると、自分が生きている実感がします〉  そんなキャプションに、数千の「いいね」がついている。


 一方で、別の投稿も目に入る。  地方へ移住したものの、コミュニティに馴染めず、数ヶ月で都会に戻ってきたという女性のブログ。 〈理想だけでは食べられない。地方には仕事がない。閉鎖的な人間関係に疲れ果てた〉  毒を吐き出すようなその文章を読んで、私は少しだけ安心してしまう。そんな自分自身の醜さに、また嫌気が差す。


「帰ろうかな……」


 声に出してみると、その言葉は意外なほど滑らかに部屋に溶けた。  けれど、帰ったところで何があるというのだろう。実家の近くにあるのは、シャッターの降りた商店街と、巨大なイオンモールだけだ。クリエイティブな仕事なんて一握りもなく、あるのは介護か、小売か、公務員。  十年かけて手に入れた、この「安定」と呼べる月収二十数万円、社会保険、そして「東京で働いている」というちっぽけなプライド。これを捨てて、私は何者になれるのだろうか。


 画面を閉じると、暗転したガラスの中に、また私の顔が映った。  東京に居続ければ、いつか「良い人」に出会えるのだろうか。マッチングアプリの無機質なプロフィールを眺め、スペックで男を選び、選ばれる。そうして手に入れた結婚という名の終着駅は、本当に私を救ってくれるのだろうか。


 窓の外では、首都高速を走る車の音が、遠い波音のように響いている。  私はまだ、二十七歳。  人生の序盤を終え、中盤戦に差し掛かろうとしている。  けれど私の足元には、どこにも根が張っていないような、頼りない浮遊感だけが漂っていた。


 明日も、午前八時の満員電車に乗らなければならない。  私は重い腰を上げ、賞味期限の怪しい野菜炒めをレンジに放り込んだ。  ターンテーブルが、虚しく回り始める。


 私の居場所は、本当にここなのだろうか。  その問いへの答えを、私はまだ、この街のどこにも見つけられずにいた。


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