深淵の森の咆哮
北の深森は、太陽の光を拒絶する分厚い樹冠に覆われ、地表には常に濃い闇が滞留していた。夜明けは遥か上空でのみ起こる現象であり、地上を歩く者にとって、時間はただの寒々とした静寂でしかなかった。
オークヘイヴン村を後にしたケイレンは、銀髪の女戦士エララの後を追って、その闇の中をひたすらに走った。背後には村の火災の匂いと、ブロム親方の絶叫が幻聴のようにまとわりついてくる。彼の心臓は喉元で激しく脈打ち、鍛冶場での安定したリズムを失っていた。
「ついて来れないなら置いていくぞ、鍛冶師」
エララは振り返りもせず、風を切るような速度で進みながら冷たく言った。彼女の足音はほとんど無音だ。対照的に、ケイレンが吐く荒い息は、この静寂の中で獣の唸り声のように響いた。
「待っ…待ってくれ!」
彼は必死に叫んだが、言葉はすぐに息切れでかき消された。手には鍛冶槌と、竜の血のように熱い竜血石を握りしめている。この石が持つ熱だけが、彼がまだ夢を見ていない現実の証拠だった。
「速度を落とすな。彼らはもうすぐ追いついてくる」エララは地面を指し示した。
ケイレンは目を凝らした。エララが踏みつけた苔には、人間のものよりもはるかに大きく、三本の太い指の跡が深く刻まれている。そして、地面の湿った土には、狼のものに似ているが、さらに巨大で、爪が異常に鋭い獣の足跡がいくつも続いていた。
「シャドウハウンド(影の猟犬)だ」エララは簡潔に言った。彼女の紫紺の瞳は、この闇の中でも遠くまでを見通しているようだった。「あの連中は、お前の血の匂いを好む。特に…お前の中の**『炎』**の匂いをな。」
ケイレンは背筋が凍るのを感じた。なぜ自分なのか。ただの鍛冶師である彼が、なぜ古代の悪意に追われなければならないのか。ブロムの犠牲、エララの言葉、全てが重い霧のように彼の頭を覆い、恐怖が悲嘆を上回っていた。
「なぜ、俺なんだ?なぜブロム親方は…」
「過去を嘆く暇はない。お前の師は、お前が何者であるかを知っていたから死んだのだ」エララは立ち止まった。彼女は素早く周囲を見渡し、一つの大きな岩の陰に身を隠すようケイレンに指示した。「奴らが来た。そして今回は、先ほどの虚影獣よりも厄介だ。」
遠くから低い唸り声が聞こえてきた。それは単なる犬の吠え声ではなく、地獄の底から響く振動のようなものだった。唸り声は複数あり、あっという間に距離を詰めてくる。
エララは二本の短剣を鞘から抜き放った。青白い魔力光が冷たく輝き、周囲の闇をわずかに照らす。
「いいか、ケイレン」彼女の声は低く、命令的だった。「お前は岩の後ろから出るな。戦うのは私だ。だが、もし私が倒れたら…お前は全力で走れ。お前の命はこの世界に残された唯一の希望だ。私ごときが一人の命を失うことよりも、遥かに重い。」
「そんなこと言ったって…!」
ケイレンの言葉は、森を突き破って現れた最初のシャドウハウンドによって遮られた。
それは体長が馬ほどもある巨大な獣だった。その毛皮は煤のように黒く、皮膚は薄く張りつめ、その下には血管が青く浮き出ていた。口からは長い粘液質の涎を垂らし、眼窩には眼の代わりに、虚空そのものが詰まったかのような紫色の渦が回っていた。その唸り声は、ケイレンの魂を震わせた。
二匹目が現れ、三匹目がそれに続く。エララは瞬時に防御態勢に入った。
「来い、闇の猟犬ども!」
彼女は叫び、先陣を切って飛び込んできた一匹を狙って短剣を閃かせた。その動きは水のようになめらかで、風のように速い。エララの剣は獣の首筋を深々と切り裂いたが、シャドウハウンドは怯むどころか、さらに獰猛に牙を剥いた。その傷口から流れる血は、普通の血ではなく、闇そのもののようなドロドロとした液体だった。
「再生力が高い!」エララは即座に判断し、距離を取ろうとしたが、他の二匹が左右から挟み込んできた。
ケイレンは岩陰で息を殺していたが、その光景に目が釘付けになった。エララの動きは優雅だが、敵の数が多すぎる。彼女の鎧には既に爪の跡が刻まれ、左肩から血が滲み始めていた。
「クソッ!」
エララが四つ足の猛攻をしのぎきれず、一歩後退した瞬間、彼女の背後から別のシャドウハウンドが跳躍した。
「エララ!」
ブロム親方の死の瞬間が、ケイレンの脳裏をよぎった。彼は二度と、目の前で誰かを失うわけにはいかなかった。
彼は考えることをやめた。恐怖は消え、ただ一つの目的だけが残った。打て。
ケイレンは岩陰を飛び出し、重い鍛冶槌を雄叫びと共に振り上げた。ブロム親方がいつも言っていた「魂を込めろ」という言葉が、頭の中でこだまする。
彼は師匠から教わった全ての技術を使い、体全体の体重を乗せて、エララを襲うシャドウハウンドの側頭部に全力で打ち込んだ。
ドゴォン!
骨が砕ける音と、獣の悲鳴が同時に響き渡った。怪物は吹き飛ばされ、近くの古木に激突した。ケイレンの腕には再び、あの溶岩のような熱が駆け巡った。
だが、残りの二匹の目は、獲物を見つけたかのようにケイレンに釘付けになった。
「愚か者!」エララは叱責の声を上げたが、すぐに体制を立て直し、残りの二匹との間に割って入った。「下がれ、ケイレン!お前はまだ戦い方を知らない!」
「でも、俺にはこれしか…」
彼は槌を構えた。そのとき、背中に感じる竜血石の熱が、急激に、耐え難いほどの熱さに変わった。皮膚が焼けるようだ。同時に、彼の頭の中に、激しい衝動が湧き上がってきた。それは、火、破壊、そして古代の力そのものだった。
「グアアアアアア!」
ケイレンは痛みと怒りに耐えきれず、叫び声を上げた。その叫びは人間の声ではなく、遥か昔の時代から響く、巨大な何かの咆哮のように聞こえた。
彼の体から、突如として炎が噴き出した。
それは炉から出る普通の炎ではない。太陽の中心のような黄金色に輝く炎だった。それは制御不能なエネルギーの奔流で、ケイレンの手から、槌から、そして目から、無作為に噴出した。
熱波が森の空気を瞬時に焦がした。近くの木の幹は瞬時に炭化し、辺り一面に硫黄と焦げ付いた肉の臭いが充満した。
シャドウハウンドたちは、その炎に直接触れることなく、ただその熱波と力に怯え、後ずさりした。一体は怯えの唸り声を上げ、森の奥へと逃げ去った。残りの一体は、炎の放射に巻き込まれ、その黒い皮膚は音もなく塵と化し、虚無へと消えていった。
全てが一瞬で終わった。
炎は、ケイレンの叫びが止むと同時に、激しく燃え上がったかと思うと、唐突に消滅した。
彼は地面に崩れ落ちた。呼吸は浅く、体中の骨が砕けたかのように激しく痛む。手の中の竜血石はまだ熱を持っていたが、その輝きは失われていた。
エララは無傷だったが、その表情には今までの冷徹さが消え、驚愕の色が浮かんでいた。彼女はゆっくりとケイレンに近づき、警戒しながら彼を見下ろした。
「…無茶苦茶ね」彼女は静かに言った。「それが古竜の炎。制御されていない、純粋な破壊の力よ。あなたは、今、一つの大隊を焼き尽くすほどの魔力を解放したのよ、鍛冶師。」
ケイレンはかろうじて首を横に振った。彼の口は乾ききっていた。「俺は…何をしたんだ?」
「あなたの心臓に刻まれた呪いを解き放ったのよ」エララは、炭化した地面に残る炎の跡を見て、冷酷な目で言った。「しかし、その力を使うたびに、あなたは死に近づく。今のあなたは、剣を振るう子供のようなものだ。この力を制御しなければ、あなたは敵を倒す前に、自分自身を灰にしてしまうだろう。」
エララはケイレンの腕を掴み、彼を立たせた。
「私たちは休めない。この炎の爆発で、奴らの指揮系統は私たちをより明確に捉えたはずだ。奴らはすぐにさらに強力な部隊を送り込んでくるだろう。早く行かなければ、次は、村ではなく、あなた自身の命を犠牲にしなければならなくなる。」
ケイレンは痛みに耐えながら、立ち上がった。彼は槌を握りしめた。手が震えているのは、疲労からか、それとも自身の内なる力の恐怖からか、彼には分からなかった。
燃え尽きた森の中で、エララは彼を再び闇の中へと誘った。彼の前にある道は、もはや平和な鍛冶師の道ではない。それは、世界を救うか、あるいは世界と共に滅びるかという、重い運命に彩られた、孤独な旅路の始まりだった。




