第9話「森を越えて、初めての外」
朝の森は静かだった。鳥の声、葉の揺れる音、地を踏む小さな動物たちの気配――
そのすべてが、リューンの心に沁みわたっていく。
精霊として生まれた記憶を持つ彼にとって、この森はまるで“胎内”のような場所だ。
けれど今、その森を抜けるときが来た。
「本当に、一人で大丈夫?」
小道の入り口で、エルナが名残惜しそうに聞いた。
その傍らには、小さな荷を持ったアニス様もいる。
「気をつけるんだよ。薬草や道具は入れておいたから、困ったら使いな」
「ありがとう。すぐ戻ってくるよ、きっと」
リューンは微笑んでうなずき、ひと振り、風を感じて歩き出す。
肩に乗ったティア・リリルが、ふわりと羽を揺らした。
『森の匂いが薄くなる。もう、外だね』
森を抜け、最初の目的地である「エルファルド北の集落」に着いたのは昼過ぎだった。
村よりはやや開けていて、道は踏みならされているが、空気はどこか重い。
挨拶を交わす人々の顔には、薄く疲労の影が差していた。
「おや、旅の薬師さんかい?」
声をかけてきたのは、畑仕事をしていた中年の女性だった。
事情を話すと、彼女は村の集会所へ案内してくれた。
集会所では、小さな子どもが横になっていた。顔色は悪く、目の焦点が合っていない。
「……これが、“眠る風”の症状か」
ティア・リリルが眉をひそめる。
『空気がね……ぬるくて、流れてない。風がよどんでるの』
リューンは、荷の中からケルファ草と〈ミルネの葉〉を取り出し、臼で軽く砕いて煎じた。
匂いの立った茶を、慎重に一口ずつ飲ませる。
すると、ほんのわずかだが――その子の顔が、安らいだように見えた。
「……効いたのか?」
『ううん、“癒した”んじゃない。これは“守った”んだよ。
風を流す手助けをしただけ。根っこは、もっと深い』
そのとき、外から馬の駆ける音が響いた。
「王都から使者だーッ!」
村の入り口に騎士風の男が現れ、手紙を掲げた。
それを受け取った村長が叫ぶ。
「“西の谷で昏睡症状が拡大中”!? これって……!」
事態は、すでに一村の問題ではなくなっていた。
リューンは空を仰いだ。
流れる風は、どこか違っていた。重く、鈍く、警告のように――。
「……この風は、きっと、もっと広く繋がってる」
精霊に近い存在である自分だからこそ、微かな“兆し”を感じ取れた。
それが、今まさに動き始めている。