第3話「風のささやき、精霊の微笑み」
朝の空気は清らかで、どこか甘い香りが混じっていた。
リューンは薬師アニスの小屋の裏庭で、木製のすり鉢を前に座っていた。
「これが《ユルバの根》よ。乾燥させたら、細かく粉にしておいて」
アニスが差し出したのは、細長くねじれた茶色の根。
リューンは手に取り、断面を観察する。繊維の走り方と香りから、どの程度まで粉砕するのが適切かを判断する。
「繊維の中心が白くなってるから……これは熱を通さずに干したんですね。香気を残す処理ですね」
「……へえ、わかるのね。それ、十年やってる子でも気づかないのよ?」
アニスが目を見開く。
リューンは照れ笑いを浮かべた。
「なんとなく、です。体が覚えてる感じで……」
(この“なんとなく”が多すぎるんだよな、最近)
転生前の知識に加え、この世界に来た時から自然と身についていた知識と感覚。
自分が“エルフ”として受け取ったギフト──自然との調和──の影響もあるのだろう。
作業を終えた昼下がり、アニスの小屋に一人の少女がやってきた。
籠を下げ、軽やかな足取りで。
「お昼、持ってきたよ。アニスさんの分も」
「エルナ、ありがとう。さすが気がきくわね」
そう言ってアニスが中に引っ込むと、リューンとエルナだけが庭に残った。
日差しがあたたかく、風が髪を撫でていく。
「最近、村に来た人が風見の丘に通ってるって聞いたけど……リューンのこと?」
「うん。なんだか、あそこ……落ち着くんだ」
エルナが笑う。
「あの丘、昔は“風の精霊が住んでた”って言われてたんだよ。おばあちゃんがよく言ってた」
「……そうなんだ」
リューンは思い出す。
初めてこの村に来た夜。
あの丘で見た、小さな光の粒。
風に乗って舞うような姿──ティア・リリル。
(あれが……風の精霊)
名前も、気配も、なぜか最初から知っていた。
その理由はまだ分からない。でも、もう一度会いたいと思っていた。
夕暮れ。
リューンはひとり、風見の丘に立っていた。
緩やかな草原が広がり、風がさわさわと葉を揺らしている。
どこか懐かしいような、胸の奥が温かくなるような気配。
──ふわり。
風が吹いた。
白い花のつぼみが揺れ、光の粒が空へ舞い上がる。
そして。
『……来た、んだ』
目の前に、ふわりと浮かぶ光の粒。
それが集まり、少女の姿を形づくる。
淡く透き通る長い髪。
風のように揺れる衣。
そして、大きな翠の瞳。
──ティア・リリル。
(やっぱり……この名前、知ってる)
声は聞こえなかった。
けれど、不思議と彼女の感情が風に乗って、心に響いてくる。
『きみ……また来てくれたのね』
言葉ではない。
けれど、たしかに通じる“想い”。
「うん。……また会える気がしてた」
ティアがふわりと笑ったように見えた。
リューンの足元を柔らかな風が包む。
『わたし……風の中で、ずっと見てたの。あなたは、変わった風を持ってる』
「……変わった?」
『優しくて、澄んでて……それに、懐かしいの』
リューンは目を細める。
その感覚は、彼自身も同じだった。
初めて出会ったときから、なぜか心が安らぐ存在だった。
風がふわりと吹き、ティア・リリルの姿が揺らぐ。
まるで、次の風に溶け込んでいくかのように──。
「……また、会いに来てもいい?」
風の中に、微かなぬくもり。
『……もちろん』
次の瞬間、光の粒がぱらぱらと舞い、少女の姿は消えた。
風だけが、草原を渡っていく。
リューンはその風に目を閉じて身を委ねた。
「……なんでだろう。会えば会うほど、懐かしくなる気がする」
胸の奥が、ほんの少し温かくなった気がした。
薬草図鑑《ユルバの根(Yurba Root)》
分類:多年生薬草
学名:Yurba officinalis
主な生育地:エルファルド地方全域の乾燥地〜半湿潤地、農地周辺、野道の土手沿い
収穫期:夏の終わりから秋の初め(根が最も肥大する時期)
特徴:
- ユルバの根は、細長くねじれた形状が特徴の地下根で、外皮は茶褐色。
- 内部は淡い黄白色で、断面には年輪状の繊維層が走っている。
- 香りはややスパイシーで土の香に似ており、乾燥させることで香気が引き立つ。
- 古くから「自然の胃薬」とも呼ばれ、民間療法でもよく使用される。
薬効:
- 消化促進(胃もたれ・食欲不振への処方)
- 胃粘膜の保護
- 軽度の鎮痛・整腸作用
- 乾燥させて粉末状にしたものを、湯に溶かして飲むのが一般的な用法。
また、ハーブティーとしても日常的に親しまれている。
注意点:
- 乾燥の際に熱を加えると薬効成分が揮発するため陰干しが基本。
- 湿気に弱く、保存は密閉容器に乾燥剤と共に。
アニス師のひとことメモ
「ユルバの根の香りが好きって子、多いのよね。胃薬としても優秀だけど、心を落ち着けたい時に、あたたかいお茶にして飲むのもおすすめよ。もちろん、乾かし方にはコツがあるけどね」