死んだ赤頭巾に弔いを
「ルージュ、ルージュ」
自分の母親に名前を呼ばれて、ボサボサの長い髪の毛を櫛でとかしていた娘は「何」と短く返事を返した。
「あのね、なんだかお祖母ちゃん、脚の調子と腰の調子がよくないみたいで。狩人のシーザーさんが町内会で言ってたんだけどね。だから孫のあなたの顔を見たら元気になると思うのよ。ちょっとぴりだけね。そいでさっき焼いたこのカステラとぶどう酒でも渡してくれたら、お見舞いになるかなと思うのよね」
「はあ……。ああ、うん……」
「どうしたの? お願いよ」
「んー……。今日は忙しいっつーか、ちょっと……」
嫌そうな声をルージュは出す。
「お祖母ちゃんの家には苺のクッキーがあるわよ! ジャムたっぷりのあまぁい美味しいクッキーよ」
「子供じゃないし。お菓子で釣られねぇっての」
「ルージュ……」
困ったような顔で、目をうるうるされる。ルージュはまいったなと思った。たぶん父さんは母さんにこうやって目をうるうるされて、詰め寄られて「お願いよ」と哀れっぽく言われたから、こんなひなびた辺鄙な村に……祖母ちゃんの家がある森の近くに住んだんだろうなと思った。
自分も父さんの血を引いているからか、母さんに目をうるうるされると罪悪感でつい言うことを聞いてしまう。
「分かったよ、行くよ」
そう言って、母親からバスケットを受け取ると、彼女は部屋に戻って、外套を羽織った。頭巾つきの外套だ。
(これ、祖母ちゃんが縫ったって、よくよく考えたら凄いよな)
ルージュは、自分の去年の誕生日に祖母がくれたこの鮮烈な赤色のマントに包まれながら、思いを巡らせた。
縫い物を仕事にしていたという祖母は、今でもときどき縫い物をする。カップコースターとか簡単なものが最近は多いけどねと言う祖母は、「目がかすんでしょうがないよ。あー」と言いながら目をパチパチさせたり、「近くの物のほうが見ずらいのよねぇ。遠くはまぁまぁクッリアーなんだけどねぇ」とか「政治家さんのカネ問題、どうにかならないもんかねぇ。こんなんじゃ、この国のゆくすえが心配で、ぽっくり逝くにも逝けないわね、まったく……」と言ったりしていた。
うん。祖母ちゃんのことは嫌いじゃない。少なくとも父さんと母さんほど苦手じゃないな、とルージュは思った。
◆ ◆ ◆ ◆
考え事をして、森の中をさまよっていた。といっても道は覚えている。
自分のバサバサの茶髪を指で解きほぐしながら、片手はぎゅっとバスケットを握る。
そうだ、お花。つんでいこう。そうしたら、ちょっとした花束っぽくなって、お見舞い感が出るんじゃない、とルージュは思った。
そしてそれが、彼女の運の尽きだった。
◆ ◆ ◆ ◆
森の中をさまよっていたのは彼女だけではなかった。
”それ”は、森の中の匂いをかぎながら、ウロウロと歩き回っていた。
森の中は温かいが、まるで獣の口の中のように湿っていた。そして吹きすさぶ風はどこまでも冷たく、激しい。まるで、この森は彼のような森だった。
彼は同族嫌悪からか、この森を嫌っていたが、町に出て憲兵に殺されるのはまっぴらごめんだと思っていたため、大昔に町から逃げてきてからはこの森を主なすみかにしていた。
彼の嗅覚は通常の何倍も優れていた。雨が降る前には雨の匂いを嗅ぎ分け、どのくらいのスコールになるか予知することができたし、どの方角に生き物が居るか、その肉がどのくらい旨いのかを予想することができた。
まるで、呪術師か占い師のように。そう、異国の地から訪れた、鋭くスパイシーな香りの練り香水を身に着けた、ハリネズミのシチューを食らう魔術師のように、ほとんど正確に。
――娘だ。何てことだ。
”男”はとても苦しんだ。それは自分のしてしまった数々の罪状、過去に犯した犯罪の数々、そして、その報いが呼び起こす苦しみについてだった。
男は幼い少年少女を6名、中年の男を3名、老夫婦を8組、町や村や森で食らったという前科があった。牙の餌食にして、身体の中身のすべてをむしゃぶるように喰らい尽くした。皮膚に牙を立てると、まるで大昔に母が作ってくれたカレー粉味のグリルチキンみたいな香ばしい味がした。
男は肉に飢えていた。人の肉にも獣の肉にも飢えていたが、彼からすると人の旨そうな香りやご馳走のような見た目は、押さえられないほど食欲を激しくそそった。
それはいつも夕方か夜に起こった。
――魔女の呪いを受けた者どもの話は古今東西どこにでもあるが、男もまた、魔女に狼の呪いをかけられた者だった。
「満月の晩にだけ、お前が狼になるようにしても良かったけどねぇ、それじゃあ甘すぎる」
「止めろ! 止めてくれ! 悪かった、お前の孫の事は謝る! だから……!」
「そうだね、お前は、満月の晩にだけ人間に戻れるようにしてやろうねぇ……」
そう言った老婆の顔はもう覚えていない。彼女の赤銅色の髪の毛には白髪が混じり、日が当たると金色や銀色にきらきらと輝いた。
”男”は彼女の名前や出会った場所などを正確に記憶しておくにはあまりにも年老いていたし、たとえ覚えていたって、あの女の顔だけは思い出したくなかった……。
――狼はうめき始めた。低くておぞましい唸り声。
本格的に彼が変身してしまえば、理性などなくなり、飢えた殺戮兵器になってしまうだろう。しかし最も辛い事の一つは完全には理性を手放せない事だった。
その時、視界の端に見えたのは真っ赤なローブだった。
(――娘ダ! 肉ダ!)
◆ ◆ ◆ ◆
お花を摘むのはこの位で良いかとルージュは思った。
その時、背後から声がした。
「お嬢サン、何ヲしてるんダい」
木の陰か、背の高いぼうぼうに雑草が生えた草むらの中か。分からないが、声がした。
「あ、なんだテメー。誰だ」
思わずルージュは噛みつくように言った。
ルージュは護身用のカッターを持ってきていない事を、後悔した。
「俺はこの辺りニ住んでいる者ダ。ここから見えるあの煙が出ている所にハ老婦人が住んでいルな」
「だからなんだよ。つーかアタシの祖母ちゃんだけど」
「名前は」
「お祖母ちゃん? ロゼリアだよ」
「違う。オまエダ」
「ルージュっつーけど、皆は赤頭巾とか、レッドって呼ぶ」
「……レッド」
「……なんだよ……」
「お前の名前を俺ハ忘れないダろう」
「は? きっしょ……」
(これで……この小娘を食い殺した後に、名前を墓石に刻むことができル……)
それは男の償いだった。しかし、そんな男の考えを「馬鹿だねぇ、あんた。そんな行為には何の意味もないのにさ。死んだら灰になって土に還ってお終いなのにさ。ばかだねぇ、ばかだねぇ、血まみれのケダモノ……」と魔女があざ笑う声が、風に乗って男の耳にだけ聞こえた。
◆ ◆ ◆ ◆
「あら、ルージュや。来てくれたのねぇ」
家の庭の土を踏む足音に気がついた、ロゼリア老婦人が言った。
ロゼリア老婦人の声は若い時の甘さが残り、けれど歳を重ねてクシャクシャになったガラガラ声がいい具合に混ざって、カラメルのような耳に気持ちのいい声をしている。その声を堪能しながら、『来訪者』は扉の前で立っていた。
「今日は二人目のお客さまね。シーザーさんも来てるのよ」
「…………」
「どうしたの、おはいりよ」
「ルージュ? どうしたんだい、ルージュじゃないのかい」
ガンッ! と勢いよく扉が開いた。老婦人と狩人のシーザーが目にしたのは、口を赤色に染めた二本足で立つ背の曲がった狼の姿だった。
ロゼリア老婦人の悲鳴が、家中にこだました。猟師のシーザーは、呆然としたが、すぐに思い直し、驚くべき反射神経で、誰も座っていない椅子の上に休ませていた拳銃を取りだして、ズガァン! と狼に照準をさだめて、撃ち放った。
◆ ◆ ◆ ◆
拳銃の引き金を何度も引きながら、狩人のシーザーはふくらはぎが恐怖で震えるのを感じた。未だかつてなく、まるで人間のような……いや、地獄の底に住むという悪魔どものような、おぞましい憎悪と殺意と飢えに満ちた狼の金色の瞳を見ながら、何発も、何発も拳銃で狼を撃った。
狼は撃ち殺されかけているというのに、苦悶の表情を浮かべながらも、悪意の滲んだ顔で「ルージュは腹の中だ。お前の孫娘は、俺の腹の中だ! さあ、殺せ! 俺を殺してくれ! はやく!」と、ビリビリと空気が振動するような大声で叫んだ。
死んだ時には、狼は人の姿に戻り、どこにでも居そうな人の良さそうな顔をした老人の姿をしていたという。
◆ ◆ ◆ ◆
村人達は、ルージュの死を悼んで、三日三晩の葬式を開いた。
そして、森と村の間にある墓地に新しく作られたルージュ・フレイヤの墓石には、あの真っ赤なローブによく似た、美しい真紅のローブが着せられ、真っ赤なバラや、苺のクッキーが供えられた。彼女の友人達は、わざわざ町から村を訪れて、泣きながらルージュの死を悲しんだ。
町の人々からすれば、悪い狼を猟師が倒した英雄譚である。安い手書きの新聞にもたくさん狼についての記事が書かれた。そして、時とともに事件は風化していった。
しかし、赤頭巾の家族や友人からすれば、失われた物はあまりにも大きかった。
ときおり、マントは、来訪者を喜ぶように、風もないのに揺れただとか、森で赤い服を着た十代の娘を見かけただとかいう、噂が絶えなかった。
そして赤頭巾はいつしか、森に出る幽霊の名前になっていた。
けれど、赤頭巾の家系の者と、シーザーの家系の者だけは、ずっと、彼女の話を語り継いでいた。
そして人々は誓った。死んだ者たちのために、この世から呪いやまじないを無くそうと。そしてそれは次第に熱狂的なカルト新興宗教団体にまで成長し、王の権威をも脅かすようになるのだが、けれどそれは、また別のお話。
(完)