ある日、夫が壊れた
ある日、私の夫が壊れた。
朝の静かな住宅街に、いつもの平穏な日常が流れていた。
キッチンからはコーヒーの香ばしい香りが漂い、
私はその香りを吸い込みながら、
目の前に広がる穏やかな景色に微笑んでいた。
窓の外には青空が広がり、
わずかな風が庭の木々を揺らしている。
こんな日々が永遠に続くものだと、
疑う余地もなかった。
「今日の天気、良さそうだな。」
信吾が新聞のページをパタリと折り返しながら、
楽しげに言った。
その声に、私の心は自然と温かくなった。
彼がいつもの場所に座り、
落ち着いた調子で新聞を読む姿は、
私にとって何よりも安心できる光景だった。
彼の横顔に刻まれた皺も、
歳を重ねてきた証として愛おしかった。
「週末はどこに出かけようか?」
信吾の言葉に、
私はキッチンから顔を出して微笑んだ。
「うーん…カフェ巡りもいいけど、
山に行ってみるのもいいかもね。」
私は冗談っぽく返したが、その言葉に彼は
少し目を細め、にやりと笑った。
「じゃあ、山のカフェを探すか。」
彼の軽口に、私たちは自然と笑顔になった。
私たちの平和で穏やかな生活。
それは、結婚して15年、変わることのない
心地よいリズムだった。
彼が仕事に向かう前に、
軽く私の頬にキスをして出かける
それがいつもの日常だった。
「帰ったら、一緒にご飯を食べよう。」
信吾の言葉に、私はうなずきながら
「気をつけてね」と見送った。
いつもと変わらない穏やかな朝。
そんな日々が、これからもずっと続くと信じていた。
夕方、仕事から帰る途中、
信吾の職場から電話が鳴った。
電話越しの声は、信吾の同僚だったが、
その声には不安が滲んでいた。
「佐藤さん、今日、信吾さんがちょっと
おかしかったんです…」
彼は職場で突然怒鳴り、
同僚に向かって暴言を吐いたという。
それは、信吾らしくない行動だった。
彼は常に穏やかで、感情を荒らげることなど
ほとんどなかったのだ。
「ええ、そんな…信吾が?」
私は耳を疑った。
彼がそんなことをするはずがない。
反射的に否定したい気持ちが湧き上がる。
しかし、電話を切った後も
不安が胸に重くのしかかった。
帰宅後、私は信吾にその話を持ちかけたが、
彼はどこか無関心で、
「そんなことあったかな」
と曖昧に笑うだけだった。
しかし、それは始まりに過ぎなかった。
その夜、彼は突然何かに取り憑かれたように
意味のわからない言葉を叫び始めた。
暗い部屋の中で、彼の荒れた呼吸音が響く。
私は彼の隣で、どうしていいかわからず、
ただ呆然と彼を見つめていた。
「どうしたの、信吾?」
声をかけると、彼は突然振り返り、
冷たい目で私を睨みつけた。
その目に宿る狂気に、私は一瞬身を引いた。
「なんでお前はわかってくれないんだ!」
彼の叫びに、私は息を呑んだ。
彼の言葉の意味がわからない。
ただ、彼が私を攻撃するその鋭い視線に、
胸が痛んだ。
これがストレスから来るものだと信じたい。
けれど、心の奥底では、
何か大きな異変が起こっていると感じていた。
数日後、私は信吾を病院に連れて行くことにした。
彼の行動は日に日におかしくなり、
日常会話さえまともに成立しないことが増えていた。
医師の診察室で、私は信吾の隣に座りながら、
冷や汗をかいていた。
私の中では不安が膨れ上がり、
逃げ出したい気持ちすらあった。
「ご主人は、前頭側頭型認知症の初期段階です。」
医師の冷静な声が、私の胸を貫いた。
頭が真っ白になった。
慎吾は、無表情で窓の外を見つめていた。
その横顔が、遠い存在に感じられた。
信吾が病気だなんて…
信じられなかった。
私は涙が込み上げるのを必死に堪えていた。
医師は続けた
「この病気は通常のアルツハイマーと違い、
人格や行動が変わってしまうことが多いです。
進行を遅らせることは可能ですが、
治療法はありません。」
私はかすかにうなずくしかなかった。
信吾がぼんやりと外を見ている姿が、
私にはもう手の届かない場所にいるように思えた。
何もかもが、急速に私たちの手からこぼれ落ちていく、
そんな気がして、恐ろしかった。
その日から、信吾との生活は一変した。
病院での診断を受けた後も、
私はどこかで信吾が元に戻るのではないかと期待していた。
でも、信吾の症状は少しずつ、しかし確実に進んでいった。
「牛乳がないんだけど、買い忘れた?」
夕食の準備をしている時、彼が冷蔵庫を覗き込み、私にそう聞いた。
牛乳は目の前にあった。
それを見逃すことなんて、以前の彼なら考えられなかった。
私は最初、その程度の変化なら大丈夫だと、
人は誰でも年を取ると物忘れが多くなるし、
仕事の疲れも重なっているのだろうと、
自分に言い聞かせた。
だが、次第にそれは「物忘れ」の範疇を超えていった。
ある日、信吾が、
「これ…なんだっけ?」
まるで見知らぬものを見るように
ロールキャベツを指さしたとき、
私は心が締め付けられるような痛みを感じた。
それは、彼の大好物だった。
さらに日が経つと、信吾の行動は
もっと異常なものへと変わっていった。
ある日、私はふと
彼が家の中をうろついているのを見かけた。
「何を探しているの?」
私は問いかけた。
すると、信吾は戸惑った顔で私を見て、
静かにこう言った。
「家に帰りたいんだ。」
その言葉に、私は全身が凍りついた。
長年一緒に過ごしたこの家を、
信吾はもう「自分の家」として
認識できなくなっていた。
私はそれでも彼を安心させたくて、
「ここがあなたの家よ」と優しく語りかけたが、
ただ、彷徨い続ける彼の姿に、
私はどうしようもない無力感を覚えていた。
次第に、信吾は私を見ても、何も言わなくなった。
朝、私が「おはよう」と声をかけても、
彼はただ無表情で私を見つめるだけで、
私のことが誰なのか、もうわからなくなっている
そう思わざるを得なかった。
それでも、私は信吾を愛していた。
どんなに彼の記憶が失われても、
私の心の中には、かつての彼との日々が
しっかりと刻まれていた。
彼の記憶は次第に失われ、
ついに私の名前を呼ぶことさえなくなっていった。
ある日、彼が昔のアルバムを手に取り、
「これ…誰だっけ?」
彼がぼんやりとした目で
結婚式の写真を指さして尋ねたとき、
私は胸が締め付けられた。
私たちの結婚式の、幸せそうな二人の姿を、
彼はもう覚えていないのだ。
「私だよ、信吾。あなたの美奈子。」
私は微笑みながら答えた。
涙が目に滲んでいたが、
決して泣いてはいけないと思った。
彼の混乱した表情を見ていると、
私まで崩れてしまいそうだったから。
「そうか…美奈子…」
彼はつぶやき、少しだけ微笑んだ。
その微笑みを見た時、私たちの過去が
一瞬だけ蘇ったような、そんな気がした。
けれど、その瞬間は儚く、消えてしまった。
彼の目は再び曇り、無言でアルバムを閉じた。
その夜、私はアルバムをめくりながら、
一人で泣いた。
かつての信吾はもう戻ってこないという現実が、
私を覆い尽くしていた。
ある冬の夜、
信吾が突然家を飛び出した。
私は胸が張り裂けるような恐怖を感じた。
どこに行ってしまったのか、
何を考えているのか、
私にはもうわからなかった。
ただ、彼を探さなければという思いだけで、
私は街中を駆け回った。
暗い公園のベンチに、信吾の姿を見つけたとき、
胸の中で込み上げる安堵と絶望が入り混じった。
「信吾!」
私は声を振り絞って叫んだ。
しかし、彼は私を見て、
まるで私を知らない他人を見るような目つきで
後ずさり、こう言った
「誰…?」
私の存在は、もう彼の中にはない。
涙が止めどなく頬を伝った。
信吾はもう私を思い出せない。
私は彼に静かに近づき、
震える手で彼の頬に触れた。
「ごめんね、今までありがとう。」
自分自身が壊れていくのを感じた。
それからしばらくして家族の勧めもあり
信吾は施設に入ることになった。
私は日常の介護からは解放されたが、
心には深い傷が残っていた。
私は彼に定期的に会いに行った。
彼の中に私の存在がなくても、
私の中には彼との記憶が
生き続けている。
施設の庭で、私はいつものように彼の隣に座り、
彼の手を握った。
彼は私のことを見つめることもないし、
私の名前を呼ぶこともない。
それでも、私は彼に微笑みかけた。
「一緒に過ごした時間は、
私の中でいつまでも残っているよ。」
彼の手は温かく、その温もりだけが、
私たちの愛の証として残っているようだった。
時間の経過が私の傷を徐々に癒やし
私は信吾がもう私を思い出せないことを
受け入れることにした。
風がそっと吹き抜ける
春の日の午後、
私はまた信吾のもとを訪れた。
庭のベンチに座る彼の横に腰を下ろし、
静かに語りかけた。
「こんにちは、はじめまして。」
彼は一瞬私を見て、微かに微笑んだ。
「こんにちは。」
彼の中にはもう、
過去の思い出はないけれど、
新しく思い出を作っていくことはできる。
彼が亡くなるその日まで、
私はもう一度、
彼との恋を始めた。
何度忘れられても、
好きでいてほしかった。
1年後、
彼は誤嚥性肺炎で亡くなった。
最後の言葉は、私の名前だったそうだ。
春の風が吹き抜け、
私の頬を優しく吹き抜けた。