なぜ愛し尽くさねばならないのでしょう? 愛されたこともないというのに
長めの短編です。
ブリザードカップルと呼ばれる私達夫婦。
今日の夜会でも、アルカイックスマイルを浮かべながら見つめ合う。
しかし、会話をするわけでもなくただダンスを踊っている私達。
それを周りの人々がひそひそ話をしながら眺めている。
銀色に輝く少し長めの髪を後ろに流し、冷たいアイスブルーの瞳を持つ美丈夫は私の夫で、名前はウィリス=ドータルダッド。
通称氷の公爵令息。
そしてストレートの長い黒髪に黒い瞳を持つ、平凡顔の妻である私の名前はアイシス。
通称カラス夫人。まったくひねりがない。見た目のままでつまらないわ。
それにしても今日もまた同じような噂話をしているわね。
あの二人はいつ離縁するのだろうと。賭けをしている輩までいると聞いているわ。圧倒的にする派が多いだろうに、それで賭けが成立するのかしら?
もうそろそろ結論を出してもいいような気もするが、夫は一番効果的な時期を狙っているらしく、まだ実行しようとはしない。
必要書類は全て準備万端だというのに行動を起こせないこの状態に、正直私はうんざりしている。
それなのにこうも悠然と構えていられるなんて、やっぱりこの人ってすごく肝が据わっているわね。
一体いつ私達の実情を暴露するつもりなのかしら?
近ごろの私は、一見平静に見えるかもしれないけれど、正直内心ずっとイライラしている。
だってやはり煩わしいのだもの、社交界のこの烏合の衆が。そして両家の親達とはさっさと縁を切りたいわ。
一曲目のダンスが終わると、目一杯着飾ったご令嬢方が次のお相手に誘ってもらおうと夫の周りを囲んだ。
邪魔だから早くどけ、その場を譲れという視線をこちらに寄越す。もちろんそのお望みを叶えてやりたいところだが、そうもいかない。
私は夫と結婚をする際に契約を結んでいる。だから、別れるまでは女除けをしなくてはいけない。
彼は煩わしいことが大嫌いなのだ。特にビジネスに結びつかない女性のお相手などを望んではいないのだ。
そもそも数年前ならそれほど苦労しなくても手に入っただろうに、競争率が上がってから狙おうとするなんて愚かだわ。
ドータルダッド公爵家は名門中の名門だが、現当主になってから急激に傾いて斜陽貴族となった。
見目だけは王子様だったが脳内お花畑で、まともな領地経営ができなかったせいだ。
だからその当主の一人息子がどんなに優秀で見目麗しくても、彼と婚約しようとする者はいなかった。
それなのに、最近になって少し上向きになってきたからといってすり寄ってくる、そんな見る目のないご令嬢方を彼が相手にするわけがないのだ。
結局夫はご令嬢達を一瞥した後、再び私の手を取った。
そして二曲続けて二人でダンスを踊って、我々はまだ離縁はしませんよとアピールしてから、飲み物を取るために一緒にテーブルに向かった。
するとそこでは私達の両方の父親が、顔を突き合わせて何やら睨み合っていた。
隣国と隣り合わせている遠方の土地の領主である両親が、この王都にやって来るのは珍しい。
なにせ都会の華やかさを求めたいのなら、隣国へ行った方が遥かに近いからだ。
なぜわざわざ王城までやって来たのかしら。
「釣書に記されていた内容は全くのデタラメでしたね。一体彼女のどこが大人しくて従順なご令嬢なのですかね?」
「しかも、親に滅多に会おうともせず、こちらから会いに行ってもろくに挨拶もしない礼儀知らずなんですよ。
ご家庭ではどういう教育をされてきたのですか?
いくら首席で王立学園を卒業したとしても、あれはないでしょう」
「申し訳ありません。ですが娘は本当に従順で大人しい娘だったのです。親に逆らったこともありませんでした。
ですから結婚して性格が変わったとしか思えません。
なぜ変わったのか話を訊きたくても、娘は一度も帰省しませんし、我々を公爵家へ招待もしてくれないんですよ。
親類となったのに、そちらだってずいぶんな態度ではないですか?」
ドータルダッド公爵夫妻の嫌味に、父のナユタナ伯爵が嫌味で返している。
こんなところで自ら不仲だと証明する行為をなぜするのか? 機密性の高い場所で話し合えばいいのに。
これで憶測は限りなく真実に近いのだと皆さん思うわね。本人同士だけでなく両家の折り合いも悪い。私達の離縁は近いだろうと。
まあ、今さらだからどんな噂を立てられようと別に私達二人は構わないのだけれど、両家は困るのではないかしら?
そもそもこれは両家にとって利益があると思ったからこそ結ばれた政略結婚で、当主同士が当人達の意思を完全に無視して決めたものなのだから。
それにしても無理やり子ども同士を結婚させたって、仲の悪い夫婦のもとで両家の共同事業が上手く行くわけがないじゃないの。
しかも、その交渉を当主本人がしているのならともかく、両家ともほとんどの仕事を既に後継者に丸投げしているこの状態では尚更に。
情けない言い争いをしている親達をなんとなく眺めていたら、ウィリス様の側に一人の見目麗しいご婦人が近付いてきて、彼の耳元で何かを囁いた。
すると彼はパッと、まるで花が咲くように微笑んだ。その美しい顔に私だけではなく、近くにいたご令嬢方からもため息が漏れた。そして、
「ほら、ご覧になった? なんてお綺麗なんでしょう。お似合いよね、あのお二人。
それに比べてカラス夫人ではねぇ、ちょっとそぐわないというか不釣り合いよね」
私を小馬鹿にするような目を向けて、わざと聞こえるようにヒソヒソ話を始めた。
ああ、なんて面倒なの。
不釣り合い? わかっているわよ、そんなことは昔から。でも、あなた達には関係のないことなのだから放っておいてよ。
やがて用が済んだご令嬢が離れて行くと、また通常モードのクールな表情に戻った夫にこう訊ねられた。
「例の件が決まった。これから関係者達に挨拶回りをするつもりだが、君も同行するかい?」
「お仕事関係の大切な場に離縁寸前と噂されている私が一緒にいてもいいのかしら?」
「もちろん。みんな君の情報を欲しがっているし、君と話すのを楽しみにしているからね」
そう言われて私が夫と共に歩き出すと、そこへ兄のグヒスと妹のメテスが足早に近付いてきた。
王立学園に入学した妹が王都にいるのは当たり前だが、兄まで両親と共に王都に来ていたことには少し驚いた。二人とは結婚式以来だから会うのは二年ぶりだ。
兄は妹の私の顔を見ようともせず、義弟に当たる夫に向かってこう言った。
「ウィリス卿、少しだけ時間をもらえませんか? 例の契約のことでお話があるのです」
「申し訳ないが、何度も手紙でその話は断ったはずですが」
「そんな! ドータルダッド公爵と我がナユタナ伯爵は姻戚関係なんですよ。
そもそも我が領の港の改修工事に協力してくださるなら、入港料を半永久的に無料にするという約束で、貴方と妹の結婚が決まったのでしょう?」
「ええ。婚約が成立したときは、我が家もその契約を結ぶつもりでいましたよ。でもその後状況は変わりました。
貴方もご存じでしょう? 我が家の経済状態を」
「それなら、なぜ婚約を継続させ、その挙げ句結婚したのですか!」
「それは、そちらから解消すると言い出されなかったので」
夫がしれっとこう言い放ったので、兄は真っ赤になって文句を言った。
「それって詐欺じゃないか! 最初から守れないとわかっていて契約するなんて」
「だから契約しないと言っているのですよ」
「そうじゃなくてアイシスとの結婚の話ですよ。これじゃ貴方と政略結婚させた意味がないじゃないですか!
アイシスもアイシスだ。なぜ契約が結ばれるように尽力しないんだ!
お前を何のためにドータルダッド公爵令息と結婚させたと思っているんだ。この役立たずが!」
「私の力不足のせいで申し訳ありません」
私は深々と頭を下げた。
「お前はこの二年間一体何をやっていたんだ!」
兄と妹が私を睨み付けた。
「何をと言われましても、ドータルダッド公爵家の嫁として努めてまいりました。それが十分だったかどうかはわかりませんが」
「十分だったわけがないだろう。だからお前はウィリス卿に離縁されそうなのだろう。この役立たずが!」
「だから私が言ったじゃないの。ウィリス様のように素晴らしい方の妻になるのはお姉様では荷が重過ぎると。
やはり私の方が婚約者になるべきでしたわ」
よく言うわね。私なら冷酷公子様の婚約者になるなんて絶対に嫌だったわと、散々言っていたくせに。
昔と同じように兄妹達にこう貶されたので、ついでと言ってはなんだが、長く疑問に思っていたことを訊ねてみた。
「私が役立たずの駄目人間であることを、お二人とも最初からわかっていましたよね? 特にお兄様は子供のころからずっと私にそうおっしゃっていたのですから。
それなのになぜそんな私がドータルダッド公爵家に嫁いで、まともにやっていけると思われたのですか?
ましてドータルダッド公爵家と我がナユタナ伯爵家の橋渡しができるなどと」
「娘が実家のために尽くすのは当たり前のことだ。だからいくら駄目なお前でも我がナユタナ伯爵家のために死ぬ気で頑張ると思ったのだ。
ところが結婚後はすぐに社交場にも出してもらえなくなり、ようやく現れたと思ったらすぐに不仲説を流されるなんて、まったくもって情けないやつだ」
「申し訳ありません」
私は感情を消して無表情なままそう謝罪した。物心ついたころからの習慣になっていたので、自然にその言葉が口からポロリとこぼれ落ちた。
すると、氷の公爵令息が珍しく眉間にシワを寄せ、目を吊り上げてこう言った。
「なぜ妻を責めるのですか?
我が家が契約を結ばなかったのは、ナユタナ伯爵家に協力金を出せるだけの余裕がなかっただけですよ。父の経営失敗のせいでね。
そんなことは調べればすぐにわかったことですよね。
そもそも、婚約者であった私がアイシスに会いに行くどころか、一度も手紙や贈り物をしなかったことにおかしい、とは思わなかったのですか?
私は学園に入学する以前は、かなり非常識な人間だったんですよ。
父親からまともな家庭教育をされていませんでしたから。
それなのに、そんな男の元へよく大切なご令嬢を嫁がせようと思いましたね?」
ここは王家主催の夜会で、王家の皆様や国の重鎮達がズラーッと揃っている。そんな中でこんな大声で両家の恥部を曝していいのですか、お三方……
いや、夫の方はいいのかもしれない。もしかしたら彼も私と同様にもう我慢できなくなっていたのかもしれない。
まあ、偶然兄に声をかけられなければこんな展開にはならなかったとは思うけれど。やっぱりできる男は臨機応変に対応できるのですね。
兄は、凄味のある夫の低音ボイスに怯えたのか、少し声を震わせながらもこう言った。
「ドータルダッド公爵がたとえ斜陽だとしても、名門公爵家に嫁げれば妹は公爵夫人として幸せになれると思っていました。
それにいざとなれば、当主夫人のご実家であるシグナ侯爵家が後ろ盾になって援助してくれるから、心配はないだろうと思っていたのです」
たしかにシグナ侯爵家はドータルダッド公爵夫人の実家であり、かなり裕福ではある。しかし……
「そうでしたか。
しかし、シグナ侯爵家はずいぶん前に私の母との縁を切っているので、我が家を助けてくれるとは到底思えませんけれどね。
シグナ侯爵家はナユタナ伯爵家と同じで、政略結婚させた娘が役に立たない存在になると、さっさと見切りを付けて捨てたんですよ。
理不尽ですよね。本人の意思を無視して嫁がせておきながら、自分達の思う通りにならなくなったら、子供がそのせいでどんなに辛い状態になっていようが、助けずに縁を切ったのですからね」
ホールの中が一瞬シンとなった後、次第にざわめきが広がって行った。
さっきまで嫌味の応酬をしていたドータルダッド公爵夫妻とナユタナ伯爵家、そして少し離れたところにいたシグナ侯爵家の面々が真っ青になっている。
そして政略結婚させた、させられたと思われる他家の人々も、複雑そうななんとも言えない表情を浮かべていた。
恋愛結婚が増えてきたとはいえ、まだまだその数は少ないのが現状だ。もちろんたとえ始めは政略結婚でも、その後幸せに暮らしている人々もそれなりにいるとは思うけれど。
兄は少しの間、口をパクパクさせていたが、やがて何か思いついたのか、ウィリス様を思い切り睨み付けるとこう言った。
「何を偉そうに。自分だって役に立たない妻を離縁して捨てようとしているくせに。
しかしもしそうなっても、こんな役立たずの妹を我が家は引き取りませんよ。
そのせいでもし妹が平民に落ちて、惨めな思いをするようになったとしても、それは我が家ではなくて、貴方が原因ですからね!」
すると「ほぉー!」という驚きというか、感心するような声がいくつか上がった。そしてそのすぐ後で、私はこんな言葉を投げかけられた。
「ウィリス卿はアイシス夫人と離縁されるのか。それは喜ばしい。では、私が新たな夫に立候補させてもらおう」
「いやいや、待ってくれ、私も立候補するぞ」
「私は妻帯者なのでそれは無理だが、我が商会の秘書になってはもらえないだろうか」
「それならうちも」
「いや、我が娘の家庭教師になってもらう。これはすでに決定事項だ」
するとそれらを聞いた夫は、私の腰を突然引き寄せてしっかりホールドすると、眉をつり上げてこう言った。
「ふざけるのもいい加減にしたまえ。私が愛する妻アイシスと離縁するわけがないだろう。わかっていてつまらない冗談を言うな」
「すまん、すまん」
「悪い」
「だが、私の娘の家庭教師の件は本当のことだぞ」
「わかっていますよ。ですがそれはまだ数年先の話でしょう」
夫と最後にやり取りをした人物に、今宵王城のホールに居た者達は唖然とした。なぜならそれは王太子殿下だったからだ。
そしてそれと同時に、私が生まれて間もない王女殿下の家庭教師に内定していた、という事実に驚きを隠せないようだった。
王太子殿下とその側近の皆様は、私達夫婦とは学園時代からの友人で、生徒会のメンバーだった。
第一王女を出産されたばかりでこの夜会を欠席されている、王太子妃殿下もその中のお一人だ。
「ウィリス、先程知らせた通り、隣国へ派遣していた外務大臣からの報告が届いた。ようやく協約が結ばれた。
君達夫婦とドータルダッド公爵夫人の尽力のおかげだ。
鉄道が敷かれれば我が国の鉱山資源を安全かつ短時間で大量に各国へ輸出できる。
そして新鮮な農産物も容易に手に入れることができるようになる。
船や馬車だけに頼るよりも国民の生活も安定し、より豊かになるだろう」
「御意。殿下からのお褒めの言葉を授かり、我々夫婦のみならず、隣国においてこの国のために働かせて頂いております母も、さぞかし喜ぶことだろうと存じます」
「いや、そなたの母君には隣国の国王陛下や王女殿下のみならず、我が王家も感謝している」
「勿体ないお言葉です。そもそも母が隣国で穏やかに静養生活が送れたのも、殿下と王太子妃殿下のお口添えがあったからこそです。
母が健康を取り戻し、現在隣国の第二王女殿下の家庭教師の任に就くことができましたのも、全て陛下や殿下をはじめとする王家の皆様の思し召しのおかげです」
「第二王女の妃教育も今ではほとんど修了しており、今ではもう何の憂いもなく、我が弟に嫁ぐ日を指折り数えて待っているそうだ。なあ?」
兄の王太子にこう振られた弟王子が、少し頬を染めながら頷いた。そしてこう口を開いた。
「ウィリス卿、アイシス夫人、本当にありがとう。
貴殿らの推薦で良い方を紹介してもらったと、王女にも感謝されている。
我が国に嫁ぐ際には今度はお側付き侍女として夫人にも帰国の途に就いてもらいたいのだが、構わないだろうか?」
「もちろんでございます」
夫はにっこりと微笑んで答えた。
隣国の第二王女は我が国の第二王子の婚約者で、半年後に結婚式を挙げることになっている。
しかし婚約した直後、王女は他国へ嫁ぐことに不安を覚えて体調を崩してしまった。
そのときそれを漏れ聞いた私は、夫にこう言ったのだ。
「隣国に住むお義母様が我が国の知識やマナーを教えて差し上げたら、王女殿下の不安も減るのではないですか?」
と。
義母は王太子妃の伝手で隣国で静養していたのだが、その当時はすでに健康を取り戻していたので、彼女曰く暇を持て余していたのだ。
夫は私の意見に賛同してくれて、両王国と母親との調整役を担ってくれたのだ。そしてそのマッチングは予想以上の成果を上げたのだった。
それにしても、もうすぐ大好きな義母と暮らせると思うと嬉しい。手紙のやり取りはずっとしてきたけれど、実際にお顔を見て色々な珍しいお話を聞くのが今から楽しみだわ。
✽✽✽
義母と初めて逢ったのは、王立学園に入学するために王都に出てきた翌日のことだった。
屋敷から一緒に付いて来た侍女と共に、寮生活に必要な物を買うために町中へ出かけたのだが、侍女は初めての王都に興奮して、私のことなど放置して勝手に散策しに行ってしまった。
そう。私は家族だけでなく使用人達からも見下されて蔑ろにされていたのだ。
仕方なく一人で右往左往しながらなんとか最低限必要な物を購入し、私は荷物を抱えて乗り合い馬車に乗り込んだ。
すると隣の席に座っていた、輝くような銀髪をした、未だかつて見たことのないほど美しいご婦人から声をかけられた。
「ねぇ、貴女。どこへ行くの?」
見知らぬ人の突然の質問に驚いたが、その女性の子供のように澄んだアイスブルーの瞳には邪気がなかったので、私は素直に王立学園へ行くと答えた。
するとその女性は本当に天使のような笑顔を浮かべて言った。
「まあ、私と同じだわ。じゃあ、貴女は私の息子のウィリーのお友達なのね、嬉しいわ」
お友達って誰のことですか? 私にはまだ王都にはお友達なんていませんよ!
なんて心の中で突っ込んだけれど、結局私は、お金を持っていなかったその見ず知らずのご婦人の乗車賃まで支払って、二人で学園前に降り立ったのだ。
そしてその後私は、そのご婦人に偶然出逢えたこと、そして学園に連れて行けたことを心の底から神に感謝した。
なぜならその天使(女神ではなく)はその後私の大切な母になったのだから。
もし、あの時彼女を放置していたら、彼女は野垂れ死にしていたか、あるいは再びドータルダッド公爵家の別宅の一部屋に軟禁され、息子にも逢えないままだったに違いない。
しかも、彼女が捨てたのだと息子に誤解されたまま。
✽✽✽
ドータルダッド公爵夫妻は典型的な政略結婚だった。
妻となったシグナ侯爵家のエンジェラ様は国一番の美貌を持つ才女と呼ばれていた才色兼備の花嫁だった。
年齢さえ合っていれば、当時の王太子の婚約者になっていたのではないか、と言われていたほど素晴らしいご令嬢だった。
皆はそんな素晴らしい花嫁を得た花婿のロバート卿を羨ましがった。
ところが彼には学園時代からこっそりと付き合っている恋人がいた。彼に言わせると真実の愛の相手らしい。
彼はそのことを隠してエンジェラと結婚した。
そしてその二年後に嫡男のウィリスが誕生すると、父親から爵位を譲り受けて公爵となった。
すると彼はすぐさま、これからは自分の天下だとばかりに、
「後継者としての義務は果たしたので、今後一切君と関わるつもりはない。私の真に愛する妻はエミリーだけだ。
君は屋敷で子育てと君の得意な仕事をしてくれていたらそれでいい。
社交は君とは違って華やかで社交的なエミリーが、君の代わりを務めてくれるから心配はいらない」
一方的にそう言い放つと、すぐに愛人と一緒に別宅へ行ってしまい、それきりほとんど本宅には戻らなかった。
エンジェラ様は慣れない子育てと丸投げされた膨大な当主の仕事に必死に取り組んだが、次第に心身ともに疲労し、やがて精神のバランスを崩してしまった。
主はろくでもない人間だったが、公爵家の使用人達は家令以下皆優秀で、女主を必死に支えたが、非常識な主が次々と問題ばかり起こすので、その対処に追われて彼女を支えきれなかった。
もちろんそうなる前に前公爵夫妻や夫人の実家のシグナ侯爵家へも助けを求めていた。
しかし前公爵は病の床に就いていたし、夫人も息子を溺愛していたために嫁の至らなさを責めるばかりだった。
そして、
「夫を振り向かせることもできずに、愛人にその地位を奪われ、実家のなんの役にも立たない娘など何の価値もない」
と、ご実家の両親からも、いとも簡単に縁を切られてしまった。
その後病んだエンジェラ様は、ある日とうとう公爵によってひっそりと邸から連れ出されて、別邸の一部屋に軟禁されてしまった。
そして公爵は愛人である元男爵令嬢を連れて屋敷に戻ってきて、息子と共に生活するようになった。
最初公爵は、エンジェラ様と、顔を整形して髪を銀髪に染めたエミリーを入れ替えようと考えていた。しかし、まだ五歳とはいえ実の息子や、寝食を共にしてきた使用人の目を誤魔化すことはできなかった。
そこで公爵はまず一人息子にこう言った。
「お前の母親は私に愛人がいることに腹を立てて、お前を捨てて男と一緒に隣国へ逃げてしまった。
だからこれからは彼女がお前の新しい母親だ。人前では必ずお母様と呼ぶのだぞ」
と。
ウィリス様はまだ幼かったが賢い子供だったので、最初から父親の言葉など何一つ信じていなかった。
そもそも愛人とずっと別宅に住んでいて、滅多に顔を合わせたこともない男を父親だなんて思ったことはなかった。
だからそんな人間の言葉など信じるわけがなかったのだ。
ただ、駆け落ちが本当かどうかは定かではなくても、自分は捨てられたのだなと彼は思ったそうだ。
母が正気ではなかったことを幼いながらに彼は理解していたので、恨むことはなかったが、やはり母親に捨てられた事実は悲しく辛かったそうだ。
しかし、彼の母親は自ら屋敷を出たのではなく、ずっと別宅に軟禁されていたのだ。
そしてある日ふと彼女は、自分の息子はもう王立学園に通っている年齢になっているはずだと気付いた。
そして軟禁されていた別宅から自力で抜け出して、真っ先に自分の息子に逢いに行った。
それを知った氷の公爵令息と称されていた少年は、人目を憚らずに泣いた。
私はたまたま偶然にもその場面に居合わせてしまった。そう、婚約して五年、逢ったことも手紙のやり取りもしたことのなかった婚約者と、その母親だとは夢にも思わずに。
ウィリス様はまさか自分の母親が同じ王都にいるとは思ってもいなかったようだ。
別邸は父親と愛人が自分達親子を無視して暮らしていた愛の巣だと知っていたため、そこを訪れることがなかったので気付けなかったのだ。
それが父親の心理作戦だったと気付いたときは、腸が煮えたぎる思いがした。
しかし逆に彼はそれをそのまま利用することにした。屋敷に戻って以来あの男が別邸にやって来たことは一度もない、と使用人から聞いたからだ。
彼はこれまでの使用人の二人に加えて、屋敷の信用できる侍女とメイド、そして警護する人間を数人、別宅へ回して母の世話をするよう頼んだ。
屋敷の者達は全員、まだ十六歳だったウィリス様の方をすでに自分達の主だと認識していたので、皆彼の指示に従ってくれた。
そして彼自身も私を学生寮に迎えに来て、毎週のように二人で別宅へ通った。
なぜ私まで一緒に行っていたのかというと、夫人がいたく私を気に入ってしまい、私がいないと夫人がとても寂しがるかららしい。
彼にはすまなそうな顔をされたが、私は却って嬉しかった。
家族から疎まれて育った私は愛情に飢えていた。だからエンジェラ様に可愛がってもらえるのがとても嬉しくて幸せだったのだ。
初対面のとき、私はエンジェラ様のことを天使だと思ったが、エンジェラ様は聖母様だった。実の息子のウィリス様だけでなく私のことも愛してくださった。
そしてある日彼女は、私を本当の娘にしたいと言い出した。するとウィリス様が優しくこう言った。
「直に本当の娘になりますよ。アイシス嬢は僕の婚約者だからね」
すると彼女はにっこりと笑って、嬉しいわと言った。そしてなぜかすぐに真顔に戻ってこう言った。
「私は絶対にアイシスちゃんと親子になりたいの。だから、ウィリーには悪魔達からしっかりと彼女を守って欲しいの。できる? 約束してくれる?」
それを聞いて私とウィリス様は顔を見合わせた。そう。そのころ私達の婚約は危ういものになっていたからだ。
なぜなら彼の父親である公爵がいい加減な投資をして大損をしたせいで、財産をかなり減らし、そのせいで、私の実家の港の改築工事への援助金を出すのが厳しくなっていたからだ。
正式な契約は結婚後だったが、入港料を割り引きしてもらう目的で、ドータルダッド公爵がナユタナ伯爵家に融資をしてくれていたのだ。
しかし、今後はそれも無理になりそうなのだ。このまま公爵家と婚約していても何のメリットもないとわかれば、父はドータルダッド公爵家との婚約を解消し、新たな婚約先を見つけてくる可能性が高い。
そのことをなぜかエンジェラ様は気付いていたみたいだ。
エンジェラ様を悲しませたくはないし、私もウィリス様とは婚約解消なんてしたくなかった。
十歳のときに婚約話が出たときには、嫌だと大泣きをして、私は生まれて初めて親にわがままを言った。
それなのに今では、その彼の側にずっといたいと思うようになっていたからだ。
そう。身の程知らずだとわかっていながらも、私はいつしかウィリス様を本当に愛してしまっていたのだ。
とはいえ、私のことなんて政略の駒としか思っていない両親が、私の願いなど絶対に聞いてくれるはずがない。
絶望的な気分になりながらも、エンジェラ様を不安にさせたくなくて必死に涙を堪えて微笑んでいると、ウィリス様が私の肩を抱き寄せてこう言った。
「アイシスは僕が絶対に守る。そして二人で必ず幸せになるから母上は心配しなくて大丈夫だよ。貴方の息子を信じてください」
「もちろん、信じてるわ。私の自慢の息子だもの」
あのとき、ウィリス様は初めて私の名前を呼び捨てにした。お仲間を呼ぶときのように親しげに。それがとても嬉しかった。
それなのに寮に送ってくれる馬車の中で、彼は私にこう謝った。
「アイシス嬢、君の立場も考えずに勝手なことを言ってすまない」
「私の立場ですか?」
「君はナユタナ伯爵家の令嬢なのだから、家にとって有益なところへ嫁ぎたいだろう?
それなのに名前だけの斜陽貴族であるドータルダッド公爵家は、伯爵家のために何の役にも立ちそうにない。
我が家は、優秀で素晴らしい淑女である君の嫁ぎ先に相応しくはない」
「たしかに私はドータルダッド公爵家には嫁ぎたくはないです」
私がこう答えると、普段はどんなときでもそのクールな表情を変えないウィリス様が、少し顔を曇らせたような気がした。だから慌てて言葉を続けた。
「でも、ウィリス様個人には嫁ぎたいです。
私、最初にこの婚約が決まったときは泣いて嫌がったのです。
なぜかといえば、ドータルダッド公爵令息はまだ子供だというのに、ニコリともしない冷徹な方だという噂が、遠い辺境の地にも聞こえていたからです。
私はあの家では家族だけではなく使用人達からも蔑ろにされていました。誰からも愛されなかったのです。
幼いころは自分が悪い子だから愛されないのだと思っていました。
だからいい子になるように努力しましたが、却ってますます嫌われてしまいました。
そして、ある日父にこう言われました。
兄は父親似で嫡男だから大切。妹は母親似だから可愛い。
それに比べてお前は厳格過ぎた自分の母親とよく似ているから可愛くないと。両親は厳しかった祖母をとにかく憎んでいたのです。
でも、まさかそんなつまらない理由で嫌われていたとは思ってもいなかったので、それを知って愕然としました。
そしてそれ以後、私は家族から愛を求めるのを止めました。
そしてそのうちに私は、子供心にも爵位や年齢や容姿はどうでもいいから、優しい方と早く結婚したいと思うようになっていたのです。
たとえ最初は愛のない政略結婚でも、愛そうと歩み寄ってくださる方がいいなと。
でも、一年前に貴方にお会いして接していくうちに、貴方のお母様やご友人に対する愛情の深さを垣間見て、噂は真実ではないことを知りました。
もちろんウィリス様は単なる政略のための婚約者である私にも、優しく親切にしてくださいましたし、私はなんて幸せなのだろうと初めて天に感謝しました。
そしてずっとお側にいられるように、少しでも貴方に相応しい人間になりたいと思いました。
今はまだまだ未熟者ですが、いつか必ず貴方のお役に立てる妻になってみせます。ですからこのままお傍に置いてください」
私は赤裸々に自分の思いを打ち明けた。
ウィリス様の側にいたい。それは私が生まれて初めて抱いた望みだった。
絶対に諦めない、諦めたくないと強く思ってしまった。
するとずっと厳しい顔をしていたウィリス様の顔が綻んだ。まるで雪解けの土の中から顔を出す、白く輝く雪割り草のように。
「アイシス、それは僕が言うセリフだよ。
僕はね、去年君が僕の前に母を連れて来てくれるまでは女性が大嫌いだったんだよ。
いくら過酷な状況だったとはいえ自分一人で逃げたという母上を恨んでいたし、そんな母を助けようともしなかった両家の祖母も。
そして一番憎かったのは、母の振りをして図々しく屋敷に居座っているあの女だった。
まあ、それより父親のことが一番嫌いだったけれどね。いつかやつには罰を与えてやると思って生きてきた。というか、そのために生きていたというか。
そんな荒んで斜に構えていた僕に真摯に向き合って、真っ当な感情を与えてくれたのが、学園入学後にできた友人達だった。
そしてその一年後に母を連れてきてくれた君だよ、アイシス。
君が僕同様に最悪な環境に身を置いていたことは、なんとなくわかっていた。しかし君は僕と違って捻くれても絶望もしていなかった。
そして婚約してからの五年間、交流もせずに放置していた僕に、恨み言一つ言うわけでもなく、僕の頼みを聞いて母に逢いに行く僕に付き合ってくれた。
その上すぐに母と打ち解けて、まるで本当の親子のように触れ合ってくれた。おかげでこの一年で母は心身共にずいぶんと回復したよ。
本当に君には感謝しても感謝し切れない」
身に余る言葉をもらって、私は思わず涙ぐんでしまった。
こんな自分でも少しは好きな人の役に立っていたのだと知り、嬉しくて堪らなかったのだ。
そんな私にウィリス様はさらにこう言ってくれたのだ。
「アイシス、君が好きだよ。誰よりも。だから絶対に君を離さない」
と。
そしてそれから私達は、婚約を解消されずに済むように精一杯足掻くことにした。
私達はまだただの学生に過ぎない身分だったけれど、今から何か手を打たないと間に合わないと焦った。
だから王太子殿下や、殿下の婚約者である侯爵令嬢のスージー様、そして仲の良い生徒会役員の皆様に相談に乗ってもらった。
そのおかげで、エンジェラ様を嫌な思い出だらけの別宅から脱出させて、隣国の保養地で転地療法をさせることができたのだった。
実は隣国の侯爵様の元に嫁がれていたスージー様の伯母様が、エンジェラ様の話を聞いて同情して、身元保証人になってくださったのだ。
なんと、その方はエンジェラ様とは学園時代のライバルだったそうで、一歩間違っていれば彼女がドータルダッド公爵夫人になっていてもおかしくなかった……らしい。
私はその侯爵夫人を通して隣国の有力者を紹介してもらい、様々な情報を得られるようになった。
そして、隣国で進められていた鉄道計画についての情報をいち早く入手した。
鉄道が敷かれたらこの国の発展は加速的に進み、人々と生活はもっと豊かになるだろう。
しかし、既得権益を守ろうとする海運業界や駅馬車業界に知られたら妨害される恐れがあった。
そう、私の実家のナユタナ伯爵家やエンジェラ様のご実家のシグナ侯爵家などに。
だから彼らとは関わりがない有力貴族と、王太子が信頼している友人達によって、秘密裏にこの鉄道建設の計画を進めてきたのだ。
そしてその間も、友人達が密かにナユタナ伯爵にとある情報を流してくれていた。
ドータルダッド公爵が無能なせいでたしかに今は斜陽の一途な公爵家ではあるが、その令息はかなり優秀なので未来は明るい。
その上たとえ父親の公爵が一文無しになろうと、母親の実家であるシグナ侯爵家が援助してくれるから何の心配もないと。
この噂を信じた父ナユタナ伯爵は、結局私とウィリス様の婚約を解消しなかった。
そして一足先に卒業したウィリス様は王太子殿下の側近として王城勤めをする傍らで、株やその他の投資などで利益を増やしていき、我が家への投資まで再開させてくれたので、私の父の信頼を勝ち取っていった。
そのおかげで私は学園を卒業するとほぼ同時に、無事にウィリス様と結婚式を挙げることができたのだった。
私達夫婦は当然愛し合っていたが、いつしか社交界では不仲説が流れていた。
それは結婚して半年後くらいから、私が社交界に顔を出さなくなったことと、ウィリス様がいつも不機嫌そうな冷たい表情を崩さなかったからだ。
まあそれは、彼が女嫌いで、纏わり付くご令嬢方を不快に思っていただけで、そもそも私が原因ではなかった。
それなのになぜか私との夫婦生活が不満だから……ということになっていた。
しかし、信頼している人々にわかってもらえていればそれでいい。烏合の衆にどう思われても構わないと夫が考えているため、私もそれに倣って言われるままでいた。
どうせ何を言っても信じてもらえないと、私自身も思っていたし、実家との契約を引き伸ばす理由にもなっていたので都合が良かったのだ。
とはいえ、近ごろはさすがにうんざりしてストレスがかなり溜まっていた。しかし、それを今日どうやら発散できそうだ。
兄には先ほど契約はしないとはっきり宣言できたし、今しがたの王太子殿下の発言で、私達の仲が良好だと気付いた人々もいるみたいだし。
しかも、色々と疑惑というか疑問を感じた一部の人達がざわつき始めた。
間もなく始まるであろう茶番劇が楽しみだわ、と思っていると、ウィリス様が私の耳元でこう囁いた。
「シグナ侯爵がすごい形相でドータルダッド公爵の元へ行ったぞ。見ものだな」
シグナ侯爵とはエンジェラ様の実の兄で、父親同様エンジェラ様を見捨てて、これまで一切関わろうとしなかった人物だ。
縁切りしたのに今さら何の用かしらねと、視線を彼らに向けた。
すると彼は開口一番こう訊ねた。
「ドータルダッド公爵、貴殿の隣にいる女性は一体誰なのですか? 私の妹はいつの間にか隣国で暮らしているそうですが」
「・・・・・」
公爵は答えない。いや答えられないのだろう。先ほど王太子殿下は、公爵夫人は隣国で第二王女の家庭教師をしていると発言したのに、自分は別の女性を妻として長い間社交界に参加してきたのだから。
「あなたのお名前を伺ってもよろしいですか?」
シグナ侯爵は今度は元男爵令嬢のエミリーに向かってこう訊ねた。
しかし当然彼女は真っ青な顔をしたまま何も答えずに震えていたので、彼は離れた場所にいる私達に目を向けて声を張り上げた。
「ウィリス殿、この女性は一体誰なんだね?」
すると夫は平然とこう答えた。
「父の真実の妻ですよ。名前はたしかエミリー嬢で元男爵令嬢ですよ。侯爵もご存知でしょう? 私の母に相談をされていたはずですから。
まあ、それを完全に無視してさっさと実の妹を見捨てて縁を切ったくらいですから、その妹が他人と入れ替わっていたことに、あなたが気付かなかったとしても当然ですが。
で、今さらそれがどうしたというのですか?」
「な、な、なんということだ。なぜそれを今まで隠していたんだ!」
「隠すも何も、当時まだ五歳だった私がどうすればよかったのですか?
突然見知らぬ男女がやってきてお前の両親だと言われ、違う、と言ったところでどうなったというのですか?
周りの大人達は皆彼らをドータルダッド公爵夫妻だと言っていたのに。
その後私が信じていないのがわかると、今度は母は駆け落ちして隣国へ逃げたのだ、という新たな嘘をその男はでっち上げました。
そして、母と公爵家の名誉のために、その事実を屋敷の皆と共に秘匿しなければならないと説明したのですよ。
母親に捨てられたのだと聞かされた私はひどくショックを受けました。
それでも母を醜聞に曝すわけにはいかないと思って、私は誰にも話せませんでした。
脳内お花畑の男も、そういうことにだけは知恵が回ったようです。
しかし実際は駆け落ちではなくて、母は別宅に軟禁されていたのです」
軟禁という言葉にホールにどよめきが起きた。
「私が十六歳になった年、母が軟禁されていた別宅からようやく抜け出して、ここにいる妻のアイシスの手を借りて学園に会いにきてくれました。それでようやく真実を知ったのです。
母が妻に出逢えたのは奇跡でした。
もし、妻の手助けがなかったら、私はずっと母に捨てられたのだと死ぬまで苦しんだことでしょう。
その後私達は王太子殿下ご夫妻や友人達に全て打ち明けて、相談に乗って頂きました。
そしてその際、妃殿下の隣国にいらっしゃる伯母上様を紹介していただき、三年前にようやく母をあの忌まわしい別宅から連れ出して、隣国で療養させることができたのです。
皆様には感謝しても感謝しきれません」
「あの女は二年前に死んだのではないのか?」
ドータルダッド公爵は、死人のような虚ろな目をして呆然と呟いた。
「自分の妻をあの女呼ばわりですか。
まあ、自分が不幸にした女性が死んだと聞いても、懺悔する気も起きなかった最低な人間ですから今さらですけどね。
そういえば、いつ何が原因で亡くなったのか、葬式はどうしたのか、墓はどうしたのか、それもさえ訊きませんでしたよね、あんたは!
まあ屑だということは昔からわかっていましたが。
私が嘘をついたのは、アイシスと結婚するにあたって、あんた達に屋敷を出て行ってもらいたかったからですよ。
しかしいくら図々しいあんたでも、さすがに軟禁している妻の居る別宅へは移りたくないだろうと思ったのですよ。
だからと言って、母上が一年前に隣国へ行った事実を伝えて、あんたに騒がれるのも面倒だったのですよ。
隣国に鉄道事業の技術協力を求めようとしていた大事な時期だったから、問題を起こされても困るのでね」
「そう。我々だって本当は、有害なだけのドータルダッド公爵を早く社会から排除したかったのだよ。
正妻に対する虐待や拘束、詐欺行為に密売、違法賭博。証拠もすでに揃っていたしね。
しかし、国も王侯貴族も信用がなにより大事だからね。
正妻を軟禁して愛人に正妻の振りをさせている者が、王家と血縁関係にある公爵家当主とあっては、他国からの信用度は著しく低下する。
それに、君の息子は本物の君の夫人に似てかなり優秀でね、国としては彼を失いたくなかったんだよ。そして彼の夫人もね。
それ故に、彼に叙爵に値する功績を上げさせるまでは、公爵を見逃してやっていたのだ。見張り付きでね。
それでさっき隣国において、無事に協定が結ばれたと連絡が届いたのだよ。
鉄道が敷かれることになったのは、我が国にとっては大変喜ばしいことだ。
前前からそれを見越して、ウィリス達グループは、これまでの交通手段である船や馬車とも上手く連携させ、使役や保管までシステム化する構想を、すでに練ってくれていたのだ。
大量に物だけ入ってきてもうまく流通させられなければ意味がないからな。
それ故に鉄道の普及と同時にその他の関連敷設や環境整備も同時に進めて行けば、近隣諸国に追いつくこともそう難しくはないだろう。
そしてこれを提案し、リーダーとしてこの計画を推し進めてくれたのがウィリス卿なのだ。
私は、彼が叙爵に値する人物だと思うのだが。違うか? 異議のある者は名乗りを上げよ」
王太子殿下に代わって今度は国王陛下が話し出すと、皆は真剣に耳を傾けて、いちいち頷いていた。
そして結局、ウィリス様の叙爵に異議を唱える者は誰一人現れなかった。
その後ドータルダッド公爵と彼の真実の妻であるエミリー嬢は、騎士団によって連行されて行った。
爵位を剥奪され、おそらく懲役刑になるだろうと、大裁判所で裁判官をしている生徒会の先輩がこっそりと教えてくれた。
これまで一度も働いたことのない人達なのだから、残りの人生はこれまでサボってきた分まで、死ぬまで働いて欲しいと私は心の中で思った。
そして私達、鉄道敷設計画プロジェクトチームのメンバーは、運輸関係者や工事業者、そして貿易に携わる貴族達にすぐさま囲まれてしまった。
すると国王陛下が咳払いを一つした後で、いずれ説明会をしてから競争入札によって各業者を決定するので、国の鉄道関係者に個人的な接触をすることは禁じる、と言ってくださった。
そしてそれに違反した者は今後業者には加えないとまで明言されたので、ようやく人々の輪が解かれたのだった。
ところが陛下の言葉を理解できなかった貴族が二組存在した。
「ウィリス、なぜ鉄道計画が進められていることを私に教えなかったのだ。
我が家が駅馬車から鉄道馬車に方向変換しようと舵を切ろうとしていたことを、聡いお前なら知っていただろう?」
シグナ侯爵が目を釣り上げ、声を荒げてウィリス様に言った。しかし、彼は相変わらず冷たい表情で侯爵を見下ろすとこう応じた。
「昨今汽車による鉄道が主流になりつつあるというのに、今ごろ鉄道馬車事業を興そうとする会社があると聞いて呆れていたのですが、それは貴方のところだったのですね。存じませんでした」
「なんだと! 生意気な! それが伯父に対する物言いなのか!」
「父上、これまでのことはもういいのです。我々はこれからのこと、未来のことについて考えなければなりません。
そう、思いませんか、ウィリス君」
「ええ、そうですね」
「ですから汽車と馬車の連結をどう考えているのか、決まり次第その情報を我が家に一番に教えて頂けませんか」
「それは無理ですね。先ほど陛下がおっしゃいましたよね。いずれ説明会を開くと。是非それに参加してください」
「ですが、我が家は貴方の母親エンジェラ叔母上の実家、つまり親戚なのですよ。それぐらい便宜を図ってくださってもよろしいのではないですか」
次期シグナ侯爵が、父親とは正反対にやたら冷静で穏やかにこう言った。
まるで商人のようだ。一見下手に出ているようで、その実腹に一物ありそうな目付きをしていた。
しかし、ウィリスはどんなタイプの相手に対してでも、一刀両断に蹴散らすのがポリシーだ。
「仕事において公私混同は厳禁だ。特に公共性の高い仕事ならなおさらだ。
それに……そもそも貴殿達と私は無関係の赤の他人だ。なぜ便宜を図らなければならないのですか?」
それを聞いていた私も、目の前の人達に対して夫の真似をして応じてみることにした。
「港の修理の件はもういい。だから我が領地にある港に一番早く鉄道を敷いてくれ。そうすれば、馬車で運ぶよりも大量に、しかも早く王都へ物が運べるから、運賃も人件費も今より安くて済む。
これまでは水産加工品は地元で消費できる物しか扱えなかったが、時短になれば今後は王都まではさすがに無理でも、そこそこの都市までは運べる。商売を広げるチャンスだ」
「素晴らしい計画ですね。成功するといいですね」
「いいですねではなく、絶対に成功させるのだ。
しかしそれは一番先に動かねば人に真似される。だから必ず一番先にうちの領地まで線路を通すんだぞ。
いいな、わかったな!」
兄のグヒス同様に、父親であるナユタナ伯爵は相変わらず居丈高にこう言い放った。
だけど私はこう言った。
「それは無理です。私にそれを決める権限はありませんので」
「そんなことはわかっておるわ。だから夫であるウィリス卿に頼めと言っているんだ。
夫婦仲が悪いのかと思いきや、上手くいっているみたいじゃないか。それなら夫に頼めるだろう」
「なぜ私がそんなことをしなくてはならないのですか?」
「なぜだと? そんなことは決まっているだろう。お前が私の娘だからだ。娘が愛する父親や家族のために尽くすのは当たり前だろう」
父の言葉を聞いた私は、夫同様の冷たいまなざしを向けてこう言った。
「私の夫や息子は何の見返りも求めずに私のことを愛してくれています。
そしてそんな彼らのことを私も心の底から愛しています。だから彼らのためならいくらでも尽くせます。
でも、あなた達のことまで、なぜ愛し尽くさねばならないのでしょう?
これまで一度もあなた方に愛されたこともないというのに」
私の言葉に呆然としている両親や兄妹に背を向けると、夫が珍しく優しく微笑みながら立っていた。
そして私の腰に優しく手を添えるとこう言った。
「アイシス、そろそろ屋敷へ帰ろう。僕達の愛する天使が眠らずにきっとまだ待っていると思うから」
「そうね、あの子は私の子守唄を聞かないと眠れないものね」
私も微笑みなからそう応えた。そして振り返ることなく、二人でホールを出て、家路を急いだ。
そう。一刻も早く愛する息子のフェルドに「ただいま」を言うために。
✽✽✽✽✽
ーーアイシスとウィリス夫婦の不仲説は、結婚後間もなくして、彼が社交界に妻を伴わなくなったことがそもそもの原因だった。
しかしそれは彼女が妊娠したせいだった。しかも悪阻がかなり重く、それが出産近くまで続いたのだ。
なぜそれを言わなかったのかというと、不仲説があった方が、ナユタナ伯爵家と距離をとるのに都合が良かったからだ。彼らに何かと口出しをされたり訪問されることを避けたかったのだ。
初孫の誕生さえ知らされなかったナユタナ伯爵夫妻は、その後も孫を抱く機会は持てなかった。
ちなみにウィリスは、その後国王からレールズという新しい姓と伯爵位を賜ったのだった。ーー
ー 完 ー
読んでくださってありがとうございました!