表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

白雨の車中

作者: 恵良陸引

「夏のホラー2023」向け二作目です。

前作『時間よ』よりはホラー向けですかね……。

 いつからのことかわからない。

 霧生きりゅうは、慌てたように顔をあげた。うたた寝をしていたらしい。

 見回すと、そこがバスの中であることがわかった。


――あれ?


 頭の中がはっきりしない。僕は、いつバスに乗ったんだっけ?


 困惑の表情を浮かべたまま立ち上がりかける。そのとき、バスは小さく弾んで、霧生はすとんと尻餅をついた。正面にはかすれた文字で『走行中のバスで立ち上がらないようにしてください』と書かれたボードが見える。霧生は立ち上がることは、ひとまず止めた。


 まずは気持ちを落ち着かせて、自分の状況を把握するべきだ。うたた寝から頭が完全に覚め切っていない。だから、自分がなぜ、いつ、このバスに乗り込んでいるのかわからないのだ。


 どの路線を走っているバスだろう。


 霧生は窓の外に目を向け、すぐに顔をしかめた。


 細かな雨粒が窓ガラスにとめどなく打ち付けられている。おかげで、外の景色はほぼ白一色だ。かろうじて、田植えを終えて間もないころの田んぼらしいものが見える。白に塗りつぶされそうな景色の中で、稲の緑がわずかに自己主張しているようだ。視界に入る色のついたものはそれだけだった。


――田んぼ? 田舎?


 霧生は頭を振った。ここは東京じゃないのか? 自分はバスでうたた寝するまで何をしていた?


 思い出せない。


 霧生はすぐ脇にある降車ボタンに手を伸ばした。反射的な行動だった。霧生は発作的にバスから降りようとしたのである。


 しかし、その手は力なく戻された。


 さすがにそれは浅はかな行動だ。自分が今、バスに乗っているのは、どこかへ向かう目的があるはずだからで、それを思い出しもせずにバスを降りてしまったら、そこへ向かうことができなくなるじゃないか。


 霧生はそう考えて手を降ろしたのだ。


 まずは、このバスがどこ行きなのか知るのが先だ。それさえわかれば、自分の行き先も思い出せるかもしれない。


 霧生がそう考えてあたりを見渡し、再び困惑の表情を浮かべた。

 車内には数名の乗客がばらばらに腰かけている。何人かは先ほどまでの霧生と同じようにうたた寝をしているようだ。年老いた者、若い女性、幼い子ども……。


 霧生が困惑したのは乗客の姿ではない。自分が乗っているバスが思っている以上に古めかしいことに気づいたのだ。


 もともとは白塗りだったと思われる天井はところどころがはげ落ちて、灰色の部分をのぞかせている。床は板張りで、ニスはすでに効果を失くし、床板はすっかり黒ずんでいた。


 平成生まれの霧生は、こんなバスに乗ったことなどなかった。映画かテレビドラマで観た、昭和時代の……それも、40年代から50年代あたりのものではないか。そう思えるほどの古いバスだった。


――こんなバスが都内を走っているのだろうか?


 霧生はバスの前方に目を向ける。行き先などを示す電光の掲示板を探す。それを見ればどこ行きなのかわかる。『渋谷駅前』とか……。


 しかし、このバスに掲示板はなかった。広いフロントガラスが見えるだけである。ワイパーが黒く細い腕を一生懸命に振りながらガラスに打ち付ける雨を払い続けていた。しかし、外の風景がまったく見えないので、まるで役に立っていない。


 霧生は一番近くに座っている乗客に目を向けた。もし、その人物が起きていれば、そのひとにこのバスの行き先を確認するつもりだった。あれから、頭の中はまだ覚醒していないようで、何も思い出すことができない。霧生は自分のことを思い出すことをすっかり諦めたのだ。


 一番近くに座っていたのは60歳ほどの男だ。自分の父親と同じぐらいか。霧生はそう思った。彼は、がっくりと頭を垂れて眠りこけている。

 さすがに声をかけて起こすのはまずい。霧生はその男に声をかけるのは断念した。


 後ろに目を向けるとひとつ空席をはさんで男の子が座っている。6歳ぐらい? 青白いシャツに紺色の短パン姿だ。床につかない足をぶらぶらさせていた。どういうことだろう。この男の子はひとりだけで席に座っている。親と思われる人物の姿が見えない。


 さらに後ろに目を向ければ若い女性が座っている。スーツ姿で今年入社したばかりのようだ。控えめな化粧も初々しく、年齢も20歳かそこらだろう。男の子の母親には見えない。


 逆に前方へ目を向ければ、黒いキャップを被った男の姿が見える。後ろ姿だから想像でしかないが、40代あたりか。中年らしい太り方をした男だ。


 この男が子どもの父親だろうか? そうであるなら、こうも席が離れているのはおかしい。子どもがバスの前方に座るのを嫌がるのであれば、父親も後方の席に並んで座るだろう。バスはほかに乗客のいないガラガラの状態だ。わざわざ席を離して座る理由がない。


 「ええっと、君はひとりでバスに乗っているの?」

 霧生は男の子に声をかけた。さすがに放っておくわけにいかないと思えたのだ。


 男の子は無言で霧生の顔を見つめた。警戒の様子はないが、明確な意思も感じさせない。

 この子どもから感じるのは、『無』だ。


 霧生は子どもが答えるのを辛抱強く待った。矢継ぎ早に質問を続けたりすれば、子どもは混乱したり、怯えたりするだろう。霧生はただ、子どものことが気になったから質問をしたのだ。怖がらせるためではない。


 「たぶん……」


 だいぶ時間が経って、男の子が返事した。霧生のことを怖がっている様子はない。霧生はそのことについては安心したが、子どもの自信のない答えがさらに気になった。


 「このバスは、いつも乗るバスなの?」

 聞きたいことはいくつかあるが、ひとつひとつ確認しよう。霧生はそう考えて尋ねた。


 男の子は「ううん」と首を左右に振る。


 「今日はお母さんとお出かけだったのかな?」

 つぎの質問には「うん」とうなずく。


 「じゃあさ。お母さんはどこかな? 一番後ろの席に座っているひと?」

 違うだろうなと思いながら、霧生は会社員姿の女性を指さした。


 男の子は霧生が指し示す方角に顔を向けたが、すぐに首を振る。「違うよ」


 「お母さんが乗るバスと違うのに乗っちゃったんだね。どこに行くところだったか、わかるかな?」

 男の子は首を振る。「わかんない」


 「そっか……」

 霧生は頭をかいた。しかし、この子のことをとやかく言えない。なぜなら、霧生本人も、どこ行きかわからないバスに乗り込んでしまっているのだから。


 つぎのバス停でこの子と降りよう。男の子のことは警察に預かってもらい、ついでに自分は現在地を確認して行き先を思い出すのだ。そのことについて難しいことはないはずだ。自分はこれまで、会社と自宅、それ以外は数か所ぐらいしか行き来していなかったのだから。


 霧生はそう考えて、男の子の頭越しにある降車ボタンへ手を伸ばした。そのとき、男の子がぽつりとつぶやくのが聞こえた。


 「……だって、バスに乗って出かけてないもん……」


 霧生の手が止まった。

 ゆっくりと男の子に視線を向ける。


 男の子はうなだれているようだった。

 「電車だったんだもん。電車でお出かけしたんだもん……」

 男の子の様子を見ると、霧生は少しずつ後ずさった。


 青白いシャツは真っ赤に染まり、柔らかそうな太ももを伝って、赤いものが床に流れ落ちている。


 霧生はさらに後ずさった。違う、違う。僕は何もやっていない。この子には声をかけただけだ……。


 ぽとぽとと、血の滴り落ちる音が聞こえる。男の子の身体はぐらりと傾いて床板に倒れた。男の子はお腹を切り裂かれ、そこから湧き出すように血が流れだしている。青白いシャツはすでに元の色を失って朱に染まり、床には大きな血だまりができている。


 霧生はうろたえたまま、そこへひざまずき、男の子の身体に手を伸ばした。救急車を呼ばないと……。いや、どうにか血を止めないと……。いや、まずは誰か助けを呼ばないと……。


 「おじちゃん」


 頭の上から声が聞こえ、霧生は我に返った。

 気がつけば、あれほど広がっていた血だまりは消え失せ、霧生は黒々とした床板の上にひざまずいた状態だった。


 床に倒れこんだはずの男の子は元の席に座った姿で、霧生を見下ろしている。


 「どこか痛いの?」


 男の子の問いに、霧生は自分の顔を両手で覆った。顔面からは大量の汗が吹き出し、自分の両手を湿らせる。痛くはないが、たしかに、今の僕はどうかしている。いったい、僕は何を見たというのだ。まだ寝惚けているのか、僕は?


 「ううーん……」


 すぐ近くの席から唸るような声が聞こえ、むくむくとひとの影が盛り上がってくるのが見える。さきほど眠っていた男が目を覚ましたらしい。


 「僕は大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

 霧生は男の子に急いで礼を言うと、男のそばへ歩み寄った。

 この時点で、霧生は男の子と一緒にバスを降りるという考えが消え失せてしまっていた。

 彼が考えたのは、一刻も早く自分の現在地を知り、自分の目的地を思い出すことだった。


 「ちょっとすみません。ひとつお聞きしてもいいでしょうか?」

 霧生は丁寧な口調で男に話しかけた。


 「何だぁ?」

 男は気の抜けたような声を返した。


 『実は、このバスがどこ行きなのか教えていただきたくて……』


 霧生はそう尋ねようと口を開きかけていた。しかし、その口は途中で開いたまま、声が出なくなっていた。いや、出せなかった。


 霧生を見上げた60歳ほどの男は、霧生に問いかけるような目を向けている。しかし、霧生の目は、男の顔ではなく、その下の首に向けられていた。首は大きく切り裂かれ、そこからどくどくと血があふれている。肩のあたりからも血が流れているのが見える。


 霧生は片手で自分の両眼を覆った。一度大きく呼吸をしてからゆっくりと手を離す。


 「何だぁ?」

 気の抜けた声が再び聞こえる。


 霧生を見上げている男の首に異常はなかった。しわだらけの喉ぼとけがひくひく動いているだけだ。肩からも血は流れていない。


 「いえ……、いいんです」

 霧生は首を振ると、バスの前方に目を向けた。


 バスは相変わらず視界の晴れない白雨の中を走っている。ずっとまっすぐの道を走っているようだ。あれからバスが右折や左折の動きをした感覚はなかった。ただ、農道のような道をひた走っているらしいことは感じられた。


 一番前の席に座っている男は両手を組み、前かがみの姿勢で座っている。ただ座っているだけかと思っていたが、ぼそぼそとひとり喋っているらしいことに霧生は気づいた。


 「オレのどこが悪かったって言うんだ。オレは悪くない。オレは何も悪くなんかない……」


 男はひとり言を続けている。霧生はその男に声をかける気は持てなかった。くるりと向きを変えると、後部座席に座る女のほうへ向かう。


 「すみません。ちょっと変なことを聞きますが、このバスはどこ行きでしょうか?」

 霧生は若い女に話しかけた。スーツ姿の若い女は顔を上げると、少し不機嫌そうな表情を見せた。

 「これでわかりません?」

 女は自分のスマートフォンを持ち上げてみせる。


 そうだった。なんてバカだ、僕は。


 霧生は慌ててズボンのポケットを探ると、自分のスマートフォンを取り出した。

 地図アプリで自分の位置を確かめる。


――あれ?


 地図アプリは問題なく立ち上がった。自分の現在地も表示している。


 そして、自分の現在地は――。


 都内だった。まさに都心と呼ぶべき場所に、自分はいた。しかも自分の位置を示すマーカーは、ある地点に留まったまま、まったく動く様子がない。ずっと走り続けるバスに乗っているのに。


 それに、このマーカーが示す場所は――。


 霧生はスマホの画面から視線を外すと、「すみません、変なことを聞いて」と詫びた……。詫びようとした。


 目の前の女に劇的な変化が生じていた。

 女は視線を手元のスマートフォンに向けていたが、彼女の頬は切り裂かれ、両手はみるみる血みどろになって、人差し指がぽとりと床に落ちた。落ち着いた風合いのスーツから切れ込みが生じ、そこからも血があふれ出してくる。


 霧生は片手で口をふさいで後ずさった。


 「何か?」

 女は不審そうな目を霧生に向ける。さきほど見えた傷は消え去り、彼女の両手は元のきれいなものに戻っていた。戻っていた? もともと傷なんてあったのか?


 霧生は口に手を当てたまま首を左右に振った。もうたくさんだ。何も考えたくない。

 彼は力なく両手をだらんと下げると、自分が座っていた座席へと戻った。もう、自分が今どこにいるのか、どこへ向かっているのか、どうでもいいような気持ちだった。


 「おい、お前。さっきからうるさいな」


 座席へ戻ると、野太い声が飛んできた。見ると、一番前に座っていた男がこちらを睨んでいる。青黒い顔で、無精ひげに覆われていた。帽子からはみ出している髪は、まるで手入れされていないようでバサバサだった。


 霧生は口の中で「すみません」とつぶやくと小さく頭を下げた。霧生は男の表情に凶暴なものを感じていた。下手な態度を見せると面倒なことになりそうだ。ここはできるだけ穏便にすませなければ……。


 「何だ。何か言ったか?」

 男は少し立ち上がりながら声をかけた。声には怒気が含まれているのが感じられる。


 霧生は立ち上がると、「すみませんでした。静かにします」と頭を下げた。


 「違うんだよ」

 男は完全に立ち上がると、霧生のそばへ歩み寄る。霧生は困ったように「何が……、違うんです?」とつぶやくように尋ねた。


 「オレが訊いたのは、さっき、何て言ったんだってことだよ。ふざけてるのか?」


 霧生は首を振った。「ふ、ふざけてません。ほ、本当に。さっきも『すみません』と言ったんです。よく聞こえなかったようなので、もう一度お詫びしたんです!」

 霧生は自分の声が上ずるの感じていた。危険だ。かなり危険だ。


 いや、おかしい。こんな状況で、なぜ僕はこんなに怯えている? たしかにこの男の態度は暴力的なものを感じさせるが、そこまでだ。いくら暴力的であっても、人間は簡単に暴力へ走るものでもない。どんな人間でも自己抑制というものが働くものなのだ……。


 「お前、家族はいるのか?」

 とつぜん、脈絡のない質問を男からかけられ、霧生は一瞬、返事に困った。「え、ええ……」


 「嫁さん、子どもがいるのか?」


 霧生はうなずいた。「ええ。ただ、子どもは今日生まれるんです」


 反射的な答えだったが、霧生の頭は閃きのような感覚で記憶を取り戻した。


――そうだ。今日、僕に子どもが生まれるんだ。


 勤め先へ妻が分娩室に入ったと連絡が入り、出産に立ち会うつもりだったから午後から休暇を取って帰るところだったのだ。会社を出て、駅に向かうため歩行者天国へ足を踏み入れて、そして……。


 「そうかよ」

 男は帽子のつばに手をかけて少しうつむいた。「幸せだな、そりゃあ」


 「そ、そうですね」霧生はあいまいにうなずいた。あまりの緊張感に、男の顔を見ることができない。


 「オレだって、いたんだよ……」


 「はい?」


 「オレにだって、家族がいたんだ!」

 男は急に大声をあげた。霧生は背中が強張るのを感じた。


 「ちょっと運がなかったんだ。病気になったのだって、店がつぶれたのだって……。家族がいれば、オレだって乗り切れたんだ! それなのに、それなのに、みんなオレから離れていきやがって!」

 男は激昂して怒鳴り声をあげ続けている。霧生は気圧されて座席にどすんと腰を下ろした。


 「ふざけんなよ。ふざけんなよ。オレをひとりにして、どうやって乗り切れってんだ。クソっ!」


 男は怒鳴り続けながらうつむき気味に自分の両手を見つめる。


 「だからさ、だから、やったんだよ」

 男の両目から涙がこぼれ出す。


 「店で使っていた、一番よく切れる包丁を持って、街のど真ん中まで行って、一番平和そうに歩いていたおっさんに包丁を突き立てた。抵抗して大声をあげやがったから喉切り裂いてやった。近くで女が悲鳴あげやがったから、顔切り裂いてやった。さらに切ろうとしたら両手で防ごうとしたから、その両手も切り刻んでやった。とどめもさしてやったぜ。そしたらさ、周りのやつら、みーんな逃げ出しやがんの。ある女なんか自分の子どもほったらかしてひとりで逃げやがった。ガキはへたりこんで泣いてばっかりで、あんまりうるさいから、そのガキも地面に倒して腹かっさばいてやったぜ。そしたらよ、ガキを助けようと、こっちに向かってくるやつがいるじゃねぇか。赤の他人のガキにご苦労なこったが、そいつも一刺ししてやったぜ……」


 霧生は腹部に違和感を覚え、視線を落とすと、ワイシャツが血の色で真っ赤になっていた。腹から血があふれている。霧生は慌てて自分のお腹を押さえたが、指の間から血が漏れるように流れて停まる気配がない。


 「そうこうしてるうちによぉ、警官たちに囲まれて……。まぁ、こっちも気が済んだからよ、今度は自分の喉をかっさばいてやったんだ」


 霧生が見上げると、男の喉がぱっくりと開き、そこから血が流れている。


 「幸せそうなやつら、片っ端にオレとおんなじ不幸に叩き落してやった。気分良かったぜ。これで気持ちよく死ねるってな。それなのに、何だよ。どうしてオレはこんなバスに乗ってんだよ!」


 そのとき、霧生の目のはしに何か光るものが見えた。反射的に見ると、『急停車にご注意』の表示板に明かりが灯ったのだ。

 バスはとつぜんブレーキをかけて停まった。


 帽子の男はふっとばされるようにバスの前方へ姿を消した。声ひとつあげることもなかった。


 霧生は前の座席の背に頭を打ち付けないよう両手で押さえた。あまりの勢いに思わず目を閉じる。


 どれぐらいの時間が経ったのか霧生にはわからない。おそるおそる顔をあげると、バスは静かに停車していた。


 窓枠のそばにある降車ボタンから『おります』の文字が光って見える。


 霧生は大きく息を吐くと、自分のお腹に手を当てた。さきほどと違って手に濡れる感触がない。いつの間にか腹部の傷も血も消え失せていた。いつもの白いワイシャツに戻っている。


 あたりを見渡したが帽子の男の姿は見えなかった。急停車の勢いでフロントガラスを突き破ってしまったのではと思ったが、バスのガラスには『ひび』ひとつ入っていない。ただ、男の姿が消えただけだ。


 霧生は、ほかの乗客の姿も探し求めた。彼らは座席におとなしく座っていた。さきほどの騒ぎなど、いや、急停車のことすら気づかなかったように、それぞれの座席で眠りについている。老人も、子どもも、若い女も、みんな。彼らの穏やかな寝顔を見て、霧生は再び大きく息を吐いた。これは安堵の息だった。


 霧生は座席から立ち上がると、バスの降車口である前方へ向かった。バスは折り畳み式の扉を開いたままだ。霧生はなんとなく自分が降りるのを待っているのだと思った。


 料金箱を前に霧生は迷った。乗車賃はいくらなのだろう。ポケットに手を突っ込むと、ありったけの小銭を取り出した。


 「すみません、これで足りますか?」

 霧生は運転手に声をかけて、自分の片手に載せたお金を見せた。


 運転手は帽子を目深にかぶり、うつむきぎみで人相や表情がわからなかった。

 運転手は無言でうなずき、まっ白な手袋の指先で料金箱を指さしただけだった。


 霧生は運賃を払い終えると、そのままバスを降りた。


 気がつけば、景色を消してしまうほどだった雨があがり、あたりはのどかな田園風景が広がっている。

 心が落ち着くような穏やかな風景。


 霧生が風景に見とれているうちに、バスは静かに走り出していた。まっすぐな道をひたすら進んでいる。道の先は霞んでいるようでよく見えない。バスはやがて霞に溶け込むように姿が見えなくなった。


 霧生はバスを見送ると身体の向きを変え、田んぼのあぜ道に足を踏み入れた。

 なんとなくだが、ここを通れば目的地に着けると思ったのだ。


 「帰ろう」


 霧生の口から漏れたのは、このひと言だけである。

 それから、霧生は無言のまま、しかし、確信に満ちた足どりで家路についた。

この物語の結末は、当初考えていたものと違うものになった。

本文中にあるマップアプリのマーカーが指す場所で終わるつもりだった(どこだか想像できます?)。

ただ、主人公がバスを降りたとき、ここで終わるのが一番きれいかなと思って、こうなった。

その分、説明不足な話になってやしまいか心配はある。

ただ、これまでと違い、残酷な中にも少し優しさを感じられる作品を仕上げられたことには満足している。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ