婚約破棄されると勘違いしたヤンデレが怒涛の勢いで彼女に詰め寄る話
僕も八鹿ちゃんも暑さに弱い。
特に京都の夏は尋常じゃなく暑い。
というわけだから、せっかく長い大学の夏休みだけれど大抵は遠出するでもなく、冷房の利いた家に引き籠もり、ごろごろと過ごしていた。
かといって退屈はしない。八鹿ちゃんはもともと刺繍とピアノと読書が趣味でアウトドアはむしろ苦手な女の子だから、こうしたインドアな日々でも楽しそうに過ごしているし、僕の方は何をするでもなくとも、八鹿ちゃんと同じ空間にいるだけで幸福感が募る。
夏休みをいいことに、今日も一日中ふたりきりで過ごせた。他人が介在した時間なんて、早朝に散歩をしたときに近所の人に挨拶をした数秒と、夕方にアイスを買いにコンビニへ行ったときにレジで支払いをした数分くらいだ。
大学進学を機に同棲を始めることができて本当に良かったとしみじみ感じ入る。日々、彼女が視界に入る範囲にいるという絶対的な安心感がある。
卒業したら結婚する約束もしている。僕たちは婚約者だ。もはや幸せな未来しか見えない。
八鹿ちゃんと市役所に行って婚姻届けを出す場面を考えるだけで笑みが浮かぶ。
八鹿ちゃんのお気に入りである水出しほうじ茶の準備を終えて居間に戻ると、彼女はクッションを抱えてうつ伏せの姿勢で、スマホを真剣に見ていた。
彼女は最近、大学の友達に教えられて、web小説にはまっている。きっと読書中だろう。
八鹿ちゃんに構ってもらおうと近づいて、何気なく手元を覗き込んだ。
スマホの画面に「婚約破棄」と見えた。
衝撃を受けた。
思わず「えっ」と声を漏らすと、集中していた彼女は僕の接近に気が付いて、「わひぃっ」と肩を跳ね上げた。
そして、ものすごい慌てようでホームボタンを連打し、スマホの画面を消し、クッションの下に隠した。
「ななななな何かな七瀬くん? 別に変なもの見てないよ。本当だよ。あ、もうこんな時間! お湯溜まったし、お風呂入ってくるねっ!」
動揺の見本みたいな動揺振りで、八鹿ちゃんは浴室へ行ってしまった。
「……」
耳を澄ませ、八鹿ちゃんが入浴を始めたことを確認してから、彼女がクッションの下に隠した(たぶん隠した瞬間に隠したことを忘れて放置したと思われる)スマホを取り出した。
八鹿ちゃんのスマホのロックを解除し(もともと彼女はロック番号に自分の誕生日を設定していたので、それはセキュリティ的によろしくないことを教え、別の番号を一緒に考えて一緒に変更作業をしたから知っている)、閲覧ブラウザを立ち上げ、履歴を表示した。
やっぱりweb小説を読んでいたらしいけれど、彼女がブックマークを付けている小説のことごとくが、婚約破棄をテーマにしたものだった。
あの手この手で婚約破棄をしようと頑張る話であったり。
婚約破棄をさせてくれない相手からどうにか逃げようとする話であったり。
相手から婚約破棄を突きつけられたのをいいことに一人で悠々とスローライフを楽しむ話であったり。
手が震えた。
八鹿ちゃんは、僕との婚約を破棄しようと考えている……?
あの手この手で僕から逃れて婚約破棄しようと計画している……?
婚約破棄をして一人で大自然に囲まれて自給自足の丁寧な生活を送る道を模索している……?
いやタイトルだけで決めつけてはいけないと、彼女がブックマークしている小説を片っ端から高速で斜め読みしてみたけれど、やはりタイトルに沿った内容だった。
最終的には婚約破棄できずに終わるストーリーも多かったけれど、それでも主人公たちは婚約破棄をするためのありとあらゆる努力をしていて、八鹿ちゃんがこの主人公たちに自分を重ねて婚約破棄への意思を固めるには十分に思われた。
しかも主人公が「転生」という事象を経てから始まるストーリーがいくつかあった。
転生。日常生活ではまず使わない単語だが、輪廻転生のことだ。仏教用語に造詣は深くないけれど、ともかく死んで生まれ変わるという意味のはずだ。
え、八鹿ちゃん、死ぬの?
最悪の場合は死んででも僕から逃げる覚悟?
僕がいる今世を見限って輪廻転生に賭けて別の世界で幸せになる予定?
確か輪廻転生は六道を廻るもので今世の行いで転生先が決まるから、清くて優しくて可愛くて女神な八鹿ちゃんは天道に行くだろうけれど僕は恐らく地獄道である。八鹿ちゃん、確実に僕から逃げ切る気だ。そのために今世でこんなにも功徳を積んでいるのか八鹿ちゃん。
たとえ八鹿ちゃんが婚約破棄をしたい別れたいと言っても当然絶対に応じる気は無い。
彼女が死ぬ覚悟ならもちろん僕も一緒にというか先回りして彼女の目の前で彼女の望む方法で死んで彼女の最期の願いを叶えたという美しい思い出を作るつもりだ。
けれど、実際に彼女が婚約破棄を計画して予習を始めていること、破棄できなかった場合に備えた最終手段として死して僕から離れる覚悟をしていること、さらに死後の世界でも逃げ切れる手筈まで見越す程に本気であるということを知った今、ショックが大きい。
どうして八鹿ちゃん。
僕のことが嫌いになったのだろうか。
婚約破棄をしようと考えているのだから、嫌われたに決まっている。
どうして僕は嫌われてしまったのだろうか。
一緒に暮らし始めて以降、八鹿ちゃんの寝顔が余りに可愛いので作り始めた八鹿ちゃん寝顔写真集(今月も増冊した)の存在がばれてしまったのだろうか。盗撮である。嫌われるに決まっている。
まだ僕たちがお付き合いを始める前、八鹿ちゃんの部屋に上げてもらったときにゴミ箱に捨ててあったシャーペンの替え芯の容器を彼女が見ていない隙に無断で持ち帰って「わあい八鹿ちゃんの持ち物だあ」とはしゃいでいたことがばれてしまったのだろうか。窃盗である。嫌われるに決まっている。
同棲を始めて三日くらい経った頃、「実は京都府の条例で婚姻関係に無い男女は同棲できないんだ。このままだと僕たちは京都府警に逮捕されてしまうから、しかるべき時期に結婚する予定のカップルであるといつでも証明できるように書類の準備だけしておこう」と言って婚姻届けにサインをさせたけれど、嘘だとばれてしまったのだろうか。京都府を騙った詐欺である。嫌われるに決まっている。
お付き合いを始める若干前から、八鹿ちゃんのスマホに位置情報を把握できるアプリを入れて彼女の動向を把握したり、連絡アプリの登録相手をチェックして彼女と特別仲良くなろうと画策していそうな人間を随時ブロックしたり、僕以外の人間と僕の知らないおでかけ予定を立てていないかトーク履歴を調べる等、彼女のスマホを内緒で触っていたことがばれてしまったのだろうか。素直で騙されやすい彼女の身の安全のためにやむを得ず手を染めている悪事とはいえ悪事は悪事、プライバシーの侵害である。嫌われるに決まっている。
八鹿ちゃんが下宿を決める際に「僕は京都に住んでいるから土地に詳しいし代わりに優良な下宿先を探して契約しておいてあげるよ」と持ち掛け、安心して全て任せてくれた彼女に引っ越し土壇場で「契約した不動産屋が倒産したので契約が無効になった」と嘘を吐き、途方に暮れる彼女に「僕の責任だし僕の部屋に住む?」と同棲を提案し、不動産屋が倒産したのは七瀬くんの責任じゃないのにそこまで迷惑は掛けられない……と遠慮する彼女に「偶然たまたま二人用の部屋に住んでいるから偶然たまたま一部屋ちょうど空いてるから八鹿ちゃんが住むことになっても全く問題ないから一緒に住もう?」と押しに押して、偶然こうなっちゃったね的な流れで持ち込んだ同棲が計画的犯行だったことがばれてしまったのだろうか。だって八鹿ちゃん慎ましいからこうでもしないと在学中に同棲できなかっただろうから許してほしい。苦渋の決断でちゃんとベッドを別々にしたから許してほしい。いや許してくれないだろう。親切面して全部嘘で確信犯だったなんて平たく言ってクズの所業である。嫌われるに決まっている。
「八鹿ちゃん……」
思い返せば、僕は八鹿ちゃんに嫌われることばかりしている。
八鹿ちゃんが婚約破棄ないし転生したがるのも当然の帰結と言えよう。
だけど僕は八鹿ちゃんに見捨てられたら死ぬ。彼女がいないと生きていけない。
生存に必要な一番の要素は八鹿ちゃん、二番目が水である。
「別れるなんて絶対に嫌だ……」
と、気が付けば、八鹿ちゃんが入浴を終え身繕いまで済ませた気配がした。
床に手をついて絶望している場合ではない。慌ててスマホをクッションの上に戻し、正座した。
つやつやした長い黒髪からお風呂上りの良い匂いを漂わせながら、コップを持った八鹿ちゃんが隣にちょこんと座った。
「七瀬くん。水出しほうじ茶を牛乳で割ってみたの」
なかなか冒険的な味に挑む八鹿ちゃん、普段の僕なら微笑ましく迎えるのだけれど、今の僕は「このままでは八鹿ちゃんに捨てられる」という焦りでいっぱいだった。
なんとかして、八鹿ちゃんを、引き留めないと。
「割と美味しかったから、ぜひ七瀬くんにも飲んでほしい」
「八鹿ちゃん」
「うん? あ、信じてないでしょ。このあいだ作った養命酒の牛乳割りが人を選ぶ味だったのは確かに認めるよ。でも今回のは成功例だから。万人受けするから。本当だよ。ほら、飲んで見せましょう」
「八鹿ちゃん」
「うん?」
「子供作ろう」
「ぶぇっ!?」
八鹿ちゃんは水出しほうじ茶牛乳割りを吹いた。
「なう、けほっ、どう、どうしたの七瀬くん」
耳まで真っ赤にしてあわあわしている八鹿ちゃん可愛い好きもはや国宝ああ可愛い大好き。危ない。作戦を放棄して八鹿ちゃんの魅力を堪能している場合ではない。冷静になろう。
とりあえず八鹿ちゃんの手から今にも落ちそうなコップを受け取りテーブルに退避させ、ティッシュを持ってきて、ぼたぼたになっている八鹿ちゃんの口と手を拭き、濡れた床は放置して、隣に座り直した。
「ありがとう七瀬くん。さっき、変な聞き間違えしちゃって、うっかり」
「今すぐ僕たちの子供が欲しいです」
「ほんとどうしたの七瀬くん」
転生を視野に入れている八鹿ちゃんから死という逃走手段を今すぐ奪うには、これしかない。
八鹿ちゃんに僕との子供を授かってもらうしかない。
お腹に赤ちゃんがいる限り、自分以外の命を道連れにする状況下にある限り、八鹿ちゃんは決して自死を選ばない。
そのあいだに何とか彼女を説得して、僕のことをもう一度好きになってもらおう。
「本当は八鹿ちゃんに僕の子を産んでもらうのはもっと先の予定だったよ。ずっとずっと先のことだったんだ。八鹿ちゃんは愛情深いから赤ちゃんが生まれたらきっと僕よりそっちに構うことは目に見えてるからそれは寂しいから子供は作らない方向で行こうかなと考えた時期もあったよ。けどやっぱり僕たちの子供は欲しい。だって僕と八鹿ちゃんは血が繋がっていないけど間に子供が挟まれば繋がってることになるんだから。誰がなんと言おうと他人じゃなくなるんだから。それに八鹿ちゃんから出てきた生き物なんて絶対に可愛い。想像しただけでも可愛い。八鹿ちゃん以外に愛す存在なんてこの世にいないと思っていたけれど八鹿ちゃんの子供なら世界で二番目に愛す自信があるよもちろん一番は八鹿ちゃんね! でも八鹿ちゃんを独り占めしたい気持ちもあるからとりあえず80年くらいは二人きりで過ごして子供を作るのはその後でいいかなって思ってたんだ」
「こ、高齢出産だね」
「でも事情が変わったよ。待てない。今すぐ八鹿ちゃんとの子供が欲しい。ねえ八鹿ちゃん、駄目?」
「い、ますぐは、駄目かな……?」
「駄目なんだ。やっぱり僕のこと嫌いなんだ……」
「いや、そうじゃないよ!?」
「でも僕との子供欲しくないんだよね八鹿ちゃん……」
「いやほらあのその、それとこれとは別で、あっ、名前! 子供の名前まだ考えてないから! 名前を考えてからの方がいいよ! 名前大事! ね!」
「いま孕んだって産むまでに10か月は猶予があるからその間に考えればいいよ」
「確かに思ったより猶予があるね……」
「八鹿ちゃん。僕と結婚してくれるって言ったよね」
「うん……」
「いつか僕と幸せな家庭を築いて海の見える丘の上に建つ赤い屋根の一軒家に住んで柴犬を飼おうねって、八鹿ちゃん、言ってくれたよね」
「うん……真顔でリピートされると恥ずかしいものがあるけれど、確かに言いました……」
真っ赤な顔を両手で覆う八鹿ちゃん。
あれ?
ここまでのやりとりで、なんだか僕は別に八鹿ちゃんに嫌われていないんじゃないかなという気がしてきた。
八鹿ちゃんに嫌われている説を否定する材料として、彼女の素直な性質が挙げられる。
彼女は嘘が吐けない。吐いても、表情挙動その他ですぐに分かる。
そんな彼女が僕を嫌っていたとして、笑顔で水出しほうじ茶牛乳割りを勧めるような器用なことができるだろうか。
待て落ち着け楽観的になるな。都合の良い解釈に逃げるな。
web小説の閲覧履歴およびブックマーク登録作品を見た限り、彼女が婚約破棄を考えているのは間違いない。
彼女は心根が優しいから、他の生き物を積極的に嫌うということをしないから、はっきりとした拒絶ができないだけであって、婚約破棄を視野に入れるくらいには、もう僕のことが好きじゃないのは間違いない。だって婚約破棄。パワーワードにも程がある。
笑顔で水出しほうじ茶牛乳割りを勧めてくれたのはきっと美味しいものを人に分け与えようという彼女の親切心の発露である。好きでもない人間にさえ優しく出来る清い心の八鹿ちゃんの慈悲をうっかり勘違いして、もしかして嫌われているというのは思い過ごしで八鹿ちゃんは今でも僕のことを好いてくれているに違いないなどという甘い夢を見て、行動を起こさずに手遅れになったら洒落にならない。
うん。作戦続行だ。
「ね。じゃ、今すぐ子作り始めよっか。善は急げだよね。幸せな家庭を今すぐ作ろう。家族増やそう。そうだね子供が産まれたらもう結婚するしかないよね。大学卒業したら結婚しようって約束だったけど、今すぐ結婚した方がいいよね。よし明日にでも婚姻届けを提出して速やかに海の見える丘の上に建つ赤い屋根の一軒家の内見に行こう」
「生き急ぎ過ぎじゃないかな七瀬くん!?」
「そして秋田犬を飼おう」
「犬種が変わってる!?」
もともとはお付き合いを始めてすぐにでも結婚しようと考えていた。
けれど、大学の先輩から「結婚はすぐに迫らない方がいい。女の子はマリッジブルーになりやすいから配慮しないといけない。今すぐ結婚しようなんて言ったら種々の不安を煽って逆効果になる。最短で大学卒業後くらいに設定しないと、記名済みの婚姻届けを隠蔽および廃棄されるという憂き目に遇うから気を付けた方がいい」とアドバイスをされたので、なるほど確かに八鹿ちゃんは繊細な女の子だから今すぐ結婚しようなんて言っても戸惑うばかりだろうと思って、卒業後に結婚という約束をしたのだ。
けれど、状況が変わった。
卒業を待っている場合ではない。
婚約を破棄されてからでは全て手遅れだ。
ちなみにこのアドバイスをくれた先輩は恋人に対して、告白と交際と同棲と婚約をほぼ同時におこなったらしい。常軌を逸しているなと思う。
八鹿ちゃんと慎ましくプラトニックな交際を経て、しかる後に同棲を始め、一段落したところで婚約するという、世間一般の良識に則った手順を踏んだ僕はちゃんとした常識人だなとつくづく感じる。
そんな常識人たる僕が考えた、客観的に見ても無理のない流れで婚約破棄を覆す作戦が、「できちゃった婚」である。
子宝を授かったという既成事実によって八鹿ちゃんの転生を防ぐと同時に、卒業を待たずして結婚してもおかしくはないという状況を作り出し、即時結婚の流れも掴める起死回生の手段、それが「できちゃった婚」である。
「八鹿ちゃん。今すぐ子作りに励んで結婚式を挙げて丘の上に住んで紀州犬の里親募集情報を探そう!」
「おち、落ち着こう七瀬くん。人生設計を巻き過ぎだよ七瀬くん。また犬種が変わってるよ七瀬くん。ね、ちょっと深呼吸しよう?」
八鹿ちゃんは慈母の如き優しい眼差しで、「よーしゃよしゃよしゃ」と、近所の甲斐犬を撫でる要領で、僕の頭を撫で始めた。優しい。好き。好き過ぎて涙が出てきた。
八鹿ちゃんは「七瀬くんは繊細センシティブ……」と呟いて、ぽろぽろと涙をこぼしている僕の頭を抱き締めて、「よーしゃしゃしゃ」とさらに撫でてから解放した。一生解放してくれなくてよかったんだけど、あんまり項垂れ続けていたら彼女の心配が募るので、大人しく正座に戻った。
「七瀬くん。何かあったの?」
「八鹿ちゃんが……八鹿ちゃんが……」
「うん」
「だって、八鹿ちゃんが、僕と婚約破棄しようとしてるから!」
「え?」
彼女はキョトンとした。
「こんやくはき?」
八鹿ちゃんは全く想定外の単語かのように、純粋無垢な瞳で、首を傾げた。
婚約破棄の予習をしていたとは到底思えない。
あれ。どういうことだろう。
「……? 八鹿ちゃん、スマホで婚約破棄の小説、読んでたよね……」
「えっ」
「けっこうたくさん、読んでるよね……」
「えっ!?」
「たとえば、『王子に婚約破棄を申し込んだら100匹の獰猛なチワワで包囲さ……」
「タイトル言うのやめてぇ……っ!」
八鹿ちゃんは再び顔を真っ赤にして身悶えした。
「いやその、面白いよって薦められて、読み始めたらはまっちゃって、そこからもう芋づる形式にいろんな作品を、はい、たくさん読んでます……」
「だよね。たくさん読んでるよね。だから、僕と婚約破棄する気でその方法を勉強してるのかなって。転生まで視野に入れて僕から逃げようとしてるのかなって。だって、婚約破棄とか転生なんて、そうそうない題材だろうに、そういう作品ばかりを読んでたから、わざわざ探してまで転生の予習を……」
「え、異世界転生はメジャーなジャンルだよ……? 婚約破棄も恋愛ものの王道だよ……?」
「そうなの? 小説の2大ジャンルって、殺人事件と鉄道の旅じゃないの?」
「それは七瀬くんの読書が小酒井不木と江戸川乱歩と内田百閒の著作に偏っていることから生じる誤解だよ」
「そうなの? でもお風呂入る前の八鹿ちゃん、娯楽で小説を読んでいたとは思えないすごく真剣な顔で読んでたよ……? 本気で婚約破棄の計画を立てているとしか思えない真剣さだったよ……?」
「それは、だって、今まで献身的に仕えてくれていたメイドさんが実は政争によって生き別れた妹でしかも暗殺者だったって判明した回だったから、手に汗握って読んじゃうのも無理はなかったよ」
「そうだったんだ……。え、じゃあ、僕がスマホ覗いた時、ものすごく慌てて画面消したのはどうして? やましいことがないならあんなに慌てないよね?」
「そ、それは」
八鹿ちゃんは俯いて、もじもじしながら小さい声で言った。
「ちょうど、美女おっぱい祭りみたいな、すけべな広告が出てきた時だったから、すけべ人間だと七瀬くんに思われると思って、慌てて消しました」
「……。そうなの?」
「断じて! すけべなサイトを見ていたわけではないよ! 普通のweb小説だから! 美女おっぱい祭りに興味があったわけではないから!」
「いや八鹿ちゃんが美女おっぱい祭りに興味があるとは到底思わないけども。えっ、そうだったの? じゃあ、本当に、僕のこと嫌いじゃないの? 僕のこと嫌いになったから婚約破棄しようと考えてたわけじゃないの?」
「え、うん。七瀬くんのことを嫌いになる訳ないよ」
「婚約破棄しない……?」
「うん」
「転生して天道に逃げたりしない……?」
「うん……?」
「僕のこと好き?」
「うん!」
なんだ。
よかった!
僕の勘違いだったのか!
「ごめんね八鹿ちゃん。僕はてっきり八鹿ちゃんは婚約破棄の小説を読んで婚約破棄の予習をしているんだと思って、色々と生き急ごうとしていたよ」
「ううん。スマホを隠したりして、私が怪しい態度を取ったのが原因だから。気にしないで」
八鹿ちゃんの愛を疑うという万死に値する愚行を働いたというのに、温かな微笑みであっさりと流してくれる八鹿ちゃん。安定の女神である。
「あれ? でも七瀬くん、よく私が婚約破棄ものをたくさん読んでるって分かったね。七瀬くんが画面を見たのって、さっきの一瞬だけなのに」
「それは八鹿ちゃんがお風呂に入った瞬間にスマホのウイルス検知アラートが鳴り響いたのが聞こえて慌てて対処したからだよ。対処の際に止む無く閲覧履歴を見てしまっただけだよ。ウイルスはちゃんと駆除したからスマホは問題なく使えるようになったよ」
「そっかあ。いつもありがとう七瀬くん。機械に強い七瀬くんがいてくれて安心だよ。このあいだも、登録したはずのおともだちリストがどんどん消える謎の症状を止めてくれたし。七瀬くんが対処してくれたおかげで、七瀬くんと家族と友達数人の連絡先だけはなんとか残ったよ」
「うん。八鹿ちゃんの安全は僕が守るから、今後も何の不安も無く全て僕に任せてね」
「うん!」
こうして婚約破棄騒動は幕を閉じた。
そのあとは濡れたまま放置していた床を掃除して、僕もお風呂に入って、改めて八鹿ちゃんが用意してくれた水出しほうじ茶牛乳割りをふたりで乾杯して、味の講評会を開いて楽しく過ごし、八鹿ちゃんが眠くなってきた頃合いにお開きにした。
八鹿ちゃんは奥ゆかしい子なので、まだキスをすると恥ずかしがるのだけれど、「京都府の条例で同居中のカップルは就寝前に接吻をすることが義務付けられているんだよ」と教えてあるので、おやすみ前のキスには素直に応じてくれる。
「おやすみなさい七瀬くん」
「おやすみ八鹿ちゃん」
一時はどうなることかと焦ったけれど、こうして八鹿ちゃんとおやすみの挨拶を交わせる平和な夜を無事に迎えることができて何よりだ。
今夜もいつも通り、八鹿ちゃんの寝顔を写真に収めてから眠りに就こう。