ワタリガラス7
一九九四年九月。夏は下り坂で秋の足音が聞こえ始めていた。街路樹は少しずつ青さを失い、秋の色に移り変わろうしている。
その日、私は東向島に向かっていた。台東区と墨田区の境目。ここに来るのは実にひさしぶりだ。
浅草駅から東向島まで歩く。本当はもっと効率的な行き方もできるけれど、毎回私はこのルートを使っている。神谷バーの前を通り過ぎて吾妻橋を渡った。川面には散り始めた落ち葉が流れている。
アサヒビールの本社ビルも通り過ぎる。ここまでくれば目的地は目と鼻の先だ。昔はよくここに来たな。そんなことを思い出した。当時の私はよくここで寝泊まりしたものだ――。
「やぁいらっしゃい」
「お疲れ様です」
その建物の前で社長が私を出迎えてくれた。懐かしい建物。私と社長の出発点。
「まぁとりあえず中に」
建物の中に入ると懐かしい匂いがした。古い木材と金属が混ざり合ったような匂い。初めてこの場所に来たときから変わらない。
「ここは変わらないですね……」
「本当にね。ここだけは昔から何も変わらないよ」
時間が止まった場所。現在進行形の思い出の場所とでも言うべきだろうか……。
柱の節穴ひとつひとつが懐かしい。まだ私が子供だった頃はこの柱にもたれ掛かって休んだものだ。あの頃は若かった。そんな年寄り臭いことを思う。
「たまに来るんですか?」
「ああ、最低でも月一は空気の入れ換えに来てるよ。ここだけは自分で掃除しておきたくてね」
「……。言ってくれれば私も来たのに……」
「いやいや。西浦部長は僕と違って多忙だから」
あんただって忙しいだろ? と心の中で突っ込む。
「それにしても……。今更なんでここを? 研修所あるのに……」
「うーん……。たしかにそうなんだけどね。でもどうしてもここは残しておきたいんだ。役員会では税金やらなんやら掛かるって文句言われるけど……。ま、最悪僕がここを買い取るよ。そうすれば役員連中も文句は言えないだろう」
「そうですか……」
そこまでしてここを残しておく価値があるだろうか? 会社役員としてはたしかにそう思う。今現在の役員の大半は外部から来た人間だし、そっちに意見が偏るのは当然だろう。考えてみれば社長の子飼いは私と広報部長、あとは営業部長だけだ。
ふと壁に目をやると大きなへこみがあった。たしかこのへこみは……。
「あれ? ここの傷直さなかったんですか?」
「ん? ああ……。それは直せなかったよ。……というか直したら後悔しそうでね」
社長は苦笑いを浮かべた。
「ハハハ、今更いいじゃないですか。あんなの若気の至りですよ」
「うん……。でも、まぁ……。僕の気持ち的にね」
ああ、やっぱり変わらないな。私は改めてそう思った。この人は昔からこんな風に実直で良い意味でネガティブなのだ。
傷を眺めていると当時の記憶がありありと思い出された。まだ私たちが青かった頃の記憶が。




