涙2粒 睡蓮を背負う人
由香の姿が見えなくなった部屋の中。奏芽は床の水滴を適当に拭うと、1人掛けのソファにどっかりと座り込み新しい煙草に火を着けた。由香の前で吸ったものを合わせても既に3本は吸っている。
テレビを付けるでもなく何をするでもなくただ黙々と煙草を吹かしていると、不意に間の抜けたチャイムの音が部屋に響いた。
「……お客?」
そうポツリと呟き奏芽は無造作に置かれていたスケッチブックを手に取り適当に捲るが、キス屋で予約している客はいない。
突発的に来る客の方が圧倒的に多いが、一応確かめるのは礼儀だろう。
尚も鳴らされるチャイム。
「あーはいはい、今出ますよって」
言って立ち上がると、奏芽は煙草を咥えたまま玄関に立ち鍵を掛けていなかったドアを開けた。同時に、奏芽の首に巻き付く白い腕。
「奏芽。奏芽、会いたかったわ」
「…2、3日前に会った痕、もう消えたんですか? 理子さん」
戯れに擦り寄る女性を抱き留めると、奏芽はその背を撫でて息を吐いた。
岸部 理子はそれに目を細めると、むくれて腕に力を込めた。
「もう消えたわ。いつもと同じ絵、また付けてくれる?」
「同じ絵? いい加減飽きませんか? 俺、少し上手くなりましたよ」
「んフン、そう? けど遠慮しておくわ。私の背中に咲くのは水蓮だけよ」
「へえ。まあ俺は料金分働くだけですけど」
営業的な笑みを浮かべると、奏芽は理子を招き入れドアの鍵を閉めた。
「…あら、先客?」
「あ? ああ、違いますよ」
パラパラと水の跳ねる音。聡く気付いた理子が尋ねると、営業的な笑みを苦笑に変えベッドに座るよう促した。
「今日…拾ったんですよ、公園で。独りで雨に打たれてたんで声を掛けたんです」
「珍しいわね。普段は自分から話し掛けないじゃない?」
「気まぐれですよ。あんまりにも寂しそうだったんで、つい」
「ふぅん……」
「…あの……」
「あら、なぁに? そんな畏まっちゃって」
ベッドに2人して座っても尚何となしに話を続けようとする理子に奏芽は眉を寄せると、そっとその肩を押して体を横たえさせた。
「…そろそろ、黙ってくれませんか」
「ふふ、今日は随分急ぐわね。初心者でもないのにね、奏芽」
「…理子さん……」
「わかったわ、そんなに恐い顔しないで」
くすくすと楽しげな笑みを溢し、理子は自身を組み敷く奏芽の首筋に頭を上げてキスを落とした。
高い位置に掛けたシャワーの湯に頭から打たれ、私は濡れて指通りの悪くなった髪を撫でた。長く伸びた毛先が腰辺りまで纏わり付くのが鬱陶しい。
それから私は髪や体を洗って暫く温まり、適当な時間を過ごしてから風呂を出た。冷えた空気が体を震わせ、すぐにバスタオルに身を包む。
「……」
それからふと気になって、私は周りを見回した。着替え等は当然渡されていない。かと言って用意されている訳でもない。
「ん…奏芽、お風呂出たみたいよ」
「あー…直ぐ戻ります、ちょっと待ってて下さい理子さん」
水音が止まったのを指摘され、奏芽は組み敷いた理子の上から退きベッドを降りた。
「拾ったって、女の子? 女の人?」
乱された服の胸元を直しもせずに身を起こすと、悪戯げに微笑んで尋ねる。奏芽は理子の下肢まで毛布を掛けてやると、困ったように頭を掻いた。
「まだ女の子…ですね。拾っただけです。別に興味はありませんよ」
「その子はどうかしらね」
紅を注した厚い唇を吊り上げ、興味深げに目を細める。引き止めもしない理子を背に風呂場の前に立つと、奏芽はドアノブに手を掛けた。
「有り得ませんよ。あいつに取っちゃ俺は…多分、現実から逃げる為の宿主です」
やはり、ない。用意されていない筈だから当然だ。
髪や体を伝う水滴をざっと拭ったバスタオルを申し訳程度に纏っているが、まさかこれで奏芽の元まで行く事は出来ない。気付くのを待つにしても湯冷めしてしまってはシャワーを浴びた意味がない。と言うより、そもそも着替えはあるのか。
1人暮らしの男の家だ、逆にある方がおかしいだろう。
落ち着いて考えると当然の事。
そうこう考えているうちに背後から小さな物音が聞こえた。漸く気付いてくれたのかと息を吐き振り返ると、恐らく戸惑いの欠片も持たずにドアを開けただろう奏芽の姿が目に入った。気だるげな瞳と視線が絡む。
「…っキャア――!!」
「うっわあうるさいうるさいっ!」
否応なしに、叫ぶ。それはもう、人生でこれ程叫ぶ事はもうないんじゃないかというくらいの大声で。
始め平然と入ってきた奏芽も突然の金切り声には驚いたのか、対抗するようにギャーギャーと文句を言い散らかしながら更に足を踏み入れて来た。
「ちょ、ちょっとやだ入んないでよ! 近付かないでってば――!!」
「あーもー黙れって! んでもって落ち着けっ!」
完全に混乱しフェイスタオルを振り回す手を引っ張られ、とすんと温かい腕の中に抱き留められた。押さえられた頭も奏芽の胸に押し付けられる。それで口元まで覆われてしまっては、もう羞恥で感じても叫ぶ事すら叶わない。
諦めて抵抗を止めると、私の頭を押さえていた手を離して離して濡れた髪を1総掬い取られた。
「んー…ん、良し。ちゃんと俺と同じシャンプーの匂いだ」
「……っ!? へ、変な事言わないで…って、ば!!」
再び起こる羞恥に奏芽を引き離そうとするが、私を抱き締めた手は頑として緩まない。
力の違いを見せ付けられたようでむきになって腕を突っ張っていると、ふざけたように鼻で笑われ、ひょいと横抱きで抱え上げられた。
「っキャアッ!? やっ、ちょっと降ろしてよ――!!」
「ったく、よく騒ぐお嬢さんだな。着替えは向こうだ、連れてってやるよ」
「場所分かれば1人で行けるわよ! なんでこんな…こんな……っ」
「この季節だし今は夜だ。人肌、温けーだろ」
「…う……」
口論を重ねても普段口下手である私が敵う筈もなく、大人である奏芽に上手く言いくるめられてしまう。
やがて降ろされたのは、1つの大きな棚の前。どうするのかの見上げると、奏芽が着ていたパーカーを肩に掛けられた。
「キスマークってさ、手とかに付けた後なら洗うだけで良いけどさ。背中とか胸元とかに付けられたお客はついでに風呂入ってくんだよな。ここの棚のは、そのお客が勝手に使っても良い服とか下着だから好きに使えよ」
「用意…良いのね」
「ま、儲かってるしな。持ってきたのお客だけど」
言いながら奏芽が開ける棚の中を見ると、様々な種類の下着が目に入る。サイズも豊富に置かれているようだ、これなら合う物も見つかる筈。
「あ…ありが、とう」
「どういたしまして」
振り返って感謝の気持ちを告げると、にっこにっこと笑う奏芽がまた温かく抱き締めた。
「…あの」
「何だよ?」
「着るの選んだり…着替えたりするんだけど」
「したいならすりゃ良いじゃねーか」
「貴方がいたら出来ないのよ」
口篭もりながらも意図を言うと、漸く気付いたのか奏芽は天井を仰ぎ見、ああ、と呟いた。だがまた私の方を見ると、口角を吊り上げ卑猥な笑みを浮かべて見せた。
「そうだな、どうせならどんなん選ぶか見ててやるよ。ついでに貧相なそのサイズがあるのかもな」
「ふっ……!! ふざけてんじゃないわよ馬鹿――っ!!」
何を言うかと思えば、人を馬鹿にしたような下らない挑発文句、それで一気に頭に血が上った私は目一杯叫び散らすと、奏芽の腕を振り払った。元々本気で言った訳ではないと知っていたが、余りにも簡単に離れた手に多少拍子抜けする。
それから奏芽はよろけた体勢を立て直すと、私の肩に掛けたパーカーを着直させた。
「発育途上に興味ねーから安心しな、俺はお客のオネーサンとイチャついとくから。着替えたら来い、キスマークアート、生で見せてやるよ」
上機嫌で言いながらジッパーを上まできっちり閉めると、立ち上がって私の濡れた髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。
「わっ!? ちょっ、やめてよ奏芽っ!? …お客さん来てるんなら、さっさと行きなさいよ」
「言われなくてもそうするさ。さっさと着替えて、風邪引くなよ」
「分かってるわよっ!」
悪戯げな、だが心配の色の混じるその声音に私は息を吐くと、その背を叩いてやった。
そうれから奏芽はドアを閉めると、向こう側から小さな声で、俺だけは裏切らねーから、とだけ小さく囁いた。胸が鷲掴みされたように苦しくなる。
何を知っていると言うの、貴方なんかが。裏切られた訳じゃないのに。信じてなかったのに。
でも何故だろう。何も知らない奏芽の言葉が温かいのは。信じたくなるのは。
何も言わない私の困惑を悟ったのか、静かに鳴り始め遠のく奏芽の足音。
私はそれを聞こえなくなるまで無言で送ると、棚に額をぶつけ、少しだけ泣いた。