薔薇1本 キスマークアート
頬を伝う雫が煩わしい。一向に止む気配ない雨音は更に強さを増し、音のない心の外側だけを騒がせる。
服が濡れるのも構わず、私は噴水の淵に腰掛けた。こんな雨降りだというのに、噴水の水はまるで観客を捜すように噴き上げ続ける。
何故、こんな所にいるんだろう。
考えれば、数分前の出来事を思い出す。
苛立ちで沸く心を紛らわすように、私は無数の波紋が広がる噴水の水へと指先を突っ込んでばしゃばしゃと掻き混ぜた。背に水が跳ねるが、既に濡れているので構わない。
「…おいおい、そこのお嬢さん? こんな雨ん中、散歩はないんじゃない?」
ふと雨が止み、代わりに声が降る。呆れているような心配しているような、低い声。何の感情もなく見上げると、煙草を吹かせた男が私を見下ろしていた。癖の強い黒髪の色は濃く、瞳の色も同様に濃い。
そこでようやく男が傘をかざしている事に気付く。濡れない肌が心地良い。
「ああもう…取り合えずさ、ほら立てよ。家まで送ってくからさ」
いつまでも何も言わない私に痺れを切らしたのか、手を取って立たせようとする。指輪をいくつも嵌めごつごつした男の手は意外と温かかったが、躍起になって私はそれを振り払った。
「帰らない……。あんな家、絶対に……っ!」
絞り出した私の声は震えていて、それに驚いたのか男は目を丸くした。そして、面倒臭そうに息を吐く。
「なら、俺ん家来るか? これから夜になる、ここは危ねーし」
「…え?」
「俺、望月 奏芽。お前は?」
再び私の手を取り立たせると、奏芽と名乗る男は私の返事を促すように小首を傾げて見せた。
「あ…姫咲 由香……」
「ふーん、姫咲 由香ちゃんね。…ああ、大丈夫。どうせ家知らないから無理に帰らせたりしないよ」
無気力に言いながら奏芽は新しい煙草に火を着け、ほら、と言って私に手を差し出した。
「…で、どうする? 俺ん家来る?」
敵対心を煽っているのか、切れ長の瞳で睨むように見つめてくる。何故だかそれが嬉しくて、私は容易に奏芽の手を取った。
帰る筈だった家では大嫌いな母親と知らない男が日替わりで夜を過ごしているにいられない。今日のように私が夜家にいなくても何も言わない。
私の手を取り横を歩く奏芽も、やはり男。母親と寝る男のように、私をどうにかするつもりなのだろうか。
別に、良い。それでも良いと、私は思った。悪い例が近くにいるせいか行為自体にさほど興味はないが、この温かい手なら嫌じゃない。
そんな下らない事をつらつらと考えながら私は紺色の傘を見上げ、夜はお馴染みだった公園を後にした。
「由香ちゃん、鈴原高校の子?」
「え? …あ、制服……」
道すがら問われて奏芽の視線を追うと、私が着る高校の制服が目に映った。闇夜に落ちる雷のような黄色いラインが入った制服は特徴的で、奏芽のような一般人でも近所の者なら直ぐに鈴原高校の生徒だと分かる。
「あの…ごめん」
「ん、何がだよ」
妙に申し訳なくて小さく溢すと、不思議そうな顔をした奏芽が尋ねた。
「周りの人にエンコーって思われない?」
「馬っ鹿、下らねー心配してんじゃねーよ。それに、俺は金払わねーと女にありつけねーようなツラしてねーし」
「そっか…そうだね」
軽い笑みと共に返された言葉に納得する。
私より高い位置にある奏芽の顔を覗き込むと、細かな影を落とす睫毛の長さに気付く。一見目付きの悪い双眸はよく見ると切れ長で知性的な印象を持たせ、引き結ばれた唇は薄く淡い暖色を湛えている。
舐める視線に気付くと、奏芽は特に咎める事もせずに先にあるアパートを指した。
「あれが俺の住み処兼職場。一応、聞いた事はあると思うぜ」
「聞いた事?」
「ああ。テレビやラジオでちょくちょく宣伝してるしな」
どこか他人事のように、楽しそうに言う奏芽。何がそんなに楽しいのか、雨雲を見上げ話す声は弾んでいる。
しかし奏芽の部屋の前に着くと、そんな疑問も一瞬にして消え去った。
『301号室』と記された部屋番号の上。『望月』という自身で貼っただろう手書きの表札の上。『キス屋』、という一番大きな貼り紙。
「きっ…キス屋――っ!?」
「そ、俺の自営業の職場だ。自分から教えんのは初めてだな」
ケケケ、と妙な笑いを溢しながら鍵を開ける奏芽に、私は唖然とした。
キス屋と言えば、店主が変わり者という事で有名だ。定期的に大手のテレビ局に宣伝と言って出て来るが店のモザイクやボイスチェンジャーを使って素性を隠し、名前どころか店の場所すら教えず彼の言う宣伝を終える。
躍起になった一部の人間が総力を上げて全国を捜したらしいが、ついには見つけられなかったと言う。
唇で肌を吸い出来る鬱血を彼は無造作に付けたくり、重ね合わせては薔薇、線として繋げては蝶等独特の世界を女性の白い肌をキャンパスに描くのだ。
刺青とは違い2、3日で消えるものなので未成年でも出来るらしく興味はあったが。まさか自宅の近くに、しかも彼自身が住むアパートのドアに貼り紙を貼っただけの部屋で営業していたとは。
「驚いたかよ?」
「う、うん……」
「にしては反応薄いな」
ドアを開け、入るよう促す奏芽。からかうようなその笑い方に困惑するも、大人しく従い玄関に立った。びしょ濡れのままの制服で上がって良いものか躊躇するが、後ろから押すような奏芽の仕草に慌てて靴を脱ぎ中へ上がる。濡れた靴下から水が滴りまた戸惑っていると、真白い布を頭から被せられた。
「わっ!?」
突然視界を奪ったそれを慌てて取ると、バスタオルである事を知る。
「そこの左のドア、風呂だから入れよ。風邪ひくぜ」
「あ…う、うん……」
ついでと言わんばかりにフェイスタオルまで投げ、すぐ横のドアを指した。
冷えた体に温かいシャワーは有り難い。
私は受け取ったタオルを吹くの水で濡らさぬよう、さっさと浴室へ足を向けた。